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しのぎを削る列強

フィンランド大公国 自由化からロシア化へ

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「今回の主題はフィンランド大公国です。フィンランドの歴史については
中世のフィンランド
自由と革命の時代 フィンランド大公国の誕生
で見てきたとおり、ナポレオン時代にロシアの同君連合国家としてスウェーデンから切り離されて成立したフィンランド大公国は、比較的大きな自治権を認められて発展してきました。しかし、19世紀後半になり、産業構造が近代化され、欧米列強が植民地獲得競争に乗り出すようになると、フィンランドも無関係ではいられず、歴史の荒波に飲み込まれることになります。

まずはいつもどおり、年表から見ていきましょう。」


年月 フィンランド その他
1853年 (欧州)クリミア戦争 開戦
1854年 英仏艦隊がオーランド諸島を攻撃
1855年 (露)ニコライ1世死去 アレクサンドル2世即位
1856年 サイマー運河 開通 (欧州)クリミア戦争 終結
1857年 製造業における蒸気ノコギリの使用解禁
1858年 フィンランド語による中等学校が開校される
1859年 商業の規制緩和
1860年 フィンランド独自通貨の発行
1861年 (露)アレクサンドル2世が農奴解放宣言
1863年 アレクサンドル2世が半世紀ぶりに身分制議会開催
フィンランド語がスウェーデン語と同等の地位を得る
1868年 大飢饉
1881年 (露)アレクサンドル2世暗殺される
1890年 郵便宣言
1894年 (露)アレクサンドル3世死去 ニコライ2世即位
(日)日清戦争 開戦
1898年 ボブリコフがフィンランド総督に就任
1899年 ニコライ2世が二月宣言を発表
シベリウスの「フィンランディア」初演
1900年 言語宣言 ロシア語がフィンランド行政言語となる
1904年 6月17日 ボブリコフが暗殺される (日・露)2月 日露戦争 開戦
1906年 身分制議会が廃止され、普通選挙が導入される

クリミア戦争とフィンランド

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「1853年、南下政策を進めるロシアは、オスマン帝国に侵攻を開始しました。これに対し、ロシアの南下を恐れるイギリスとフランスはオスマン帝国側で参戦。イタリア統一を目指すサルデーニャ王国も、フランスの関心を得るためにオスマン帝国側で参戦したクリミア戦争が始まりました。クリミア戦争は、フィンランドではオーランド戦争とも呼ばれます。その理由は、英仏艦隊がオーランド諸島を攻撃したからです。
1854年、英仏艦隊はオーランド諸島、ボスニア湾沿岸都市やヴィアポリ要塞を攻撃し、フィンランド軍は駐留しているロシア軍と共同で防衛に当たりました。時のロシア皇帝ニコライ1世は、フィンランド軍の戦いぶりに満足したそうです。
ニコライ1世はクリミア戦争中の1855年に死去し、アレクサンドル2世(1818年〜1881年)が後継者となりました。アレクサンドル2世といえば、農奴解放宣言に代表される、自由主義改革を進めた皇帝です。フィンランドは、アレクサンドル2世のもとで、自由主義改革を進めていくことになります。」


アレクサンドル2世 撮影年:1874年5月18日 Author:Attributed to W. & D. Downey

アレクサンドル2世とフィンランド自由化

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「クリミア戦争が終結し、アレクサンドル2世のもとでフィンランドの自由化が進められることになりました。フィンランドの歴史では、この時期を「自由化の時代」として区分することが多いそうです。
フィンランドの自由化は、まず言語の面から始まりました。1858年、フィンランド語による教育を行う中等学校(8年制)が開校され、フィンランド全体に広がっていきました。これにより、フィンランド語しか使わない農民の子らも基礎教育が授けられるようになり、フィンランド民衆のナショナリズム高揚の土台となりました。
1863年には、アレクサンドル2世がほぼ半世紀ぶりとなる身分制議会を召集しました。以後、身分制議会は数年に一度のペースで召集されることになります。この年、フィンランド語はスウェーデン語と同等の地位を与えられる、とされました。1869年には議員がフィンランド大公への請願権を活用することで立法することができる、という新たな議会法が成立しました。
経済面での自由化と発展も顕著になります。フィンランドの資源と言えば、広大なスカンジナヴィアの森林資源です。スウェーデン統治時代からフィンランドで採れる木材は貴重な輸出品であり「緑の黄金」と呼ばれることもありました。産業革命が進むと、木材需要が大幅に向上します。これに応えるため、1857年に従来は禁止されていた製造業における蒸気ノコギリの使用が解禁され、木材の生産量は大幅に伸びました。森で伐採された木を川で運搬するために、製材工場の多くが河口で操業されるようになりました。1870年代頃からは、木材パルプを原料とする製紙工場も多数建設されるようになりました。
1859年に商業の大幅な規制緩和が行われました。従来は、外国商品の取り扱いは大都市でのみ認められており、地方での商売開業は厳しく規制されていたのですが、これが撤廃されました。
1860年にはフィンランドの独自通貨が発行されるようになり、1862年にはヘルシンキとハメーンリンナ間の鉄道が開通。1870年にはサンクトペテルブルクまで鉄道が繋がり、フィンランドの輸出を支える重要インフラとなりました。」

ロシア化の始まり

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「1881年にアレクサンドル2世がポーランド人に暗殺される、という事件が発生した後、ロシアのフィンランド統治は大きく方向性を変えることになりました。フィンランドのロシア化の始まりとされるのが、1890年の郵便宣言です。フィンランドの郵便制度は、スウェーデン統治時代から独自のものだったそうです。しかし、これを廃止して代わりにロシアの郵便制度をフィンランドにも導入することになりました。これにより、独自に発行していた切手も発行終了となりました。
1894年にアレクサンドル3世が死去してニコライ2世が皇帝に即位し、1898年にニコライ・ボブリコフ(1839-1904)がフィンランド総督として送り込まれると、ロシア化はさらに促進されました。1899年2月、ニコライ2世が発した二月宣言は、フィンランドのロシア化政策を進める、まさに「宣言」でした。二月宣言は、フィンランドに関係する法律はロシアで制定できる、としたものです。つまり、フィンランド議会は形だけの存在となり、事実上、ロシアの傀儡国となったようなものです。そのため、フィンランドでは数週間で52万もの宣言撤回署名が集められ、26冊の冊子になったサンクトペテルブルクに送られましたが、ニコライ2世は受け取りを拒否しました。外国でも、知識人ら(ゾラ、スペンサーなど)が反対声明を出しましたが、ニコライ2世は宣言を撤回しませんでした。


ニコライ2世 撮影年:1898年

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「1899年11月、フィンランドの音楽家として有名なシベリウスがフィンランド民族の愛国的な楽曲「フィンランディア」が演奏されました。ちょうどこの時期に世に出た「フィンランディア」は、フィンランドの愛国心を扇動している、ということで演奏禁止処分が下されました。
二月宣言以降、フィンランドのロシア化を進める政策が矢継ぎ早に出されました。1900年には言語宣言が発表され、フィンランド行政言語としてロシア語を使用することが決定され、1901年の兵役法により、フィンランド軍は廃止されて、フィンランド人民はロシア軍の一部として徴兵されることになりました。
これまでとはまったく異なる、急速なロシア化政策は当然ながらフィンランド人の多くが不満を持ちました。その結果、1904年6月、フィンランド総督ボブリコフがフィンランド人青年エウゲン・シャウマン(1875〜1904年)に暗殺される、という事件が起きています。なお、シャウマンもその場で自殺したため、シャウマンはしばらくの間ロシア化抵抗の象徴となりました。」

ニコライ・ボブリコフ 撮影年:不明 Author:A. A. Pasetti

日露戦争の影響と普通選挙制の導入

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「1904年は日本人にとっても馴染みがある年ですね。そう、日露戦争開戦の年です。当初は、欧米列強の一角であるロシアに、未開のアジアの国・日本が勝てるわけがない、と思われていましたが、意外なことにロシア軍は苦戦。ロシア国内でも物資不足が深刻になると、これまで抑圧されてきた民衆の不満が噴出し、デモやストライキが行われるようになりました。フィンランドでも、1905年10月から鉄道や工場がゼネストを行い、10月31日にはセナーッティが総辞職してロシアへの抗議を表明しました。最終的に、ニコライ2世はフィンランドの要求を呑んで、新たな議会法を認めました。これは、定員200名の一院制議会を設置し、議員の選挙はなんと当時たいへん先進的だった普通選挙で行う、というものでした。しかも、男女共に選挙権、被選挙権を認めるというものです。女性参政権、というくくりでは、イギリス植民国家のニュージーランド、オーストラリアに次ぐ3番目ですが、女性の被選挙権は世界初でした。このように、日露戦争はフィンランドにも大きな影響を与えていました。
一方、この時既に、後に発生するフィンランド内戦へとつながる事件も発生していました。白衛隊と赤衛隊の衝突です。白衛隊とは、事業家や知識人などのブルジョワ階級を主とする自警団で、赤衛隊は共産党勢力の自警団で、主に都会の労働者や地方の貧農から成っていました。1906年、ヘルシンキ近くのスヴェアボリ(現在のスオメンリンナ要塞、世界遺産)要塞島に駐屯していたロシア軍兵士が反乱を起こしたのですが、赤衛隊の一部がフィンランドにおける社会主義革命を図り、反乱軍に合流しようとしたところ、白衛隊がこれを妨害したために戦闘になった、という事件です。この事件で、白衛隊と赤衛隊の間に深い溝が生じ、後のフィンランド内戦へとつながることになりました。」


というわけで、今回はここまで。ここまで読んでいただきありがとうございました。」




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参考文献・Web site

・物語 フィンランドの歴史 北欧先進国「バルト海の乙女」の800年 中公新書 石野裕子著


・フィンランドを知るための44章 明石書店 百瀬宏・石野裕子等著