Last update:2021,Dec,18

平将門の乱・藤原純友の乱

概要

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「日本の歴史において、武士の存在は欠かせません。ここでは、その武士が歴史の主役になっていく過程の一番最初、平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と、藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)について見ていきましょう。
まず、用語の整理ですが、高校日本史などでは、平将門の乱と藤原純友の乱の両方を合わせて承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)と呼んだりします。これは、両方の乱が起きていた年の年号から名付けたものです。ただ、より厳密に考えて「天慶の乱」とすべき、という意見もありますが、初心者はあまりこだわらずに、「平将門の乱」、「藤原純友の乱」と覚えておいた方が楽だと思います。」
名もなきOL
「この二つの反乱って、ほぼ同時期に起こったんですよね?将門と純友が若い頃に共謀して反乱を計画した、っていう話を聞いたことがあります。」
big5
「はい、ほぼ同時期に発生しました。そして、これは二人が若い頃に共謀して計画した反乱だった、という説もあります。ただ、私個人はこの説は事件後に想像で作られたお話だと思いますが、ロマンを感じさせる話ですよね。
さて、平将門の乱・藤原純友の乱のあらすじに入りましょう。

Taira no Masakado 01
築土神社所蔵の平将門像  製作者:不明  製作年代:不明

まずは平将門の乱から。平将門は、名前の通り「平氏」の人物で、5代先の先祖は桓武天皇になります。そのため、将門は桓武平氏の人物です。将門の祖父(桓武天皇の孫)の高望王(たかもちおう)は、「平」の姓を与えられて皇族から離れ、平高望となって上総介(かずさのすけ)となって関東地方にやってきました。平高望は任期が過ぎても都には帰らず、そのまま土着して関東地方に武士団を形成します。将門はその高望の孫にあたるわけですね。」
名もなきOL
「将門さん、立派な先祖をお持ちなんですね。ちょっと羨ましいかも。」
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「ところが、将門の世代になると状況は変わります。将門は若い頃、京都で藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕えて立身出世を願っていたのですが、夢かなわず故郷に帰ってきました。故郷に帰って来てみるとビックリ、父から受け継いだ土地の多くは、伯父らが横領して我が物顔で振舞っていました。」
名もなきOL
「立派な家柄だと、相続争いも激しいんですね。。やっぱりそれはそれで大変なのかな。」
big5
「さらに女性問題も絡んだために、ついに平氏一族間の武力闘争に発展。将門は優れた武力でこの戦いに勝利し、その武勇は関東地方で広く知られるようになりました。そんな将門の下には、貪欲で横暴な役人達と対立する地元の有力者が集まり、将門に援助を求めます。将門はこれに応え、国司との間を仲介したりしました。」
名もなきOL
「頼れる地元の兄貴、ってかんじですね。」
big5
「ところが、これがエスカレートしてしまって、将門は役所を襲撃してしまいます。役所を襲撃するのは、朝廷に対する反乱です。将門の場合、これだけに留まらず、なんと関東地方一円の役所を襲撃して役人を追放し、さらには「新皇」(しんのう)と名乗って、なんと独立国を形成しました。」
名もなきOL
「独立!?そうなると、反乱と言うよりも「独立戦争」になっているような・・」
big5
「ただ、「新皇」を名乗った将門はわずか2か月後に、一族の平貞盛(たいらのさだもり)、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らとの戦いに敗れて戦死したため、あっさりと鎮圧されてしまいました。なので、あくまで「平将門の乱」という反乱扱いですね。
さて、続いて藤原純友です。純友は藤原氏の中でも最も栄えた「藤原北家(ふじわらほっけ)」の家柄なのですが、父が早世してしまったために朝廷での出世は望めず、伊予の国に地方官として赴任していました。純友の仕事は、瀬戸内海の海賊の取り締まりだったのですが、任期が切れても京都には帰らず、そのまま伊予に滞在します。ついには、日振島(ひぶりじま)を根拠地として自分が海賊の頭領になってしまいました。」
名もなきOL
「ミイラ取りがミイラになった、というかんじでしょうか。なんで海賊になってしまったのか、経緯が気になります。」
big5
「純友も将門と同じように、公然と役人を襲撃したことで朝廷に目を付けられました。ところが、関東で将門が新皇を名乗って独立する、という大事件が起きたため、朝廷は将門への対応を優先し、純友には「反乱をやめたら官位をあげるよ」と言って懐柔しようとしました。しかし、純友はこれを拒否。海賊行為を続けたんです。」
名もなきOL
「将門が暴れているなら、もっと有利な条件を取り付けられる、って思ったんでしょうね。」
big5
「ところが、将門の乱はあっけなく鎮圧されてしまい、状況が変わります。純友は各地を襲って暴れますが、朝廷は本格的な純友追討軍を編成。純友は敗れて反乱は鎮圧されました。
この2つの事件は、結果的には「反乱」で終わったのですが、時代の移り変わりを象徴する事件だ、と考えられています。というのも、新興勢力である「武士」が国を揺るがすほどの事件を起こすほどの力を持つようになった、という見方ですね。これまでは、日本を支配してきたのは藤原氏のような「貴族」でした。反乱も起こっていましたが、その反乱は「貴族」らの反乱だったわけです。ところが、この時代になると「武士」が力を持つようになり、やがては日本を実質的に支配する存在になっていくわけです。そういう歴史の流れから見ると、平将門の乱・藤原純友の乱の2つの反乱は、武士が力を持ち始めてきたことの証左、と見ることができるわけですね。
それでは、本編に入っていきましょうか。」

平将門・藤原純友イベント
893年?
寛平5年
藤原純友誕生
903年?
延喜3年
平将門誕生
932年
承平2年
藤原純友が伊予掾として、従弟の藤原元名(伊予守)に従って赴任
935年
承平5年
2月
常陸国野本の戦いで平将門が伯父の平国香、源扶、源隆、源繁の三兄弟を破る
10月 鬼怒川沿いの新治郡川曲村の戦いで、平将門が平良正を破る
936年
承平6年
6月
下野で平将門が平良兼を破る
10月 平将門、急遽上洛
937年
承平7年
4月
平将門が朱雀天皇元服の恩赦で許される
8月 子飼渡の戦いで、平良兼が将門を破り、豊田郡を焼く
堀越渡の戦いで平良兼が将門を破る。将門の妻子が捕虜になる
9月 将門妻子が脱出
弓袋山の戦い 将門 vs 良兼 引き分け
12月 石井の戦いで、夜襲をかけてきた平良兼を将門が退ける
938年
天慶元年
2月
千曲川の戦いで将門が平貞盛を破る
939年
天慶2年
将門が興世王と武蔵武芝の紛争を調停。源経基は朝廷に将門を提訴
12月 平将門が関東八か国を攻略し、新皇を自称
藤原純友の部下が、役人を捕縛して反乱
940年
天慶3年
2月
川口村の戦い、北山の戦いで平将門が平貞盛、藤原秀郷に敗れて戦死
朝廷が藤原純友を従五位下に叙して懐柔しようとする
藤原純友が淡路を襲撃
8月 藤原純友が讃岐を襲撃
10月 藤原純友が大宰府を占領
941年
天慶4年
5月
博多湾の戦い 小野好古が藤原純友を破る
6月 藤原純友の乱が鎮圧される

平将門 前半生と戦いの始まり

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「あらすじで述べたように、平将門は桓武平氏の血筋であることはハッキリしているのですが、その前半生はかなり謎に包まれています。まず、父は平良将(よしまさ)ですが、母は県犬養春枝女(あがたのいぬかいはるえのむすめ)となっています。母の名前は日本史によくあるように不明です。生年もいくつかの説があります。死んだ時に満37歳とする説があるため、そこから逆算すると903年になります。上の年表ではこの説を採用しましたが、一部の資料では889年としていたり、884年とするものもあります。
15歳くらいの時に京に上り、藤原北家の長者である藤原忠平(ふじわらのただひら)の従者として仕えていました。桓武平氏の血筋であったものの、出世することができず、約12年働いた後に自分の領地である豊田・猿島(さしま)に帰りました。」
名もなきOL
「12年働いて出世できず、かぁ。。失意の帰郷だったんでしょうね。でも、その時はまだ27歳くらいだったんですよね?それなら、諦めるのがやや早かったんじゃないか、とも思います。」
big5
「現代の感覚ならそうですが、当時で27歳なら「若者」ではなくて「壮年」ですからね。見切りをつけてもおかしくない年頃なんじゃないか、と思います。実際、後の時代に書かれた日本外史や神皇正統記には、「出世できなかったことを恨んでいたので反乱を起こした」と記載されています。
さて、失意の帰郷となった将門でしたが、待っていたのは一族間の内紛でした。内紛の原因はいくつかの説があり、現在でも確定することはできていません。主だった説は
(1)伯父の国香らが、将門の父・良将の遺領を横領したから。
(2)女性問題。将門の妻になる女性の件で、源護や平良兼らと揉めた
などがありますね。」
名もなきOL
「女性問題って、具体的にどういう問題だったんですか?」
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「現代で女性問題というと二股とか不倫とかですが、当時の女性問題が具体的に何だったのか、不明です。『将門記』でも「少々女論」としか書いておらず、具体的にはわからないんです。ただ、将門が争った伯父の国香や叔父の良正、良兼の妻はそろって源護の娘でした。しかし、将門の妻は源護の縁者ではありません。当時、関東地方の一大権力者であった源護の縁戚から一人だけ爪弾きにされたのが確執の始まり、という話です。」
名もなきOL
「なるほど、その方がそれっぽい話ですね。」
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「そんなこんなで、ついに将門と親戚らが武力衝突に至ったのが、935年2月の野本の戦いです。この戦いは、源護の息子である源扶(みなもとのたすく)、源隆(みなもとのたかし)、源繁(みなもとのしげる)の3人が将門に戦いを挑んだのですが、将門の反撃を受けて敗北。扶、隆、繁の3人は死亡したうえに、父である護の本拠地であつ筑波郡、真壁郡、新治郡を襲われて焼き討ちされ、伯父の国香はこの時に焼死する、という将門の圧勝となりました。」
名もなきOL
「将門さんって、強かったんですね。」
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「武勇に優れた人物みたいですね。将門の武勇については、この後の戦いでも登場しますよ。さて、野本の戦いで大勝利した将門ですが、次なる敵が登場することになります。叔父の平良正(たいらのよしまさ)と平良兼(たいらのよしかね)です。まず最初に動いたのは良正でした。義理の兄弟である扶らの仇討ちということで兵を集め、これに気づいた将門も応戦する準備を整えました。10月、両者は鬼怒川のほとり、新治郡川曲村で激突しました。この戦いで将門は再び勝利、良正は兄弟の良兼のところに逃亡しました。この結果を受けて、良兼も将門攻撃を決意。年が明けて936年6月、反将門派の兵数千を集めた良兼は下野へ向かいました。良兼の動きを知った将門は、100騎余りを率いて様子を見に行ったのですが、大軍となった良兼軍に発見されてしまい、攻撃を受けます。ところが、将門軍が奮戦したので良兼軍は敗北。逃亡した良兼軍は下野の国府に籠ってしまいました。良兼軍を包囲した将門ですが、囲みの一部を解いて良兼を逃がしてやり、将門本人も自分の本拠地に帰りました。」
名もなきOL
「100人くらいで、数千の敵に勝つなんて・・・将門さんは本当に強かったんですね。」
big5
「さて、一連の戦いで勝利し勇名を上げた将門。一方、息子たちを失った源護は反撃に転じます。朝廷に将門の行為を訴え出たんです。」
名もなきOL
「おぉ!上司に訴え出たんですね。これはきっと効果的ですよ。」
big5
「ところが、どこからかこれを聞きつけた将門は、10月に急遽、京の都に出発します。そして、年が明けた937年4月には時の天皇・朱雀天皇の元服に際する恩赦を獲得して、大手を振って故郷へと帰っていきました。」
名もなきOL
「へ〜、将門さんって、武勇だけじゃなくて行動力もあるんですね。確かに、これは英雄の器かもしれないわ。」big5
「ただ、帰郷してからは平良兼に逆襲されて敗北し、妻子が捕らえられたりしたのですが、937年12月に平良兼が将門の本拠地である石井(いわい)に夜襲をかけてきた平良兼を逆に撃退したり、938年には国香の息子である平貞盛を信濃の千曲川の戦いで破ったりと、最終的に平氏一族の私闘を勝ち抜いて、名実共に関東における平氏のトップとして君臨することになりました。」

国府襲撃 将門反乱の始まり

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「こうした一連の戦いで勇名を上げた将門に、突然依頼が舞い込んできました。939年(天慶2年)、武蔵武芝(むさしのたけしば)という、郡司をやっている男が
「武蔵の権守(ごんのかみ)興世王(おきよおう)と、同じく武蔵の介(すけ)である源経基(みなもとのつねもと)が組んで、私の集落から略奪してやりたい放題です。」
なので、助けてください、という依頼でした。」
名もなきOL
「すみません、専門用語が。。権守とか介とかって、どういう地位なんですか?」
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「この時代の地方政治を担当する役職ですね。偉い順に並べると
1.守(かみ)
2.介(すけ)
3.掾(じょう)
4.目(さかん)

となります。「権守」は、臨時で置かれる守と介の中間の役職です。興世王という人は謎が多い人物なのですが、「王」という名が付くので、皇族の血を引いている人物です。将門の祖父である高望王と同じかんじでしょうね。将門はこれを引き受けて、興世王とは酒宴を開いて武芝と興世王を和解させました。」
名もなきOL
「将門さん、調停もできるんですね!ちょっと意外。」
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「ところが、この酒宴の最中に事件が起きました。どういうわけか、武芝の兵が源経基の営所を包囲したんです。これに驚いた源経基は都へ逃げ帰り、「平将門、興世王そして武蔵武芝が謀反を図っている」と朝廷に訴えました。これを受けて、朝廷は将門に書状を送って問い合わせますが、将門らは当然「謀反は事実無根」と答えました。結果、将門らに罰は無く、源経基は誣告(ぶこく)罪を問われて捕まりました。」
名もなきOL
「なんか一騒動ありましたけど、今回もクリアできたんですね。でも、これなら将門さんの反乱にはつながらないですよね?」
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「そうですね、この騒動だけで終われば将門の乱にはならなかったでしょう。ただ、この騒動には続きがあるんです。この後、武蔵の国司として百済王が派遣され、興世王は冷遇されることになりました。興世王は武蔵を捨て、将門のもとに身を寄せました。
それから少し経った後、今度は常陸の国から藤原玄明(ふじわらのはるあき)という人物が
「常陸介である藤原維畿(ふじわらのこれちか)に税を納めずに滞納していたら、逮捕すると言ってきた。助けてほしい」
という話です。」
名もなきOL
「あれ?この人のケースは、さっきとだいぶ違うような・・・。税金納めないから逮捕されるって、この人が悪いんじゃないかしら?」
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「そうですね。税金を納めないで役人と揉めたら、最終的には逮捕される、というのは現代日本でも同じですね。同じ「助けて」でも、藤原玄明は本人の問題があるので、武蔵武芝のケースとは全く異なります。ちなみに、「藤原」という名字ですが、名門貴族の藤原とはだいぶ縁が遠い、出自不明の「藤原」です。
こんなに怪しい話なのに、なぜか将門は引き受けてしまうんですね。藤原玄明を匿って、藤原維畿には「どこかに逃げた」と言い逃れをします。さらに、兵を集めて常陸国府に向かい、玄明逮捕の撤回を要求。藤原維畿はこれを拒否したため、将門は常陸国府を襲撃して占領する、という事態になりました。役所を襲って占領する、という時点で国家に対する反乱、となったわけですね。」
名もなきOL
「将門さん、人が良すぎ。。こんな人、助けないでいいのに。。」
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「そして、将門の乱をさらに大きくさせた要因を作ったのが、将門のもとに身を寄せていた興世王です。興世王は「一国を襲ったのですから、罪は軽くありません。どうせなら、坂東全部を襲ってしまいましょう」
と。」
名もなきOL
「毒を食らわば皿まで、の精神でしょうか。それを聞いて、将門さんは本当に関東地方全域を襲ってしまったんですね。」
big5
「そうです。12月、将門は「新皇(しんのう)」を名乗り、関東諸国の役人を自分が任命してしまいます。完全に朝廷に対する反逆行為ですね。
この939年12月は、朝廷にとって厄日ならぬ厄月でした。西日本で藤原純友の子分が役人を襲撃して捕らえる、という事件が発生。東西で公然と朝廷に対する反乱が勃発したわけです。ほぼ同じタイミングで起きたので、都の貴族らは「将門と純友は共謀してタイミングを合わせて反乱を起こしたのではないか?」と考える者が多かったそうですね。」
名もなきOL
「通信手段が人づてしかなかった当時ですから、タイミングを合わせるって、本当に事前によく計画しておかないと無理ですもんね。」

あっけない将門の最後

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「「新皇」まで名乗った将門ですが、その最後はあまりにも早かったです。朝廷は将門に対する追討軍を贈ることを決定し、兵を集め始めました。ところが、事態は思いのほか早く片付いてしまいます。
新皇自称からわずか2カ月後の940年2月、将門と対立していた平貞盛が藤原秀郷(ふじわらのひでさと)を味方に付けて、私的に将門追討の兵を挙げたんです。将門は、これに対して少ない兵力で戦わざるを得ない、厳し状況に追い込まれます。そして、940年2月14日、北山の戦いで、将門は矢を受けて戦死。これで将門勢力は瓦解し、その後まもなく興世王や藤原玄明など、将門反乱に与した人物も捕らえられて殺され、平将門の乱はあっけなく鎮圧されました。」
名もなきOL
「あら、あっという間に鎮圧されてしまったんですね。一時は、日の出の勢いだったのに。。なんで、そんなにあっさり負けてしまったんですか?」
big5
「まず、先にも述べたように、兵力劣勢だったことが挙げられています。ちょうどこの頃、将門は自軍の兵のほとんどを故郷に帰していたため、手元にはごく一部の兵しか残っていませんでした。そのため、貞盛、秀郷らが集めた追討軍約8000に対し、将門軍は400ほどしか集められなかったそうです。
もう一つは、部下の失態です。将門軍の一部を率いていた部下が、ベテランである秀郷におびき出されて大敗してしまい、ただでさえ少ない兵をたくさん失って、巻き返しが不可能になった、と言われています。」
名もなきOL
「なんか、寂しいですね。平家物語じゃないですけど、『諸行無常』という感じがします。」

藤原純友の乱

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「さて、一時的とはいえ「新皇」を自称するほどの大勢力に成長した平将門の乱に対して、藤原純友の乱の方は、わりと単純な反乱に終始しました。
藤原純友の生年月日や幼年時代については、不明点が多いのです。平将門と同様です。893年頃の生まれではないか、と推定されています。父・藤原良範(ふじわらのよしのり)の三男坊ですが、母が誰なのかは不明です。名門・藤原氏の中でも特に権勢を奮った「藤原北家」の出身なのですが、父の良範が早世してしまったので、都での出世は望めない状況だったそうです。」
名もなきOL
「貴族の中にも、家柄の高い低いがあるんですね。藤原氏もたいへんだわ。」
big5
「932年、従弟である藤原元名(ふじわらのもとな)が伊予守(いよのかみ)に任じられのに同行して、伊予掾(いよのじょう)として伊予に赴任しました。そこで海賊の取り締まりを行っていたのですが・・・」
名もなきOL
「いつの間にか、純友さん自身が海賊のボスになってしまった、んですよね。」
big5
「そのとおりです。海賊のボスとなった純友は、伊予の日振島(ひぶりじま)を拠点として、瀬戸内海を荒らす海賊団の一つとなりました。」


日振島の位置 四国と九州の中間くらい

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この純友が、いわゆる「藤原純友の乱」を起こしたのが、939年12月。部下である藤原文元(ふじわらのふみもと)に、備前介(びぜんのすけ)の藤原子高(ふじわらのさねたか)を襲撃させて捕らえたことから、明確な朝廷への反乱となりました。ちょうど、平将門が関東諸国の国府を襲撃して新皇を名乗った頃ですね。」
名もなきOL
「本当にピッタリなタイミングで重なってますよね。将門・純友共謀論が出てきても不思議じゃないです。」
big5
「東西に反乱を抱えた朝廷は、まず将門を鎮圧することを優先しました。940年2月、朝廷は純友懐柔するために従五位下に叙任しましたが、効果は上がりませんでした。この月、純友は淡路を襲撃し、8月には讃岐を襲撃、そして10月には、なんと九州の重要拠点である大宰府を襲撃して占領、略奪をほしいままにする、という事態に発展しました。」
名もなきOL
「「大暴れ」、という意味では将門をも上回っている感じがしますね。」
big5
「しかし、純友の大暴れもここまででした。将門の乱があっさり鎮圧できたので、朝廷は純友潰しに全力を挙げることができます。純友討伐軍の総大将(追捕使(ついぶし))として小野好古(おののよしふる)が任命されました。ちなみに、副将(次官)として、将門を訴えた源経基が任命されています。
年が明けて941年、小野好古の軍勢は博多湾の戦いで純友軍を壊滅させることに成功。純友らは本拠地である日振島へと逃走しましたが、この敗北で反乱は鎮圧されたも同然でした。逃げ延びた者も最後には捕らえられたり、逃亡したりして純友軍は壊滅。純友自身は、戦死したとも、捕らえられて獄中で死んだとも、死に方についてははっきりしていませんが、6月には小野好古が反乱鎮圧の報告を朝廷に送り、藤原純友の乱は完全に鎮圧されました。」
名もなきOL
「純友さんの反乱は、将門さんと比べると地味なイメージがありますけど、わずか2カ月で鎮圧された将門さんに対して、純友さんは実質約1年半にも渡った反乱だったんですね。」
big5
「そのとおりです。さて、平将門の乱と藤原純友の乱の概要解説はここでいったん終わります。最後に、文化面での紹介を。平将門の乱について書かれた本が将門記(しょうもんき or まさかどき)です。作者不明で、執筆された年代もハッキリはしていませんが、後の『平家物語』に代表される軍記物のはしりとして、文学史の面からも重要です。
将門の乱は、個人的に気になる部分も多いので、また機会があったら「詳細篇」で扱ってみたいと思います。」

平将門の乱 詳細篇へ

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参考文献・Web site
・詳しくわかる高校日本史
・承平・天慶の乱