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18世紀欧州戦乱

5.ピョートル1世の大トルコ戦争

big5
「1691年のスランカメンの戦いの後、事実上休戦状態だった大トルコ戦争でしたが、1695年、ロシアが再びアゾフを狙って動きます。」
名もなきOL
「ロシアって、ソフィア&ゴリツィン体制の時は、敗戦続きだったんですよね。」
big5
「はい。しかし、今回指揮を執るのは新進気鋭のピョートル1世です。後に、敬意を表して『ピョートル大帝(Peter the Great)』と呼ばれるピョートル1世の、最初の戦いになります。アゾフの再遠征が始まる1年前の1694年2月4日、ピョートルの母ナタリヤが亡くなりました(享年43歳)。ピョートルが自身で政務に取り組み始めるのは(よく、『親政を開始する』と表現されます。)、母ナタリヤの死後だったそうです。この時、ピョートル1世22歳です。」
名もなきOL
「若い!新卒の大学生と同じじゃないですか!それで、もう1国のトップだなんて、大丈夫かしら?」
big5
「大丈夫だったんです。『ピョートル大帝』の敬称は伊達ではありません。ただ、ピョートル大帝は、かなり独特なスタイルの君主だったので「世界史の変人」によく登場します。かなりユニークな人なので、少年期時代の話もしたいと思います。まず、作者も作成年代も不明ですが、こちらは少年時代のピョートル1世です。」

Young Peter the Great of Russia.jpg
By 不明 - http://andcvet.narod.ru/roma/sam.html, パブリック・ドメイン, Link

big5
「まず、両親家族について。父はアレクセイ・ミハイロヴィチで、ロシアのロマノフ朝第2代ツァーリです。母はナタリヤ・ナルイシキナで、アレクセイ・ミハイロヴィチの第二皇妃でした。」
名もなきOL
「第二、ということは要するに側室ですか?」
big5
「いえ、側室ではなく正室ですね。アレクセイ・ミハイロヴィチの最初の皇妃マリヤは1669年に死去したため、1671年にナタリヤと再婚したんです。」
名もなきOL
「なるほど、そういう意味で「第2」なんですね。」
big5
「この時、アレクセイ・ミハイロヴィチには最初の皇妃マリヤとの間にもうけた男子2人、と女子が5人いました。」
名もなきOL
「7人も年上兄弟がいるんだ。なんだかすごいなぁ・・・」
big5
「余談ですが、ピョートルが誕生した時点で、既に幼くして亡くなっていた異母兄弟姉妹が5人います。当時は、まだまだ乳幼児の死亡率が高かったんですね。
父であるアレクセイ・ミハイロヴィチが1676年(この時ピョートル1世4歳)に亡くなると、異母兄のフョードル3世がツァーリとなりました。しかし、フョードル3世の治世は短く、6年後の1682年に病気で亡くなりました。この時、フョードル3世20歳です。」
名もなきOL
「20歳で病死って・・・」
big5
「元々、フョードル3世はやや病弱だったそうです。さて、問題になったのは、フョードル3世の後を誰が継ぐか、です。フョードル3世には子供がいなかったので、候補は同母弟のイヴァン5世(この時16歳)か、異母弟のピョートル1世(この時10歳)になります。しかし、イヴァン5世はフョードル3世よりも病弱で、弱視(盲目ではないが、視力がとても弱い)や失語症(聞く、話す、読む、書くが通常にできない)といった障害も抱えていたので、後継者になるのは問題が多かったんです。」
名もなきOL
「順番からいったら、年上のイヴァン5世なんでしょうけど、そういう事情があるならピョートル1世が後継者になってもいいんじゃないかしら。」
big5
「ですよね。なので、後継者はピョートル1世という流れになりました。ところが、そんなにスムーズに済まないのが、ロシア宮廷の後継者問題です。ピョートル1世が後継者となると、不利益を被る人たちがいます。それは、イヴァン5世の母の出身であるミロスラフスカヤ家に関連する貴族たちです。イヴァン5世とピョートル1世は異母兄弟なので、それぞれの後ろ盾となる貴族の派閥は違うんですね。このままでは、自分たちの権力と生命に危険が及ぶ、と考えたイヴァン5世派は行動を起こします。「ストレリツィ」(訳語は「銃兵隊」ロシア初の常備軍)という軍隊を扇動して暴動が勃発。ストレリツィは宮廷に侵入し、ピョートル1世派の貴族を殺戮する、という暴挙に出ます。ピョートル1世の目の前で、生母ナタリヤの兄弟(ピョートル1世の叔父など)が兵士に連れていかれて殺される、という悲劇が起こりました。下の絵は、この事件から約200年後の1882年に描かれた絵です。一番左にいる黄色い長いジャケットを着た子供がピョートル1世。右側に、兵士と連れていかれるピョートル1世の叔父が描かれています。」

Streltsy mutiny in 1682.jpg
By Alexei Korzukhin - [1], Public Domain, Link

名もなきOL
「怖い。王様とかの後継者争いって、本当に怖いです。」
big5
「そうですね。後継者争いって、古今東西あちこちで発生しますが、たいてい流血事件になって犠牲者が出ています。当時10歳という少年だったピョートル1世の目にはどう映ったのでしょうか。母の親族が兵士らに連れていかれて殺される、という事件を経験したのは、彼の人格になにかしらの影響を与えたのではないか、と思います。
さて、こうしてイヴァン5世派の暴動は成功し、フョードル3世の後継者はイヴァン5世に。ピョートル1世はその共同統治者、という扱いになりました。主がイヴァン5世で、副がピョートル1世というかんじで2人ツァーリが存在する、という形ですね。そして、2人も子どもということで、姉の前述のソフィア・アレクセーエヴナが摂政となり、その愛人のヴァーシリー・ゴリツィンが右腕となって、「ソフィア&ゴリツィン体制」がスタートしたんです。その翌年に第二次ウィーン包囲が始まり、ロシアも大トルコ戦争に参加することになります。」
名もなきOL
「そんなゴタゴタを経てできたのが「ソフィア&ゴリツィン体制」なんですね。その間、少年のピョートル1世はどうしていたんですか?。」
big5
「肩書は「共同統治者」でありながら、実権は摂政である異母姉のソフィアに取られ、宮廷内に居場所もなくなり、母・ナタリヤと共にモスクワの郊外にあるプレオプラジェンスコエ(Preobrazhenskoye)という所に移って・・・・」
名もなきOL
「日陰で、ひっそりと過ごしていたのですか?。」
big5
「いえ、元気に過ごしていました。」
名もなきOL
「big5さん、話の流れが違いますよ。」
big5
「少年・ピョートル1世は、近くの外国人居住区域に足しげく通い、ロシア人以外の国の人々から様々な影響を受けました。例えば、オランダ人の船員であるフランツ・チンマーマンがその一人です。チンマーマンは、ピョートルに航海で使用する天体観測儀の使い方や、数学、砲術、要塞術、そしてオランダ語を教え、特に「海事」の分野でピョートルの興味と憧れをかきたてました。これらの影響は、彼の政策に大きな影響を与えていると思います。そんな彼が特に好きだった遊びが「遊戯連隊(ゆうぎれんたい:英語は"Toy army")」でした。」
名もなきOL
「遊戯連隊?」
big5
「軍隊ごっこ、ですね。ピョートル1世は、身分にとらわれずに近所の少年らを集めて、軍隊ごっこをして遊ぶのが好きだったんです。これもピョートル1世の特徴の一つですね。」
名もなきOL
「そうかしら?現代日本でも、男の子ってたいてい戦隊モノが好きで、戦いごっこして遊んでます。そんなに珍しいことじゃないんじゃ・・・」
big5
「子どもの「軍隊ごっこ」遊びで終われば普通だと思いますが、ピョートル1世はそれで終わりませんでした。成長につれて、「軍隊ごっこ」はだんだん複雑でハードなものになり、最終的には実質的に「軍事教練」となりました。本物の銃や大砲を使うようになり、死傷者も出ました。さらに、この遊戯連隊はやがて本物の「連隊(英語は"Regiment")」なり、参加していた少年の中から、軍の幹部に出世する人物も登場したんです。」
名もなきOL
「それはさすがに「普通」ではないかも。。」
big5
「そして、年頃になったピョートルには彼女もできます。村の酒場のオランダ人の娘、アンナ・モンスです。アンナは、ピョートルが結婚した後も、愛人としてピョートルの寵愛を受け続けます。」
名もなきOL
「10代で外国人と恋愛する、ってロマンがありますね。でも、「愛人」はちょっとな・・。」
big5
「そして、この時代の1国の君主としては珍しく、ピョートル1世は自ら戦場に赴き、軍隊の指揮も行いました。」
名もなきOL
「きっと、少年時代に「遊戯連隊」に熱中した影響なんでしょうね。」
big5
「その後、2回のアゾフ遠征失敗とネルチンスク条約締結でソフィア&ゴリツィン体制は破綻。1694年に母・ナタリヤが死去すると、ロシアの君主として動き始めます。ピョートル1世の最初の大仕事は大トルコ戦争で3回目となるアゾフ遠征(英語は"Azov campaigns")でした。」
名もなきOL
「3度目の挑戦かぁ。。アゾフへのすごい執念を感じます。」
big5
「1695年(この年ピョートル1世、23歳)春、ピョートル1世は31,000の兵と大砲170門を率いてアゾフへ出陣。前回、前々回の失敗の反省を活かし、今回はドン川沿いに進軍し、兵士たちの飲食料品などの補給物資は川から船で補給する、という形を取りました。」
名もなきOL
「へぇ〜、そんなところまで気を使うのって、なんだか意外な気がします。歴史に出てくる「戦争」って、戦場での戦いをイメージしますけど、兵士たちの食べ物飲み物の問題とか、地味ですけど重要ですよね。」
big5
「歴史の授業とかだと、あまり細かい話はほとんど出てこないですよね。なので、このサイトでは、私が面白いと思ったところは、細かいところでもなるべく載せていこうと思います。さて、こうしてピョートル1世率いるロシア軍はアゾフ要塞に到着。この時、アゾフ要塞にはオスマン帝国の守備隊3,656人(うち、イェニチェリが2,272人)が立てこもっていました。6月27日から7月5日にかけて、ロシア軍は陸側からアゾフ要塞を包囲しましたが、川に面する部分は包囲できませんでした。そのため、オスマン帝国軍は川から要塞内に補給物資を供給することができたので、包囲効果はほとんど得られなかったそうです。それでも、ピョートル1世は8月5日と9月25日に攻撃をかけましたが失敗。諦めて、10月1日に包囲を解いて退却しました。」
名もなきOL
「あら、ピョートルさんも失敗しちゃったんですね。3度目の正直ならず。。」
big5
「これで終わらないのがピョートル1世です。今回の失敗の原因は、川を封鎖することができなかったことにある、と見たピョートル1世は、ロシア軍も軍船を作って川を封鎖すべき、ということで、この年の年末から軍船の建造を開始します。」
名もなきOL
「決断と行動が早い!これはデキル男っぽいかも・・・」

Azov.jpg
By Adriaan van Schoonebeek - Adriaan van Schoonebeek, Public Domain, Link

アゾフの獲得 1699年 作:Adriaan Schoonebeek
big5
「こうして、ピョートル1世の指示で作られた船隊は、戦艦が2隻、大砲搭載船が4隻、ガレー船23隻、その他の船多数という編成です。年が明けて1696年の5月3日、ピョートル1世自らガレー船の1隻に乗って、再びアゾフへ出陣しました。ちなみに、陸軍は部下の将軍に率いさせて、アゾフに向かわせています。」
名もなきOL
「4回目の挑戦かぁ・・本当に執念を感じますね。私だったら諦めちゃうかも。。それにしても、ピョートルさんって、本当に現場に出るタイプの人なんですね。」
big5
「まさに『現場主義』のリーダーだと思います。オスマン帝国のスルタンとか、戦場に出る人は稀ですしね。それに比べると、全然違いますね。そして5月27日、ロシア軍は再びアゾフ要塞を包囲しました。今回は、川に面する部分もロシアの船隊が包囲したので、アゾフ要塞はこれまでと異なり、完全に包囲されたわけです。昨年と違い、船隊を出してきたロシア軍に対し、オスマン帝国も対抗策を講じます。6月14日、オスマン帝国の艦隊(戦艦23隻兵士4000人)の艦隊が現れ、アゾフ要塞を包囲するロシア船隊に戦いを挑んだのですが、オスマン帝国艦隊は戦艦2隻を失ってあっさり敗退します。」
名もなきOL
「凄いですね。去年作ったばかりの船隊が、オスマン帝国の艦隊に勝つなんて。」
big5
「こうして、これまでロシア軍を3度も退けてきたアゾフ要塞は完全に孤立してしまいました。陸と川の両方から大量に砲撃を受け、6月19日に守備隊が降伏。アゾフ要塞はついに陥落しました。」
名もなきOL
「ついに目標を達成したんですね。ピョートルさん、やっぱりデキル男なんだわ。」
big5
「アゾフ要塞を獲得し、ついに念願の不凍港を手にしたロシアですが、その進撃はここでいったん中断となります。不凍港を得たのは事実ですが、そもそもアゾフ海は黒海の内海に過ぎません。また、黒海から地中海に出るには、オスマン帝国の首都・イスタンブルを通る必要があります。オスマン帝国を何とかしない限りは、ロシアの船は地中海に出ていけないわけです。現在のロシアでは、単独でオスマン帝国を打倒するのは不可能と判断したピョートル1世は、戦争をいったん中断し、西欧への「大使節団」派遣に取り掛かります。「大使節団」派遣でも、ピョートル1世は彼らしいユニークさを発揮していて、とても面白いです。これについては、また後で。」

6.ポーランド王選挙

big5
「さて、しばらくロシアの話が続きましたが、話はオーストリア vs オスマン帝国に戻ります。1691年のスランカメンの戦いで、バーデン伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムがオスマン帝国大宰相のキョプリュリュ・ムスタファ・パシャを破ってから、戦争は事実上休戦状態になっていました。OLさん、なぜ休戦状態になったんでしたっけ?」
名もなきOL
「えっと、フランスのルイ14世が戦争を始めたんですよね?」
big5
「はい、そのとおりです。「大同盟戦争(フランス vs オーストリア&イギリス&オランダ、その同盟国)」ですね。大同盟戦争も内容が濃い歴史事件なので、次の機会に詳細を見ていきたいと思いますが、まずは大トルコ戦争の経過を見ていきましょう。
ピョートル1世がアゾフを占領した1696年、オーストリアは、対オスマン帝国戦線の総司令官としてザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(Friedrich August I)26歳を任命しました。」

Louis de Silvestre-August II.jpg
By ルイ・ド・シルヴェストル - Nationalmuseum Stockholm, パブリック・ドメイン, Link

名もなきOL
「初めて聞く人ですよね?でも、若いのに総司令官に任命されるなら、凄い人だったんですか?」
big5
「いえ、それが全く違うんです。将軍としての能力は皆無だったようです。1695年にオスマン帝国のスルタンに即位したムスタファ2世は、自ら軍を率いて出陣。ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世はオスマン帝国軍に敗北を重ね、戦況は悪化していきました。それどころか途中で総司令官の仕事をほっぽり出してしまいました。」
名もなきOL
「それって職務怠慢なんじゃ・・。ピョートルさんみたいなデキル男の話の直後に聞くと、ダメっぷりが強調されますね。」
big5
「ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世も、なかなかの変人です。将軍としての能力は皆無のようですが、個人の腕力は飛びぬけて強く、馬の蹄鉄を素手でへし曲げることができたそうです。彼はその怪力っぷりを周囲に見せるのが好きで、機会があれば人前で蹄鉄曲げを披露していたそうです。そんな彼には「ザクセンのヘラクレス」という異名がついていました。」
名もなきOL
「腕力だけ強くてもねぇ・・・」
big5
「そんな彼に、転機が訪れます。1696年6月17日、第二次ウィーン包囲の英雄であるポーランド王ヤン3世が心臓発作で死去し、66年と約10カ月の生涯を閉じました。」
名もなきOL
「ヤン3世、カッコよかったな・・。でも、これがさっきの筋肉マンに関係あるんですか?」
big5
「大ありです。ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世は、ヤン3世の後継者としてポーランド王に立候補したんです。
名もなきOL
「え?ポーランド王に立候補??選挙して王様を決めるんですか??嘘でしょ??」
big5
「嘘でも冗談でもなく、ポーランドでは国王を選挙で決めるんです。「選挙王制」と呼ばれたりしますが、これは世界史の中でもかなり特殊なシステムだと言えるでしょう。この独特なシステムが、ポーランド衰退の主要因だとしばしば指摘されています。実際、ヤン3世の後継者を決める国王選挙では「選挙王制」システムのマズさがはっきり現れました。」
名もなきOL
「ピョートルさんみたいに、世襲ってなっていても流血事件になったりするのに、この時代で選挙なんてしたら、結果に納得できない人たちが反乱を起こして、戦争になったりするような・・。」
big5
「幸いなことに、戦争にはなりませんでしたが、外国の干渉を受けることになりました。ポーランドの国益よりも、周辺諸国の意図が大きい力を持つようになったんです。」
名もなきOL
「そういうことだったんですね。その国王選挙って、誰が選挙権を持っていたんですか?あと、立候補できる資格とかあったんですか?」
big5
「選挙権があったのは「貴族の男性で投票する意思がある人」というものでした。立候補者の資格についても、あまり厳格な決まりは無かったので、今回のようにドイツ人であるザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世が立候補する、ということも可能ではありました。ただ、一つだけ「カトリック信徒であること」という条件があったようです。ちなみに、ザクセン選帝侯は、ルターの宗教改革以来、ルター派でした。神聖ローマ帝国貴族の中でも、ザクセン選帝侯はルター派のリーダー的な地位にあったんです。」
名もなきOL
「あれ?それじゃあ、この筋肉マンは立候補できないんじゃ?」
big5
「そこで、彼はルター派からカトリックに改宗しました。」
名もなきOL
「なんてご都合主義。。筋肉マンは節操が無いんですね。」
big5
「節操の無さは他の面にも出てきますが、それはまた後で説明しましょう。ポーランド王になりたいがためだけの改宗に、周囲は驚きました。フリードリヒ・アウグスト1世の妻、クリスティアーネは改宗を拒否しましたが、そんなこと彼は気にもしませんでした。」
名もなきOL
「妻の同意よりも、ポーランド王選挙、だったんですね。」
big5
「そうです。ついでに、大トルコ戦争なんて、彼の野望の邪魔になるだけなのでほったらかしです。」
名もなきOL
「あぁ、ダメだこいつ。私、この筋肉マンは無理。」
big5
「ポーランド王選挙は、現代の選挙のように、きちんと制度が整備されていたわけではないので、選挙に勝つためには多額の政治資金が必要でした。『カネと政治』は当然のことでした。彼はザクセンの国庫から、選挙権を持つポーランド貴族に多額の賄賂を渡して選挙戦を戦いました。」
名もなきOL
「公職選挙法違反で逮捕されればいいのに。ちなみに、他にはどんな候補がいたんですか?」
big5
「まず、ヤン3世の息子であるヤクプ・ルドヴィク・ソビエスキ(29歳)です。肖像画はこちら」

Gascar Jakub Ludwik Sobieski.jpg
By Henri Gascar - www.wilanow-palac.pl, パブリック・ドメイン, Link

名もなきOL
「この人いい!ヤン3世の息子さんなら、ポーランドのこともよく知ってるハズだし。あんな筋肉マンの出る幕なんてないわ。」
big5
「ですよね。ヤクプは、父ヤン3世と共に第二次ウィーン包囲にも出陣していますし。それと、もう一人有力だったのは、フランス貴族のコンティ公フランソワ(32歳)です。」

Undated oil on canvas portrait of Francois Louis de Bourbon, Prince of Conti by a member of the Ecole Francaise.jpg
By Unidentified painter - http://www.photo.rmn.fr/cf/htm/CSearchZ.aspx?E=2K1KTSDJGJGJ&SID=2K1KTSDJGJGJ&SubE=2C6NU0HGM2PZ, パブリック・ドメイン, Link

名もなきOL
「あぁ、この人の方がいいかも。フランスの貴族なんでしょ?やっぱりこの人かなぁ・・・」
big5
「OLさん、完全に顔で選んでますね。まぁ、それはさておき、コンティ公フランソワは、ルイ14世の孫にあたるので、当然のようにルイ14世の支持を得ていました。その結果、国王選挙で勝ったのは、コンティ公フランソワでした。」
名もなきOL
「ヤン3世の息子さんには可哀そうだけど、彼なら仕方ないと思います。・・・あれ?筋肉マンはどうなったんですか?」
big5
「結果に納得いかなかったザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世は、ザクセンがポーランドに西隣で近いことを利用して、大急ぎでポーランドに乗り込んで戴冠式を強行。ポーランド王アウグスト2世として即位してしまいました。後からやってきたコンティ公フランソワは、軍隊で脅して追い払い、ヤコプ・ルドヴィク・ソビエスキは逮捕して2年間刑務所に入れて、ポーランド王位を脅かす者は実力で排除していったんです。」
名もなきOL
「はぁ?サイテー、信じらんない!こんな力だけが取り柄の筋肉マンが王様だなんて・・・。」
big5
「こんな経緯でしたので、アウグスト2世の正統性には疑問が持たれています。ただ、アウグスト2世はその後もポーランド王として周囲から認められていました。しかし、こんなことをしていたために、大トルコ戦争の総司令官は解任されました。彼の代わりに、大トルコ戦争の総司令官に就任したのは、大同盟戦争で活躍していたプリンツ・オイゲンです。」

7.プリンツ・オイゲンとゼンタの戦い

big5
「さて、いろいろと脱線したので長くなりましたが、16年続いた大トルコ戦争も終盤です。1697年、アウグスト2世の代わりに総司令官に任命されたプリンツ・オイゲン(この時34歳)。大同盟戦争で敵国フランスを翻弄し、その実力が認められたオイゲンは、元帥となっていました。」

Prinz Eugene of Savoy.PNG
By ジャコブ・シューペン - http://www.geheugenvannederland.nl/?/en/items/RIJK01:SK-A-373, パブリック・ドメイン, Link

名もなきOL
「この人、すごいすごいって聞くんですけど、この肖像画の顔とかイマイチなんですよね。。」
big5
「OLさん、顔を気にしすぎ。。ただ、同じような話は、オイゲンがオーストリアに行く前、フランスにいた頃は何度もあったそうです。『見た目がさえない』という具合に、見た目はあまり利発そうでない、というのがフランス時代のオイゲンの評価でした。これほどの名将を、見た目だけを理由にして敵国へ移らせてしまったのは、フランスの大きな落ち度と言えるでしょう。
さて、この頃、敗戦続きだったオスマン帝国では反撃の準備が始まっていました。1695年2月6日に、アフメト2世の後を継いでスルタンに即位したムスタファ2世(Mustafa II:この時31歳)は、これまでの敗北で失った領土を奪還すべく、セルビアのベオグラードで反撃の準備を整えていました。」

Mustafa II by John Young.jpg
By John Young (1755-1825) - A Series of Portraits of the Emperors of Turkey Embedding web page: https://www.allposters.com/-sp/Mustapha-II-Sultan-1695-1703-from-A-Series-of-Portraits-of-the-Emperors-of-Turkey-1808-Posters_i1593224_.htm Image: http://imagecache2.allposters.com/images/pic/BRGPOD/87571~Mustapha-II-Sultan-1695-1703-from-A-Series-of-Portraits-of-the-Emperors-of-Turkey-1808-Posters.jpg, パブリック・ドメイン, Link

名もなきOL
「オスマン帝国のスルタンって、みんな似たような顔してますね。こないだ見た人と、あんまり区別がつかないな・・。」
big5
「確かに。ただ、ムスタファ2世は、これまでのスルタンと異なり、現場に出てくる人でした。この時も、ムスタファ2世自身が出陣していました。ただ、スルタンが出征すると、スルタンのハーレムなんかも一緒に付いてくるので、いろいろ大変な面も多いんですけどね。
こうして、オスマン帝国軍を率いるスルタン・ムスタファ2世とオーストリア軍を率いるプリンツ・オイゲン。両者の勝負は1697年9月11日、現在のセルビア北部の町・ゼンタの近郊で繰り広げられました。ゼンタの戦い(Battle of Z(S)enta)です。ムスタファ2世率いるオスマン帝国軍約8万は、ハンガリー南部のセゲドを攻略すべく、北上していました。対するプリンツ・オイゲン率いるオーストリア軍の兵力は約5万(歩兵34,000、騎兵16,000、大砲60門)。兵力はオスマン帝国軍が勝っているので、オイゲンは慎重に機会を窺っていました。そんな時、重大な情報が入ってきます。オーストリア軍の騎兵隊が捕らえたオスマン帝国の軍幹部から「オスマン帝国軍が、セゲドに向かうべくティサ川を渡っている最中だ」、というのです。大軍が川を渡っている途中というのは、かなり危険な状態なんです。」
名もなきOL
「どうして?」
big5
「8万人もの大人数が、1度に川を渡ることはできません。なので順番に渡っていくのですが、この時、一時的に川をはさんで自軍が分散することになります。しかも、一度に渡れる人数は限られますので、対岸にいる味方が敵に襲われても、すぐに救援に向かうことができません。その結果、各個撃破されてしまう、という理由ですね。」
名もなきOL
「なるほど。だから、オイゲンさんは、「今がチャンス!」と思ったわけね。」
big5
「オイゲンは、すぐに軍を率いてオスマン帝国軍が渡河中のゼンタへ向かいました。都合のいいことに、この時、オスマン帝国軍はオーストリア軍がすぐ近くまで来ていることに気づいていませんでした。そのため、突如現れたオーストリア軍にオスマン帝国軍はびっくり仰天。応戦しようとする兵がいる一方で、一刻も早く川を渡って対岸へ逃げようとする兵が橋に殺到し、大混乱状態になりました。」

Battle of Zenta.png
By Jacques-Ignace Parrocel - [1], パブリック・ドメイン, Link

名もなきOL
「いきなりオーストリア軍に攻撃されるだけでもビックリなのに、川を渡っている途中、という半端な時だったらなおさらですよね。」
big5
「大混乱するオスマン帝国軍に対し、オイゲンは自軍に攻撃命令を下します。特に、オーストリア軍左翼は勇猛果敢に斬りこみ、守りが手薄になっていた防御用の堀を乗り越えてオスマン帝国軍陣地の内部まで侵入。橋の入り口付近まで攻め込んでいきました。オスマン帝国軍の中央と左翼(=オーストリア右翼)は、堀を利用して応戦していましたが、背後からもオーストリア軍に攻撃されるようになると支えきれずに敗走。オーストリア軍は全部の防衛線を突破し、逃げ惑うオスマン帝国軍を追撃しました。戦闘開始から約2時間後、オーストリア軍の完全勝利でゼンタの戦いは終わりました。オスマン帝国軍の死者は約2万人、溺死者1万人という、総兵力の4割近くを失うという大損害を被っています。対して、勝利したオーストリア軍は死者429人、負傷者1598人という軽微な損害で、その差は一目瞭然です。ムスタファ2世は、既に対岸に渡っていたため無事でしたが、オスマン帝国軍の幹部も多数戦死しており、その被害は甚大でした。」
名もなきOL
「オイゲンさん、凄いんですね。タイミングをしっかり掴んだ大勝利でしたね。」
big5
「ゼンタの戦いは、長く続いた大トルコ戦争を終結に向かわせることになりました。これ以降、大規模な戦いは行われず、両国の間で講和会議が進められることになります。年が明けて1698年に、ポーランド王アウグスト2世が、オスマン帝国領のウクライナ方面に攻め込み、ポドリアを占領したくらいでしょうか。」
名もなきOL
「戦下手の筋肉マン。。火事場泥棒だわ。」
big5
「彼は確かに戦下手かもしれませんが、タイミングを掴むことはそれなりに知ってると思いますよ。実際、敵が大敗して弱っているのはチャンスですし。
1699年1月26日、セルビアの都市・カルロヴィッツで、オスマン帝国とオーストリア・ヴェネツィア共和国・ポーランドの間で講和が結ばれました。この講和は、会議が行われた都市名をとって「カルロヴィッツ条約」と呼ばれています。カルロヴィッツ条約は、高校世界史でも出てくる重要用語の一つですね。その理由は、オスマン帝国が史上初めてヨーロッパ諸国に領土を奪われた条約、だからです。ヨーロッパ世界を恐れさせたオスマン帝国の衰退は、ここから始まった、と考えられています。」
名もなきOL
「オスマン帝国はどれくらいの領土を失ったんですか?」
big5
「『世界の歴史まっぷ』さん作成のこちらの図が見やすいかと思います。(カルロヴィッツ条約以外も含まれていますが。)ざっくりみると、オーストリアはハンガリーの大部分を獲得、ヴェネツィアはダルマチア方面(バルカン半島のアドリア海沿岸部分)を獲得、ポーランドはポドリア方面を獲得しています。」

名もなきOL
「オレンジ色の部分が、カルロヴィッツ条約でオスマン帝国が失った領土ですね。けっこう広いですね!
あれ、そういえばロシアはどうなったんですか?」
big5
「ロシアは、カルロヴィッツ条約では領土のやり取りについては折り合いがつかなかったんです。だから、翌年1700年に、ロシアとオスマン帝国の2国間で結ばれたコンスタンティノープル条約で、別に講和を結んだんです。というわけで、次はトピックはその話です。次回で、長かった大トルコ戦争も最終回になります。」

8.ピョートル1世の西欧使節団とコンスタンティノープル条約

big5
「ピョートル1世がアゾフを占領した翌年の1697年の3月。ピョートル1世は約250人から成る使節団を、西欧へ派遣しました。目的は、進んでいる西欧の技術を獲得してロシアを発展させることです。」
名もなきOL
「ピョートルさんって、本当に行動が早いですね。やっぱりデキル男だわ。」
big5
「そして、この使節団にピョートル1世自身も「ピョートル・ミハイロフ」という偽名を使って参加しています。この目的は、ピョートル1世自身が西欧諸国と外交を行い、対オスマン帝国で同盟する相手国を探すため、それから表向きはピョートル1世はモスクワに滞在していることを示すためでした。」
名もなきOL
「どうして?この時は、異母兄のイヴァン5世も既に亡くなっているし、そんなに心配しなくてもいいんじゃない?」
big5
「確かにそうですが、元摂政の異母姉ソフィアはまだ健在でしたし、イヴァン5世に息子はいませんでしたが、娘はいました。なので、王座をめぐる争いは、完全に鎮静化したわけではありません。実際、出発直前に貴族5名がピョートル打倒の陰謀を企てた、ということで処刑されています。」
名もなきOL
「もしかしたら、ピョートルさんはそんな自国から少し離れたかったのかもしれないですね。」
big5
「こうして出発した使節団は、バルト海沿岸を通りながらプロイセンの古都・ケーニヒスベルクに到着して2カ月間滞在し、プロイセン王(正しくは、この時点ではまだプロイセン公)のフリードリヒとその妃のゾフィー・シャルロッテから歓迎されています。この時のピョートルの粗野なロシア人スタイルのマナーは、ゾフィー・シャルロッテを驚かせたそうです。その後、ピョートル一行は8月にオランダに入り、アムステルダムで4カ月間滞在しました。ピョートル1世のユニークさは、ここでも発揮されます。
アムステルダムでは、興味が強かった「海事」、特に造船業を視察したのですが、なんとピョートル1世自身が造船所の徒弟として、一派庶民に混じって船大工として働いたんです。当時、ピョートル1世は25歳。若手社員のようなものです。あまり違和感も無かったのではないか、と思います。下の絵は18世紀に描かれたもので、船大工に混じって働いているピョートル1世(左から2番目、のこぎりで切断されている板に左足を乗せている人)です。」

Peter in Holland.jpg
By Даниел МАКЛИЗ - http://pro100-mica.livejournal.com/80052.html#comments, パブリック・ドメイン, Link

名もなきOL
「すごく現場主義が徹底してますね。ここまでできる人は、ウチの会社にはいないなぁ・・」
big5
「これは私の予想ですが、「現場主義」に加えて、ピョートル1世自身の趣味なんじゃないか、と思います。ピョートル1世は手先が器用で、ピョートル1世手作りの椅子、食器、タバコ入れ、さらには「はしけ」が残っているそうです。だから、船大工は、彼にとっては楽しい仕事だったんじゃないか、と私は思います。
もう一つ、有名な話は「歯科治療」です。アムステルダム滞在中、当時先進的だった医療についても視察を行ったのですが、その中でピョートル1世のツボにはまったのが「抜歯術」でした。虫歯を、器具を使って引っこ抜いて治療するんですね。ピョートル1世は基本的な抜歯のテクニックを教わると、器具を買いました。そして、家臣の歯をチェックして虫歯がある人を見つけると、「私が治療してやろう。」と言って、ピョートル1世みずから自身の器具を使って虫歯を引き抜いていたそうです。この抜歯は、麻酔無しで行われていたので、家臣たちから恐れられていたそうですよ。」
名もなきOL
「それはちょっと、行き過ぎなかんじですね(苦笑)」
big5
「そうそう、ピョートル1世は身長213cmという、かなりの大男でした。当然のように力も強くて、斧やらハンマーといった重たい道具を平気で使いこなしていたそうです。ロシアの国立歴史博物館に、ピョートル1世の手形が残っています。」

Tsar peter's hand.jpg
By shakko - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

big5
「ピョートルは、オランダだけでは満足できず、さらに足をのばして1698年1月、イギリスのロンドンも訪れます。王立海軍造船所や、イギリス海軍の演習も見学しています。この時「もし私がロシアのツァーリでなければ、イギリスの海軍大将になりたい。」と言った、という証言が残っているそうです。本当に「海軍」に興味が強かったようですね。他にも、天文台や大学、イギリス議会の会議も見学しました。最終的に、数えきれないほどの道具や武器を買い、さらに約1,000人もの軍事・技術の専門家を雇って、ロシアにその技術を広めさせました。」
名もなきOL
「すごい熱意だと思います。きっと、ピョートルさん自身もかなり楽しんでいたんだと思います。」
big5
「そうですね。ただ、ヨーロッパ貴族のように洗練されていない、簡単に言えば「粗野」なピョートル一行の振舞に閉口する人々も多かったようです。ピョートルらに宿舎を提供したジョン・イーブリンは、一行が帰った後、イギリス政府に対して約350ポンドの損害賠償請求を提出したそうです。ピョートル一行は、酒を飲んで暴れるというロシア流の宴会も行っていたので、家はめちゃくちゃになってしまったそうですよ。」
名もなきOL
「ピョートルさん・・デキル男なのにもったいない(苦笑)。そういえば、外交の方はどうなったんですか?」
big5
「残念ながら、外交面は期待していた結果はありませんでした。ピョートル1世は、オランダ総督兼イギリス王であるウィリアム3世や、神聖ローマ皇帝であるハプスブルク家のレオポルト1世と会談していますが、対オスマン帝国で共同できる話は実現しませんでした。というのも、この頃の西欧諸国は「大トルコ戦争が終結した後、近いうちに再び大きな戦争が勃発する」と思われていたからです。実際、1701年に西欧諸国だけでなく、アメリカまで巻き込んだスペイン継承戦争が勃発しています。」
名もなきOL
「あらら、さすがのピョートルさんでも、上手くいかないことはあるんですね。」
big5
「そんな折、1698年7月末。ウィーン滞在中のピョートルの元に、一大事を知らせる使者が来ました。モスクワで銃兵隊が反乱を起こした、というのです。銃兵隊と言えば、少年時代のピョートルに、ロシア王家の後継者争いの醜さを示した、あの銃兵隊です。ピョートルは、予定していたヴェネツィア訪問をキャンセルして、急遽帰国しました。ところがその途中で「反乱は鎮圧された」という連絡が来たため、8月初めにポーランドに立ち寄り、ポーランド王アウグスト2世と会談します。」
名もなきOL
「力自慢同士の会談じゃないですか。でも、筋肉マンとピョートルさんだったら、ピョートルさんの方がよっぽど頼れるけど。」
big5
「そこで、ピョートル1世はロシアの方針を「対オスマン帝国」から「対スウェーデン」に変更します。つまり、ロシアの海洋進出は、黒海ではなくバルト海を目指す、ということです。ピョートル1世は、アウグスト2世と対スウェーデンで連合するという話を進めました。そして、この話は約2年後に実現されます。
さて、8月25日にモスクワに帰還したピョートルは、宮廷に戻るのではなく少年時代を過ごした外国人村を訪れ、久々に仲間達とロシア流の大宴会を催しました。愛人のアンナ・モンスと一夜を過ごしたピョートルは、翌日に宮廷に戻り、正式な「お迎えの儀」に出席したのですが、なんとその場で貴族・ストレシニェフとロモダノフスキーのアゴ髭をハサミで切り落としてしまいました。」
名もなきOL
「えぇ!?どうして突然?」
big5
「詳しくは後ほど説明します。それから、既に別居状態にあった妃のエヴドギヤを強制的に修道院に送りました。二人の間には、後継者である息子のアレクセイがいたのですが、アレクセイから見れば、母を突然奪われたことになります。」
名もなきOL
「酷い・・・。今の話で、ピョートルさんの印象は一気に悪くなりました。」
big5
「元々、ピョートルとエヴドギヤの仲はあまりよくありませんでした。改革派のピョートルと、保守派のエヴドギヤでは上手くいかないのも納得できます。そのため、海外視察の前からピョートルは離婚の意思をロシア正教の総主教に伝えていたそうです。」
名もなきOL
「そうは言ってもねぇ・・。息子さんがかわいそう。」
big5
「この件は、息子アレクセイの心に大きな影響を与えたでしょう。かつて、少年期のピョートルが銃兵隊の反乱を目にした時と同じように。そして、しばらく後に大事件が起こるのですが、それはまたの機会に。
それから、ピョートル帰国の原因となった銃兵隊反乱の後始末です。反乱の首謀者は、元摂政の異母姉・ソフィア(この時31歳)である、と疑われました。」
名もなきOL
「ソフィアって、確か修道院に送られていたんですよね?そんな状態で、反乱の指揮なんて取れるのかしら?」
big5
「本当にソフィアが反乱の首謀者だったのか、当時も不明だったそうです。ただ、ソフィアが反乱の首謀者だったとしても、違和感はないので、当時の人々もなんとなく「たぶんソフィアが首魁」と思っていたようです。ロシアの将軍・ゴードンは、銃兵隊の反乱を鎮圧すると、3000人を逮捕し、100人帳を処刑していたのですが、ピョートルはこの処置だけでは満足しませんでした。ロシアの歴史家・ボゴスロフスキーによると、ピョートルはプレオブラジェンスキー連隊に命じて、14個の拷問室で昼夜分かたず拷問を行い、ソフィアの関連を調べ上げました。9月30日に201人が処刑され、10月11日に144人、12日に199人、13日に79人、17日に109人、18日に64人、21日に3人と、合計799人が処刑されました。さらに、見せしめのために、銃兵隊の3名をソフィアが住んでいるノヴォディヴィチ修道院の前で絞首刑にしています。
結局、ソフィアの関与を示すものは何も出てきませんでした。しかし、これらの厳しい処置によって銃兵隊は完全に解体され、ロシア政権に武力で大きな影響力を持っていた銃兵隊は、完全に解体されました。これで、ピョートルの地位を脅かすものが一つ減ったわけです。」
名もなきOL
「ロシアの歴史って、怖い話が多いな・・・。。」
big5
「それでは、話を変えましょう。ピョートル1世はロシアの改革に取り掛かります。まず最初に取り組んだのは「ヒゲ刈り」です。下の絵は、18世紀に描かれた、ヒゲ刈りの風刺画です。(作者不明)」

Raskolnik.jpg
By 不明 - 不明, パブリック・ドメイン, Link

名もなきOL
「あ、この絵見たことある!けっこう印象的な絵なので。」
big5
「当時のロシアでは、男性はヒゲを伸ばすのがロシア古来からの伝統でした。それが「男らしさ」の象徴でした。貴族らはこぞって立派なヒゲを蓄えていたわけですね。しかし、ピョートル1世が見てきた西ヨーロッパ世界では、男性はヒゲを剃るのが普通。「ヒゲはロシアの遅れの象徴」と考えたピョートル1世は、貴族らにヒゲ剃りを命令しました。さらに「ヒゲ税」を作り、一般庶民でもヒゲを剃らないと税金を課す、という方法でヒゲ剃りを間接的に強制させました。」
名もなきOL
「私は、男の人のヒゲはそんなに気にならないけどな。ピョートルさん、デキル男だけど、こういう伝統慣習を止めさせるのって、かなり反発食らうんじゃないかな・・」
big5
「その通りの結果になりました。ピョートル1世は、西欧化を進めてロシアを発展させたことは事実ですが、古き良きロシアを好む保守派からは「ロシア伝統の破壊者」として嫌われていきました。この辺りの話は、またの機会に詳しく見ていきましょう。
さて、ここまで見てきたように、ピョートル1世の次の目標は「ロシアの西欧化」そして「スウェーデンとの対決」となりました。もちろん、大トルコ戦争の決着をつけるのも大切です。1699年1月26日に締結されたカルロヴィッツ条約の交渉の場には、ピョートル1世も自ら参加していました。ロシア―オスマン帝国間で、2年間休戦することは決まったのですが、バルカン半島におけるロシアの利権に関して西欧諸国と折り合いがつかず、カルロヴィッツ条約でロシア―オスマン帝国間の和平はできませんでした。そこで、ピョートル1世は、個別にオスマン帝国と和平交渉を行います。
1699年の秋、家臣のウクラインツェフをイスタンブールに派遣。軍艦でイスタンブールに乗りつけると、和平案を話し合います。主な条項は2つです。
1.先の戦いでロシアが占領したアゾフのロシアへの割譲すること。
2.ロシアの商業船舶が黒海を自由に通行させること。
当時、この2点は認められる方向で進んでいたのですが、1700年2月、味方であるデンマークとポーランドがスウェーデンに攻撃を開始。ピョートル1世は参戦の機会を失うことを心配し、ウクラインツェフに和平締結を急がせました。そこで、2番の商業船舶の黒海自由航行は取り下げ、1番のアゾフ割譲を主な内容とするコンスタンティノープル条約が7月3日に締結されました。」
名もなきOL
「大トルコ戦争が終わったと思ったら、今度はスウェーデンを相手に戦争なんですね。そういえば、西ヨーロッパも大きな戦争なんでしたっけ?戦争ばっかり。。」
big5
「例えていうと、ヨーロッパの歴史は年中戦国時代みたいなものです。ヨーロッパ諸国が自国の防衛と勢力拡大のために鎬を削って争っていたのがヨーロッパです。
さて、次のテーマです。次は、大トルコ戦争中に行われていた「大同盟戦争」を見ていきたいと思います。」


ヨーロッパの人口増加

big5
「イギリスの歴史家・J.M.ロバーツ氏はその著書『世界の歴史6』によると、18世紀になると、ヨーロッパでは様々な統計資料が残されるようになり、それ以前の時代とは比べ物にならないほどの情報を知ることができる、と述べています。その例の一つが「人口」です。ヨーロッパ史の研究者が、人口推移を知るための基礎資料としてよく利用されるのが教会の洗礼台帳で、それらを集めると、1500年時点のヨーロッパの人口は約8000万人1700年時点で約1億5000万人で、1800年には約2億人まで増えていたそうです。これに伴い、全世界の人口に占めるヨーロッパの割合も上昇しています。1700年頃は約20%、1800年頃には約25%を占めるようになりました。」
イサオン
「人口が「億」を超えるなんて、私が生きていた古代ギリシア時代と比べると、随分と人が増えたものですね〜。」
名もなきOL
「イサオンさんが生きていた時代は、何人くらいいたんですか?」
イサオン
「わからないです(キッパリ)」
名もなきOL
「え!?わからないんですか?」
イサオン
「はい、わかりません。私は「自分が知らない」ということを確かに知っています。これが「無知の知」です。」
big5
「それはソクラテスの有名な考え方ですね。それはさておき、イサオンさんが「わからない」というのも無理はありません。なぜなら、そのようなデータがおそらく存在しなかったから、です。現代では、人口に関するデータはほぼ整備されているので、おおよその人口を調べようと思えばわりと簡単に調べられますが、そうなる前の時代では、人口が何人だったか、というのは簡単なようで、とても難しい情報でした。」
高校生A
「ヨーロッパで人口が増えた理由は何なのでしょうか?」
big5
「イギリスの歴史家・J.M.ロバーツ氏の著書『世界の歴史6』によると、やはり医学知識の進歩、特に解剖学が大きかったようです。進歩を支えたのは、活字印刷術とルネサンスの画家たちです。例えば、オランダの画家で有名なレンブラント。彼は1632年に「解剖学講義」と題された絵を描いています。解剖学に関する本が、挿絵入りで数多く出版され、医療技術の進歩と普及に陰から貢献しています。それらにより、感染症を避けるために港で検疫する、などの対策も取られるようになってきました。」
日本史好きおじさん
「現代日本では少子化が社会問題となっていますが、その辺りの事情はどうだったのですかな?」
big5
「イギリスの歴史家・J.M.ロバーツ氏の著書『世界の歴史6』にこのような例が示されています。18世紀のフランスでは、農民の子どもの平均寿命は22歳。
日本史好きおじさん
「え!?いくらなんでも22歳は低すぎませんか?」
big5
「大人まで育つ確率が少なかったのが主要因みたいです。幼児期を過ぎるまで生き残るのは、なんと4人に1人、という割合だったそうです。これは、ローマ帝国時代のイタリアや1950年頃のインドの農民と同じ水準だそうです。また、現代と異なるのは、女性の平均寿命は男性よりも短かった、そうです。そのため、男性の多くは複数回結婚していたそうです。また、ヨーロッパ人男性の初婚年齢は20代後半くらいと、短い平均寿命の中で考えると遅めの結婚だったようです。」
名もなきOL
「人口が増えたといっても、まだまだそのような状況だったんですね・・・。」
日本史好きおじさん
「さらに医療技術が発展したことで、人口は爆発的に増加して今に至る、というわけですな。」
big5
「せっかくなので、国ごと、年ごとの人口情報も。オランダのアムステルダムは18世紀に約20万人、フランスの1700年頃の人口は約2100万人で、ヨーロッパ諸国で断トツのトップでした。首都のパリは1700年頃に約50万人。なお、パリの人口は1500年頃から約2倍に増えているそうです。同じく1700年頃のイギリス(イングランドとウェールズ)の人口は600万人ほどで、首都のロンドンは約70万人でした。なお、1500年頃のロンドンの人口は約12万人だったので、なんと5倍になっているわけですね。
ただ、人口爆発の大都市に比べると、地方の中小都市はまだまだ発展途上でした。1700年時点でも2万人以下の中小都市がほとんどだったそうです。参考ですが、1521年にスペインに征服されたアステカ帝国の首都・テノチティトラン(現在のメキシコ市)の人口は約30万人で、ヨーロッパのどの大都市よりも多い人口を抱えていました。
人口統計の数値データなどは、これまで歴史を考えるうえで、あまり出てこなかったのですが、今後はこのようなデータも積極的に取り入れていきたいと思います。」


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