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18世紀欧州戦乱


1683年〜1699年 大トルコ戦争(Great Turkish War)

big5
「みなさんこんにちは。管理人のbig5です。こちらのコーナーでは、『18世紀欧州戦乱』と題しまして、18世紀(1701年〜1800年)のヨーロッパを中心とした歴史を学んでいきたいと思います。」
名もなきOL
「はーい!今回もよろしくお願いします。最初の話は何ですか?」
big5
「最初にとりあげる事件は1683年の第二次ウィーン包囲から始まり、1699年のカルロヴィッツ条約で、事実上終結した大トルコ戦争です。」

1.1683年 第二次ウィーン包囲

名もなきOL
「ウィーンって、オーストリアの首都のウィーン?」
big5
「そのとおりです。当時、オーストリアを支配していたのは、ヨーロッパ屈指の名門貴族であるハプスブルク家。そして、ウィーンはハプスブルク家の本拠地です。そのハプスブルク家の本拠地が、総勢約15万ものオスマン帝国の大軍に包囲されて、陥落寸前まで追い込まれたこの事件は、「第二次ウィーン包囲」と呼ばれています。」
名もなきOL
「名門中の名門であるハプスブルク家を追い詰めるなんて、オスマン帝国は強かったんですね。」
big5
「はい、この頃のオスマン帝国はまだまだ強力な国で、ヨーロッパ諸国に恐れられていました。第二次ウィーン包囲は、オスマン帝国の「強くて恐ろしい」イメージが変わるきっかけになった歴史事件なんです。」
名もなきOL
「だから第二次ウィーン包囲は重要な歴史イベントだ、ということですね。・・・ちなみに、1683年なら18世紀じゃないんじゃ・・?」
big5
「まぁ、細かいことは置いておきましょう。第二次ウィーン包囲は18世紀のヨーロッパ情勢の重要な転換点であると同時に、18世紀前半に活躍する英雄が登場するので、外したくはなかったんですよ。それでは、詳細を見ていきましょうか。」

1−1.オスマン帝国のウィーン侵攻とウィーン救援軍の編成

big5
「さて、当時のオーストリアとオスマン帝国の関係から確認していきましょう。まず、両者の関係は随分前から「敵対関係」にありました。両者の間に挟まれているハンガリーやセルビアなどの中小国家の帰属をめぐって、しばしば戦火を交えている状況でした。」
名もなきOL
「もともと仲が悪かったんですね。」
big5
「そのとおりです。この頃、オーストリア vs オスマン帝国の争いは、オスマン帝国やや優勢、といったところでしょうか。1683年、ハンガリー有力貴族の一部がハプスブルク家に対して叛旗を翻します。反乱貴族たちは、オスマン帝国に支援を要請しました。当時、オスマン帝国の実権を握っていたのは、大宰相(だいさいしょう)であるカラ・ムスタファ(48 or 49歳)です。肖像画があります。」

Kara Mustafa Pasha.jpg
By 不明 - Wien museum. Yelkrokoyade, パブリック・ドメイン, Link

名もなきOL
「大宰相?なんとなく偉そうな名前ですけど、どんなお仕事なんですか?」
big5
「まぁ、「首相」というところでしょうか。私も詳しくはないのですが、オスマン帝国のトップである「スルタン」に任命されて、政治から外交・軍事まで、ほとんど全権を持っていたそうです。当時のオスマン帝国のスルタンは、自ら政治に関与することはあまり無かったみたいですね。」
名もなきOL
「ウチの会社の会長みたいなものかな。だいたいわかりました。」
big5
「さて、話はハンガリー反乱に戻ります。さて、カラ・ムスタファはハンガリー反乱を好機ととらえ、総勢15万人という大軍団を編成してハンガリー、そしてオーストリアに攻め込む手はずを整えました。この大軍の総司令官には、カラ・ムスタファ自身が就任します。おそらくこの時、カラ・ムスタファの頭には、偉大なスレイマン大帝も成しえなかったウィーン攻略を成し遂げ、英雄となる自分の姿を思い描いたことでしょう。」
名もなきOL
「スレイマン大帝?なんか高校の時に世界史で名前が出てきたような・・・」
big5
スレイマン大帝は、オスマン帝国の長い歴史の中でも、最も偉大なスルタンとされている人物です。第二次ウィーン包囲jからおよそ150年前の1529年、スレイマン大帝は12万の大軍でウィーンを包囲したことがあったんです。これは「第一次ウィーン包囲」と呼ばれています。なお、第一次ウィーン包囲は約1か月続いたのですが、冬が近づいたために、スレイマン大帝はやむを得ず軍を撤退させたので、失敗に終わっています。」
名もなきOL
「あぁ、カラさんの野心が見えたわ。偉大な先祖が無しえなかった偉業を自分が成し遂げることができれば、歴史に名を刻むことができる!そう思ったに違いないわ。」
big5
「きっとそうに違いありません。さて、一方のオーストリア。時のオーストリアの君主であるレオポルト1世(43歳)は、1683年7月7日にウィーンの守りを臣下に任せると、自身はウィーンを退去して、南ドイツのパッサウに移りました。」
名もなきOL
「ずるーい!部下にたいへんな仕事を押し付けて、自分は安全な場所に逃げたわけね!」
big5
「確かにそうですが、レオポルト1世はハプスブルク家の統領ですからね。レオポルト1世自身がウィーン防衛の指揮を執り、敗北して死亡したら名門中の名門ハプスブルク家は滅びてしまうかもしれません。最悪の事態に備えたんでしょうね。ちなみに、南ドイツのパッサウは、ウィーンから西に約300km。現代なら車で3,4時間で着くそうです。日本で言うと、東京から福島がだいたい300kmなので、それくらいの距離感ですね。
さて、避難したレオポルト1世は西欧諸国へ援軍を要請しました。「東からイスラムの災厄が再び訪れた。全キリスト教徒の安楽の地を守るのだ!」という感じでしょうか。ただ、この時もキリスト教国家の反応はいまひとつで、実際にレオポルト1世の救援要請に応えた主だった顔ぶれは、神聖ローマ帝国のロレーヌ公シャルル3世、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルグ3世、バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルム、そして最も重要な人物がポーランド王のヤン3世ソビエスキ(54歳)です。長いので、以後「ヤン3世」と書きます。」


ヤン3世ソビエスキ 肖像画

名もなきOL
「ヤン3世って聞いたことないんですけど。。そんなに重要な人なんですか?」
big5
「当時、国家破綻しかけていたポーランドを、なんとか立て直そうとした英傑です。特に軍事能力に長けており、数々の戦で武功を立ててきた人物です。ヤン3世は、息子のヤコプ・ルドヴィク(16歳)も連れての参戦です。
それからもう一人、今後重要になる人物が参戦しました。プリンツ・オイゲン(20歳)です。以後、単にオイゲンと書きます。後にオーストリアの名将として讃えられるオイゲンですが、当時はまだ無名の存在でした。オイゲンは軍人志望だったにも関わらず、生まれ故郷のフランスでは聖職者になることを勧められています。聖職者になる道を選びたくなかったオイゲンは、ついにフランスを去ることを決意。1683年8月レオポルト1世に謁見して、軍人として採用してくれるように頼みました。」
名もなきOL
「でも、そんな突然、就職希望出しても採用してくれるのかしら?それとも、レオポルト1世は少しでも人手が欲しいところだから、渡りに船だったのかな?」
big5
「コネが無かったわけではありません。バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルム(28歳)が、オイゲンの父方の従弟だったので、オイゲンはその伝手を使ったのだと思います。こうして、未来のオーストリアの名将は、騎兵隊の隊長として採用されることになりました。
こうしてレオポルト1世の要請に応えた援軍の総勢はポーランド軍約3万、神聖ローマ諸侯の連合軍が約4万で合計約7万。ヤン3世が救援軍の総大将となり、ウィーンに向けて出発しました。」
名もなきOL
「あら、オスマン帝国軍の15万に比べると、だいぶ心もとないですね。もっと集まるまで待った方がいいんじゃいかしら?」
big5
「そうですね。ただ、ウィーンの守備隊は約1万5000と、オスマン帝国軍の10分の1とかなり少なかったことに加え、7月13日にはオスマン帝国軍はウィーンを包囲して攻撃を開始していたので、他国の援軍が来るまで待つ余裕は無かったかもしれないですね。さて、いよいよ第二次ウィーン包囲の戦いが始まります。」

1−2.第2次ウィーン包囲の決着

big5
「7月13日からウィーン攻撃を開始したオスマン帝国軍でしたが、当時のウィーンは名門ハプスブルク家の本拠地です。最新の築城技術が使われており、堅牢な要塞となっていました。数で勝るオスマン帝国軍は攻撃を開始しますが、突破口を開くことができません。そこで、地下から穴を掘って城壁の下まで入り込み火薬で爆破して侵入口を開く、という作戦を取りましたが失敗に終わりました。」
名もなきOL
「王様がいないのに、ウィーン守備隊がんばったんですね!これなら、援軍が無くても守り切れるんじゃない?」
big5
「いやいや、さすがに援軍無しでは無理でしょう。ウィーン守備隊は奮戦しましたが、やはり数の差は圧倒的です。時間が経つと、体力的にも精神的にも疲れがでます。ウィーン陥落は時間の問題でした。」
名もなきOL
「援軍はいつ来るの?」
big5
「ウィーン攻防戦が始まって2カ月が経とうとしていた9月12日。ついに援軍がウィーンに到着します。援軍はウィーン西方のカーレンベルクという丘の上に布陣しました。当初、援軍がウィーンを包囲しているオスマン帝国軍に攻撃を仕掛けるのは翌日の13日に予定されていましたが、援軍を率いるポーランド王ヤン3世は、12日の夕方に攻撃を仕掛けることを提案します。」
名もなきOL
「時間に余裕がないのはわかるけど。。援軍に来た人たちにも旅の疲れはあるでしょうし、今日は休んで明日戦う、っていうスケジュールの方がいいと思うな。」
big5
「一般的にはそうなのですが、戦ではタイミングが非常に重要です。歴戦の名将であるヤン3世は、抜かりなく偵察を放ってオスマン帝国軍の様子を調べ上げました。その結果、以下のことがわったのです。
1.約2か月にわたる攻城戦で、オスマン帝国軍の疲労も蓄積しており、士気も下がっていること。
2.大宰相カラ・ムスタファに反抗的な態度をとっている部隊がいること(特にクリミア・タタール軍)」
名もなきOL
「1はわかるんですけど、2は何でなんですか?オスマン帝国軍は15万の大軍なんですよね?それに、総司令官に反抗的って、クビにされるんじゃないかしら?」
big5
「クビどころか、当時の軍隊であれば死刑もありえますね。まず、オスマン帝国軍15万といっても、スルタン直属のトルコ人の精鋭が15万人、ではないんです。これはオスマン帝国に限らず、いわゆる「帝国」と呼ばれていた国の軍隊に共通して言えることなのですが、帝国の軍隊には、帝国支配下にある各地から様々な人々が兵士として集められます。現代風に言えば「多国籍軍」といったところでしょうか。オスマン帝国はトルコ人の国ですが、その支配下にはトルコ人以外の人々も含まれていました。例えば、ギリシア人、バルカン半島のセルビア人などスラブ系の住民、シリア、メソポタミア地方のアラブ人、ですね。そして、今回登場したクリミア・タタール人も、トルコ人ではなく、オスマン帝国の支配下に入っていたクリミア・ハン国の人々でした。」
名もなきOL
「クリミアって、ナイチンゲールで有名なクリミア半島のクリミア?タタール人って何??質問ばっかですみません。」
big5
「クリミアはそのとおり、クリミア半島のクリミアです。当時、このあたりにはクリミア・ハン国という国があり、オスマン帝国の支配下にありました。タタール人というのは、かつて大帝国を築いたモンゴル帝国に加わった遊牧系トルコ人のことですね。チンギス・ハンから始まったモンゴル帝国は、なんと南ロシアまで領土を広げたんです。そして、この地にはモンゴル人が地元民を支配する国を作りました。このモンゴル人の国の軍事力はかなり強く、当時まだまだ弱かったロシアは戦争に敗れてモンゴル人の下に置かれることになり「タタールのくびき」と呼ばれていました。クリミア・タタール人は、このモンゴル人の子孫です。なお、この頃はオスマン帝国の支配下に入っていることから想像できるように、かつての強大な軍事力は失われていました。」
名もなきOL
「はぁぁ・・、歴史って奥が深いんですね。。」
big5
「そこが歴史の面白いところなんですよ。少しずつ知っていけばOKです。さて、話は援軍の即日攻撃の話に戻ります。こんな感じで、オスマン帝国軍は数は多くてもまとまりに欠ける、と判断したヤン3世。さらに、総司令官であるカラ・ムスタファの陣の場所まで特定します。総司令官さえ倒せば、まとまりに欠けるオスマン帝国軍が崩壊して逃げていくに違いない、とヤン3世は考えたことでしょう。ヤン3世はすぐに攻撃準備を整えました。」
名もなきOL
「ヤン3世って、「デキル男」ってかんじ。決断力があって、行動が早くて・・・」
big5
「そして情報の重要性を理解しているところ、ですね。そして、決戦の火蓋が切られます。1683年9月12日夕方、ヤン3世率いる援軍は、ウィーンを包囲しているオスマン帝国軍15万の大軍に突撃を開始。この時、ヤン3世率いるポーランド軍の主力部隊は「フサリア」と呼ばれる重装騎兵部隊でした。」
名もなきOL
「フサリア?」
big5
「中世後半から近世にかけて活躍した、ポーランド独特の重装騎兵のことです。鳥の翼のような飾りを背中に着けているので、見た目も特徴があります。日本語では、その見た目から「有翼騎兵」という訳語が使われることもありますが、ここでは「フサリア」と書きます。これについては、絵を見た方が早いですね。」



名もなきOL
「なんか鳥みたい。こんな派手な格好した兵士が本当にいたんですね。」
big5
「この絵には描かれていませんが、突撃の際には3mから4mもある長槍を構えて敵陣に突進していきます。第二次ウィーン包囲に参戦したポーランドのフサリアは3000騎ほどでした。3000騎のフサリアは、オスマン帝国軍陣地の正面を果敢に突破し、カラ・ムスタファの本営に迫ります。」

Battle of Vienna 1683 11.PNG
By 匿名 - http://www.google.pl/imgres?q=schlacht+wien+1683&um=1&hl=pl&sa=N&rlz=1C1DVCI_enPL413PL421&tbm=isch&tbnid=uVn1LwoficDOqM:&imgrefurl=http://www.flickr.com/photos/immaculata/page34/&docid=UPNKj66exvhzGM&w=500&h=294&ei=UZJwTqqMEcjP4QSNnsCzCQ&zoom=1&iact=rc&dur=261&page=1&tbnh=129&tbnw=187&start=0&ndsp=26&ved=1t:429,r:3,s:0&tx=127&ty=73&biw=1440&bih=773, パブリック・ドメイン, Link


big5
「カラ・ムスタファはなんとか逃げ延びることができましたが、フサリア隊の突撃でオスマン帝国軍は秩序を失って戦線が崩壊。兵士たちは我先にと逃げ出してしまい、逃走していきました。戦闘時間はわずか1時間ほどであったそうです。」
名もなきOL
「なんだか、意外とあっさり決着がついてしまったんですね。敵は15万人もいるんだから、もっと長い戦いを想像していました。」
big5
「大軍には大軍の弱点があるわけですね。常に大軍が勝利するわけではありません。
ちなみに、騎兵隊長として参戦したオイゲンはたいへんな活躍を見せた、と言われています。バーデン伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムの軍と共にオスマン帝国軍の陣に斬りこんで前線を突破したうえに、奴隷として拉致されるところだったキリスト教徒の捕虜の一団を救出した、と伝えられています。
ただ、この話は後になって加えられた作り話ではないか、という説もあります。オイゲンは、後にオーストリアの英雄となるので、その英雄にふさわしい、若い時の武功話が脚色されて加えられたのでは、とも言われています。ですが、オイゲンが第二次ウィーン包囲の戦いに参戦したことは事実です。」
名もなきOL
「ウィーンの戦いが終わった後はどうなったんですか?。」
big5
「まず、オスマン帝国軍の総司令官、カラ・ムスタファですが、彼はセルビアのベオグラードまで退却し、反撃の準備を整えていました。ウィーンの戦いでは敗北したものの、オスマン帝国軍はまだ十分な数が残っていたため、反撃は十分可能でした。ところが、12月25日、スルタンのメフメト4世の勅命により処刑されました。」
名もなきOL
「えぇ!?戦争に負けたからですか?」
big5
「戦闘の敗北が直接的なきっかけであることは間違いないですが、オスマン帝国内の内部抗争が主要因だったみたいですね。。この頃のオスマン帝国では内部の権力争いが激しく、大宰相といえども安心できる状況ではありませんでした。第二次ウィーン包囲の失敗は、カラ・ムスタファの政敵にとっては、彼を排除する絶好の機会だったのでしょう。」
名もなきOL
「そう聞くと、なんだかちょっと可哀そうだな、って思います。」
big5
「一方、勝利したヨーロッパ勢は、これを機にオスマン帝国領内に攻め込みました。年が明けて1684年、教皇インノケンティウス11世は、オスマン帝国に対抗する「神聖同盟」の結成を提唱。オーストリア、ポーランドに加えてヴェネツィアが加わり、しばらく後にはロシアも加わって、一斉にオスマン帝国への侵攻が始まりました。この戦争は大トルコ戦争と呼ばれています。」
名もなきOL
「意気揚々とウィーンに出陣したオスマン帝国が、今度は周囲から一斉に攻め込まれることになっちゃったんですね。厳しいなぁ・・。大トルコ戦争でも、ヤン3世は活躍したんですか?」
big5
「いえ、それが違うんです。ウィーンで勝利した時点で、ヤン3世の名声は大いに上昇しました。異教徒からキリスト教徒を守った英雄として讃えられたわけです。この流れに乗って、大トルコ戦争でもヤン3世が主導権を握ることができれば、ポーランドも大きく領土拡大ができたのでしょうけど、当時のポーランド国内はそれを許す状況にありませんでした。ヤン3世は、ポーランド国内のゴタゴタや、北西に国境を接しているロシアとの争いに巻き込まれ、さらに1691年(62歳)に心臓発作を起こして以来、宮殿で静養せざるを得なくなります。そして1696年4月17日、心臓発作で帰らぬ人となりました。」
名もなきOL
「英雄が、その後活躍できずに人生を終えるなんて・・人生って何があるかわかりませんね。」
big5
「それどころか、ポーランドはヤン3世が亡くなって数十年後に、国が消滅してしまうんです。『欧州情勢は複雑怪奇』という名言がありますが、ポーランドに関する複雑なヨーロッパ情勢も、それについては、また後ほど詳しく解説しますので、まずは大トルコ戦争の話から。大トルコ戦争は、1683年の第2次ウィーン包囲から始まって、16年続き、1699年にセルビアの都市・カルロヴィッツで締結されたカルロヴィッツ条約で最終的に決着しました。」
名もなきOL
「16年ってけっこう長いですね。」
big5
「はい、日本では知名度がないですが、中央・東ヨーロッパでは歴史の転換点となった事件となりました。カルロヴィッツ条約で最も利益を得たのはハプスブルク家のオーストリアです。オーストリアはオスマン帝国からハンガリーとトランシルヴァニアを獲得しました。ヴェネツィアは、バルカン半島のダルマチアとペロポネソス半島の西半分(モレアと呼ばれた地方)を獲得しています。」
名もなきOL
「ヴェネツィアって、イタリアの観光名所ってイメージなんですけど・・・」
big5
「ヴェネツィアって、実はけっこう前から独立都市だったんですよ。要するに一つの国家だったんです。ローマが滅んだ後、イタリア半島が一つの国としてまとまるのは、19世紀後半になってからの話なんです。」
名もなきOL
「世界史って本当に奥が深いですね。そういえば、ヤン3世のポーランドはどうなったんですか?」
big5
「ポーランドは、ウクライナの一地方であるポドリア(ポジーリャ、とも)を獲得しました。第二次ウィーン包囲以前から、オスマン帝国と奪い合いになっていた地方だったので、カルロヴィッツ条約で正式にポーランド領として確定させたわけですね。これだけです。ウィーンを救った大功を立てたのに、まったく見合っていません。なお、ロシアは、1年遅れた1700年にコンスタンティノープル条約を結んで、占領した黒海北部のアゾフを獲得しています。」
名もなきOL
「功を立てた英雄が報われない、っていのうがなんだかなぁ・・政治って難しいんですね。」
big5
「同感です。でも、それが世の中の真の姿なのかもしれませんね。ちなみに、第二次ウィーン包囲を題材にした映画がありますので紹介しますね。」

big5
「さて、続いて16年に渡る大トルコ戦争の内容を見ていきましょうか。」

2.大トルコ戦争(Great Turkish War)前半戦

big5
「教皇インノケンティウス11世の提唱で「神聖同盟」が結成され、事態は「オーストリア vs オスマン帝国」という構図から「カトリック国家 vs オスマン帝国」という構図に変わってきました。「神聖同盟」軍の総司令官に選ばれたのは、レオポルト1世の義弟にあたるロレーヌ公シャルル5世(41歳)です。」
名もなきOL
「ヤン3世ではないんですね。」
big5
「そうです。そこも重要ポイントですね。ウィーンを救った英雄は、次の主役にはならなかったんです。ヤン3世の代わりに大トルコ戦争を動かしたのは、総司令官であるシャルル5世とバイエルン選帝侯のマクシミリアン2世エマヌエル(22歳)と当時フランスから派遣されていたヴィラール(31歳)、カレンベルク侯のエルンスト・アウグスト(55歳)とその息子で、後にイギリス王ジョージ1世となるゲオルク・ルートヴィヒ(24歳)、そして後半戦はバーデン辺境伯のルートヴィヒ・ヴィルヘルムとプリンツ・オイゲンが主役になります。」
名もなきOL
「今、さらっと出てきてビックリしたんですけど、後にイギリスの王になる人が、大トルコ戦争に参加していたんですか?というかドイツ人だったんですか?」
big5
「それも重要ポイントの一つで、ヨーロッパ史の特徴の一つですね。ヨーロッパ貴族は政略結婚は当然、国際結婚は普通、といった世界なので、貴族や王族が血縁関係にあるのは普通のことなんです。ジョージ1世の場合は、親戚関係がタイミングよく機能して、ドイツ人なのにイギリス王になる、というかなり稀なケースになりました。
さて、シャルル5世が指揮した大トルコ戦争前半戦の経過を見ていきましょう。
まず、主役ともいえるオーストリア vs オスマン帝国戦線です。ロレーヌ公シャルル5世率いるオーストリア(神聖ローマ帝国)軍は、1684年にペストを占領し、1685年には現スロバキアのノイホイゼルを占領。続いて、1686年にはペストの隣のブダ(オーフェン)も占領し、ハンガリーの大半を占領下に置きました。そして、1687年に第二次モハーチの戦いでオスマン帝国軍に大勝。トランシルヴァニア方面も占領下に置きました。1688年にはバルカン半島にまで進軍し、現セルビアの首都で、当時はオスマン帝国の重要拠点であったベオグラードをも占領します。」
名もなきOL
「快進撃ですね。こないだまで、本拠地ウィーンを落とされそうになっていた人とは思えない、別人のようですね。」
big5
「続いて、脇役、といったら怒られますが、神聖同盟の他の国とオスマン帝国の戦いを見ていきます。」
名もなきOL
「そうだった。大トルコ戦争って、オーストリアとか周辺諸国がこぞってオスマン帝国を袋叩きにした戦争だったんですよね。」
big5
「まず、ヴェネツィア共和国は得意の海軍を主力とし、アドリア海を進んでバルカン半島沿岸部のオスマン帝国領、ダルマチアやボスニアと呼ばれる方面を攻撃して占領しました。さらに、1685年からはギリシアにまで進軍。1687年にはペロポネソス半島(古代ギリシアのスパルタなどがある半島)を占領しています。」
名もなきOL
「ヴェネツィア共和国には悪いんですけど、正直言って「火事場泥棒」みたいな話だと思います。第二次ウィーン包囲に参加したわけでもないのに、ここぞとばかりに領土を奪い取っていくなんて。」
big5
「悪く言えば「火事場泥棒」かもしれませんが、よく言えば「漁夫の利」であり、当時のヨーロッパキリスト教世界の大義名分では「異教徒を倒す聖戦」なわけです。なお、この戦争の最中の1687年9月26日に、ヴェネツィア共和国軍の砲撃によってアテネのパルテノン神殿が大きく破壊される、という事件が起きます。」
名もなきOL
「え!?パルテノン神殿って、世界遺産に登録されている、あのアテネのパルテノン神殿ですか?」
big5
「はい。このような経緯だったそうです。
この時、ヴェネツィア共和国軍を指揮していたフランチェスコ・モロジーニ(58歳)でした。」

FrancescoMorosini.jpg
不明 - http://www.gruppostoricomilitaresaboya3ad1636tornavento.it/Saboya3ilpredominiospagnoloinitalia.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

big5
「フランチェスコ率いるヴェネツィア共和国軍は、オスマン帝国領であったアテネ攻撃の準備を整えていました。オスマン帝国のアテネ守備隊は、パルテノン神殿を弾薬庫&女子供避難所として利用していたそうです。というのも「パルテノン神殿であれば、攻撃の対象にはならないだろう」と考えたからだそうです。ところが、ヴェネツィア軍が攻撃に用いた臼砲(大砲の一種で、弾を天高く打ち上げて、城壁越しに内部を攻撃する)がパルテノン神殿に命中し、弾薬庫が誘爆。神殿内部と南側が大きく破損したそうです。」
名もなきOL
「事故だったのか、故意に狙ったのかはわからないですけど、戦争ってやっぱり怖いですね。」
big5
「なお、フランチェスコは、その後占領したパルテノン神殿から、アテナやポセイドンの戦車を銅像を持ち出そうとして失敗し、床に落として損傷させました。歴史に残っているパルテノン神殿の略奪は、これが今のところ史上初となっているそうです。また、フランチェスコはアテネの外港ピレウスも略奪しています。この時、奪い取ったものの中でも有名なのが、今もヴェネツィア美術館に置かれている『ピレウスのライオン』像です。
そんな、フランチェスコは、翌1688年から死去する1694年まで、ヴェネツィア共和国のドージェ(総統)に就任しています。また、ヴェネツィアではこの戦争は「モレア戦争」と呼ばれているのですが、戦争の勝利を記念したコインにはフランチェスコの肖像が打刻されていますし、さらに時を経て1937年、イタリアがヴェネツィアに海軍学校『フランチェスコ・モロジーニ海軍学校』を設立しています。ヴェネツィアの歴史では、彼は勝利の英雄という扱いのようですね。」

3.ロシアの大トルコ戦争(Great Turkish War)

big5
「さて、次は大トルコ戦争に参戦したロシアの方を見てみましょう。まず、そもそもなぜロシアが参戦することになったのか、その経緯から見てみましょう。
ウィーン解放の英雄となったポーランドのヤン3世ですが、当時のポーランドにとって危険な敵国はロシアでした。ロシアは、当時ポーランドと領土争いをして一時的に占領していたウクライナ方面について、オスマン帝国と結んでポーランドと敵対しようとしたために、ヤン3世はやむを得ず譲歩。1686年5月6日に、ポーランドとロシアの間で「恒久平和条約」が結ばれました。これは、ロシアが占領中のウクライナ方面の領有を認める代わりに、ロシアは神聖同盟に加入してオスマン帝国に攻め込む、という内容でした。」
名もなきOL
「なんか、ロシアってせこいですね。ヤン3世が可哀そう。」
big5
「OLさん、わかってないですね。外交は駆引きなんですよ。嘘でもハッタリでもコケ脅しでも、いかにして相手から譲歩を引き出し、自分に有利な話を取り付けてくるか、なんです。ここが外交手腕が試されるところです。ヤン3世は「将軍」としての指揮力は確かに優れていますが、外交面は苦手だったのでしょうね。
なお、当時ロシアの政権を握っていたのは、摂政のソフィア・アレクセーエヴナ(Sophia Alekseyevna 1686年時点で29歳)とその側近ヴァーシリー・ゴリツィン(1686年時点で43歳)でした。」
名もなきOL
「ソフィア?女性ですか?」
big5
「はい、女性です。ソフィア・アレクセーエヴナ(以下「ソフィア」と記載)は、この時ロシアのツァーリ(皇帝)であったイヴァン5世(1686年時点で20歳)とピョートル1世(Pyotr 1686年時点で14歳)の異母兄弟の摂政を務めていました。実は、この時ロシアは2人の皇帝がいたんですよ。ロシアも後継者争いで内部抗争が激しく、折衷案のような形で2人皇帝体制をとっていました。」
名もなきOL
「あぁ、なんかそれだけでなんとなく想像つきますわ。」
big5
「ソフィアは二人の姉にあたり、母親はイヴァン5世と同じです。なので、ソフィアはイヴァン5世派でした。そして、そんなソフィアを公私共に支えたのが、ロシア貴族の中でも優秀で人気者だったヴァーシリー・ゴリツィン(以下「ゴリツィン」と記載)だったわけです。」
名もなきOL
「『公私共に』っていうのは、つまり・・・」
big5
「はい、2人は愛人関係にあったそうです。ソフィアは独身でしたし。作者不明、作成年代不明ですが、ソフィアの肖像画があります。」

Sophia Alekseyevna by anonim (19 c., Hermitage).jpg
By Anonymous Russian painter (1670s-1917) Public domain image (according to PD-RusEmpire) - Hermitage, パブリック・ドメイン, Link

名もなきOL
「お肌白くて、若いっていいなぁ・・・」
big5
「ちなみに、お相手のゴリツィンの肖像画もあります。こちらも作者不明、作成年代不明ですが、かなり前に描かれたようですね」

Grand galitzine.jpg
By 不明 - 不明, パブリック・ドメイン, Link

名もなきOL
「あの、43歳のヒゲオヤジなんて、どうでもいいんで。」
big5
「OLさん、歳を気にし過ぎです。ちなみにゴリツィンは、当時のロシア貴族にしては珍しく教養があり、ドイツ語、ギリシア語、ラテン語も流暢に話すことができ、西ヨーロッパ事情にも詳しかったそうです。ソフィアが自分の右腕にしたのは、その能力も理由の一つだったのでしょうね。
さて、本題に戻りましょう。こうしてソフィア&ゴリツィン体制のロシアは神聖同盟に加入すると、早速オスマン帝国に攻め込む準備を始めます。」
名もなきOL
「え!?本当にオスマン帝国に攻め込むんですか?ウクライナの領土を獲得するためのリップサービスかと思いました。」
big5
「その可能性も無くはないですが、当時のロシアの国家第一目標は「不凍港の獲得」にありましたので、オーストリアやヴェネツィア共和国に攻め立てられているオスマン帝国を、北から襲って港を奪い取るいいチャンスだ、と考えたのだと思います。」
名もなきOL
「不凍港ってそんなに重要なんですか?」
big5
「重要です。当時(今も)、国を豊かにするためには外国との貿易はたいへん重要なものでした。必要なモノを外国から輸入し、自国の特産物を輸出することは、国家経済を発展させる重要な要素だったのです。ところが、北の大国ロシアは領土は広いのに、自国の港は冬になると寒すぎて凍ってしまい、貿易が一切できなくなってしまいます。1年中、貿易している他国と比べて、これは圧倒的に不利です。そんなロシアが、この戦争で狙ったのは黒海の北の部分「アゾフ海」でした。」

Black Sea map.png
By Created by User:NormanEinstein - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link


名もなきOL
「アゾフ海って、黒海の一部なんですね。でも、アゾフ海を取れたとしても、地中海に出るまでにはイスタンブルの海峡とか越えなきゃならないし、それだけでは貿易問題は解決しないような・・・」
big5
「OLさん、鋭いですね。そのとおりです。ただ、それが問題として表面化するのは後の時代になります。
さて、神聖同盟に加入したロシアは、翌年1687年に早速アゾフ海に向けて遠征軍を送ります。指揮官は、ソフィアの愛人・・じゃなかった、右腕のゴリツィンです。」
名もなきOL
「結果はどうだったんですか?」
big5
大失敗でした。詳細はよくわからないのですが、ロシア軍が草原地帯を進軍していた時、どういうわけか火災が発生。辺り一面は焼け野原となってしまったので、馬の飼料や飲料水などの補給ができなくなり、進軍不能となって撤退する、というかなりの大失態を演じてしまいます。しかし、モスクワでは『遠征に勝利した』として、祝賀会が開催されたそうです。」
名もなきOL
「あぁ、それって事実を嘘で塗り固めるという、アブナイ方法じゃ・・・」
big5
「そうですね。この頃から、ソフィア&ゴリツィン体制が揺らぎ始めます。2年後の1689年、17歳になるピョートル1世が、ロシア貴族の娘であるエヴドギヤ・ロプーヒナ(18歳)と結婚します。ピョートル1世の妃を選んだのは、ピョートル1世の母であるナタリヤ・ナルイシキナ(38歳)です。これで、即位したときは少年だったピョートル1世も大人として扱われるようになります。そうなると、ソフィアの摂政としての地位も揺らぎ始めました。1689年2月、ゴリツィンは再びアゾフに向けて遠征に乗り出しますが、またしても大失敗。前回と同様に、途中で馬の飼料と飲料水が不足したため退却することになったうえに、今回はオスマン帝国軍に追撃されたために、多くの被害を出してモスクワに逃げ帰る、という前回以上の大失態を演じてしまいました。」
名もなきOL
「彼氏は大仕事(遠征)に大失敗、自分も異母弟の成長で摂政の地位が危うくなる・・・。ソフィアさん、ピンチですね。」
big5
「そうです。失態を続けるソフィア&ゴリツィン体制に、貴族らはだんだんと不満を強めていきます。彼らの中には『ソフィア&ゴリツィン体制は終わりにして、若者のピョートル1世に期待したほうがいいんじゃないか?』と考える者も出てきます。そして、身の危険を感じたピョートル1世は、至聖三者聖セルギイ大修道院へ一時的に避難しました。」
名もなきOL
「え?なんて読みました?その難しい名前。」
big5
「至聖(しせい)の三者(さんしゃ)、聖セルギイの大修道院で、至聖三者セルギイ大修道院、です。ちなみに、世界遺産に登録されていますよ。」

至聖三者セルギイ大修道院
By Alex Zelenko, CC 表示-継承 4.0, Link

名もなきOL
「あら、キレイな建物。1度見てみたいわね。でも、なんでピョートル1世は避難したんですか?ピョートル1世に期待する人たちが増えてきたのは、彼にとっていいことなんじゃ?」
big5
「確かにそうなのですが、この時点ではまだソフィア&ゴリツィンに勝てるほどじゃなかったんでしょうね。たぶん、ピョートル1世支持者が増えてきたことで、自分たちの身の危険を感じたソフィア&ゴリツィン派が、先にピョートル1世を亡き者にしようとする可能性は十分あります。
この緊張状態に終止符を打ったのは、アジアの大国・清でした。当時、ロシアは東方のシベリア開拓も進めていました。ロシアの勢力が中国北部まで達すると、中国の覇者となっていた大国・清とたびたび紛争が起きるようになっていました。そのため、清は本格的に軍を動かして、ロシアのシベリア勢力を駆逐しようとしました。当時の清は、全盛期にあった大国です。19世紀、欧米列強の食い物にされる将来などは微塵も感じさせない強国でした。焦ったソフィアとゴリツィンは使者を派遣して清と協議し、1689年8月、両者はネルチンスク条約を結んで国境線を確定し、貿易を行うことで合意されました。」
名もなきOL
「ネルチンスク条約の何が問題だったんですか?」
big5
ロシアは不凍港を得ることにまたしても失敗したからです。アゾフ遠征も、目標は不凍港の獲得です。ソフィア&ゴリツィン体制は、アゾフ攻略に2回失敗し、そしてシベリア開拓でも大国の清と国境確定させたことで、シベリア方面に不凍港を獲得することも失敗したわけです。ネルチンスク条約の締結により、ソフィア&ゴリツィン体制は、貴族や軍、さらにはロシア正教会の支持を失いました。こうして、ソフィアは9月に政権をピョートル1世に譲ってノヴォデヴィチ女子修道院」に隠退しました。彼氏のゴリツィンは称号と財産没収のうえ、流罪とされました。ちなみに、ソフィアが入ったノヴォデヴィチ女子修道院は、世界遺産に登録されています。」

修道院全景
By Anne-Laure PERETTI Lotusalp - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

名もなきOL
「ロシアの大トルコ戦争って、ポーランドから外交駆引きで有利な条件を引き出して、意気揚々と始めたのに、馬の食べ物不足で失敗した上に、始めた張本人たちは失脚して終わっちゃうなんて・・・人生ってわからないですね。ソフィア&ゴリツィン体制が崩壊した後、ロシアはどうなったんですか?」
big5
「しばらくお休みです。ピョートル1世も、これまでと特に変わらない生活をしていたようです。共同統治している異母兄のイヴァン5世もまだ存命でしたし。ロシアが動き出すのは、6年後の1695年になります。」

4.大同盟戦争(War of the Grand Alliance)勃発と大トルコ戦争の一時中断

名もなきOL
「大トルコ戦争って、名前に『トルコ』がついてますよね。これって、オスマン帝国のことですよね?」
big5
「そうですよ。私が子供の頃は、『オスマン・トルコ』と呼ばれることが多かったですね。最近は『オスマン帝国』と呼ぶのが多いみたいです。」
名もなきOL
「トルコであるオスマン帝国は、オーストリアやヴェネツィア共和国にやられっぱなしだったんですか?」
big5
「いえ、目立ちませんが、反撃の準備は進んでいました。さて、時は少しさかのぼって1687年。第二次モハーチの戦いでオスマン帝国は大敗北を喫しました。この責任を取る形で、時のスルタンメフメト4世(45歳)は異母弟のスレイマン2世(45歳)にスルタンの位を譲って退位しました。」

Mehmed IV by John Young.jpg
By John Young (1755-1825) - A Series of Portraits of the Emperors of Turkey Embedding web page: https://www.allposters.com/-sp/Mahomet-IV-Sultan-1648-87-from-A-Series-of-Portraits-of-the-Emperors-of-Turkey-1808-Posters_i1593223_.htm Image: http://imagecache2.allposters.com/images/pic/BRGPOD/87568~Mahomet-IV-Sultan-1648-87-from-A-Series-of-Portraits-of-the-Emperors-of-Turkey-1808-Posters.jpg, パブリック・ドメイン, Link

big5
「こちらの退位したメフメト4世は狩りが大好きで、『アブジュ(狩人の意味)』というあだ名がついていたそうです。一方、スルタンの位を譲り受けた異母弟のスレイマン2世は、敬虔で信仰深い性格だったそうです。オスマン帝国内で日常的に行われている賄賂などは大嫌いで、オスマン帝国の立て直しを図ります。」

Suleiman II by John Young.jpg
By John Young (1755-1825) - A Series of Portraits of the Emperors of Turkey Embedding web page: https://www.allposters.com/-sp/Solyman-II-Posters_i4045482_.htm Image: http://imagecache2.allposters.com/images/pic/BRGPOD/87569~Solyman-II-Posters.jpg, パブリック・ドメイン, Link

名もなきOL
「なんか、真面目で大人しそうな感じ。期待できるかも。」
big5
「敬虔な君主、スレイマン2世の元、オスマン帝国は反撃に移ります。まず、1688年、現ルーマニアの西端に位置する鉱山の町・チプロフツィで、カトリックのドイツ系住民が中心となって起こした反乱を鎮圧し、翌年1689年にはトルコの名門キョプリュリュ家のキョプリュリュ・ムスタファ・パシャ(52歳)を大宰相に任命。キョプリュリュ・ムスタファ・パシャは1690年に重要拠点であるセルビアのベオグラードを奪い返しました。」
名もなきOL
「オスマン帝国、盛り返してきましたね。でも、敵対していたオーストリアはその間何をしていたんですか?。」
big5
「1688年9月、西ヨーロッパ方面で大事件、が起きました。フランスの太陽王ルイ14世(この時50歳)が、神聖ローマ帝国諸侯の後継者争いを起こしてフランス軍を神聖ローマ帝国に侵攻させたんです。これに対し、ハプスブルク家と神聖ローマ帝国諸侯、ネーデルラント(オランダ)はアウグスブルク同盟を結成してフランスに対抗しました。この戦いは「大同盟戦争(War of Grand Alliance)」とか、「プファルツ継承戦争」、あるいは「九年戦争」ばれています。ここでは「大同盟戦争」と表記しますね。」
名もなきOL
「なんか、歴史用語に名前が複数あるのってイヤ。覚える気が無くなる。あと、ルイ14世は派手で強いイメージありますけど、ハプスブルク家だけじゃなくて、オランダとかも同時に敵に回しちゃってだいじょうぶなんですか?オスマン帝国みたいに、袋叩きになりそう。」
big5
「名前はそのうち頭に入ると思いますので、今はきにしないでください。それから、大同盟戦争におけるフランスですが、大丈夫です。ルイ14世が整えたフランス常備軍の戦力は、同盟諸国と同じくらいだったそうです。
大同盟戦争は1688年から1697年(「九年戦争」という名前は戦争期間に由来)まで続き、西ヨーロッパ全体を巻き込んだ大事件になりましたので、詳細は別の機会に。ここでは大トルコ戦争に話を戻します。というわけで、ハプスブルク家のレオポルト1世は、対フランス戦線に主力部隊を派遣しなければなりません。総司令官のロレーヌ公シャルル5世らが、トルコ戦線からフランス戦線に移動となります。後の名将・オイゲンも大同盟戦争の戦場に移動となりました。大トルコ戦争の総司令官を引き継いだのは、オイゲンの従弟であるバーデン伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルム(1688年時点で33歳)です。」

Ludwig Wilhelm Baden.jpg
By Unidentified painter - originally uploaded on de.wikipedia by Martin-D1 (トーク ・ 投稿記録) at 2004年1月18日, 11:03. Filename was Ludwig Wilhelm Baden.jpg., パブリック・ドメイン, Link

名もなきOL
「オスマン帝国の大将はキョプリュリュ・・なんとか、って名前の人になって、オーストリアの大将がルートヴィヒさんになったんですね。2人も名前が長いなぁ・・。まぁ、担当者が交代になって、もう一勝負ってかんじなのかな。」
big5
「そういうわけです。1691年8月19日、ルートヴィヒ・ヴィルヘルム率いるオーストリア軍約33,000人、キョプリュリュ・ムスタファ・パシャ率いるオスマン帝国軍約50,000人がスランカメンの地(ベオグラードの北西約60kmの地点)で激突しました。スランカメンの戦いです。」
名もなきOL
「兵力はオスマン帝国の方が多いわね。流れも、オスマン帝国にあるっぽいけど・・どちらが勝ったの?」
big5
勝ったのはオーストリアです。」
名もなきOL
「やっぱり。話の流れからして、オスマン帝国はこの先下り坂な気がしたのよね。」
big5
「OLさん、女の感が冴えてますね。
スランカメンの戦いの詳細は割愛しますが、スランカメンの戦いはかなりの激戦となり、勝利したオーストリアにも大きな被害がでました。司令官のバーデン伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムは報告書の中で
『我が軍の被害は甚大であるが、敵の被害はそれを上回るものだった。』
という内容を書いています。オーストリア軍の死傷者数は史料によってまちまちなのですが、4,000人から7,300人と、全軍の12%から23%くらい。オスマン帝国軍の死傷者数は12,000人〜25,000人と、24%〜50%。さらには、総司令官であるキョプリュリュ・ムスタファ・パシャが戦死、他にも軍の幹部が30名近く戦死しています。オーストリア軍も、戦死した軍幹部はいますが、オスマン帝国軍の被害はそれを遥かに上回っていました。」
名もなきOL
「前の大宰相のカラさんは、第二次ウィーン包囲の失敗の責任をとらされて死刑、そして同じく大宰相のキョプリュリュさんは戦死。・・・オスマン帝国、だいぶ危険なかんじがします。」
big5
「まさに、衰退の始まりを感じさせますね。
さて、大トルコ戦争はいったんここで中断となります。大敗したオスマン帝国はもちろん、勝利したオーストリアも、これに乗じてオスマン帝国内に攻め込むことはできませんでした。被害が大きかったのもありますが、敗れたオスマン帝国よりも、ルイ14世のフランスが攻め込んできた大同盟戦争の方が重要だったためです。実際、司令官のバーデン伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムも、この後、大同盟戦争に移動となりました。
こうして、しばらくの間大トルコ戦争は事実上休戦期間に入ります。」


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