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中世

元の盛衰

あらすじ

big5
「今回のテーマは13世紀〜14世紀に中国を支配したモンゴル人王朝・です。前回のモンゴル帝国の続きですね。」

Yuan Dynasty 1294
Wikipediaより 元の版図

名もなきOL
「モンゴル帝国に比べると中国・モンゴル・朝鮮半島部分だけなので小さく見えますが、それでもかなりの大国ですよね。」
big5
「モンゴル帝国は後継者争いが相次いで分裂してしまいましたが、分裂後はそれぞれの地域で独自の歴史を歩むことになりました。元は、モンゴル帝国の本領を含むいわば「モンゴル帝国の本体」ともいえる国ですので、たいへん重要です。
それでは、いつもどおりまずは年表から見ていきましょう。」

年月 元のイベント 他地方のイベント
1260年 フビライが第5代ハンに即位
弟・アリクブケとの後継者争い始まる
1264年 アリクブケが降伏
1266年 ハイドゥの乱 始まる
新首都・大都の建設始まる
1269年 パスパ文字公布
1271年 フビライが国号を元とする
1274年 第一次日本遠征(文永の役)
1279年 克Rの戦いで南宋滅亡
1281年 第二次日本遠征(弘安の役)に失敗
1287年 ビルマのパガン朝を征服
ヴェトナム遠征に失敗
1292年 ジャワ遠征に失敗
1294年 フビライ死去
1351年 紅巾の乱 始まる
1368年 朱元璋が明を建国し、元は北に逃れて「北元」となる

元の成立

big5
「今回の主役はモンゴル帝国第5代ハンであるフビライ(クビライ、とも。英語はKublai)です。フビライはチンギス・ハーンの4男であるトゥルイの子です。つまり、チンギス・ハーンの孫ですね。兄である第4代ハンのモンケが死去した後、兄の跡をついで1260年(この年フビライ45歳)にハンに即位しました。」

YuanEmperorAlbumKhubilaiPortraitフビライ・ハン 制作年:1294年 制作者:Araniko

名もなきOL
「福耳ですね。目が小さくて、ほっぺが大きいところなんか、まさに「モンゴロイド」という顔ですね。」
big5
「日本でも有名なフビライですが、即位当初から激しい後継者争いが繰り広げられました。まず、弟のアリクブケが兄であるフビライに対抗してハンを名乗り、ハンの位をめぐって兄弟で骨肉の争いとなります。4年後の1264年にアリクブケが降伏することで、後継者争いは一時収まりましたが、それから2年経った1266年にはオゴタイの孫(チンギス・ハーンの曾孫)であるハイドゥ(カイドゥ、とも 生年不詳 英語"Kaidu")がフビライへの臣従を拒否。これをきっかけに、フビライに従わない地方政権が続出し、約30年にわたる内乱となりました。これをハイドゥの乱といいます。」
名もなきOL
「モンゴル帝国も、チンギス・ハーンの死後は壮絶な一族の後継者争いがあったんですね。」
big5
「ハイドゥの乱をきっかけに、モンゴル帝国は事実上の分裂状態となりました。1271年(この年フビライ56歳)にフビライが国号を中国風に「(英語はYuan)」としたのも、このような背景があったわけですね。これ以降、元はモンゴル帝国のような世界帝国ではなく、中国を支配する外国王朝という性格を強めることになりました。」

フビライ時代の内政

big5
「さて、次にフビライ時代の内政面について見ていきましょう。フビライ時代の内政面で特に重要なのは以下の3つですね。
1.カラコルムから大都へ遷都(1266年)
2.パスパ文字の公布(1269年)
3.授時暦(じゅじれき)の採用(1280年)
まずは1番の遷都から。
フビライは、勢力の拠点をモンゴル高原と中国の中継点にあたる現在の北京を重要視し、ここに新たな首都を建設することにしました。この都は大都(だいと)と名付けられました。大都は中国の伝統である風水や礼式に基づいた中国風の都市となりました。まずは、下の地図を見てください。」

Yuandadu map大都の地図

big5
「大都は三重の城壁に囲まれた周囲28.6kmの大都市です。中国風ではありますが、モンゴル民族らしく宮城内内には草地とゲルが設置されていました。その一方で、大国「元」の首都に相応しいように運河を引き込んで港も作っています。この運河は天津の港まで繋がっているので、天津に着いたモノは水運で大都まで運ぶことができたそうです。また、陸路ではカラコルムとも繋がっていました。つまり、「海の道」と「」草原の道」の両方と繋がっていたわけですね。」
名もなきOL
「大都は物流の拠点でもあったわけですね。」
big5
「広い街路と、中央に時計のある大都は繁栄を極め、多くの旅人や商人が集まり、最盛期の人口は100万人に達したそうですよ。大都は、繁栄する元の象徴でもあったわけですね。
次に、大都の説明でも登場した水上輸送の話をします。元は南北に分かれていた中国を再統一しましたので、広大な中国を縦断する運河も北から南まで航行することができるようになりました。元の時代に新しい運河が開削され、中国南部の杭州の港から大都まで繋がる運河が再び活躍するようになりました。ぞの全長は約1800kmにもなり、輸送量は最盛時には約245tにもなったそうです。
こうして13世紀にモンゴル帝国と元によって統一された世界はモンゴルの平和(パックス=タタリカ)と呼ばれました。元はイスラム商人を保護し、駅伝制(ジャムチ)を整備して人とモノの東西交流は盛んになりました。」
名もなきOL
「モンゴル軍の侵攻で、多くの人が亡くなった一方で、その後の統一帝国では平和を謳歌する、という話はなんだか複雑ですね。。」
big5
「そうですね。永遠の平和というのは、人類の永遠のテーマなのでしょう。
次に1269年に採用されたパスパ文字について。まずは、パスパ文字を見てみてください。これは漢字との対応表の一部です。」

Phagspa mengu ziyun『蒙古字韻』

名もなきOL
「漢字の上に書いてある、ハングルっぽいのがパスパ文字ですね。」
big5
「広大な元と4ハン国には様々な民族が生活しており、使われる言語も様々でした。そこで、フビライはチベット仏教の僧であるパスパ帝国全土の言語を表記するための共通文字作成を命令しました。パスパ文字は音のみを表現する表音文字で、どの言語でもパスパ文字で書くことで読み方がわかる、というものでした。」
名もなきOL
「パスパ文字って、パスパさんが作ったから「パスパ文字」なんですね。でも、とても面白い取り組みですよね。すべての言語を、統一された一つの文字で表記しようとするなんて。世界帝国らしい発想だと思います。」
big5
「国からの公式文書などパスパ文字で書かれたわけですが、実際の運用はかなり難しかったようです。というのも、発音は言語によって様々で、1対1で対応するわけではありません。例えば、英語の発音は日本語と同じでないので、カタカナで英語の音を書いてそれを読んでも外国人にはなかなか伝わらない、というのは皆さまご存じのとおりです。パスパ文字も同じような問題が残されていたため、中国で発行されたパスパ文字の文書は、補足のために漢字が併記されたりしました。」
名もなきOL
「パスパ文字は、元の崩壊とともに使われなくなったのですが、広大な世界帝国となったモンゴルらしい発明品の一つとして重要ですね。」
big5
「さて、最後に3つ目の授時暦の採用について。授時暦は、現在私たちが使っている暦とほぼ同じで、1年の長さは365.2425日としました。フビライの命により、天文学者である郭守敬が大規模な天文台を築いて観測を行って作ったものです。現在私たちが使っているのはグレゴリオ暦ですが、グレゴリオ暦が採用されたのは1500年代の後半。グレゴリオ暦よりも、約300年も早い元の時代に既に同レベルの精度の暦が作られた、という事実はたいへん重要ですね。」

元を訪れた人々

big5
「さて、次に元を訪れた有名人たちを紹介しましょう。世界帝国である元には、遠くイスラム圏やヨーロッパからも、商人や使者がやってきました。中でも有名なのはマルコ・ポーロですね。」

Marco Polo Mosaic from Palazzo Tursi

マルコ・ポーロ イタリア ジェノヴァのモザイク画

名もなきOL
「マルコ・ポーロは私でも知っています。世界を旅して、東方見聞録を書いたんですよね。日本のことを「黄金の国・ジパング」と紹介したんですよね。」
big5
「そうですね。ちなみに、マルコ・ポーロの著作は「世界の記述」とも呼ばれます。「東方見聞録」という名前は、日本と韓国だけで使われる名前だそうです。
マルコ・ポーロはたいへん有名ですが、その生涯には謎が多いです。1254年にヴェネツィアの商人の家に生まれた、というのが一般的ですが、定かではありません。父た叔父と共に元の首都・大都を訪問し、フビライに21年間仕えて、各地を旅してヴェネツィアに帰国しました。その後、ヴェネツィアがジェノヴァと戦争になった時、マルコ・ポーロはジェノヴァに捕らえられて牢に入れられました。その時、同じ牢に入っていた記述家・ルスチアーノに過去の旅について話したものを、ルスチアーノが書き留めたものが「世界の記述」となりました。」
名もなきOL
「けっこう波乱万丈の人生ですよね、マルコ・ポーロも。」
big5
「余談ですが、マルコ・ポーロは本当に元に行ったのか?という疑問を投げかける説があります。なぜかというと、「世界の記述」には纏足や万里の長城など、たいへんな特徴がある中国の文化について一切触れられていないこと、そして元側の史料にはマルコ・ポーロは登場しないこと、などが理由として挙げられています。ただ、「世界の記述」ができたのは、上記のようにマルコ・ポーロの話を別の人が書き留めたものですので、マルコ・ポーロが言っていないことが書かれたり、逆に言ったことが抜け落ちていることも考えられます。今のところは、あくまで異説の一つ、というところですね。
続きまして、マルコ・ポーロと同じ時期に元を訪問したフランチェスコ会修道士のモンテコルヴィノです。以前は「モンテ・コルヴィノ」という具合に、モンテとコルヴィノの間に点やイコール(=)がついて日本語表記されていたのですが、最近は「モンテコルヴィノ」と一語で表記されますね。」
名もなきOL
「カトリックって、本当に異国への布教に熱心ですよね。モンゴル帝国時代に、プラノ・カルピニさんとかルブルックさんが来てましたよね。」
big5
「そうですね。ただ、プラノ・カルピニやルブルックはあくまで「使節」でしたが、モンテコルヴィノは大都大司教として滞在し、30年間布教活動に励んで1328年(この年81歳)に大都で病没しています。元々は、教皇・ニコラウス4世の命で1294年に大都を訪問したのですが、フビライからキリスト教布教の許可を得たので、そのまま大都に居続けました。聖書のモンゴル語訳もしています。
そして最後に紹介するのはイスラムの大旅行家・イブン・バットゥータです。」

Hariri Schefer - BNF Ar5847 f.51イブン・バットゥータ

big5
「これはイスラム圏の人名でよくある話なのですが、「イブン・バットゥータ」とは「バットゥータの息子」という意味で、日本語に訳すなら「お父さんがバットゥータという名前の息子〇〇」となります。イブン・バットゥータ本人の名前はムハンマドです。ただ、イスラム圏の人名は同じ名前が何人も登場するため、日本語や英語圏では「イブン・バットゥータ」という記載にして他の人と区別しています。」
名もなきOL
「それで、イスラム圏の人名は「イブン・〜〜」となっている人が多いんですね。納得です。」
big5
「イブン・バットゥータはモロッコ人のイスラム教徒で、上述のマルコ・ポーロやモンテコルヴィノに比べると40~50年くらい後の人になります。1325年(この年、イブン・バットゥータ21歳)にメッカ巡礼に旅立ったのがきっかけとなり、そのままアフリカ、アジアを経て杭州から中国に入り、1346年に大都に到着しました。この5年後に後述する紅巾の乱が勃発していますので、元の末期ですね。彼は旅行家なので、その後大都を離れて故郷であるモロッコに帰っています。その後も旅行を続けており、約25年間を旅して過ごし知恵ます。のちに彼の大旅行の記録を「三大陸周遊記」に著しています。」
名もなきOL
「すごい大旅行ですね!さすがに25年も旅行するのは私には無理ですが、世界各地をゆっくり見ることができる旅行って、憧れますね。」

フビライ時代の遠征

big5
「さて、次にフビライが行った遠征について見ていきましょう。フビライは長い治世の間に多くの遠征を実行しましたので、その概要を見ていきましょう。」

・日本遠征(元寇) 1274年文永の役 1281年弘安の役
big5
「さて、まずは日本遠征です。日本では元寇という一大事件で小学校の歴史にも登場した大事件として有名ですね。1274年の第一次遠征は日本では文永の役、1281年の第二次遠征は弘安の役と呼ばれています。年号は、↓の語呂合わせがおススメです。
元軍はひどい船酔い(ひどいふ(な)よ(い)→1274)、人には言えない(人には言(1281))負け戦

元寇の結果は、皆さんご存じの通り日本の勝利となりました。」
名もなきOL
「改めて見てみると、神風台風のおかげもあったとはいえ、よく鎌倉武士たちは元軍の侵攻を防ぎましたよね。これだけの世界帝国を相手にして、よく水際で守りぬいたと思います。」
big5
「そうですね。元寇については、謎な部分も多く残されていますので、詳細は日本史編で扱うことにしますが、鎌倉武士の力によるところも大きかったと思いますね。」

・北ヴェトナム遠征
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「中国の南に位置し、古くから中国の影響を受けてきた北ヴェトナムも、フビライの標的の一つとなりました。当時ヴェトナムを治めていた王朝は陳朝という王朝でした。元軍は一時首都を占領したのですが、王族の陳興道が強大な元軍を相手に奮戦したこともあり、結果的に元軍は撤退し、陳朝は独立を守りました。」

・チャンパ(南ヴェトナム)遠征
big5
「陳朝が北ヴェトナムを支配していた頃、南ヴェトナムはチャンパ王国(漢字では「占城」)が治めていました。チャンパについても、1282年と1284年にフビライは遠征軍を送り込みましたが、いずれも失敗しています。」
名もなきOL
「1282年と1284年ということは、第二次日本遠征失敗のすぐ後ですよね。そして、このチャンパ遠征も失敗してしまったのは、さすがのフビライも痛手だったでしょうね。」
big5
「そうですね。3度目の元寇が無かった理由について、いろいろな意見が出ていますが、私は単純に「日本以外にも遠征失敗が続いており、再遠征するだけの力はなかった」というのが実際のところだと思いますね。」

・ビルマ(パガン朝)遠征 1287年
big5
「ヴェトナム遠征に失敗した元ですが、1287年に内紛で揉めていたビルマに遠征しました。当時のビルマを支配していたのはパガン朝。それまでにも、数回にわたって元軍の侵攻を受けていたのですが、今回の遠征で元に服従して属国となりました。」
名もなきOL
「こうしてあらためて見て見ると、元って、東南アジア方面には思ったほど勢力を広げていないんですね。」
big5
「そうですね。インド方面にも何度か侵入しているものの、征服には至りませんでした。おそらく、熱帯雨林が生い茂る地域は苦手だったんじゃないかな、と私は思いますね。

元の滅亡

big5
「このように、元は大いに繁栄していたのですが、フビライ時代の遠征には失敗したものも多く、その勢力には陰りが見え始めました。フビライが1294年に死去した後、約40年後には後継者争いで再び内紛が発生し、1351年には支配されていた漢民族が元からの独立を目指して紅巾の乱が発生。1368年に、朱元璋が漢民族の王朝であるを建国しました。元はモンゴル高原に逃れ17世紀まで命脈を保ったのですが、この時代の元は北元とか「韃靼」、「タタール」と呼ばれています。北元の話はまたの機会にしましょう。
と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」

大学入試 共通テスト 過去問

big5
「大学入試共通テストでは、元のネタは時折出題されております。試験前に復習しておけば、運よく出題されるかもしれません。」

平成30年度 世界史B 問題29 選択肢4
・インドで、ハイドゥ(カイドゥ)の乱が起こった。〇か×か?
(答)×。上記の通り、ハイドゥはフビライ即位後に長期にわたる後継者争いを起こしています。インドではありません。

令和2年度追試 世界史B 問題22 選択肢3
・ハイドゥが、オゴタイに対して反乱を起こした。〇か×か?
(答)×。上記の通り、ハイドゥはフビライに対して長期にわたる後継者争いを起こしています。オゴタイではありません。

令和2年度追試 世界史B 問題34 選択肢3
・ジャワは、チンギス=ハンが送った軍の遠征を受けた。〇か×か?
(答)×。チンギス=ハンはジャワに遠征軍を送っていません。ジャワに遠征軍を送ったのはフビライです。

令和5年度 世界史B 問題9 選択肢い
ある民族や集団について研究する際に、別の民族や集団が残した記録を史料とする例に以下はあてはまるか? ・パスパ文字(パクパ文字)で書かれたフビライの命令文書を用いた、元朝についての研究。
(答)あてはまらない。パスパ文字は元で作られた文字なので「別の民族」が作った史料ではありません。

令和5年度追試 世界史B 問題18(複合的問題の一部)
・(明の首都の歴史として)元の都が置かれた。〇か×か?
(答)×。上記の通り、元の首都は大都で位置は現在の北京です。明の首都は南京なので、違います。




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参考文献・Web site