コロンブスの発見


喜望峰発見の報にポルトガルが湧きかえる少し前。アフリカ大陸をぐるりと迂回するインド航路とは、まったく別の道を考えている男がいました。彼の名前はトスカネリ(Toscanelli, Paolo dal Pozzo)。イタリアの天文学者であり地理学者であり医者でありという、かなりの博識を持っていたトスカネリは、喜望峰が発見されるより14年前の1474年(当時トスカネリ77歳!)、ポルトガル王アフォンソ5世に喜望峰航路よりも短い東洋航路があることを進言した。これが、後にコロンブスが実証しようとしたインドへの西回り航路です。大西洋を西へ西へと進んでいけば、やがてインドに到達する、そしてそれは、アフリカ迂回航路よりも短い、というものでした。彼の説が採用されることはありませんでしたが、数年後、トスカネリは世界全図を描いてそこに西回りインド航路を記します。もちろん、当時はアメリカ大陸の存在も知られていなかったので、実際とはだいぶかけ離れた内容ではありましたが、コロンブスはこの地図が示す西回り航路を信じました。
1492年(当時コロンブス41歳?)、コロンブスはスペイン女王イサベルの支援を取り付けることに成功しました。目的は、もちろん西回り航路によるインドへの到達です。当時の探検航海は一種の博打のようなもので、大金をはたいて航海に繰り出すわけですが、たいした発見ができなかったり、途中で沈没したりなど、リスクがたいへん大きい商売でした。王家レベルの経済力が無ければ、なかなか実行できるものではありませんでした。ポルトガルではなく、スペインがコロンブスのスポンサーになった、というのも重要な点でした。海外進出に関して言えば、ポルトガルの独走状態であり、他の国は完全に出遅れていました。この頃、先行して独走するポルトガルは、喜望峰を発見してアフリカ迂回によるインド航路完成は目前まで迫っていました。今さら、得体のしれない西回り航路に投資して一か八かの勝負に出る必要は無い、と考えるのが自然でしょう。しかし、完全に出遅れているスペインにとっては、西回り航路はポルトガルに逆転する可能性を秘めた選択肢でした。トスカネリの説が正しければ、喜望峰経由よりももっと早くインドへ行ける航路が手に入るわけですから。
こうして、1492年8月、スペインの期待を背に、コロンブス探検船隊がパロスを出港しました。船隊は3隻から成り、コロンブスは「サンタ・マリア号」に、残り2隻の「ピンタ」と「ニーニャ」にはM・ピンソンとV・ピンソンの兄弟が指揮をとりました。サンタ・マリア号は全長23m、幅7.5m、約150トンであり、現代日本人から見ると、大冒険に出かけるにはずいぶん小ぶりな船、のような印象を受けます。10月7日、V・ピンソンの助言に従って、航路を変更してから数日経った10月12日、ついに彼らは未知の島を発見し、この島を「サン・サルバドル(聖なる救済者)島」と名付けました。この島は、現在のバハマ諸島の一つであるグアナハニ島です。コロンブス一行は、サン・サルバドル島はインドの西方に位置する島だと信じ、さらに西に行けば必ずインドに到達する、と信じました。また、この時の航海でコロンブスはヒスパニオラ島(現在のハイチとドミニカ共和国)を発見し、エスパニョーラ(Esoanola:スペイン語 ヒスパニオラ(Hispaniola)の名前は、これが英語化したものと考えられています)島と名付けました。ヒスパニオラ島の面積は約7万5000平方kmもある大きな島だったので、その後カリブ海におけるスペインの拠点として発展していきました。しかし、食糧やその他諸々の都合で、今回の探検航海は途中で切り上げとなり、翌1493年に一時帰国しています。なお、コロンブスの旗艦となったサンタ・マリア号はエスパニョーラ島付近で座礁してしまい、修理を諦めて放棄されました。
コロンブスは、1493年、インドを探して第2回探検航海に出発し、現在のドミニカやジャマイカを発見しますが、当然のことながらインドは発見できず、1495年に帰国。1498年に第3回探検航海に出発し、トリニダードを発見しますが、やはりインドは発見できずに1500年に帰国します。そして、コロンブスに対するスペインの期待は、この第3回探検航海で大きく下がりました。それは、第3回航海の最中に、ポルトガルのバスコ・ダ・ガマが、喜望峰経由ルートでついにインドに到達した、という大ニュースがヨーロッパに届いたからです。コロンブスは新世界への入り口を開いたものの、目的であったインドには到達できなかったため、スペインのコロンブスに対する期待は大きく低下しました。1502年には、第4回航海に出発しましたが、この時は総督の地位を外された上に、スペイン役人ともめたり先住民の反抗にあったりと、たいした成果を挙げることができないまま1504年に帰国。スペイン宮廷も、コロンブスを軽視するようになり、失意の中、1506年5月20日、55歳?でこの世を去りました。コロンブスは死の間際まで、自分が発見した新世界はアジアの一部だと信じていたそうです。
コロンブスは、目標であるインドの発見はできなかったものの、大西洋の西に未知の世界がある、ということを最初に示すという大きな業績を残しました。日本の歴史の授業で、1492年がコロンブスの新世界発見の年(ゴロ合わせ「意欲に(1492)燃えるコロンブス」)、として覚えさせるのも、このような歴史的意義に基づいたもの、と言えます。なお、コロンブスが新世界から持ち帰ったとされるものに、タバコ、トウガラシ、そして病気の梅毒が挙げられています。
なお、コロンブスには息子がいました。コロンブス・ディエゴです。1479(80?)年、マデイラ諸島のポルトサント島で誕生した彼は、父・コロンブスと共にスペインに赴き、女王イサベルの息子であるドン・フアン王子に仕えていました。1509年、父・コロンブスと女王イサベルが交わした契約に基づき、ディエゴは西インド総督に任命され、サントドミンゴ島に赴任しましたが、彼の管轄領域でについて、スペイン宮廷との間で大きなもめごととなりました。ディエゴは、新大陸全域の支配権を主張しましたが、宮廷は父・コロンブスが発見した島々に限定しようとしたためです。結局、この議論は決着がつかず、1526年2月23日に、ディエゴが47?歳で没して終了しました。

教皇子午線とトルデシリャス条約


コロンブスの大発見から、まだ間もない1493年5月4日、早くも新世界の分割についての取り決めが発表されました。教皇アレクサンデル6世はスペインとポルトガルの領有権を裁定するために、大西洋のベルデ岬諸島の西100レグア(約500km)の子午線を境に、東をポルトガル領、西をスペイン領と定めました。この境界線は「教皇子午線」と呼ばれたりします。しかし、ポルトガル王ジョアン2世が納得できなかったため、この境界線は紛争解決の手段とはなりませんでした。そもそも、なんで教皇が両国の境界線を決めるのでしょうか。その狙いは、両国の争いを仲裁し、教皇庁の権威を高めることにあったと思われます。教皇庁に介入されるぐらいなら、自分たちで決めてしまおう、ということになり、翌1494年、スペイン北西に位置するトルデシリャスで両国代表が会談し、ベルデ岬諸島の西370レグア(約1850km)の子午線を境界とすることで意見が一致。トルデシリャス条約が締結されることとなりました。

カボートの探検


コロンブスの新世界発見は、広い範囲に影響を与えましたが、その一つにカボート(Caboto, Giovanni)の北米探検があります。カボートは、1450年頃におそらくジェノバで誕生。1461年頃にベネチアに移住して1476年にベネチア市民となりました。そこで、商事会社に務めて地中海東岸を航海し、メッカにまで至りました。そんな中、コロンブスとは別個に西回りのアジア航路の存在を確信したそうです。しかし、探検航海には莫大な資金がかかるため、経済的に支援してくれるスポンサーが必要です。そこで、1495年頃までにはイングランドへ移住していることが確認されています。そこで、コロンブスの成功に刺激されたイングランド王ヘンリー7世とブリストル港の商人たちの支持を得ることに成功。1496年、息子のセバスティアノ・カボートとアジアを目指して出帆したが失敗。1497年5月、再び出帆し6月24日、北米大陸の一部を発見しました。正確な上陸地点は不明ですが、彼らはそのあたりをアジアの北東岸だと誤認していたようです。帰国してから、そのあたりをイングランド王に献じていますが、その後の展開はあまりなかったようです。さらにノバスコシア中部からケープブリトン島、ニューファンドランドの北にいたる海岸を航海し、今日のカボット海峡の諸所に命名しました。8月6日、ブリストルに帰還。のちに、日本に渡る計画を発表し、1498年に出発したが、その経緯と結果の詳細は不明となっています。アメリカに至ったのちイギリスへ帰ったとも、遭難したとも言われている。
なお、息子のセバスティアノ・カボートも、のちに航海者となり、後にアメリカ大陸の一部を探検しています。

バスコ・ダ・ガマのインド到達


1497年7月、バスコ・ダ・ガマ(38歳?)は、ポルトガル王マヌエル1世(幸運王)の命で、インド航路開拓のため、みずから指揮する「サン・ガブリエル」号をはじめ、「サン・ラファエル」「ベリオ」および補給船の4隻でリスボンを出航しました。カナリア諸島、ベルデ岬諸島を経て南大西洋を航海、喜望峰を回って1498年3月モザンビークに到着します。そこでアラブ商人の交易を見聞し、2人の水先案内人を得て、同年4月にマリンディに到着。その地で、インドのカリカットにいたるコースを知っている土地の水先案内人を得て、23日間にわたるインド洋航海ののち、5月についにインドのカリカットに到着しました。8月末、帰途につきましたが、途中で暴風に襲われ、多くの乗組員を失うという惨事を見ながらも、1499年9月リスボンに帰港。この結果、ポルトガル人は海路で直接、香辛料の原産地に到達するというヨーロッパ人の長年の夢を実現することとなりました。
ちなみに、バスコ・ダ・ガマはインドに到達したものの、香辛料を買い付けることには失敗したため、この時点ではまだ香辛料貿易は始っていませんでした。

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