カブールの台頭


1852年、サルジニア王国の首相にカブールが就任しました。この時、カブール42歳。このカブールが、実質的にイタリア統一を成し遂げた人物と言えます。カブールはピエモンテの名門貴族の子として誕生し、トリノの士官学校を卒業するものの、1831年に早くも軍役を退いています。その原因は、自由主義思想を抱いたため、と言われています。カブールは、フランスとイギリスを旅して、自由主義経済や議会制が持つメリットを確信し、まずは自身が所有する広大な領地に資本主義的大農場経営を導入した他、工業化のために銀行を設立、鉄道敷設も進めるなど、先進的な政治家としての道を歩んできました。革命に走ったマッツィーニやガリバルディとは、まったく毛色が違う人物です。1848年、サルジニア王国に議会が設立されると議員になり、国政への参加を開始しました。政策としては中道右派の立場をとり、M・アゼリオ内閣で1850年に農商工相、1851年に財務相を務めた後、中道左派のU・ラタッツィと連合して1852年の首相就任となりました。首相就任後は、産業振興策を推し進め、自由貿易のための低関税政策やイギリス・フランスとの通商拡大、金融・信用制度を充実させ、サルジニア王国の国力増大に大きく貢献しました。こうして、力をつけたサルジニア王国が、来る第2次イタリア独立戦争において、主導権を握ることになります。
一方、青年イタリアのマッツィーニは、再び武力闘争による革命を目指して、精力的に活動を続けていました。1850年、ルドリュ・ロランらとともにヨーロッパ民主中央委員会を結成する他、1853年2月にミラノで蜂起するも失敗。翌3月には「行動党」を結成。1857年には、ピサカーネが起こした南イタリアでの蜂起に呼応してジェノバで蜂起するなど、自身が信じるイタリア統一運動を続けていました。

第2次イタリア独立戦争


一方のカブールは、イタリア統一を実現させるために、外交に着手しました。彼はイタリア統一の障害となる敵国はオーストリアとし、フランスを味方につけようとしました。当時、フランスを統治していたのはナポレオン1世の甥であるナポレオン3世(フランス皇帝に即位する前はルイ・ナポレオンと名乗っていた。)です。1858年7月、カブールは、フランス北東部の温泉町であるプロンビエルでナポレオン3世と密かに会談し、サルジニア王国の対オーストリア戦にフランスが軍事協力をする、という密約を交わしました(「プロンビエルの密約(Secret Treaty of Plombiere)」)。密約の主な内容は以下のとおりです。
・サルジニア王国は、オーストリア支配下のロンバルド=ベネト王国および中部イタリア諸公国を合わせて、北イタリア王国を形成する。
・サルジニア王国は、上記の代償としてフランスにニースとサボイアを割譲する。
・サルジニア国王ビットリオ・エマヌエレ2世の娘マリア・クロチルデとナポレオン3世の従弟ジェロームの結婚を準備する。
つまり、サルジニア王国はニースとサボイアをフランスにプレゼントする代わりに、フランス軍を味方につける、という手段に出たわけです。
こうして、翌1859年4月、第2次イタリア独立戦争の火蓋が切って落とされました。国力の充実と、フランスを援軍に迎えたサルジニア王国軍は強く、また国王ビットリオ・エマヌエレ2世(当時39歳)も、自ら前線に出て指揮を執り、6月24日、北イタリアのガルダ湖南方のソルフェリーノの戦いで、オーストリア軍を破りました。なお、第1次イタリア独立戦争でサルジニアを破ったオーストリアの名将・ラデツキーは、1858年1月5日にミラノにて死去(享年92歳。ご長寿!)しており、第2次イタリア独立戦争には参戦していません。カブールの作戦は成功したかに見えました
ところが、密約を結んだはずのナポレオン3世は、この場に及んでソロバンをはじいて損得勘定を始めます。彼は、ソルフェリーノで勝ったサルジニア王国を見て、将来、自分を脅かしすのはサルジニア王国ではないか?サルジニア王国がこのままオーストリアに勝利し、さらにはイタリア全土を統一するようになったとしたら、フランスは南に強大な勢力を抱えてしまうことになってしまう。そうなったら、自分自身が伯父ナポレオン1世のようにヨーロッパに君臨するための大きな障害になってしまうのではないか。イタリアは統一されるよりも、今のように小国家が分裂していた方が、利用しやすく、征服も容易なはずだ。
そう考えたナポレオン3世は、翌月7月には、北イタリアのビラフランカにおいて、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と単独で講和し、戦争から早々に手を引いてしまいました(ビラフランカの和議(Armistice of Villafranca))。さらに、この和睦にサルジニア王国も加わるように要求してきました。当然、サルジニア王国は納得できません。ソルフェリーノで勝っただけでは、サルジニア王国が目指していたイタリアからのオーストリア排除は不完全です。さらに進軍して、オーストリア軍をイタリア駆逐しなければ、当初の目標は達成されません。サルジニア国内ではフランスに対する非難轟々でしたが、ナポレオン3世が翻意することはありませんでした。国王ビットリオ・エマヌエレ2世は、フランスの援軍無し、単独で戦争を継続することは不可能と判断し、ビラフランカの和議を追認することで、第2次イタリア独立戦争は終結となりました。この結果、サルジニア王国はロンバルディアをオーストリアから譲渡されたのみとなり、イタリアからオーストリアを排除することは未完で終わったわけです。カブールは怒り心頭に達し、これに抗議して首相を辞任しました。

そしてイタリア王国成立


辞任したカブールですが、数か月経った1860年1月、首相の座に復帰します。そしてこの年、事態は急展開を迎えました。まず3月に中部イタリアの諸公国(エミリア・ロマーニャ、トスカナ、モデナ、パルマ)で住民投票が行われた結果、サルジニア王国に併合されることが決まりました。思わぬ急展開で、イタリアにおけるサルジニア王国の勢力は急速に拡大しました。これに危機感を抱いた人物の1人が、ガリバルディ(当時53歳)でした。サルジニア王国によるイタリア統一に反対したガリバルディは、「赤シャツ千人隊」という軍を組織し、5月6日にジェノバ近くのクァルトに上陸し、シチリア遠征を敢行。9月にはナポリを占領し、一時的にガリバルディの独裁政権を樹立することに成功します。この時、ガリバルディは占領地域において「イタリアとビットリオ・エマヌエレ2世の名において」という文言で統治を行っており、この辺りの関係はかなり微妙なものだったようです。最終的には、10月にビットリオ・エマヌエレ2世自ら軍を率いてシチリアに遠征し、ガリバルディは支配していた南イタリアを献上して、自身はカプレラ島に隠遁する、という形で、サルジニア王国は南イタリアも併合することに成功しました。

こうして、第2次イタリア独立戦争は中途半端にも終ったにも関わらず、その翌年に急展開を見せて、サルジニア王国がイタリアのほとんどを併合する、という形で、イタリア統一運動は一区切りがつきました。1861年3月、イタリア王国成立宣言が行われ、さらにイタリア王国として初の議会選挙が行われました。カブールが初代首相に就任しました。
しかしカブールは、イタリア王国成立からわずか3カ月ほど後の6月6日、トリノにて急死しました。イタリア王国に残された課題の一つに、「未回収のイタリア」がありました。イタリア王国は成立したものの、北部はいまだにオーストリア領となっている他、古都ローマは教皇領のままでした。これらの、イタリアに属しながら、イタリア王国領になっていない地域が「未回収のイタリア」と呼ばれ、イタリア王国の国策は、未回収エリアを早く回収することに注がれました。
一方、共和制国家による統一を志していたマッツィーニは、サルジニア王国によるイタリア(ほぼ)統一に意気消沈し、再びロンドンに亡命しました。

その後のイタリア王国


未回収のイタリアを回収すべく、イタリア王国は活動を開始。1866年にはオーストリアからトレンティーノとイストリアを除くヴェネトを獲得し、1870年には教皇領ローマを制圧しました。時の教皇ピウス9世(78歳)は、「教皇の私に過ちはなかったかもしれぬ。しかし、私はすべてを失った。」と言い残して教皇領を出ていった、と伝えられています。ちなみに、彼の行き先が現在の教皇庁の本拠地となっているバチカン市国の始まりです。
一方、共和制国家建国の夢を棄てないマッツィーニ(この時65歳)は、この年ローマに潜入し共和制国家樹立のための蜂起を企てましたが、やはり失敗に終わり、再び亡命生活に戻りました。
翌1871年、ビットリオ・エマヌエレ2世(50歳)は、教皇が去った後のローマに王宮を移し、ローマをイタリア王国の首都としました。

ここで、本サイトでのイタリア統一運動は終幕といたします。1871年時点では、「未回収のイタリア」はチロル地方などが残っていますが、その後の話は別のテーマで扱うことになるでしょう。
最後に、「イタリア統一運動(リソルジメント)」に登場した主要人物たちを、「イタリア」と「外国勢力」に分けてその後について、簡単に紹介します。

主な登場人物のその後

ジュゼッペ・マッツィーニ (Giuseppe, Mazzini)
共和制国家によるイタリア統一を目指してきたマッツィーニでしたが、1871年、フランスのナポレオン3世がプロイセンに敗北して帝位を追われた後、市民や労働者らの蜂起によって共和制政府「パリ・コミューン」が成立しました。共和制であり、市民らの蜂起によって成立するなどの点は、まさしくマッツィーニが追求していたもののようだと思いますが、意外にもマッツィーニはパリ・コミューンには反対の立場をとりました。これに関して、ロシアの革命家M・バクーニンと論争しています。それから間もないに1872年3月10日、ピサにて死去。享年67歳。

ジュゼッペ・ガリバルディ (Giuseppe, Garibaldi)
1870年の普仏戦争に、義勇軍を率いてフランス側で参戦し、その武名を轟かせ、フランス国民議会の一員に選出されています。1874年にはイタリア議会の議員となり、1876年に引退。1882年6月2日、カプレラ島にて死去。享年75歳。

ビットリオ・エマヌエレ2世 (Vittorio, Emanuele II)
1873年、ベルリン、ウィーンを訪問し、後の三国同盟の基礎を築く。1878年1月9日、ローマにて死去。享年58歳。

フェルディナンド2世(砲撃王) (Ferdinando II)
1860年にガリバルディに両シチリア王国を奪われる前年の1859年5月22日、セカルタにて死去。享年49歳。イタリア統一運動には最後まで反対し続けたが、イギリス、フランスからも嫌われて国際的孤立を深めていった。

ナポレオン3世 (Napoleon V)
1870年の普仏戦争に敗れて退位。1873年1月9日、ロンドン近郊チズルハートにて死去。享年65歳。

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