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世界大戦と平和への試み

社会主義国家・ソ連の始動

導入

big5
「今回のテーマはソ連の始動と題しまして、ロシア革命の後にレーニンらが建国した社会主義国家・ソ連が本格的に動き始めた頃の歴史について見ていきます。」
名もなきOL
「ソ連って、懐かしい名前ですね。今は「ロシア」ですけど、私が子供の頃は「ソ連」でしたね。」
big5
「私の時も「ソ連」でしたよ。「ソ連」という名前は略称で、公式には「ソヴィエト社会主義共和国連邦」といいます。
さて、それではいつもどおり、まずは年表から見ていきましょうか。」

年月 ソ連のイベント 他地方のイベント
1921年 3月 クロンシュタットの反乱
ネップ(新経済政策)開始
1922年 4月 ジェノヴァ会議出席 ラパロ条約締結
12月 ソヴィエト社会主義共和国連邦 成立
1924年 1月 レーニン死去 スターリンとトロツキーの争いが始まる
1928年 10月 第一次五カ年計画 開始
1929年 1月 トロツキーが国外追放処分となる 世界恐慌始まる

ソ連の始動とレーニンの死

クロンシュタットの反乱 1921年3月

big5
「ロシア革命(参考:ロシア革命)の後、早々に第一次世界大戦から手を引いたレーニン率いる新政権でしたが、列強による干渉戦争、ソ連=ポーランド戦争を勝ち抜くために戦時共産主義を推し進めてなんとか危機を乗り越えたものの、強引な手法に対して労働者の生産意欲を低下させ、民衆の不満は高まっていました。そんな不満は1921年3月、軍港のクロンシュタットで水兵が反乱を起こす、という形で表面化しました。この反乱はクロンシュタットの反乱といいます。水兵らの多くは徴兵された来た農民で、彼らは選挙や言論の自由など、西欧型の民主主義政策の実施を求めました。」
名もなきOL
「水兵さんたちが反乱するのも無理はないと思います。でも、社会主義者であるレーニンらにとっては、このような要求は受け入れがたいでしょうね。」
big5
「はい、実際にレーニンは赤軍を動員して反乱を厳しく鎮圧しました。その一方で、戦争と戦時共産主義を押し通した結果、国内の生産力が著しく下がっていたのも事実でした。そこで、戦時共産主義の見直しと経済を回復させるため、ネップ(新経済政策)を採用することになりました。」

ネップ(新経済政策)1921年〜1928年と外交

名もなきOL
「ネップってどういう内容だったんですか?」
big5
「一言でいうと、部分的に資本主義社会を認めるという内容です。具体的には以下の内容になります。
・余剰農産物の自由販売許可
・農産物の強制徴発禁止
・外国資本の導入
・中小企業の私営許可
です。」
名もなきOL
「なるほど、基本は社会主義であるものの、部分的に資本主義的な要素を取り入れたんですね。」
big5
「ネップは1921年から1928年まで行われ、その結果落ち込んだロシア国内の生産力は第一次大戦前の水準まで回復しました。また、商売が得意な人や農業が得意な人の中には、自由販売や中小ながらも企業経営することで富を蓄える者(ネップマンとかクラーク(富農)と呼ばれる)も現れ始めました。」
名もなきOL
「資本主義経済らしい結果ですね。」
big5
「ネップの効果は国内経済だけにとどまりませんでした。部分的とはいえ市場経済を認めたことによって、周辺諸国からの見え方が変わり始めました。1921年にはイギリスと貿易を再開させ、1922年4月にはイタリアのジェノヴァでヨーロッパ経済の戦後復興を考える国際会議・ジェノヴァ会議が開催され、なんとソ連も代表を派遣して出席しています。」
名もなきOL
「社会主義国なのに、資本主義国の経済会議に参加するなんて、なんだか奇妙な光景ですね。」
big5
「しかも、この会議中に敗戦国であるドイツの代表と会談し、ラパロ条約(ラパロはジェノヴァ近郊の街)を締結して国交を樹立しました。これはドイツがソ連を国家として承認したことを意味し、列強による最初のソ連承認となりました。
こうしてソ連は国際的な地位を確立させ、1922年12月にソヴィエト社会主義共和国連邦(略称:ソ連)が成立。名実ともに社会主義国家として成立しました。」
名もなきOL
「レーニンさん、革命が成功して感無量だったでしょうね。」
big5
「そうですね。しかしこの時既にレーニンは重病で体調がかなり悪化しており、事実上引退していました。1924年1月21日、レーニンは脳梗塞で死去しました。54歳になる年でした。偉大な社会主義国家の指導者であるレーニンの功績は国内で称えられ、サンクトペテルブルクはレーニンの名を取って「レニングラード」と改名されました。レーニンの死は、ソ連の新たな時代を告げることになります。」

スターリン独裁体制の確立

スターリン vs トロツキー

big5
「レーニンの死後、ソ連の指導者の座を巡って争ったのが、スターリントロツキーです。」

Лев Давидович Троцкий
トロツキー 撮影者:不明 撮影年:1924年
big5
「トロツキーは1917年のロシア革命の頃から赤軍を率いていた幹部の一人でした。対するスターリンも若い頃から革命家として活動し、レーニンを助けていた有力者でした。この二人が対立する原因はいくつかありますが、特に大きな問題になったのはトロツキーが世界革命論を唱えたことに対し、スターリンは一国社会主義論を支持し、今後の方向性に大きな違いが生じたことですね。」
名もなきOL
「名前からなんとなく予想できますが、二人の主張はどのようなものだったんですか?」
big5
「トロツキーの世界革命論は、全世界に革命を輸出して、社会主義国家を建国していこう、という考えです。対するスターリンの一国社会主義論は、世界中で革命を起こさなくても、一国で社会主義国の建設は可能だ、という考え方です。そもそも、社会主義のマルクス大先生は、社会主義革命はヨーロッパの先進国で次々に起こるだろう、と考えていました。そのため、レーニンもトロツキーもマルクス大先生の考えに基づき、ソ連で成功した革命を他国へも輸出して社会主義国を増やさなければソ連は維持できない、と考えていたんです。」
名もなきOL
「でも、実際にはソ連だけで社会主義国家としてそれなりに継続しましたよね?」
big5
「はい。実際、レーニンが亡くなった1924年時点では、ソ連以外のヨーロッパ諸国で社会主義革命運動は下火になっており、頑張っても成果が得られるような状況には見えません。しかも、ソ連は一国とはいえ社会主義国家となり、ネップの効果で経済も回復しつつ合ってドイツもソ連を承認しています。革命を輸出しなければソ連が維持できない、という状況ではありません。なので、スターリンのように「ソ連だけで社会主義は成立する」と考える方が主流になってきました。
この結果、トロツキーとスターリンの後継者争いはスターリンの勝利となりました。トロツキーは1929年に国外追放とされ、第二次大戦中の1940年に亡命していたメキシコでスターリンが送った刺客によって暗殺されました。61歳になる年でした。」

Stalin 1920-1
1920年のスターリン 撮影者:不明 撮影年:1920年

第一次五カ年計画 1928年10月〜1932年

big5
「スターリンとトロツキーの争いが、スターリン勝利がほぼ確実になっていた1928年10月、ソ連はネップに代わる新たな経済政策・第一次五カ年計画をスタートさせました。」
名もなきOL
「「五カ年計画」って、社会主義国の特徴の一つですよね。」
big5
「そうですね。社会主義国では、市場経済がありませんので、何をどれくらい生産するかは民間企業が決めるのではなく国が決めますからね。最初の五カ年計画の目的は「ソ連の経済体制を社会主義経済に改造する」ことで、その内容は以下になります。
重工業の振興
・農業の集団化と機械化(コルホーズ(集団農場)とソフホーズ(国営農場)
・クラーク(富農)の絶滅
です。」
名もなきOL
「えっと、内容に過激な表現があるのが気になるのですが・・まず、最初に「重工業の振興」とありますが、なんで重工業なんですか?社会主義というと、農業のイメージが強いのですが・・・」
big5
「意外に思われるかもしれませんが、マルクスは「社会主義社会は高度に工業化された社会で実現できる」としているんです。工業化が遅れていたロシアにとって、重工業にテコ入れして発展させることはとても重要な話でした。『近代国際経済要覧』(東京大学出版会)の史料によると、ソ連の工業総生産高は1913年を100とすると第一次五カ年計画が終わる1932年には約280、その後第二次、第三次と継続した結果1940年には約850と倍増していることがわかります。農業国から工業国への転換が進んだわけですね。」
名もなきOL
「社会主義経済に工業化が必要なんですね。面白いですね。次の「農業の集団化」ですが、これが私の社会主義経済のイメージです。それに続く「機械化」というのがまたちょっと意外ですが、これも「工業化」に関連しているんでしょうね。」
big5
「コルホーズ(集団農場)とソフホーズ(国営農場)はごっちゃになりやすいので、私はこのように覚えています。
<覚え方のポイント>
みんな肩こる国の祖父(みんな:集団 肩コル:コルホーズ 国:国営 祖父:ソフホーズ)

まず、コルホーズ(集団農場)の概要から解説しましょう。コルホーズはいわゆる「社会主義経済」の典型的な組織で、農民が自己所有できるのは自給できる程度の小さな菜園と家畜のみです。普段は国が貸してくれるトラクターなどの機械を使って公有地を共同で耕作します。生産物はコルホーズが管理して国家に納税し、トラクターなどの機械利用料を支払い、残ったものを農民たちで分配する、という仕組みです。
次にソフホーズ(国営農場)ですが、これはコルホーズの模範と位置付けられた既に成立していた集団農場でした。1917年のロシア革命の時に、大貴族や教会から没収した土地を国が接収し、そこを国営の集団農場としたものです。仕組みも、コルホーズとはやや異なります。土地、生産用具、家畜、肥料などはすべて国家の所有物であり、生産物もすべて国家のものとなりますが、ソフホーズで働く農民は雇用されている労働者として給与が支給される、という仕組みでした。
第一次五カ年計画でソ連が力を入れて推進したのは、コルホーズです。1928年時点でコルホーズの数は1万くらい、コルホーズに加入している農民は20万戸ぐらい、農業集団化率は1.7%程度だったのですが、1932年にはコルホーズ数約10万、コルホーズ加入農家戸数は約1250万戸、そして農業集団化率は61.5%と劇的に増加しています。」
名もなきOL
「本当に農業の集団化が進められたんですね。それで、農業生産高も増加したんですか?」
big5
「いえ、微増に留まりました。コルホーズを増やすためには国有の農地を拡げる必要がありますが、どうやって広げるかというと農民から土地を取り上げる、という方法を取りました。土地を奪われた農民の生産意欲は減退し、生産効率は上がらなかったようです。さらに、1931年と1932年は凶作が重なったことで100万〜500万人に及ぶ餓死者が生じた、という見積もりも出ています。もっとも、ソ連の官製史ではこのような事実は認めず「大成功に終わった」と結論づけているそうです。」
名もなきOL
「そういうところも社会主義国らしいですね。それで最後の「クラーク(富農)の絶滅」という穏やかでない表現も、意味がわかってきました。
big5
「はい、OLさんお察しの通りです。ネップの時に才能を発揮してちょっとした財産を築いた農民はクラーク(富農)と呼ばれたわけですが、なんと第一次五カ年計画が始まってからは弾圧の標的とされ、土地を奪われてコルホーズに組み込まれていきました。これを拒否したり言うことを聞かなかった人たちはシベリアに送られたそうですが、その数はなんと1800万人にものぼったそうです。」
名もなきOL
「ネップは国の政策でその範囲内で儲けただけなのに、急転直下で弾圧されるなんて理不尽ですよね。でも、それが社会主義らしさなのかもしれませんけど。。」
big5
「こうして、スターリンらによる強引な手法でソ連は社会主義経済へと切り替えていったわけです。これは結果論ですが、第一次五カ年計画が始まった翌年1929年、世界恐慌が発生し、資本主義諸国は経済的苦境に陥るのですが、独自路線を進んだソ連の経済的ダメージはわずかでした。この点をもって、社会主義政策が賛美されたりもしましたが、世の中の流れは第二次世界大戦へと進むことになり、スターリン率いるソ連はその一角を担うことになります。

と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」

大学入試 共通テスト 過去問

big5
「大学入試共通テストでは、「社会主義国家・ソ連の始動」で扱ったネタはたまに出題されています。試験前に復習しておくのがおススメです。」

平成31年度 世界史B 問題9 選択肢A
・レーニンは、一国社会主義を唱えた。〇か×か?
(答)×。上記の通り、一国社会主義を唱えたのはスターリンです。

令和2年度 世界史B 問題14 選択肢B
・五か年計画に代えて、新経済政策(ネップ)を導入した。〇か×か?
(答)×。上記の通り、新経済政策(ネップ)に代えて五カ年計画が導入されました。




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参考文献・Web site