ペルシア戦争のクライマックスはマラトンの戦いから10年後に再開される第3期になりますが、そこに至るまでの10年間にいくつかの事件が起きていますので、まずはそこから見ていきましょう。
まず、マラトンの勝利で一躍ヒーローとなったミルティアデス。当然のように、翌年のストラテゴスに再選されました。ミルティアデス自身も、人生の絶頂期を感じていたのではないか、と思います。都市が変わって前489年。ミルティアデスは、市民集会にパロス島(エーゲ海南部、キクラデス諸島中部の島 パロス島は大理石から成っており、産出される石材は「パロス大理石」と呼ばれ貴重だった。)遠征を提案し「私が指揮をとればパロスは落とせる」と自信を持って演説し、アテネ市民を納得させました。パロス島は、エーゲ海に浮かぶ島の一つで、ペルシアに降伏して属国になっていたポリスです。ペルシア遠征軍を撃破した今、ペルシアに降伏したポリスを攻撃するにはいい機会でした。
しかし、この遠征はろくな成果も挙げられず失敗しました。ミルティアデスはパロスを攻撃する前に「100タレント支払えば、許す」と降伏勧告を行ったのですが、100タレントはかなりの大金です。どれくらいの金額かというと
1タレント=6000ドラクマ 職人の1か月の稼ぎ=15ドラクマ 1年なら180ドラクマ
なので、職人が6000ドラクマ稼ぐには約33年
つまり、職人100人がほぼ一生かけて稼ぐ生涯収入と同じくらいになります。現代日本で、平均的なサラリーマンが生涯に稼ぐお金を2億円として考えると、サラリーマン100人の生涯収入は約200億円。なので、ミルティアデスは、パロスに降伏の対価として200億円要求した、というかんじでしょうか。やはり高いですね。
失敗したと言っても、人的損失は少なかったようです。ミルティアデス自身は、足に矢を受けて重傷を負ってしまいました。パロス攻撃が始まったのは8月でしたが、攻略はまったく進みませんでした。降伏勧告を行ってから26日後、冬になってエーゲ海が荒れる前に帰国する、という話になり、アテネ軍は引き上げていきました。そんな失敗した英雄・ミルティアデスを待っていたのは、怒りに満ち溢れたアテネ市民達です。彼らは「ミルティアデスに欺かれた」と激怒し、ミルティアデスは裁判にかけられました。結果は、ミルティアデスの有罪。50タレントの罰金刑が科せられました。先ほどの試算で考えると、100億円ですね。とても払える金額ではありません。ミルティアデスは、その後間もなく死去しました(享年65歳?)。ちなみに、罰金は息子のキモンが後になって分割払いで支払っています。
<管理人 感想>
ミルティアデスが処罰されてしまうところを見ると、この時期のアテネの民主政はまだまだ「市民の感情」によるところが大きいと思います。詳しい経緯を完全に把握していないので断言できませんが、ミルティアデスの遠征計画をアテネ民会が承認した以上、その結果はアテネ民会が責任を持って受け入れるべきです。「欺かれた」というのは、確かにそのような側面はあったのかもませんが、欺かれてしまった政府(この場合は民会)がまったく無過失無責任というのはありえません。遠征の失敗をミルティアデスに全てなすりつけ、自分の保身を図った有力政治家が多くいたのではないかと思います。これは、古今東西共通の原理なのかもしれません。
地図右下の"Paros"という都市がある島がパロス島。面積は194平方km。パロス大理石と呼ばれる彫像用の白色大理石を輸出して繁栄しました。 |
一方、ペルシアでも大きな変化がありました。前486年、ダレイオス1世がエジプトで起きた反乱の鎮圧の最中に陣中で死去したのです(享年64歳)。マラトンでの敗北は、単なる局地的な戦闘での敗北ではすまされず、各地で被支配民族の反乱を招くことになりました。後継者となったのは、息子のクセルクセス1世(Xerxes I 33歳?)です。「大王」とも呼ばれたダレイオス1世に対して、クセルクセス1世の評判はあまり芳しくありません。クセルクセス1世の治世から、アケメネス朝の衰退が始まった、と歴史家たちは記述しています。広大なアケメネス朝の領土には、それぞれ独自の文化や宗教を持った様々な民族が暮らしていました。ダレイオス1世やそれ以前のアケメネス朝の王たちは、異民族に対して寛容的な政策を取っていました。広大なアケメネス朝が、(しばしば反乱が発生していたとはいえ)大帝国として君臨できたのは、領域内の各民族の多様性を受け入れていたから、と考えられています。しかし、クセルクセス1世は寛容的な政策を棄て、異民族に対するペルシア人の支配という構造を強化するようになりました。
その一方、アテネの政界は対ペルシア政策で2つの派閥に分かれていました。1つは、ペルシアとは外交で問題を解決しようという派閥で、主なメンバーは「正直者」のアリステイデスやクサンティッポス(後にアテネのリーダーとなるペリクレスの父)らです。もう1つは、ペルシアとは外交で解決することは不可能なので、次の襲来に備えて軍備を整えるべき、と主張する派閥で、主なメンバーはテミストクレスでした。ここから先、ギリシア世界の主役はこのテミストクレスになります。
「ペルシアの逆襲に備えるべき!」と主張するテミストクレスが具体的に提案したいたのは「海軍増強」でした。ところが、この案は当初、ほとんど支持を得られなかったそうです。というのも、海軍力で有名な古代アテネですが、実はこの時点のアテネの海軍力は微々たるものでした。この時点で最も海軍力が強かったのはコリントで、約100隻弱の軍船を保有していました。2位はサラミス島の南の島アエギーナで、アテネは5位か6位程度、といった位置づけでした。そのため、テミストクレスの主張する海軍増強策は、当時のアテネ市民にとっては現実感が湧かない話だったようです。それに加えて、ペルシアが反乱鎮圧にかかりきりになっている時は、テミストクレスのペルシア逆襲論よりも、アリステイデスらが考える外交解決策の方が、より現実的な政策として評価されていました。そこで、テミストクレスは計を考えます。
テミストクレスが考えた計は、政敵を陶片追放制度を使って追放する、というものでした。元々は、僭主の台頭を防ぐ目的で創設された陶片追放制度ですが、この時から政敵を失脚させる道具として利用されることになります。前487年、名門アルクメオニデス一門のヒッパルコスを、前486年にはメガクレスを国外追放させました。しかし、追放されたこの2人よりもより強力な政敵は、クサンティッポスとアリステイデスです。彼らは、陶片追放で追放できるほど弱い相手ではありませんでした。そんな時、転機が訪れます。
前485年、アテネとアイギナ(先ほど登場した海軍力ナンバー2のポリス)の間で戦争が始まりました。アイギナは、アテネと異なり、ペルシアの要求を受け入れて属国となっていたのです。この戦争で、アテネ軍を指揮したのはクサンティッポスでしたが、アイギナは海軍力ナンバー2ということもあり、アテネ軍は苦戦を強いられていました。テミストクレスはこれを利用しました。前484年、テミストクレスはアイギナ戦での不手際を理由としてクサンティッポスを告発し、陶片追放で国外追放をすることに成功しました。これで、残る政敵は「正直者」のアリステイデスだけとなります。
前482年、状況が変化し始めます。まずペルシアでは、クセルクセス1世がエジプトの反乱を鎮圧し、ようやく国内を安定させることに成功しました。そしてそれは、ペルシアが前回の敗北の恥を雪ぐためにギリシア遠征をに出陣できることを意味しています。一方ギリシアでは、この年(前483とも)、アテネ領内のラウレイオン(ラウリオン、とも)銀山に新しい鉱脈が発見された、というニュースが舞い込みました。これは、新しい銀山が発見されたというわけではありません。ラウレイオン銀山は以前から銀が採掘されており、ペイシストラトスの時代から銀採掘が奨励されていました。時と共に採鉱技術が進歩した結果、豊富な鉱床が発見されました。これは、銀の採掘量がさらに増大することを意味しており、アテネ市民達は狂喜しました。なぜかというと、採掘によって得られた利益は市民達に配分される、という慣習があったからです。テミストクレスは、この利益を海軍力増強に使うべきだ、と以前からの主張を繰り返しました。この頃は、ペルシアがギリシアへの復讐戦を企てている、という話は一般にも広まっており、テミストクレスの説は説得力があったようです。一方、政敵の「正直者」アリステイデスは、慣習に則ってアテネ市民で配分すべき、と主張しました。テミストクレスは、ここで再び陶片追放制度を利用します。どちらの意見を採用するか、民会ではなく陶片追放制度でアテネ市民に選択させたわけです。結果、アリステイデスの追放が決まりました。民会でもテミストクレスの海軍増強案は承認されます。こうして、テミストクレスが唱えていた海軍増強論は現実のものとなり、アテネは常時200隻の三段櫂船を動員できる、ギリシアナンバー1の海軍国家にのし上がることになりました。
※三段櫂船(トリエレス)
三段櫂船は、当時のギリシア世界で主力となる戦艦でした。「三段」とは櫂(オール)が船の両サイドに三段構えで配置されていることに由来しています。三段櫂船はコリント人によって考案され、紀元前7世紀から6世紀にかけて、貿易船を護衛するために発達してきた歴史を持っています。
当時の船のメイン動力は「櫂(オール)」でした。船のスピードを上げるために採用された方法が「オールの数を増やす」ことだったのです。オールを両サイドに三段構えで配置したのは、当時の船の構造と重量バランスを考慮して、最も効率的に配置した結果だと考えられています。古代ギリシアでは海戦も多く、海戦の勝敗を握るカギとなったのは、船の操船技術でした。いかに正確に素早く船を操るかが、とても重要な要素だったのです。一般的な三段櫂船の場合、よく訓練された漕ぎ手が200人乗り込めば最高速度は10kmになったそうです。そうして船を巧みに操り、船首に取りつけられた衝角(ラム)を敵船の横っ腹に激突させて、穴をあけて沈没させるというのが当時の一般的な戦術でした。
ちなみに、ローマ時代のギリシア人歴史家として有名なプルタルコスは、その著書「列伝」で、アリステイデスの陶片追放の際のエピソードとしてこんな話を載せています。
『アリステイデスの陶片追放の投票場で、アリステイデスは一人の男に「これにアリステイデスと書いてくれませんか?私は字が書けないので」と頼まれた。その男は、頼んだ相手がアリステイデス本人だとは知らなかった。アリステイデスはその男に、アリステイデスはどんな悪いことをしたのか?と聞いたところ、男は「私はアリステイデスの顔も知らないのですが、あちこちでアリステイデスは正直な正義の人だ、という話を何度も聞かされてすっかり嫌になってしまって」と答えた。アリステイデスは、何も言わずに自分の名前を書いてその男に渡してやった。』
アリステイデスは、アテネの名門アルクメオニデス一門に属すエリート階級でしたが、アリステイデス自身は貧しい身で一生を全うした人で、富を独占する、ということが無い人でした。そのため、当時のアテネ人も歴史家プルタルコスも、アリステイデスを公正な人物として高く評価しています。そんな彼でも、国外追放にできる制度が陶片追放制度だったわけです
前481年、テミストクレスはペルシア襲来にそなえてもう一つの制度を提案しました。「ストラテゴス・アウトクラトール(Strategos autokratour)」の役職です。ストラテゴス・アウトクラトールは、10人いるストラテゴスの中の代表者で、戦争の際には総司令官となって残り9人のストラテゴスを指揮下に置く役職でした。指揮系統の一本化を図ったわけです。この提案は民会で承認され、同時にテミストクレスが翌年(前480年)のストラテゴス・アウトクラトールに就任することが決まりました。
前481年の秋〜冬、ペルシアの再襲来は不可避となったこと受け、ギリシアのポリス代表者らがペロポネソス半島の入り口であるイスミアに集結して会合を開きました。これは史上初の「ギリシア会議」でした。アテネからはテミストクレス、スパルタからは2人の王(そのうち一人は有名なレオニダス)が、その他有力ポリスのテーベ、コリント、そしてペルシアに従っているアエギーナの代表も出席していました。とりえあず、全会一致で決まったことは「ペルシア軍を撃退するまで、すべてのポリス間抗争は停戦」ということでした。強大な外国ペルシア軍が攻めてきているのに、ポリス同士が仲間割れして抗争していては、勝てる見込みはまったく無いでしょう。全会一致で決まるのもうなずける話です。これにより、アテネと抗争中だったアエギーナもペルシアの支配から離脱し、ギリシア側で参戦することが決まりました。しかし、各ポリスが集まるギリシア連合軍を誰が率いるのか、についてはかなりもめたそうです。陸軍については、陸軍最強を自他ともに認めるスパルタが総大将の地位を要求し、各ポリスもそれを認めたのですが、海軍についてはナンバー1になったアテネのテミストクレスが立候補したのに対し、海軍ナンバー2のコリントが絶対反対の立場を取りました。これには、おそらくやっかみもあったと思われます。困ったテミストクレスは、一計を考えます。テミストクレスの海軍総大将就任に反対を続けるコリントをどう納得させるか。テミストクレスは、スパルタ代表のエウリビアデス別席で話をして、海軍の総大将も引き受けてくれるように依頼しました。それを会議の席に持って帰り、コリントもスパルタが総大将になるのならば、と同意しました。一見、テミストクレスが譲り、コリントの主張が通ったように見えます。しかしその後、テミストクレスは再びエウリビアデスと会談し、アテネ海軍の指揮はテミストクレスが取る、という一条項を会議の決定事項に盛り込むことを提案したのです。陸軍では最強のスパルタですが、海軍は完全に素人でした。会議の成り行きで総大将を引き受けたものの、実戦的な指揮が取れるかどうか、不安だったのでしょう。エウリビアデスはこれを受けいれました。ギリシア海軍の約3分の2はアテネの船なので、その指揮官がテミストクレスということは、実質的な総大将はテミストクレスということになります。これを知ったコリントは再び抗議しましたが、彼らにできたのは、コリント海軍40隻の指揮官は、コリント人のアディマントスとする、と追加で認めさせたことぐらいでした。
こうして、ペルシア軍を迎え撃つギリシアの諸ポリス連合軍の陣容が決まりました。まず、陸軍は総兵力約1万(内訳は、スパルタ:300人 ペロポネソス同盟:3,400人 テスピアイ:700人 テーベ:400人、フォチュア:1,000人、トラキアからの難民:1,000人、その他各ポリスの兵:3,200人)で、総大将はスパルタ王のレオニダス。海軍は、三段櫂船324隻(内訳はアテネ:200隻 コリント:40隻 メガラ:20隻 アエギーナ:18隻 シクロン:12隻 スパルタ:10隻 エピダウロス:8隻 エレトリア:7隻 トロイゼン:5隻 スティラ:2隻 ケオス:2隻(ただし小型) これらのうち9隻は小型ガレーなので、三段櫂船は315隻)、総大将はエウリビアデス、アテネ軍船の指揮官はテミストクレス、コリント軍船の指揮官はアディマントス。ペルシア軍を迎え撃つのは、中部ギリシアの天然の要害テルモピュレーとそれに連なるアルテミシオン沖と決定しました。ペルシアの大軍を迎え撃つにしては陸軍の数が少ないのでは?と思われるかもしれませんが、これは間違いではなく理由があります。前480年はオリンピック開催の都市であるため、どのポリスも大軍を編成することができなかったんです。現代日本人の感覚からすると、ビックリな優先順位なのですが、古代ギリシア人にとっては当然の結果だったのかもしれません。また、スパルタに限定していえば、スパルタでは独自の祭典カルネイア祭があったこともあり、さらに戦争に送り込める人数が減っていました。さらに付け加えると、そもそもスパルタは同じギリシア内でもペロポネソス半島の外の話にはほとんど動かない、という習慣があったこともあります。
ヘロドトスは著書『歴史』の中で、この頃に起きたエピソードを一つ記述しています。クセルクセスがギリシア遠征を決定した時、ペルシアには元スパルタ王であったデマラトスがいました。彼は祖国であるスパルタを憎んでいたのですが、その一方で憎み切れないところもあったため、何とかしてペルシアのギリシア遠征計画を祖国に伝えようとしました。しかし、そのような機密事項を自分がスパルタに伝えた、ということがバレれば命はありません。そこで、デマラトスは一計を案じました。二重にすることができる書板を用意し、下の書板にペルシアがギリシア遠征を決定したことを書くと、その上に蝋を塗って隠したうえに、上の書板をかぶせて、差し障りのない内容を書いて、検閲されたとしても気づかれないようにしたのです。その二重の書板は無事にスパルタに送り届けられたのですが、当初はだれもその細工に気が付きませんでした。そんな中、レオニダスの妻で賢女と名高いゴルゴが細工に気づき、蝋を削ってデマラトスが伝えたかった真の内容を知ることができたそうです。
ペルシア戦争 第3期
前480年、クセルクセス1世は自ら大軍を率いてギリシアへ出陣しました。ヘロドトスの「歴史」によると、ペルシア軍の総兵力はなんと264万人。マラトンの戦いに参加した2万人の132倍という、信じがたい人数です。さらに、大勢の兵士相手に商売する商人らが兵士と同数従軍しており、さらに料理女、売春婦などが加わり、総勢で500万人の人間がギリシアに向かった、と記録しています。しかし、この数字はどう見ても桁が2つくらい増やされているんじゃないか、という数字です。そこで、後世の歴史家達は、この時の遠征軍の実数をいろいろ試算しています。ある説では、陸軍は30万、海軍は1000隻、と推定しています。そうだとしても、マラトンの2万に比べて15倍の兵力であり、途方もない大軍であることは間違いありません。
テルモピュレーの戦い
テルモピュレーは中部ギリシアに位置する、海と山から成る狭い断崖の地でした。その道はたいへん狭く、車1台が通れるか通れないか、程度の広さしかなく、少なめの防衛部隊でペルシアの大軍を釘づけにするにはうってつけの場所です。ギリシアは、ここに防衛線を張ることにしました。防衛を担当するのは、陸戦では最強を誇るスパルタのレオニダス(Leonidas 生年不詳 60歳くらい)王率いるスパルタ重装歩兵300人を中心とする約5000です。ヘロドトスの「歴史」によると、その内訳は
スパルタ:300 テゲア:500 マンティネイア:500 アルカディア地方のオルコメノス:120 その他のアルカディア地方:1000 コリント:400 プレウス:200 ミュケナイ:80 テスピアイ:700 テーベ:400 ポーキス:1000
となっています。意外と少ないと思いませんか?そのとおりです。実はこの年はオリンピック開催の年だったので、各ポリスそれぞれの掟の制約により、大軍を派遣することができなかったそうです。スパルタでは、アポロン・カルネイオスの祭礼中だったために、先発隊として300人を送ることしかできず、本隊は祭礼が終わってから出陣する、ということになっていました。前480年の8月、ここにスパルタ兵の伝説的な奮戦が語り継がれるテルモピュレーの戦いが始まりました。
ここでレオニダスについて。レオニダスは、歴代スパルタ王の中でも珍しく、一般的なスパルタ市民と同じスパルタ教育を受けてきた王でした。レオニダスは三男で王位継承順位が低かったため、スパルタ王としての教育を受ける機会がなかったためです。レオニダスの父アナクサンドリデスには、なかなか後継者となる男子が産まれませんでした。そこで、5人のエフォロスらの命令により半強制的に側室を持たされることになります。側室からは、クレオメネスと名付けられた男子が誕生するのですが、その後間もなく正室も男子を出産。ドリエオスと名づけられました。正室はさらにその後にレオニダスを産んでいます。こうして、アナクサンドリデスの後継者となったのは異母兄のクレオメイネスとなりました。しかし、次男のドリエオスはスパルタを出奔して南イタリアに自分の国を作ろうとしますが失敗して戦死。さらに異母兄のクレオメイネスも精神に異常をきたして亡くなったため、三男のレオニダスがスパルタ王となりました。テルモピュレーの戦いにあたって、レオニダスに従った300人のスパルタ兵は、全員後継者となる男子がいる者でした。
<戦闘前>
さて、テルモピュレーの戦いの経過を見ていきましょう。基になっているのはヘロドトスの「歴史」です。
ペルシアの大軍を目にしたギリシア軍は、スパルタ以外は肝をつぶして恐慌状態になり、撤退すべきではないか、という議論が持ち上がりました。特に、ペロポネソス半島のポリスの軍は、ここを死守するよりも、ペロポネソス半島の入口である幅の狭いイスミア地峡に後退して防衛すべき、と主張しました。しかし当然ながら、この案にはペロポネソス半島以外に位置するポリスからは大反対されます。総大将であるレオニダスは、テルモピュレーでの防戦を決定し、近隣のポリスに援軍を求める使者を送っています。ちなみに、スパルタはペロポネソス半島に位置しているので、自分のことを最優先すれば、テルモピュレーにこだわる必要は無かったハズです。管理人個人の見解ですが、それでもテルモピュレーの死守を決定できたのは、やはりレオニダスの将としての器の大きさではないか、と思います。
一方、ペルシア軍はテルモピュレーに到着すると、騎兵1騎を斥候に送りました。この時ギリシア軍は、戦にそなえて防壁を修復させていたので、斥候が見ることができたのは、防壁の外にいた部隊だけでした。この部隊が、たまたまスパルタの部隊でした。スパルタ軍は、いつものように戦の前の体育や、櫛を使って長い髪の手入れをしたりして過ごしていました。斥候の騎兵は、自分が見たこのようなギリシア軍の様子をクセルクセスに報告すると、クセルクセスは異国の軍隊の文化風習について確認するために、陣中にいたギリシア人アリストンの子デマラトスを呼んで、スパルタ軍の行動の意味を尋ねました。デマラトスは、
「その部隊は間違いなくスパルタ軍です。彼らが生死を懸けて臨む戦の前に行う習慣です。ギリシア世界で最強の軍であるスパルタを倒せば、クセルクセス王に歯向かうギリシア軍は一人もいますまい。」」
と答えるのですが、クセルクセスはデマラトスの話をあまり信じませんでした。というのも、ペルシアの大軍と戦うには、ギリシア軍はあまりにも少数だったからです。ペルシア軍は攻撃をかける前に降伏を呼びかけました。この時、レオニダスが返した返事が「モーロン・ラベ(来たりて、取れ)」です。このような短い言葉に、意味を持たせて返答する、というのがスパルタの戦場文化の一つになっていました。それから4日間にらみ合いが続きました。クセルクセスは、この間にギリシア軍は恐れをなして逃走するであろう、と考えていたのですが、ギリシア軍に逃走する気配はありませんでした。
<戦闘開始>
5日目にペルシア軍は、数にモノを言わせてテルモピュレーの隘路に襲いかかりました。先鋒となったのは、メディア人とキッシア人の部隊です。クセルクセスは、ギリシア兵を生け捕りにして自分のところに連れてこい、と命令して彼らを送り出しました。ギリシア軍は彼らの攻撃を巧みに退け、メディア人部隊は多くの被害を出しました。しかし、メディア人部隊は次から次へと新手を投入し、数の力でギリシア軍を倒そうと躍起になりますが、いたずらに被害を増やすばかりで、この日の戦いは終了しました。ヘロドトスは、この戦いを「メディア人は数は多くても真の戦士の数は乏しい、ということは誰の目にも、とりわけクセルクセスの目には明らかだった。」と評価しています。
6日目。クセルクセスは精鋭部隊である「不死身の男たち(アタナトイ)」をヒュダルネスに指揮させて攻撃させました。精鋭部隊である「不死身の男たち」であれば、容易にギリシア軍を破ると期待されたのですが、スパルタ軍に少数の死者は出たものの、残念ながら彼らでさえもメディア人部隊以上の戦果を挙げることはできずに敗退しました。クセルクセスは、自軍を気遣うあまり、玉座から3回飛び上がった、と伝えられています。
ヘロドトスは、この日のギリシア軍の勝因として「狭い地形であることに加え、ペルシア軍の槍はギリシア軍の槍よりも短く、数の優位を活用する術がなかったからだ。」と記載しています。また、この時のスパルタ軍の戦闘技術を大いに褒め称えています。特筆されているのが「後退戦術」です。これは、敵に背を向けて敗走するかのように後退して敵をおびき寄せ、勢いづいた敵が追いつくころに一斉に向き直り、敵を撃滅する、という戦術だったそうです。スパルタ軍の後退戦術により、ペルシア軍は多大な犠牲者を出した、と記述しています。
7日目。再びペルシア軍はギリシア軍に襲いかかりました。ギリシア軍は少数なので、そろそろ疲れもたまっているし負傷者も多いはず、と見込んでの攻撃だったのですが、ギリシア軍は整然と隊列を整えポリス別に陣形を整え、入れ代わり立ち代わり戦い、この日もペルシア軍が敗退して終わりました。
圧倒的大軍を率いているにも関わらず、ペルシア軍はテルモピュレーを突破できず、いたずらに損害を増やしているありさま。そんな状況を一変させる事件が起きます。マリス地方出身でエウリュデモスの子エピアルテスというギリシア人が、報酬金に目がくらんで、テルモピュレーを迂回するほとんど使われていない間道が山に存在することを、ペルシア軍に教えたのです。これを知ったクセルクセスは大喜びし、直ちにヒュダルネスの軍勢に出陣を命じました。ヒュダルネスの軍は、暮れ頃に出陣。狭い間道を進みました。ギリシア軍も、この間道の存在を知らなかったわけではありません。ポキス人1000人の部隊がこの間道を守っていました。ポキス人部隊は、ペルシアの大軍が地面に積もっていた木の葉を踏む音に気が付いて、慌てて武装して駆けつけてみると、なんとそこにはペルシア軍がいてビックリ!ペルシア軍も、武装したギリシア兵が姿を現したのでビックリ!特に、現れたのが最強のスパルタ軍なのではないか、と誤解したのですが、裏切り者のエピアルテスは「彼らはスパルタ軍ではない。」と助言します。ペルシア軍は、ポキス人部隊に大量の矢を浴びせると、ポキス人部隊は後退。自分たちの陣地に戻って守りを固めました。ポキス人部隊は、ペルシア軍の攻撃目標は自分達の陣地にある、と考えたのです。しかし、ヒュダルネス軍の目的は間道を抜けることにあったので、ポキス人部隊が後退したのを確認すると、ポキス人陣地などには目もくれずに間道を急いで進んでいきました。
その頃、テルモピュレーに陣取っていたギリシア軍は不吉な予言を聞かされました。占い師メギスティアスが捧げもの獣の内臓から判断して「暁と共に死が訪れる」と予言したのです。それを裏付けるかのように、ペルシア軍からの投降者が「ペルシア軍は間道を通ってくる作戦だ。」と言ったり、夜が白む頃には見張りがペルシア軍の襲来が報告されました。ギリシア軍は緊急会議を開きましたが、意見は大きく2つにわかれました。1つは撤退、もう1つは徹底抗戦です。総司令官であるスパルタのレオニダスは、撤退を主張した部隊は撤退を許可した一方で、自軍であるスパルタ軍とあまり信用していなかったテーベ軍を防衛部隊として残した他、自発的に残留を希望したテスピアイ人部隊と共にしんがりとして残ることになりました。ヘロドトスは、レオニダスがこのような措置をとった理由として
・スパルタの名誉にかけて、防衛目標地点を放棄して撤退する、という行為はできなかった。
・最後まで防衛のために戦い抜けば、祖国に栄誉をもたらす。
・レオニダスが出陣する前に、スパルタがデルフォイの神託を受けたところ「スパルタが異国の軍によって蹂躙されるか、王が死ぬかのどちらかだ」という内容だったため、レオニダスは戦死することを選んだ。
と記述しています。
朝日が昇る頃、クセルクセスは攻撃命令を下しました。死を覚悟しているレオニダスは、防衛に有利な隘路の防壁を捨てて前進し、ペルシアの大軍に挑みました。地形上の不利は無くなったにも関わらず、この戦いでもペルシア軍は大きな損害を出しました。というのも、ペルシア軍部隊長は配下の兵士に鞭を与えて前進を強要した結果、海に落ちる者や味方に踏まれて死ぬ者が続出したためです。この戦いは熾烈を極め、ギリシア兵は主武器である槍が折れた後は、刀を使って戦っていました。スパルタ王レオニダスは、誰の目から見ても疑いようのない獅子奮迅の働きを見せたものの、ついにちから尽きて討死。戦死したレオニダスの遺体をめぐってペルシア軍とスパルタ軍で激戦が繰り広げられた結果、スパルタ軍はレオニダスの遺体を回収することに成功。さらには4回もペルシア軍を撃退することに成功しました。この戦闘で、ペルシア軍はクセルクセスの弟にあたるアブロコメスとヒュペランテスをはじめとする、名だたる人物が戦死しています。
この頃、エピアルテスに先導されたペルシアの迂回軍が戦場に到着し、戦況は変わりました。生き残りのギリシア軍は、新手が背後から迫っていることを知ると、防壁の内側まで後退。小高い丘で最後の戦いに臨みました。この中で、レオニダスがあまり信用していなかったテーベ人部隊は指揮官レオンティアデスと共にペルシア軍に降伏しました。テーベ人部隊は、両手を前に出して「自分たちは元々ペルシア側。やむを得ず戦場に出ざるえを得なかったので罪は無い」と口々に言いながらペルシア軍に近づいていきました。これに、テッサリア人が口添えしたために、テーベ人部隊の降伏が認められ、彼らは命拾いしました。ただ、少数ながらも降伏が認められる前に殺されたテーベ人はいましたし、降伏した後も、クセルクセスはテーベ人の額に王の焼き印を押されたそうです。
テーベ人が降伏した後、スパルタ人とテスピアイ人が最後まで戦い抜きました。この最後の戦いで、スパルタ人、テスピアイ人の奮戦ぶりはすさまじいものでしたが、中でもスパルタ人ディエネケスの武勇は1位とされ、2位にスパルタ人のアルペオスとマロンの兄弟、テスピアイ人のハルマティディスの子ディテュランボスとされています。
<戦闘終了後の話>
戦後、戦場を自身の目で検分したクセルクセスは、部下からレオニダスの遺体を示されると、レオニダスの首を取って槍に突き刺し、ペルシア兵全員に見せよ、と命令しました。歴史家ヘロドトスは『歴史』の中で、「オリエント王侯貴族は、敵であっても勇者には敬意を示す。王侯貴族には珍しい蛮行であった。」と書いています。クセルクセスはデマラトス(クセルクセスの陣中にいたスパルタ人で、戦闘開始前に、スパルタ人部隊の行動についてクセルクセスの質問に答えていた。)を呼び、残存のスパルタ人はどれくらいいるのか?彼らの戦闘力はどれほどのものか?と聞きました。デマラトスは「スパルタの戦士はおよそ8000人で、戦闘能力はここで戦ったスパルタ人と同等である。」と答えました。クセルクセスはさらに質問して「スパルタを落とすのに、最も簡単な方法は何か?」と聞くと、デマラトスは「ラコニア海岸にあるキュテラという島を占拠することです。ペルシア艦隊のうち300隻を送ってこのキュテラ島を占拠すれば、スパルタは自国を守ることを優先して、他のギリシア諸ポリスを救援に行かなくなるでしょう。そうしなければ、ペロポネソス半島の入口の狭い地峡で、スパルタをはじめとするペロポネソス半島の諸ポリス連合軍が防衛のために集結し、テルモピュレーよりも激しくて厳しい戦闘を強いられるでしょう。」と答えました。この時、たまたま居合わせた海軍司令官のアカイメネス(クセルクセスの弟)は「デマラトスの言うことは陛下の遠征軍を期待を裏切る意見です。元々、ギリシア人とは他人を陥れることを喜ぶ人種です。既に我が艦隊は海難事故のために400隻を失っており、この状況でさらに300隻を別動隊として送れば、残った艦隊とギリシア海軍との戦力はほぼ互角になります。また、海軍は陸軍と足並みを合わせてこそ力を発揮するもの。別動隊として切り離された兵は、陛下の力を頼むこともできず、お役に立つこともできないでしょう。」と、デマラトスは内側の敵と考える発言をしました。クセルクセスはこれに対して、「作戦はアカイメネスの言う通り、別動隊を送ることはしない。が、デマラトスに対する悪口は今後一切禁止する。テルモピュレーの戦いの前にデマラトスが言ったことは真実であった。同国人同士であれば、他人の羽振りがよくなれば羨み、敵意を抱くことがあるし、相談を持ち掛けられても、一番いいと思ったことは言わないこともあるだろう。もちろん、人徳者であればそのようなことはしないが、それができる人間は稀である。だが、異国人同士でお互いを客として遇する関係であるならば、一方が順調な時、相方はそれを喜ぶものなので、相談を受ければ最善の策を提案するものである。」と答えました。この発言内容は、現代社会にも通用する人間心理の一面なのではないか、と思います。なお、デマラトスが提案したキュテラ島占拠作戦は、時が過ぎたペロポネソス戦争の際に、アテネがスパルタ攻撃のために実際にキュテラ島を占領し、常にスパルタ本国を脅かし続けていました。つまり、デマラトスの献策は妥当性があったわけです。
ギリシア軍敗北のきっかけとなった裏切り者のエピアルテスは、スパルタ人から報復されることを恐れてテッサリア方面に逃亡しました。一方ギリシア側では、隣保同盟(デルフォイのアポロン神殿やアンテレのデメテル神殿を聖地とする諸ポリスの連合組織。年に2回、春にはアンテレ、秋にはデルフォイで定例会議を行っていた。)の代議員会でエピアルテスの首に賞金を懸けることを決定しました。いわゆる指名手配ですね。それからしばらくして、指名手配犯となったエピアルテスはマリス地方の街・アンティキュラに帰ってきたところ、トラキア人のアテナデスという人物に殺されました。ちなみに「アテナデスなる人物がエピアルテスを殺害したのは、別の理由にあった。それについては後に説明する。」とヘロドトスは書いているのですが、その部分の記述はありません。単純に書き忘れたのか、それとも後の時代に、ここの記述が削除されたのか、原因は不明です。
ちなみに、間道の存在をペルシア軍に教えた真犯人は別にいる、という説があることもヘロドトスは記述しています。カリュストス(エウボイア島南部のポリス)の人でパナゴラスの子オネテスと、アンティキュラの住人コリュダロスの2人である、という説です。この説を紹介したうえで、ヘロドトスは「この説は正しくない」としています。理由としては
(1)隣保同盟がエピアルテスに賞金首を懸けていること。
(2)実際にペルシア軍を先導したのはエピアルテスである。
の2点を以て、エピアルテスが裏切り者である、と断定しています。
<生き残ったスパルタ兵>
スパルタ人部隊は全滅した、と記述しているヘロドトスですが、実際には生き残りが数人いた、という話も紹介しています。1人はアリストデモスです。面白いことに、彼が生き残った経緯は2つ紹介されています。まず1つ目。アリストデモスと、もう一人のスパルタ人エウリュトスの2名は、重い眼病を患っていたためレオニダスの許可を受けて戦線を離れてアルペノイの街で療養していました。2人には2つの選択肢がありました。1つは、戦線に戻って仲間達と共に戦うこと。もう1つは、スパルタに帰国すること。どちらの選択肢も選ぶことができたそうです。エウリュトスは戦線に戻ることを主張しましたが、アリストデモスは納得しなかったため、それぞれ別の選択肢を取ることになりました。エウリュトスは武装すると、従卒であるヘロット(奴隷)に自分の手を引かせて戦場まで連れて行かせました。従卒はすぐに逃亡しましたが、エウリュトスは乱戦の中に切り込み、壮絶な戦死を遂げました。後に残ったアリストデモスはスパルタに帰国した、という話です。もう一つの経緯は、アリストデモスと他1名のスパルタ人は伝令を命じられて陣地を離れたが、その後ペルシア軍が襲撃してきた。2人は戻ろうと思えば戻れたので、アリストデモスではない方の伝令は戦場に戻っていったのですが、アリストデモスはそのまま逃げた、という話です。どちらが正しいかはわかりませんが、とにかく生き残りとして帰国したアリストデモスは、スパルタ市民らから猛烈に非難されました。「腰抜けアリストデモス」という異名を付けられたうえに、誰もアリストデモスに火を貸してくれない、誰もアリステデモスと口を聞かない、という日本の田舎の村八分と同様の扱いを受けました。その後、アリストデモスは翌年のプラタイアの戦いで汚名を雪ぐべく奮戦し、討死したそうです。
ヘロドトスは、アリストデモスの話について「もしもアリストデモス一人が病気のためにスパルタに帰った、あるいはエウリュトスもアリストデモスも揃ってスパルタに帰った、ということであれば、スパルタ市民らも彼を糾弾することは無かっただろう。ただ、今回はエウリュトスは討死したのにアリストデモスは帰国した。2人に共通していた事情を、アリストデモスは帰国の口実にしたのだから、スパルタ市民による糾弾は避けられなかった。」と分析しています。日本でも、忠臣蔵で有名な赤穂浪士の討ち入りの後、討ち入りに参加しなかった旧赤穂藩の藩士らは「腰抜け」「臆病者」「恥知らず」など、討ち入りに参加した人たちと比較されて、汚名を着ることになりました。これも、共通の事情下にあった人々でも、ある選択肢を取った人が称賛され、他の選択肢を取った人が非難されるという、同じ理屈の話だと思います。
ヘロドトスは、もう一人スパルタ人の生き残りとしてパンティテスなる人物の名を挙げています。パンティテスは、伝令としてテッサリア方面に派遣されていたために生き残ったのですが、アリストデモスと同様に帰国後に猛烈に非難され、パンティトスは首を吊って自害して果てたそうです。
アルテミシオン海戦
テルモピュレーの戦いは知名度も高く、多くの本でも説明されていますが、これと同時に行われていたアルテミシオン海戦については、簡単に書かれて終わらせていることも多いです。ここでは、テルモピュレーの戦いに隠れがちなアルテミシオン海戦について、ヘロドトスの「歴史」を基礎として紹介したいと思います。
<開戦前>
アテネ艦隊を主力とするギリシア艦隊は、陸路を守るレオニダス麾下の陸軍と足並みを合わせるように、アルテミシオンに向かいました。その内訳はアテネが127隻、コリントが40隻、メガラは20隻、カルキスはアテネが提供した20隻に乗り、アイギナは18隻、シキュオンは12隻、スパルタは10隻、エピダウロスは8隻、エレトリアは7隻、トロイゼンは5隻、ステュラは2隻、ケオスは2隻と五十橈船2隻、ロクリス・オプンティアが五十橈船7隻で、三段櫂船の合計は271隻でした。このギリシア艦隊がアルテミシオンに到着した時、ペルシアの大艦隊はアペタイに入港しており、その付近一帯はペルシア軍で溢れかえっている、という情報が伝わり、ギリシア艦隊はたちまち恐慌状態に陥り、撤退すべきという議論が起こりました。これに焦ったのがエウボイア島の住民らです。ギリシア艦隊が撤退してしまうと、エウボイア島はペルシア艦隊によって略奪されることは火を見るよりも明らか。エウボイア島住民らは、せめて子供や家人を避難させるまでは駐留してほしい、と総司令官のエウリュビアデスに懇願したのですが説得は失敗。それでは、ということで、次にアテネのテミストクレスに金30タレント(先の試算と同様に考えると約60億円)を賄賂として送り、テミストクレスの説得に成功しました。狡猾なテミストクレスは、このうちの5タレントを、あたかも自分の懐から出したかのようにして総司令官のエウリュビアデスに渡して説得。撤退を強硬に主張していたコリントの指揮官でオキュトスの子アディマントスには銀3タレントを渡して説得し、ギリシア艦隊はアルテミシオンにしばらく駐留することが決まりました。なお、訳者の松平千秋氏は注の中で「事の真偽は別として、ヘロドトスはテミストクレスを、有能な政治家・将軍であり、贈賄収賄に汚い策謀家、という記述で一貫している。」と書いています。
一方、アペタイのペルシア艦隊はアルテミシオン海域にギリシア艦隊が来ていることを知ると、この艦隊を拿捕するために挟み撃ちをする作戦を立てました。ペルシア艦隊のうち200隻を別動隊を送って、敵に見つからないようにスキアトス島の外側を通って、エウボイア島の東南端であるカペレウス岬からゲライストス岬を通り、ギリシア艦隊の退路を断つ、という作戦です。正面の艦隊は、別動隊が目標地点に到達した信号を上げてから攻撃する、という手はずを整えて待ちました。この待っている間、1つの事件が起こりました。カルキディケ半島の街・スキオネの出身でスキュリアスという男が脱走して、ペルシア艦隊の作戦内容をギリシア艦隊に伝えたのです。スキュリアスは潜水名人として有名で、それを裏付けるいくつもの逸話を持っているのですが、この時は約80スタディオン(1スタディオンは約180mなので、80スタディオンは14,400mつまり14,4km)の距離を、1度も海面に浮上しないで泳ぎぬいた、という話になっていました。さすがのヘロドトスもこれには疑問を持ったようで「私は舟を使ったのだと思う。」と記述しています。
<戦闘経過>
スキュリアスの話を聞いたギリシアの指揮官たちは対策を協議した結果、その日はこのままアルテミシオンに停泊し、夜半に出航してペルシア艦隊の迂回部隊を攻撃する、ということになりました。ところが、なかなか迂回部隊がやってこないので、午後の遅い時間にアペタイにいるペルシア艦隊を偵察する目的で小規模の攻撃を行うことになりました。ペルシア艦隊は、少数の軍船で向かって来るギリシア艦隊を見て「気でも狂ったか」と罵り、簡単に撃破できると考えて勇んで出航し、ギリシア艦隊を包囲します。ペルシア艦隊に従軍していたイオニア地方のギリシア人植民都市の海軍はこれを見て「ギリシア艦隊は一人も無事に帰国できないだろう。」と心を痛めたのですが、結果はまったく異なりました。包囲されたギリシア艦隊は、最初の合図を出して円陣のような形に船を並べました。船尾を円の中心に向け、船首はペルシア艦隊に向け、前進しかできない形を作りました。そして、第2の合図とともに、各船が目の前のペルシア艦隊に向かっていきました。この戦いは夜まで続いたのですが、数で劣るギリシア艦隊の優勢勝ちとなりました。ギリシア艦隊は、ペルシア船30隻を捕獲し、名だたる人物としては、サラミス王ゴルゴスの弟でケルシスの子ピラオンを捕虜としました。ペルシア船を最初に捕獲したのはアテネ人で、アイスクライオスの子リュコメデスという者が最高武勲賞を受けました。また、この戦闘中に、ペルシア艦隊麾下にあったギリシア人、レムノスの人でアンティドロスが脱走してギリシアに帰順しました。アテネ人はこの功の報酬としてサラミスの一地区をアンティドロスに与えています。
その夜。盛夏という季節にもかかわらず、天気は大荒れになりました(ギリシアの夏は、晴れが多くて雨はほとんど降らない)。ペリオン山の方角からは雷鳴が響き、一晩中激しい雨が降り続けました。この時、ペルシア艦隊の別動隊は、エウボイア島を迂回すべくまだ航海の途中。洋上でこの大雨と暴風に襲われ、「エウボイアの凹み」と呼ばれている航海の難所(暗礁が多く、航海者泣かせで有名な海域でした)で、次々と暗礁に乗り上げて座礁してしまい、ほとんど戦果を挙げることなく壊滅してしまいました。ヘロドトスは「ペルシアとギリシアの力の差が等しくなるように、という神の配慮がなした業であった。」と記述しています。
翌朝。ギリシア艦隊に吉報が2件届き、将兵の士気が大いに上がりました。まず1件は、アッティカ方面の軍船53隻が援軍としてアルテミシオンに到着したこと。そしてもう1件は、昨夜の暴風雨で、ペルシア艦隊の別動隊が壊滅した、という報告でした。士気が上がったギリシア艦隊は、昨日とほぼ同じ時刻に攻撃を開始し、ペルシア艦隊に従軍していたキリキア船団を攻撃してこれを壊滅させ、意気揚々とアルテミシオンに引き返してきました。
3日目。この日は奇しくも、テルモピュレーでも陸戦が行われていました。少数のギリシア艦隊に辛酸を舐めさせ続けられたペルシア艦隊の指揮官らは、逆襲に転じるべく、昼頃にアペタイを出航し、アルテミシオンへ向かいました。向かってくるペルシア艦隊に対し、ギリシア艦隊はアルテミシオン海域に展開して、敵の出方を待つ構え。ペルシア艦隊は三日月の陣形を取って、ギリシア艦隊を包囲しようとしたところで、ギリシア艦隊は前進を開始。ここに、アルテミシオン海戦の本戦ともいえる大規模な戦いが始まりました。この戦闘は両軍ともに譲らず、痛み分けのような形で終わりました。ペルシア艦隊は、自軍が多勢であることがかえって災いし、味方同士の船がぶつかるなど自滅が目立ったのですが、ギリシア艦隊と互角の戦いを繰り広げました。ペルシア艦隊の中で軍功が大きかったのはエジプト人の艦隊です。数ある武功の中でも、ギリシア船5隻を乗組員ごと捕獲したことが特に大きかったです。一方ギリシア艦隊で一番の武功を立てたのは、アテネ人でアルキビアデスの子クレイニアス(後のペロポネソス戦争で有名なアルキビアデスの父)で、彼はなんと自前で200の私兵を雇い、自家用の軍船で参戦していました。この日の戦いが終わった後、両軍はそれぞれの港に帰っていたのですが、ギリシア艦隊の主力を成すアテネ艦隊の損害は大きく、約半数が損壊していたため、ギリシア艦隊はアルテミシオンを引き払って後退することを考え始めます。
テミストクレスは、海軍の指揮官を集めて「いい策がある。うまくいけば、敵の主力を離反させることができる。」とだけ伝えました。しかし、策の具体的内容は話しません。代わりに(1)エウボイア人が追い立てている家畜は、敵の手に渡るくらいなら屠殺してしまうこと。(2)かがり火を焚いて、我が軍がまだ駐留しているように見せかけること、の2点を指示し、撤退の時期は、全員が無事に帰れる頃を見計らって指示を出す、と伝え、ギリシア艦隊はテミストクレスの指示通りに動きました。ギリシア軍がそうしている最中に、テルモピュレー方面からアテネ人でリュシクレスの子アブロニコスが伝令としてやって来て、テルモピュレーの戦いの顛末を報告しました。ギリシア軍は、海陸の連絡役として、アブロニコスにはテルモピュレーの異変を海軍に伝える役割を担い、海軍の異変はアンティキュラ生まれのポリュアスが陸軍に伝える役割を担っていたのです。ペルシア陸軍が既にテルモピュレーを越えたとなると、いつまでもアルテミシオンに留まる理由は無くなったため、コリント艦隊を先頭、アテネ艦隊をしんがりとして撤退していきました。
テミストクレスは、この時に彼が言っていた「いい案」を実行します。アテネの軍船から船足の早い船を数隻選び、飲料水の補給ができる地点の石に下のような文章を刻ませました。
・イオニア人(イオニア地方に植民都市を築いたギリシア人)諸君、君たちが父祖の地に兵を進めるというのは間違っている。
・君たちの最善の道は、ギリシアに寝返ることである。
・それができない場合は、カリア人を誘って戦いに加わらないことである。
・それも難しい場合は、君たちはギリシア人であること、この戦争の原因は君たちに起因していることを心に留め、戦場では消極的に動くべきである。
これには2つの狙いがある、とヘロドトスは分析しています。1つは、この誘いに乗ってイオニアの軍がギリシアに寝返るなり、離反して国に帰るなり、消極戦術に出るという効果。もう1つは、イオニア人らが行動を起こさなくても、このような話があったことがクセルクセスの耳に入れば、クセルクセスはイオニア人を疑いの目で見て、イオニア人を海戦に参加させないようする、という効果です。私も、テミストクレスの狙いはこの2つにあった、と思います。
最初の防衛線が突破されたことにより、ペルシアの大軍がギリシア内部に侵入する入口が開き、形勢はギリシア不利に大きく傾きました。しかし、ギリシア軍の奮戦、とりわけテルモピュレーにおけるレオニダス隊の奮戦ぶりは、残されたギリシア人の戦意を鼓舞することになります。詩人シモニデスはレオニダスとその部隊を称賛する歌を作り、ギリシア人を励ましています。
テルモピュレー付近の地図。北西方面から進軍してきたペルシア軍と、防衛のギリシア軍の間で激戦が繰り広げられました。 |
アテネの強制疎開
テルモピュレーが突破されたことにより、ペルシア軍がアテネに攻め込んでくるのは時間の問題でした。「ストラテゴス・アウトクラトール」であるテミストクレスは、籠城して戦うのではなく、自分たちの街であるアテネを放棄することを決意します。日本人は、戦争中の話として空襲による被害を軽減するために、都会に住んでいる子どもたちが地方に避難する「疎開」を経験していますよね。それと同様に、ペルシア軍の乱暴狼藉からアテネ市民らを守るために、アテネを捨てて別の場所へ避難する、と決めたわけです。「ストラテゴス・アウトクラトール」であるテミストクレスはその権限を利用し、アテネ市民のみならず、居住している外国人や奴隷にも疎開を指示しました。避難先となったのは、サラミスやアエギーナ、トロイゼンなどの中小ポリス。テミストクレスが、それぞれのポリスの代表者に話をして受け入れ態勢を整えさせたそうです。さらに特徴的なのは、アテネの子ども達の教育施設であるスコーラ(学校)やパシストラ(体育訓練場)も、国費で疎開先に建設することも決めた、ということです。また、避難にあたっては生活に必要な身の回りの品々も必要となるので、アテネの人々が一斉に各地へ引っ越すような事態となりました。国有の船だけでは足りないので、私有船もヒトとモノの輸送に駆り出され(私有船の場合には利用料が国費から出された)、約一カ月という短期間で、ほとんどのアテネ人民の避難が完了しました。
もちろん、避難指示にあたっては、言うことを聞かない人々もいました。そのような人々を説得するにあたり、テミストクレスはある事実を利用することを考えました。アテネの守護神・アテナの神殿が飼っている蛇が行方不明になっている、という事実です。この蛇は女神アテナのお供の蛇です。そこで、テミストクレスはアテナ神殿の司祭にこういう話を人々にしてくれ、と頼んだそうです。
「アテネの守護神・アテナのお供の蛇が、ここ数日エサを食べていない。つまり、アテネにはいないのだ。守護神アテナもアテネにはいないのだ」
これで、残留組もほとんどが避難を決めたそうです。
しかし、それでも一部の強硬派は避難を拒否し続けました。この強硬派は、高齢の男性たちだったのですが、彼らは
「アテネは「木」で守らているうちは、絶対に陥落しないという伝承がある」
と主張しました。この「木」とはアクロポリスを守る柵のことを指しており、高齢男性たちは、アクロポリスに籠って戦うことを主張していました。テミストクレスは、「木」とは三段櫂船のことである、と言って説得を試みましたが、高齢男性たちは聞き入れませんでした。テミストクレスも、彼らの説得は無理と判断したそうです。
さて、テルモピュレーを突破したペルシア軍は、道中のポリスを略奪しながらアテネに迫り、ほぼ無人のアテネを占領しました。アクロポリスに立てこもっていた高齢男性らは、抗戦したもののすぐに敗れてしまったそうです。クセルクセスは、父・ダレイオスが成し遂げられなかったアテネ占領を果たし、大満足だったようです。アクロポリスの神殿をはじめ、街のあちこちに火が放たれ、アテネは炎上しました。この時、アテネ海軍はサラミス島の港に停泊していたのですが、そこからアテネに放たれた火を見ることができたそうです。
サラミスの海戦
サラミスの海戦は、高校世界史でも太字で出てくる重要歴史事件です。「ギリシア海軍がペルシア海軍を破り、ペルシア戦争に勝利した。この時、無産市民は軍艦の漕ぎ手として参加し、彼らの社会的地位が向上する契機となった。」というかんじで説明されています。それでは、ヘロドトスの『歴史』に基づいて見ていきましょう。
<開戦までの経緯>
アルテミシオンから撤退してきたギリシア海軍がサラミスに集結すると、他のギリシア艦隊も続々とサラミスに集結。その数はアルテミシオン海戦の時よりも多い366隻。その内訳は、アテネ:180隻 アイギナ:30隻 メガラ:20隻 アンブラキア:7隻 レウカス:3隻 カルキス:20隻 エレトリア:7隻 ナクソス:4隻 ステュラ:2隻 キュトノス:1隻 クロトン:1隻 シプノス:1隻 セリポス:1隻、ペロポネソス半島からは、スパルタ:16隻 コリント:40隻 シキュオン:15隻 エピダウロス:10隻 トロイゼン:5隻 ヘルミオネ:3隻
となっています。その他、五十橈船で参戦したのは、メロス:2隻 キュトノス:1隻 でした。
ギリシア艦隊の司令官達は会議を開き、次にペルシア軍を迎え撃つ場所として、ペロポネソス半島の入り口である地峡・イスミアを最終決戦の場としようと考えました。この時のことです。テミストクレスが自船に戻ると、アテネ人のムネシピロス(テミストクレスと同じ区の出身者で、テミストクレスの先輩のような人物)が会議の結果を尋ねてきました。テミストクレスが、地峡で決戦することとなった、と伝えると、ムネシピロスは「そんなことをしたら、諸ポリスの船はそれぞれ自国に帰ってしまい、ギリシア艦隊は雲散霧消するでしょう。エウリビアデスも他の人でも、それを止める力はありません。あなたの力でエウリビアデスを説得してみてはどうか。」と提言。テミストクレスはそれに答えなかったものの、すぐにエウリビアデスの船に行って、1対1で決戦場についての話をしました。テミストクレスは、ムネシピロスの話に自分の意見も付け加えて説得に成功。エウリビアデスに、再度司令官会議を招集させました。ちなみにヘロドトスはこの件を『歴史』の中で「テミストクレスは、ムネシピロスの案をあたかも自分の案かのように話し・・」と書いており、「テミストクレス=策謀家」という主張をここでも展開しています。この辺も、やはり原著にあたる面白味である、と私は思います。
さて、司令官会議が始まると、エウリビアデスが会議の目的を伝える前に、テミストクレスが持論を論じようとします。これに反応したのが、中が悪いコリントの司令官アディマントスです。アディマントスは「競技では、合図を待たずにフライングした者は棒で打たれるぞ」と言って遮ると、テミストクレスも「合図に遅れたものは勝利の栄冠を手にすることはできぬからな。」と反撃。アテネの命運が懸かっているこの会議、テミストクレスは遠慮などしていられません。テミストクレスは、ムネシピロスが言ったような「引いたら艦隊は四散するだろう」という、諸ポリスの司令官の神経を逆なでするようなことは言わず、イスミア地峡で戦うことの不利を語りはじめました。
(1)イスミア地峡で戦う場合、海戦は広い海域で行われる。船体が重く、数が少ない我らには不利な戦場である。
(2)イスミア地峡まで退く、ということはサラミス、メガラ、アイギナの陥落は免れない。
(3)敵の陸軍は水軍と歩みを共にする。イスミア地峡まで退くということは、自ら敵の陸軍をペロポネソス半島の入り口へ迎え入れているようなものだ。
と論じ、逆にサラミスに留まって戦えば
(1)サラミスの海域は狭く、ペルシア艦隊は数の有利を活かすことができない。
(2)サラミスに避難させた女子供を守ることができる。
(3)サラミスの海戦で勝利すれば、ペルシア陸軍が海軍無しでペロポネソス半島まで進出するとは考えにくく、結果的にペロポネソス半島を守ることになる。
と、ペロポネソス半島の諸ポリスのメリットを強調しました。これに対してコリントのアディマントスは「祖国を失った者は黙っておれ!」と食って掛かり、エウリビアデスには「亡国の民を決議から外すべき」と主張しました。理路整然と語るテミストクレスに対し、アディマントスは感情論に走ってしまっていることがわかります。テミストクレスもこれには譲らず、アディマントス本人とコリント人を罵って反撃。さらにエウリビアデスには
「貴公は、この場にとどまって戦うという男の面目を立ててくれればよい。さもなくば、貴公はギリシアを滅ぼすことになりますぞ。それでも、どうしてもイスミア地峡まで後退するというのであれば、アテネ艦隊は全員を収容して南イタリアに移住する。」
と激しく迫りました。これでエウリビアデスもついに決心し、海軍はサラミスに留まることが決まりました。
一方、ペルシアの艦隊はエウリポス海峡を抜けて3日後にアテネの外港であるファレロン(パレロン)の港に到着しました。ヘロドトスは『歴史』の中で「この時のペルシア艦隊の数は、出発時とあまり変わらないと考えている。暴風雨やアルテミシオン海戦で失った戦力を補うために、ペルシア側についた諸ポリスの軍が加わったからである。」と記述しています。出発時の船数は1207隻ということだったので、この時点でもそれとほぼ同数がいた、ということです。さて、ペルシア艦隊がファレロン港に集合すると、クセルクセスは海軍将官たちの意見を聞くために会議を開きました。クセルクセスは、マルドニオスを介して、海戦をするかしないかについて将官らの意見を聞いていったところ、ほとんどが海戦を提案しましたが、一人だけ海戦案を否定する人物がいました。カリア地方はハリカルナッソスの女王・アルテミシアです。アルテミシアは
「海戦を開いて決着をつける、という危険を冒さなくとも、陸軍を進めてペロポネソス半島に向かえば、陛下の勝利は間違いありません。なぜなら、ギリシア軍には長期の戦いを支える物資に乏しいからです。やがて、各ポリスは自国へ帰り始め、ギリシア軍は四散することでしょう。しかし、功を焦って海戦に出た場合、海軍が敗れると陸軍の戦いにも悪影響を及ぼします。優れた人間にはつまらない家臣がつき、つまらない人間には優れた家臣がつく、というのが世の常。陛下は世界で最も優れたお方ですが、その家臣にはつまらない者が多く、エジプト人、キュプロス人、キリキア人、パンピュリア人などは何の役にも立たないでしょう。」
と提案しました。居並ぶ将官たちは、クセルクセスがアルテミシアに一目置いていることを快く思わない者が多かったため、アルテミシアはこの提案のためにクセルクセスから咎められるであろう、とほくそえんでいたのですが、彼らの期待は裏切られ、クセルクセスは「以前から貴女は優れた女性と思っていたが、今回の提案もまた見事である。」と称賛しました。ただ、海軍の方針は多数派に従い、海戦を行ってギリシア海軍を滅ぼす、と決定されました。発進命令が下ると、ペルシア艦隊は隊列を整えて戦闘隊形をとりましたが、その日は夕暮れになってしまったため、出港は明日の朝に延期となりました。一方、ペルシア陸軍はこの日の夜にペロポネソス半島へ向けて出陣しました。
なお、この時、ペロポネソス半島の入り口であるイスミア地峡では、防塞の構築が急ピッチで進められていました。半島防衛のために集まった各ポリスの部隊を、スパルタ王でアナクサンドリスの子・クレオンブロトスが指揮を執り、地峡を横断する長城を完成させるべく、昼夜を分かたず工事が進められました。さらに、スケイロン街道(中部ギリシアからぺロポネソス半島に入る3つの街道のうち、最も利用頻度が高かった街道)を破壊してペルシア軍の進軍速度を低下させました。この工事に参加したのは、スパルタ、アルカディア、コリント、エリス、シキュオン、エピダウロス、プレイウス、トロイゼン、ヘルミオネです。その他のぺロポネソス半島のポリスらは、オリンピック祭、カルネイア祭は既に終わっているにも関わらず(つまり、出兵を拒否する正当な理由がないにも関わらず)日和見を決め込んでいました。おそらく、ペルシアが勝利したことを考えての日和見だったのでしょう。古代ギリシアは一国としてまとまっていなかったことの証の一つであると思います。
さて、このことを知ったペロポネソス半島の艦隊の将兵らはやや安心したものの、やはり祖国が心配でなりません。「自分たちはなぜ滅んだアテネや、滅亡寸前のメガラ、アイギナのためにサラミスに留まって戦わなければならないのか?」と、最初は総司令官であるエウリビアデスをなじるために私語を交わす程度だったのですが、やがて公然とした不満として爆発。再び会議が開かれました。ペロポネソス諸ポリスは、ペロポネソス海軍はイスミア地峡で、祖国防衛のために背水の陣を敷くべきである。サラミスに留まるのは、アテネ、メガラ、アイギナだけでよい、と主張しました。テミストクレスはこの論争に勝てないことを悟ると、一計を案じます。テミストクレスの召使で、子どもの教育を任せていたシキンノスをペルシア艦隊に送り、下のように伝えさせたのです。
「私はアテネの指揮官から密命を受けて参りました。ギリシア海軍は貴軍に恐れをなして逃亡しようとしている。今、出撃して攻撃すれば大勝利は間違いありません。現在、ギリシア艦隊は仲間割れしているため、とても貴軍と戦える状況にありません。」
これは、自軍を敵と戦わざるを得ない状況に持っていくために、テミストクレスがペルシア艦隊を利用した計略です。ペルシア艦隊が攻撃を仕掛けてくれば、ギリシア艦隊は死中に活を求めて戦うしかありません。実際、ペルシア軍はシキンノスの話を信じ、まずはサラミス島と本土の中間にある小島プシュッタレイアに陸軍を上陸させ、夜半に艦隊を出航させて海峡を東側から完全に封鎖しました。島に陸軍を上陸させたのは、海戦が始まった結果、漂着するであろう兵員や物資を処理させるためでした。味方であれば救助し、敵であれば殺すわけです。この準備はギリシア軍に見つからないように、夜通しで進められました。
一方その頃、ギリシア艦隊の司令官は会議で揉めていました。そんな折に、アテネ人で「正直者」の異名をとるリュシマコスの子・アリステイデスがアイギナからやってきました。テミストクレスによって陶片追放されていたアリステイデスでしたが、この戦役が始まる時に帰国を許されていたようです。ヘロドトスも『歴史』の中で「この人はアテネで最も優れ、また最も高潔な人物であったと私は信じている。」と記述しています。そんなアリステイデスが、会議場から出てきたテミストクレスに以下のように伝えました。
「貴公と私の間の論争は、いつもどちらの方が国益に沿うか、ということであるべき、と考えている。そこで、貴公には私が見てきたことをはっきりと告げる。私はアイギナから敵の見張りの目を盗んでやって来たが、ペルシアの艦隊は既に出航し、我々を包囲している。ペロポネソスの司令官達が、撤退するしないを論じていても、もう既に遅いのだ。このことを、貴公の口から伝えるとよかろう。」
これを聞いたテミストクレスは
「とても良い知らせを持ってきたくれた。貴公が目にしたことは、実は私が計画したことなのだ。これで、ギリシア艦隊はペルシア艦隊とこの地で戦わざるをえまい。ただ、それは私が伝えるのではなく、貴公が伝えてくれぬか?私が同じことを言ったとしても、ぺロポネソス人らは信じないだろう。」
そして、アリステイデスは会議場に入り、先ほどの話を司令官達に伝えると会議場を去っていきました。アリステイデスが話しても、司令官達はなかなか信用しようとしませんでしたが、そこにトドメの一撃となるニュースが舞い込んできます。ペルシア艦隊に従軍していたテノス人の三段櫂船1隻(艦長はテノス人でソシメネスの子パナイティオス)が脱走してギリシア艦隊に合流し、アリステイデスの報告と全く同じ話を司令官達に伝えたのです。これでペロポネソスの司令官達も現状を認識し、直ちに戦闘準備が始まりました。ギリシア艦隊は夜が明けるまでに準備を整え、兵士らはそれぞれ船に乗り込みます。ヘロドトスは『歴史』の中で、この時、テミストクレスがアテネ兵らに行った演説は最も優れたものだった、とこのように評価しています。『彼は一貫して人間の本性およびその情況に関するあらゆる善悪優劣を対比することに終始したもので、最後に彼は両者のうちの良き方を選べ、と訓示して終えた。』。
時に前480年9月下旬頃(ヘロドトスは日時を明記していないのですが、記述内容から推定するとこの頃)、サラミスの海戦の火蓋はこうして切られました。なお、、クセルクセスは海戦を高台から見物するために、サラミス島の正面にあるアイガレオスという山の麓に玉座を運ばせ、自軍の船が功を立てるたびにその船の艦長の名を尋ね、書記官が艦長の名を父称・出身地の町の名とともに記録させたそうです。
サラミスの海戦 戦場となったエリア。サラミス島はアテネの西側に位置する島で、ピレウス(地図の"Piraeus")の港の目と鼻の先に位置しています。ギリシア海軍は、地図の"Kynosoura"と記載されている突き出ている部分の北側でペルシア海軍を迎撃しました。 |
<戦闘経過と結果>
ヘロドトスの『歴史』は、戦端を切ったとされる3つのエピソードを紹介しています。一つは、アテネ人に伝えられているこのような話です。「当初、ギリシア艦隊はペルシア艦隊に圧倒され、逆櫓をこいで後退しようとしたが、アテネ人でパレネ区出身のアメイニアスなる者がただ1隻でペルシア艦隊に突入。これに続く形で戦闘が始まった。」2つ目は、アイギナ人に伝えられている話で、アイアコス一族の霊を迎えに行ったアイギナの船が戦端を切った、という話。3つ目は、「一人の女がギリシア軍の目の前に姿を現した。その女は「不甲斐ない者どもめ。いつまで逆櫓をこいでいるつもりじゃ!」と罵った後に、全軍に聞こえるほどの大声で叱咤激励して戦端が切られた、という話です。
アテネ艦隊の正面に布陣していたのはフェニキア人の艦隊で、スパルタ艦隊の正面に布陣していたのはイオニアの艦隊でした。戦闘はギリシア艦隊優勢で進み、そのままギリシア艦隊の勝利で幕を閉じました。ペルシア艦隊は、クセルクセスが見ていることを意識して奮戦したものの、ギリシア艦隊の力には及びませんでした。むしろ大軍であったことが災いして、前列の艦が敗れて敗走しよとする一方で、後列の艦は前に出ようとしたために大混乱となり、ペルシア艦隊は友軍同士で衝突して大破するものが続出。戦列は乱れ、何一つ計画的に行動することはできず、アテネやアイギナの船に衝突されて次々と撃沈していきました。また、プシュッタレイア島に陣取っていたペルシア兵は、アリステイデス率いるアテネ重装歩兵隊が攻撃し、全滅しました。
戦闘中に起こった事件として、ヘロドトスは『歴史』の中でハリカルナッソス女王のアルテミシアについて記述しています。アルテミシアが乗船していた船がアテネ人でパレネ区出身のアメイニアスが指揮する船に追跡されていた時、アルテミシアの船の正面に友軍であるカリュンダ人の王・ダマシテュモスの船がいました。アテネの船に至近距離まで接近されていたアルテミシアは意を決し、なんと友軍であるダマシテュモスの船に衝突したのです。これでダマシテュモスの船は沈没し、乗組員は一人も助からなかったのですが、アルテミシアを追っていたアテネ船は、アルテミシアの船を「寝返ったイオニアの船」と判断して、別の方面へ向かっていきました。アルテミシアにとってさらに好都合だったのは、海戦を観戦していたクセルクセスに側近の一人が「ご覧ください。アルテミシアの船が敵船を撃沈しましたぞ。」と言うと、クセルクセスは「それは本当にアルテミシアの手柄なのか?」と尋ねました。側近らは、あの船の旗は確かにアルテミシアの船です。そして、撃沈された船は敵の船で間違いないです、と答えました。クセルクセスは側近らに「我が軍の男はみな女になり、女が男になったのだな。」と言った、と伝えられています。なお、ギリシア軍はアルテミシアを生け捕りにした者は1万ドラクマ(先の試算だと、職人1.5人分の生涯年収。現代日本のサラリーマンで考えると約3億円くらいか)の賞金を懸けていました。「アメイニアスが、追っていた船にアルテミシアが乗っていたと知っていれば、必ず追い続けたであろう。」ヘロドトスは記述しています。
このような事件も紹介されています。ペルシア艦隊の敗色濃厚となった頃、に船を失ったフェニキア人が、クセルクセスの元にやって来て「イオニア人は裏切り者です。イオニア人のせいで、我らは船を失いました。」と訴えでてきました。ところが、ちょうどこの時、サモトラケの船がアテネの船に衝突し、アテネの船は沈没しそうになったところ、アイギナ船がサモトラケ船に衝突し、サモトラケ船も沈没し始めました。しかし、サモトラケ人らは得意の投げ槍でアイギナの船を攻撃し、さらに乗り込んで白兵戦を繰り広げた結果、アイギナの船を乗っ取るという武功を立てました。自軍の敗北が確定しており、不機嫌だったクセルクセスは「自分自身の臆病を隠すために、自分たちよりも勇敢な者たちを誹謗することは許せん。」と言って、そのフェニキア人らを処刑しました。これには、イオニア贔屓のペルシア人アリアラムネスが側近にいたことも原因、とヘロドトスは『歴史』で記述しています。
・ギリシア艦隊の武功者
サラミスの海戦で、武功第1とされたのはアイギナの艦隊で、第2がアテネとなりました。個人では、アイギナ人のポリュクリトス、アテネ人のアナギュルス区のエウメネスとアルテミシアを追撃していたアメイニアスの2人の名が挙げられました。
・ペルシア艦隊の武功者
一方、ペルシア艦隊で軍功を評された人物でヘロドトスが記述しているのは、サモス島出身でアンドロダマスの子・テオメストルと、ヒスティアイオスの子・ピュラコスの2人のみを挙げています。ヘロドトスは他にも知っているのですが、あえてこの2人の名前だけを上げたそうです。テオメストルは、この功でサモス島の独裁者となり、ピュラコスは「王の恩人」として大きな領土を与えられたそうです。
・両軍の損害
ペルシア艦隊は大損害を被り、名だたる将も数多く戦死しました。名前が挙げられているのは、クセルクセスの弟であるアリアビグネスです。ギリシア人の被害は少数でしたが、その原因として「ギリシア人は泳ぎに慣れているので、船が沈没しても自分でサラミスまで泳いで帰って来れた。対して、ペルシア人は泳げないので、船が沈んだら誰も生き残れなかった。」とヘロドトスは『歴史』で分析しています。
ちなみに、この時のコリント艦隊の働きには2つの説が紹介されています。1つはアテネ人が積極的に言い触らしていた話ということで、アディマントス率いるコリント艦隊は、臆病風に吹かれて自分たちだけ北に逃走。逃走中に、どこからともなく、1隻の小舟がやってきて「アディマントスよ、そなたはギリシア軍を裏切って逃走しようとしているが、既にギリシア軍は敵軍を撃破しているぞ」と告げました。アディマントスはこの話を信じませんでしたが、その小舟に乗っている者が「信じられぬというなら、自分を人質にして、嘘だとわかったら殺してくれても構わない。」と言ったため、アディマントスは船を返し、決着がついた戦場に到着した、というコリントにはたいへん不名誉な話です。しかし、当然のようにコリント人はこの説を否定していますし、アテネ以外の他ポリスも、コリント艦隊は共に戦った、と証言しています。
<参考 塩野七生氏「ギリシア人の物語T」におけるサラミスの海戦>
「ローマ人の物語」で有名な作家・塩野七生氏の「ギリシア人の物語T」で、テミストクレスを主人公としてサラミスの海戦が描かれていますが、ヘロドトスの『歴史』とは、やや異なる経緯を記していますので、参考までに要点をまとめておきます。
1.ペルシア艦隊によるサラミス包囲についてのアリステイデスの報告
アリステイデスが自身がその目で見た、と伝えた内容は「ペルシア海軍の別動隊がサラミス島とアイギナ島の間を取って、西側からサラミスに向かおうとしていた。」としています。
確かに、ヘロドトスの記述ではペルシア艦隊が封鎖したのは東側のみで、北側は封鎖されていません。実際、コリントの艦隊が戦わずに北に逃走した、という噂があるように、逃げようと思えば北に逃げることができた、ということを示しています。この点は、塩野氏の記述の方が理に適っているように見えます。
2.サラミス海戦の戦闘経過の違い
塩野氏の記述では、西側から浮かしてくるペルシア艦隊別動隊にはコリントの40隻の艦隊を当たらせ、ペルシア艦隊正面に対しては、右翼にアテネ艦隊200隻、左翼にその他の艦隊を並べました。対するペルシア艦隊は主力のフェニキア艦隊300隻が右翼に、左翼にイオニア艦隊500隻となり、別動隊はエジプト艦隊200隻という配置となっています。
そして、主戦場ではアテネ艦隊がフェニキア艦隊を誘い込むように複雑な艦隊運動を行い、その結果ペルシア艦隊はギリシアの艦隊と陸で包囲され、順次撃破されていった。となっています。
3.アルテミシアの件
アルテミシアの戦場での行動も、話の内容が異なっています。「ギリシア人の物語T」では「自軍の敗北を悟ると、船に掲げていたカリアの旗をギリシア旗に変えることで、なんとか落ち延びた。」という内容で、ヘロドトスが伝えるような、誤解と誤認が掛け合わされて評価された、という話にはなっていません。
どちらが正しくてどちらが間違いか、ということは私にはわかりませんが、「歴史」の作られ方を示すいい例だと思いましたので紹介しました。
ペルシア王クセルクセスは、味方艦隊の完敗を見届けると、無言で陣に帰ったそうです。この敗戦でクセルクセスはすっかり戦意を失ったようです。この時点で、ペルシア軍にはまだ20万近くの陸軍があり、それだけでもギリシア軍を圧倒しています。海軍も、主力のフェニキア艦は壊滅したとはいえ、降伏ギリシア人の艦隊はまだ残っていました。しかしクセルクセス本人に戦意は残っていなかったようで、陸軍は部下のマルドニオスに任せることとし、遠征に連れて来ていた妾の子どもたちは、アルテミシアの船に載せて帰国させ、そして自身は来た道を戻るように陸路でペルシアまで帰ることとしました。
「クセルクセス、陸路でぺルシアに帰国の計画」。密偵からこの情報を得たテミストクレスは一計を案じます。クセルクセスの退路を断つ、という作戦です。ペルシア陸軍は、エーゲ海と黒海をつなぐヘレスポントス海峡に船を並べてロープで固定し、それを橋にしてギリシアに渡ってきました。テミストクレスの作戦は、ギリシア艦隊を派遣してこの舟橋を切り、クセルクセスの退路を断つ、というものでした。しかし、この作戦はスパルタのエウリビアデスに反対されます。「退路を断たれたと知ったクセルクセスは、陸戦でギリシア軍を破るしか生き残る道がなくなる。そうなると、残留しているペルシア陸軍を倒すのは難しくなる。それに、自暴自棄になって何をしでかすかわからなくなるのも危険だ。本国に帰ってもらった方が我らの都合に良い。」というわけです。サラミスの海戦に勝利し、ギリシアの英雄となったテミストクレスがどう答えるか、周囲の視線が集まります。テミストクレスの答えは、「エウリビアデスの言う通りだ」と、今度は自身の案を取り下げました。
その代わり、脅しをかけることになりました。サラミスの海戦で捕らえた捕虜の中に、戦死した王弟の従者がいました。その従者に手紙を持たせて、ペルシア軍の陣に返しました。その手紙には
「ギリシア艦隊が、ヘレスポントス海峡の舟橋を切ろうという計画を立てている。反対意見もあるが、実行に移されるかもしれない。」
という内容が書かれていました。これを知ったクセルクセスは、生きた心地がしません。通常、ペルシア王の移動には大勢の従者と豪華絢爛な装飾品が付き従い、移動も威厳をもってゆっくりです。でも、そんな悠長なことをやっていては、舟橋が切られて帰ることができなくなります。クセルクセスは、なんとかペルシア王としての体面を保ちながらも、供回りは最低限に抑え、馬に乗って早め早めに来た道を引き返し、45日でヘレスポントス海峡までたどり着いたそうです。
ちなみに、ギリシア悲劇作家のアイスキュロス(当時45歳前後)はサラミスの海戦に参戦していました。彼が書き、前472年に上演された歴史劇「ペルシア人」はこの時の体験に基づいています。
<英雄となったテミストクレス>
サラミスの海戦以後、ギリシア艦隊は武勲賞を授与するためにイスミア地峡に集まりました。この時、イスミア地峡のポセイドン祭壇の前で、武勲者は誰か?という投票が行われました。この投票は1位と2位を投票する、という形式が取られました。というのも、1位はどの司令官も自分自身に票を入れたからです。しかし、第2位はテミストクレスが圧倒的多数の票を獲得しました。嫉妬深いギリシア人達は、この投票に決着をつけることはせず、そのまま各自国に帰っていきましたが、この結果は、テミストクレスがこの戦役における1番の功労者である、ということを示していました。テミストクレスは、海軍司令官会議では栄誉を受けることができなかったので、栄誉を受けるためにスパルタに向かいました。スパルタはテミストクレスを手厚く歓迎し、エウリビアデスと同じくテミストクレスにも栄誉の証としてオリーブの冠を授けました。さらに、スパルタで最上級の戦車を贈られた他、帰る時には「騎士」と言われるスパルタの精鋭300人にテゲア地区との国境まで送られるという、前例のない歓待を受けました。
英雄となってテミストクレスですが、彼を快く思わない者もいました。アテネ人でアピドナ区のティモデモスという無名の人物が、テミストクレスがスパルタを訪問したこと責めて「テミストクレスが受けた栄誉はアテネの力によるものであって、彼自身の功績ではない」と嫉妬心満載の攻撃を行いました。テミストクレスは、これにこう答えたそうです。「いかにも、もし私が外国人であれば、スパルタからこのような栄誉は受けられなかったに違いない。しかし、貴公はアテネ人であるが、スパルタから栄誉を受けられないことも事実である。」
<歴史暗記 ゴロ合わせ>
無産市民も呼ばれ(480)て参加 サラミスの海戦
従来は戦力としてカウントされていなかった無産市民が参加したという、重要ポイントを使った覚え方です。
ペルシア戦争 略年表
前500年 | |
ミレトス僭主アリスタゴラスによるイオニア地方ギリシア人都市の反乱勃発。 | |
前498年 | |
アリスタゴラス軍がエフェソス付近でアケメネス朝軍に敗北。 | |
前497年 or前496年 | |
アリスタゴラスがトラキアで戦死。 | |
前494年 | |
アケメネス朝がミレトスを攻略。 | |
前493年 | |
イオニア地方の反乱終息。 | |
前492年 | |
アケメネス朝の第1回ギリシア遠征軍進発(ペルシア戦争第1期) しかし、海軍がアトス沖で難破してたために中断。 | |
前490年 | |
マラトンの戦いでギリシア軍勝利(ペルシア戦争第2期) | |
前489年 | |
ミルティアデスがパロス島遠征に失敗 失意のうちに死去 | |
前486年 | |
ダレイオス1世死去 息子のクセルクセス1世が後継者に | |
前483年 or前482年 | |
ラウレイオン銀山で新たな鉱脈が発見される 海軍増強が始まる | |
前481年 | |
秋 | ペルシア再襲来に備えて「ギリシア会議」開催 |
前480年 | |
9月下旬 | サラミスの海戦でギリシア軍勝利(ペルシア戦争第3期) |
前479年 | |
9月下旬 | プラタイアの戦いでギリシア軍勝利 ペルシア戦争終結 |
前478年 | |
パウサニアスがギリシア艦隊を率いてビザンチオンを占領 | |
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