Last update:2019,Jan,30

ペルシア戦争 (Greco-Persian War)

ペルシア戦争(ギリシア=ペルシア戦争とも)は、古代ギリシアの歴史の中でも一大トピックとして取り上げられる事件です。古代ギリシアでは自主独立の精神に基づいて、それぞれのポリスが(程度の差はありますが)民主的に運営されていました。そのギリシアを征服しようと企てたのが、東方の大帝国・アケメネス朝ペルシア(以降「アケメネス朝」と略記します)でした。当時のアケメネス朝の勢力範囲は、現在のイラン・イラクなど中東地方に加えてエジプト・トルコ方面も支配している、まさに一大帝国でした。この大帝国が小さなポリスの集まりであるギリシアを征服すべく、大軍を送り込みましたが、ギリシアのポリスたちは一致団結してこの大軍に立ち向かい、そして苦戦の末に勝利を掴んで、大帝国の侵略の魔の手からギリシアを守りぬいたのです。

著作権の問題がクリアできなかったので、ちょっとわかりにくいですがこちらの地図でアケメネス朝の支配範囲を示すと
東:ウズベキスタン、トルクメニスタン、アフガニスタン、パキスタンの西部 くらいまで
西:エジプト、ヨルダン、シリア、トルコ くらいまで
北:アルメニア、アゼルバイジャン くらいまで
現在の地方名でいうと、トルコ、エジプト、中東、中央アジアの西側という、実に広大な範囲を支配下に置いていました。そんなアケメネス朝から見れば、ギリシアは「西の異民族の小国」だったことでしょう。

古代ギリシア人にとって、ペルシア戦争の勝利はかけがえのない誇りであり、自主独立の精神が帝国支配に打ち勝ったことを示した、一大イベントでした。そんなペルシア戦争の最中には、その後の歴史に名を残した多くのエピソードがあります。有名なところでは、マラソンの語源になったと言われているマラトンの戦い、少数精鋭のスパルタ軍がペルシアの大軍を相手に天然の要害で決死の防衛戦を繰り広げたテルモピュレー(テルモピュライ、とも)の戦い、従来は劣等市民扱いされていた貧民らの尽力で勝利を掴んだサラミスの海戦などがあります。

ペルシア戦争の期間については諸説いろいろとありますが、ここでは前500年から前479年をペルシア戦争の期間とします。

ペルシア戦争 前哨戦 イオニア地方の反乱

ペルシア戦争勃発の原因はいくつかありますが、一番の要因はアケメネス朝の王・ダレイオス1世(Dareios I ダリウス1世 Darius Iとも。ペルシア名はダラヤウァウシュ)の領土拡張政策にあります。ダレイオス1世は「ダレイオス大王」と呼ばれることもあり、アケメネス朝の王の中でも、特に優れた人物だと評価されています。前550年に誕生したダレイオス1世は、前522年(28歳)で即位し、国力を充実させると、ヨーロッパ方面への遠征を企画・実行していきました。この過程で、イオニア地方(エーゲ海の東岸部分、現在はトルコ領)のギリシア人植民都市は自由独立を失い、アケメネス朝に従属させられました。そんな中、イオニア地方の都市・ミレトスの僭主アリスタゴラス (Aristagoras)は前499年、アケメネス朝の支配に対して反乱を起こしました。アリスタゴラスは、もともとアケメネス朝に従属することでミレトス僭主の地位を保持していた人物でした。前500年(前499年とも)、アリスタゴラスは自らナクソス島遠征を計画し、ペルシアの援軍を得て攻撃を開始しましたが失敗。これがきっかけで、ダレイオス1世から冷遇されることになってしまいます。また、ダレイオス1世はイオニア地方のギリシア人植民都市らに軍役と納税を要求していたこともあり、それならばと、アリスタゴラスは自ら僭主の座を降りて元の民主政に戻したうえで、イオニア地方の他のギリシア人植民都市に反乱を呼び掛け、協力の約束を取り付けました。また、ギリシア本土からも援軍を求め、軍事力に定評があり隆盛を誇っていたスパルタと交渉を行いました。しかしスパルタ王から「イオニアからスーサ(アケメネス朝の首都)まではどれくらいか?」と聞かれて、正直に「3カ月」と答えたところ、「そんなに遠くまでは行けない。」と断られてしまいました。スパルタの援軍は得られませんでしたが、アテネから軍船20隻、エレトリアから軍船5隻を援軍として受け取ることに成功。イオニア地方のギリシア人都市も反乱に加わり、アケメネス朝の小アジア支配の拠点となっていたサルディスを包囲して焼き払うなど、大規模な反乱に発展しました。
前498年、アリスタゴラスはエフェソス付近でペルシア軍と戦い敗北。トラキアに逃れますが、前497年(496年とも)にトラキアにて殺害されます。反乱はアリスタゴラスの死後も続きましたが、前494年にはアケメネス朝軍がミレトスを攻略。前493年には反乱は鎮圧されました。ダレイオス1世(57歳)は、降伏したイオニア植民都市の代表者らをサルディスに招集し、植民都市間の闘争禁止、アケメネス朝への納税、アケメネス朝の宗主権を確認させ、各都市の政治体制は民主政も僭主政も認めて、一連の反乱に決着をつけました。こうして、イオニア地方のギリシア人植民都市は、再びアケメネス朝の支配下に置かれることとなりました。

イオニア諸都市の反乱が終わった後も、ダレイオス1世はギリシアに対して、アケメネス朝への服従の印である「土と水」を要求し続けますが、ギリシアは断固拒否。脅しで従わないのであれば、実力で従わせるのみ。ダレイオス1世は、ギリシア遠征軍の準備に取りかかります。

ペルシア戦争 第1期

前492年、アケメネス朝による第1回ギリシア遠征軍が出発しました。ダレイオス1世(58歳)は遠征軍の指揮官としてマルドニオス(Mardonios 生年不詳)を任命。マルドニオスはダレイオス1世の娘婿です。マルドニオス率いる遠征軍は、まずトラキアとギリシア北方の王国マケドニア(後にアレクサンドロス大王が生れるマケドニアです。この頃は、まだまだ僻地の小王国でした。)を威圧してアケメネス朝に従わせます。しかし、海軍がカルキディケ半島のアトス沖で難破。遠征は中断となりました。

<歴史暗記 ゴロ合わせ>

欲に(492)に溺れたダレイオス 遠征軍も沈没
考え方によっては、前492年をペルシア戦争開戦の年とする場合もあります。第1次遠征は、アトス岬で沈没という結果に終わりましたので、「溺れた」と掛け合わせたゴロ合わせです。

ペルシア戦争 第2期

ペルシア戦争が本格化するのは、この第2期以降になります。別の本では、これを「第1次ペルシア戦争」、としているものもあります。さて、前490年、ダレイオス1世(60歳)は600隻とも700隻とも言われている三段櫂船に2万の兵を乗せて第2回遠征軍を送り出しました。兵力についても諸説ありますが、2万5000という説もあります。この遠征軍を、サルディス長官のアルタフェルネスと、ペルシアから送った将軍ダティスの2人に率いさせました。この遠征軍の中には、元アテネ僭主のヒッピアス(70歳?)が参加していました。アテネを追放されてから20年が過ぎており、ヒッピアスも既に70歳前後。それでも、再びアテネの僭主の座に返り咲くことを願っていたのかもしれません。

ペルシア戦争 第2期 関係地図

エレトリア:名前が表示されていませんが、地図を拡大するとカルキス(Khalkis(Chalcis))の南東、海に面したところに(Eretria)が表示されます。
マラトン (Marathon):アテネの北東約20kmの地点。

ペルシア軍はまず、エーゲ海に浮かぶ島の一つ、ナクソス島を攻撃しました。ナクソスは、4年前のミレトス反乱の際に挙兵の集結地であった場所です。ペルシアの大軍に襲撃されたナクソスは防ぎきれず、住民はほとんど捕らえられました。彼らは「奴隷」とされ、アテネを滅ぼした後に全員ペルシアの首都・スーザに連行され、ペルシア王に献上されることとなったそうです。
ナクソスを占領したペルシア軍は、前490年秋、アテネから直線距離でおおよそ40kmほど北方に位置するエウボイア島に軍を進め、この島の有力ポリスであるエレトリアを攻略します。エレトリアを攻めた理由も、報復でした。ナクソスと同様に、前494年のミレトスのアリスタゴラスが主導したイオニア地方ギリシア人植民都市の反乱に、エレトリアが軍艦5隻を送って支援したことに対する報復だったようです。アケメネス朝は、エレトリアの街を徹底的に破壊し、生き残った市民らは捕虜としてペルシアに連行された、と伝えられています。対するギリシア側は、アテネが中心となってペルシア軍迎撃の準備を進めていました。しかし、この時のギリシア側は、いまひとつまとまりに欠けていました。というのも、ギリシア世界のツートップであるアテネとスパルタが、ヒッピアス追放からクレイステネスの改革に至る一連の騒動で関係がギクシャクしていたからです。アテネは、ペルシア軍はアッティカの南岸に上陸してアテネに向かってくると予想していましたが、ダティス率いるペルシア軍はヒッピアスの進言に従って、アッティカ東岸のマラトンに上陸しました(ちなみに、アルタフェルネス率いるペルシア軍は、どこにいたのかは不明です)。マラトンはアテネの北東、直線距離でおよそ20Kmほどの位置です。驚いたアテネは、スパルタに援軍を求める使者を送りましたが、スパルタの回答は
@今は大祭の最中である。
A満月以前に出陣することは禁じられている。
という、国の掟を理由にして援軍派遣を承諾したものの、すぐには出陣できないという答えでした。援軍のアテが外れたアテネは、和平交渉か決戦かで大激論になります。この激論を制したのは、前493年にストラテゴス(将軍職)の一人に就任していたミルティアデス(Miltiades 64歳?)でした。
ここで、突然登場したミルティアデス。この後しばらくアテネの主役となる人物なので、その経歴を簡単に紹介しましょう。ミルティアデスは前554年頃にアテネにて、名門フィレイダイ家に連なる富裕な家の子として生まれました。僭主政時代は、ヒッピアスの縁続きの女性を妻として、アルコンにもしばしば選出されていました。同名の叔父ミルティアデスは、トラキアのケルソネソス(現在のガリポリ半島)に植民都市を築き、そこの僭主として君臨していました。叔父亡きあとは、兄がケルソネソスの僭主となっていましたが、前516年頃(38歳?)、兄の後を継いでケルソネソスに移住しました。それから間もなく、トラキア王オロロスの娘ヘゲシピュレと恋仲になり、ヒッピアスの縁続きだったギリシア人女性とは離婚。ヘゲシピュレと結婚し、2人の間には息子キモンが誕生しました。ペルシア戦争が始まる以前、アケメネス朝ペルシアがトラキア方面に進出した時は、ダレイオス1世に臣従して、スキタイ遠征に一軍を率いて参加したりしていましたが、イオニア植民都市の反乱の際にペルシアから離反し、さらにレムノス島、イムブロス島の2島を占領してアテネに献上しています。前494年、イオニア反乱が鎮圧されると、5隻の船に財産を満載してアテネに向かいます。このうち1隻と兄のメチオコスがペルシアに捕えられますが、ミルティアデス自身はアテネにたどり着きました。ちなみに、兄メチオコスはどういうわけかペルシアの王族と結婚し、たいへん優遇されました。もしかしたら、メチオコスを優遇することで、ミルティアデスがペルシアに寝返るのでは、という思惑がダレイオス1世にあったのかもしれません。そんなこともあってか、アテネでミルティアデスは一部から敵視されました。代表格は、親ペルシア派のアルクメオニダイ家や僭主政を嫌う穏健派です。穏健派の有力者の一人、クサンティッポスは、ミルティアデスがケルソネソスで僭主をやっていたことを理由に裁判を起こしますが、ミルティアデスはギリシアの自由を掲げて戦った英雄として圧倒的な支持を受けて無罪となりました。前493年以降は毎年ストラテゴス(将軍職)に就任していました。
このように、アテネの中にもアケメネス朝の肩を持つ派閥もあったため、スパルタの援軍を待っている間にアテネ世論が二分してしまう恐れもありました。そうなる前に決戦に臨もうと決断したミルティアデスは、アテネの重装歩兵9000にプラタイアイの援軍1000を加えてマラトンへと出陣しました。

マラトンの戦い
 前490年夏。アテネ・プラタイアイ連合軍(以下、アテネ軍)がマラトン平原の背後を囲む森の端に到着した時、マラトン平原に陣取るペルシアの大軍が視界に入りました。このペルシア軍は全軍ではありませんでしたが、それでもアテネ軍よりは兵力で勝っていました。すぐに戦いが始まったわけではなく、数日間、両軍は睨み合いを続けました。アテネ軍が待っていた理由は、援軍としてやって来るスパルタ軍を待つことでしたが、いつになったら来るのかは不明です。ここで待っているうちに、ペルシア軍の別動隊がアテネを襲ったら、守備隊がほとんど残っていないアテネは、あっという間に陥落してしまうことでしょう。アテネが襲われなかったとしても、ペルシア軍別動隊が目前のペルシア軍と合流すれば、戦力差はさらに拡大し、ますます勝ち目が見えなくなってしまいます。ミルティアデスは攻撃を決意しました。
 この時アテネ軍は、民主国家らしく、10人のストラテゴスらに率いられていました。ストラテゴスのリーダー格はカリマコスだったので、名目上の総大将はカリマコスと言えるのですが、実質的にはミルティアデスが総大将でした。ヘロドトスの「歴史」によると、この時、アテネ軍の総司令官は当番制。10人のストラテゴスが順番で、1日ごとに総司令官を務めていました。日直みたいなものですね。かねてよりペルシアとの交戦を主張してたストラテゴスは自分の当番の日が来ると、ミルティアデスに指揮権を譲っていたそうです。ミルティアデスは、ケルソネソス時代にペルシアの遠征軍に従軍させられていたこともあり、「敵をよく知っている」ことがその理由だったようです。ただ、ミルティアデスも遠慮があったのか、自分自身の当番日が来るまでは戦端を開こうとしませんでした。
 ちなみにこの時、他のストラテゴスが誰だったのか、は不明です。ヘロドトスの「歴史」は全員の名前は記載していません。ミルティアデスとカリマコス以外では、「トラシュラオスの子ステシラオス」という名前が挙げられているだけです。塩野七生氏はその著書「ギリシア人の物語」で、後に活躍する「正直者」のアリステイデスや、次のアテネの主役となるテミストクレスも従軍していたので、おそらく彼らはストラテゴスの一員だったのではないか、と考えています。
 さて、続いて軍の配置について。ヘロドトスの「歴史」によると、ペルシア軍は自軍の中央に主力のペルシア人とサカイ人の部隊を配置していました。左右両翼は比較的手薄にしていたようです。つまり、中央突破を狙う陣形を取っていました。また、軍船は上陸してた東の海岸に並べて置いておきました。対するアテネ軍は、自軍戦線の中央部分を手薄にする代わりに、左右両翼に主力部隊を配置しました。この配置の狙いは
手薄な中央に敵軍が殺到する⇒左右両翼の主力部隊が、中央に殺到した敵軍の側面、背面に回り込んで包囲殲滅
でしょう。ただ、数で劣るギリシア軍がペルシア軍を包囲するのは無理がある気もします(ヘロドトスは、ペルシア軍の兵力を2万6000と記録しています)。ヘロドトスの「歴史」によると、右翼を指揮するのはカリマコス。古代アテネでは、総大将が右翼を指揮するのが慣例だったそうです。右翼は海に面していたため、包囲作戦が成功した際には、敗走するペルシア兵が船に乗って逃げるのを阻止する役目も期待されました。左翼を指揮するのがミルティアデスです。敵右翼を撃破するのは当然で、その後、不利な中央を助けるために数で勝る敵を包囲するという、こちらも厳しい役目が期待されています。手薄な中央は、アリステイデスやテミストクレスらが指揮を執りました。ただでさえ手薄な上に、敵の主力部隊を引き受けてその攻撃に耐えきらなければならない、というこれまた厳しい役目が課せられています。なお、援軍のプラタイアイ軍は最左翼に配置された、とヘロドトスの「歴史」は記録しています。
 夜明けとともに、アテネ軍は前進を開始。両軍の距離は1400m(ヘロドトスの「歴史」によると8スタディオンの距離)ほどだったそうです。ペルシア弓兵の有効射程である約200mまでは歩いて進み、矢の射程距離に入ったところで駆け足に。重装歩兵が持つホプロン(大きな円形の盾)で矢を防ぎ、一気に敵に肉薄して白兵戦に持ち込む、という戦術を取りました。というのも、歩兵の装備を考えるとアテネ軍の方が接近戦では有利だったから、だそうです。装備の点で両軍を比較してみましょう。ペルシア歩兵の槍の長さは2m弱ですが、アテネ重装歩兵の槍はその約2倍の4m弱。剣も、ペルシア歩兵は40cmほどですが、アテネ重装歩兵は約2倍の80cmほど。さらに、アテネ重装歩兵は「重装」の名の通り、鎧を着て兜をかぶり、左手には木製盾の表面に金属をはった大きな円盾(ホプロン)を装備していますが、ペルシア歩兵は簡単な鎧しか着ていなかったそうです。そして、アテネ重装歩兵の特徴的な戦術である「ファランクス」は、正面切っての戦いではかなり強い戦法でした。
 ヘロドトスの「歴史」によると、戦闘経過については以下のようになっています。アテネ軍は、駆け足でペルシ軍に接近し、一気に白兵戦に持ち込みました。ヘロドトスの「歴史」では『実際われわれの知る限り、駆け足で敵に攻撃を試みたのはアテネ人をもって嚆矢とし、またペルシア風の服装やその服装をつけた人間を見てたじろがなかったのもアテネ人が最初であった。』と記載しており、重装歩兵が駆け足で敵陣に切り込むというのは、当時の常識からしても珍しいことだったようです。
 さて、中央に主力を置いたペルシア軍は中央では優勢に戦い、アテネ軍を内陸に追い込みましたが、両翼はアテネ軍が勝利を収めました。アテネ軍は、敗走するペルシア軍は無視して中央のペルシア軍を攻撃。この結果、中央のペルシア軍も敗れ、ペルシア軍は敗走しました。
 ヘロドトスが「歴史」の中で著述した戦闘経過は以上ですが、ここだけ読むといくつか疑問点が残ります。まず、ペルシア軍の弓兵・騎兵は強いという評判がありましたが、まったく登場していません。登場させるほどの活躍ができなかったのでしょうか。
 ヘロドトスの「歴史」によると、アテネ軍の戦死者は192名、ペルシア軍は6400名、アテネ軍が捕獲したペルシアの船7隻となっていますが、この数値はそのまま信用することは難しいと思います。この数値が正しいとなると、アテネ軍の戦死率は総勢1万人に対して192人なので、1.92%。一方のペルシア軍は総勢2万6000に対して6400名となると、戦死率24.6%となります。ペルシア軍の戦死者はギリシア軍の33.3倍です。いくら大勝したとはいえ、これほどの大差にはならないのではないか、と管理人は考えています。なお、アテネ軍戦死者192名の中で、ヘロドトスが名前を残しているのは
・右翼の総司令官であったカリマコス
・ストラテゴスであったトラシュラオスの子ステシラオス
・エウポリオンの子キュネゲイロス(悲劇作家アイスキュロスの兄弟。敵船の船尾飾りに手をかけたところを、戦斧で片腕を切り落とされ、そのまま死亡)
となっています。
 マラトンの勝利はギリシア人に自信と誇りを与えました。悲劇作家として有名なアイスキュロス(Aischylos 35歳前後)は重装歩兵としてマラトンの戦いに参加しています、アイスキュロスはこの後の戦いにも従軍しており、この時の体験が彼の著作にも影響を与えていると考えられています。
 また、アテネはマラトンの戦いでプラタイアイが援軍として参戦したことにも感謝を表明しました。ヘロドトスの「歴史」によると、5年ごとに開かれる祭礼(いくつかある祭礼のうち、パンアテネ祭だろうと考えられている)で、アテネの触れ役が「アテネ同様にプラタイアイにも幸あらしめたまえ」というセリフを言うようになりました。

<マラソンの起源?>
 現代のスポーツ、42.195kmを走る「マラソン」は、このマラトンの戦いのエピソードが起源になっている、と言われています。マラトンでの戦勝を知らせるために、一人の兵士がアテネまでの道のり約40kmを走破し、人々にアテネの勝利を伝えて息絶えた、というエピソードです。この話は、ローマ時代のギリシア人歴史家・プルタルコスの著作に由来しています。プルタルコスによると、Eukles(エウクレス)という名の兵士が完全武装のままマラトンからアテネまで走り、ギリシア勝利の報を告げた後に息絶えた、となっています。これが、マラソンの起源となったエピソードです。しかし、この話が真実かどうかはわからない、と考えられています。なぜかというと、このエピソードは後世になってから創作された、と考えられている他、使者の名前についてはPhilippides(フィリッピデス)、とする伝承も存在しているそうです。そもそも、プルタルコスが生きたのは西暦48年頃から127年なので、マラトンの戦いからおよそ600年近く経ってから、この話が書かれたことになります。当然、プルタルコスは何か別の歴史書などの史料を見て、このエピソードを書いたわけです。
 もう一つのポイントは、ヘロドトスの『歴史』です。ヘロドトスの「歴史」には、マラトンーアテネ間を走った使者に関する記述がない。というのが、プルタルコスのエピソードが創作なのではないか、という意見の根拠の一つになっています。さらに、ヘロドトスの『歴史』では、Pheidippides(フェディッピデス)という俊足の伝令が、アテネからスパルタへの246kmを走ったというエピソードが書いてあることもポイントです。マラトンーアテネ間については、一切記述がないのに、アテネースパルタ間を走った使者の話が書いてある、というのは何だか不思議な話です。

マラトンの戦いで敗北し、船まで何とか帰り着いたペルシア軍は、南下してスニオン岬を回り、南からアテネを攻撃しようとしましたが、ミルティアデス率いるギリシア軍はすぐにアテネまで引き返したため、攻撃継続を断念して退却していきました。アテネではこの戦いの勝利が盛大に祝われ、戦勝記念として、アゴラのストア(柱廊)にマラトンの戦いの壁画を描き、さらにデルフォイ神殿の参道に「宝庫」を建設しました。ちなみに、現在デルフォイには、この時の「宝庫」が再建されています。
また、詩人シモニデス(66歳?)は、マラトンの戦いにで戦死した戦士の墓碑銘を書いた他、ギリシア軍の数々の勲功を讃える詩を作っています。
なお、スパルタは満月の日に援軍を出陣させましたが、到着した時には既に決着はついていました。意外なことに、最強戦士スパルタはマラトンの戦いでは出番無しだったんですね。彼らの活躍は、第2ラウンドまで待つことになります。


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