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贖宥状の販売

それは1517年春のことでした。時の教皇・レオ10世(42歳)は、バチカンにあるサン=ピエトロ大聖堂修築資金を集めるため、「贖宥状(しょくゆうじょう)」の販売を指示し、各地で売り出されました。ドミニコ会の修道士・ヨハン・テッツェルはブランデンブルク、メクレンブルク、ザクセン地域で説教をしながら贖宥状を販売していました。「贖宥状」は「免罪符」とも呼ばれますが、簡単に言うと「買った人は、あの世で受けるはずの罰が免除されるという」というかんじのものです。贖宥状を販売すること自体は、教会が何らかの資金を集める必要が生じた場合、わりと一般的に使われる方法であり、この時初めて販売された、というものではありませんでした。

<もうちょっと詳しく カトリックにおける罪と罰>
贖宥状の原語は"Ablassbrief, Beichtbrief"で、日本語訳は「贖宥状」です。「免罪符」という訳語もありますが、後述するように、この訳語はあまり正しくありません。
カトリック神学によると、罪と罰は明確に区別されているそうです。人間には「罪」が存在し、「罪」があることによって与えられるものが「罰」になります。罪は改悛することによって許されますが、罰は改悛するだけでは免除されず、改悛することに加えて何かしらの善行を行うことによって、許しを得られます。善行の代表例が、祈り、断食、献金です。古代では、40日間の断食というような形で行われていました。
時が流れると、善行の代わりとなる行為が認められるようになりました。例えば、ある日数断食する代わりに特定の祈りを行うとか、一定額の献金を行う、とかです。中世ではこの考え方がさらに拡大され、罪を改悛しなくても献金さえすれば罪が許される、と説く聖職者が現れ始めました。これが贖宥状の販売に繋がりました。なので「免罪符」という日本語訳はあまり正しくありません。贖宥状によって免除されるのは「罰」であり、「罪」までは免除されないからです。

現在のサン・ピエトロ大聖堂。バチカン市国の著名な観光スポット。1547年からミケランジェロが改築を引き継いだ。完成は1626年。
この大聖堂の修築資金を贖宥状の販売で調達しようとしたことが、宗教改革の引き金をひいた。
画像提供元:Photo by Futta.NET(無料壁紙配布サイト)

贖宥状販売が濫用されている現状に対し、抗議と怒りの念を抱いたのが宗教改革のリーダーであるマルチン・ルター(Martin, Luther)でした。ルターは1483年11月10日に現在のドイツ中北部にあるアイスレーベンで生まれました。父親のハンスは農民出身の鉱山夫だったそうです。ルターはエルフルト大学で法学を学んだ後、1506年(23歳)にアウグスティヌス会に入会し、1507年(24歳)で司祭に、1512年(29歳)にはウィッテンベルク大学で神学を教えていました。ルターは何度か旅行をしていますが、それ以外はずっと小都市ウィッテンベルクで生活していました。1515年から1516年にかけて、ルターは信仰や教義など、神学上の論点を深く思索し、内面的葛藤と戦っていました。その結果得た結論は「信仰が(信仰でのみ)救われる」でした。人間の義はすべて神の恩寵によってのみ可能であり、人間自身の行いを通じて得られるものではないと境地に達しました(これを「塔の体験」と呼ぶこともあります)。キリストの死と苦しみ、そして神の恵みを通じて人類は贖罪されるという教義を自身の神学理論の中心に据えました。従って、金を払って贖宥状を買いさえすれば罪も罰も許される、などという話は言語道断の理論であるわけです。また、ルターはこれより前にローマを訪れたことがありました。しかし、ルターが目にしたローマはルネサンス時代の芸術の都でした、古代ギリシャ・ローマ時代の美しい建物や、彫刻そして絵画。これらは、美術の歴史から見れば貴重な史料ですし、現代経済から考えても貴重な観光資源となるものですが、ルターにとっては「聖なる都」とは程遠い、腐敗と堕落の都だったのかもしれません。
1517年10月31日、ルターは後に「95箇条の論題」と呼ばれる、神学上の議論のポイント95個を神学の伝統に従ってラテン語で書き、その紙をウィッテンベルク城の教会の門に貼って公表しました。95箇条もあるので、その内容は贖宥状に限ったものではありません。教皇の権威や、教会が定めた法律の運用についても言及しているものでした。

<95箇条の論題(抜粋)>
5.教皇は自らが課した罰か、または教会法の定めによって課した罰以外は、いかなる罰を赦免することもできないし、赦免しようとしてもならない。
21.したがって、教皇の贖宥(免罪)によって、人間はすべての罰から放免され、救われるとのべる贖宥説教者たちは、誤りをおかしている。
32.贖宥状によって自分たちの救いが得られたと信ずる者たちは、それをといた説教師とともに、永遠の罪を受けるであろう。

32番で、贖宥状について明確に否定するばかりか、売る人も買う人も永遠の罪を受けるだろう、と宣言しています。これでは、贖宥状を売っている聖職者の面目は丸つぶれです。ルターはこの論題をドイツの首座司教であるマインツ大司教のもとにも送りました。マインツ大司教は、この論題をローマに送ると共に、ルターが自説を説教して流布させることを禁止するよう求めました。ルターの考えが広まるのを防ごうとしたわけです。しかし、この時既に95箇条の論題はラテン語からドイツ語に翻訳されており、当時既に誕生していた活版印刷術によってドイツ各地へ広まっていきました。
これが、後に「宗教改革」と呼ばれる歴史上の大イベントに発展していったわけです。そのためか、現代ドイツは10月31日を宗教改革記念日として、祝日にしています。

<年号暗記テクニック>
ルターは一語とな(1517)えて宗教改革スタート

年が明けて1518年3月、ルターは「免責についての説教」をはじめ、自分の考えを説明する様々な文書を発表し、聖書からも引用して95箇条の論題を援護しました。時を経るにつれ、教皇と教会の財務に関する問題に対するルターの批判はますます過激になっていきました。4月になると、ルターに反撃する動きが出てきます。フランクフルト・アン・デル・オーデルで開かれた会議で、テッツェル(95箇条の論題で、永遠の罪を受けると言われた贖宥状販売者)がルターについての不満を述べたことがきっかけとなり、ドミニコ会はローマで団結してルター糾弾に立ちあがりました。6月には、新しい教えを勝手に流布したこと、さらには異端の容疑でルターに対する裁判が始まりました。教会も、10月12日から14日にかけて、ローマ教皇特使となったカジェンタ枢機卿にルターは出頭を求めらますが、ルターは自説を棄てることを断固拒否しています。一方、ルターを支援する人物きも現れました。1518年にウィッテンベルク大学のギリシア語教授となったメランヒトン(Melanchthon 21歳)です。メランヒトンの本名は「Schwarzerd(黒い土)」なのですが、それをギリシア語化して「メランヒトン」と呼ばれるようになりました。(かなり珍しい考え方で異名がつけられたと思います。)メランヒトンは1497年2月15日にバーデンのブレッテンで生まれました。母のおじである人文学者のロイヒリンの薫陶を強く受け、ギリシア古典に精通していました。メランヒトンは、ルターに次ぐ指導者として活躍するようになります。ルターとメランヒトンの間に、意見の相違がまったく無かったわけではありませんが、二人の信頼関係は最後まで続いたそうです。
1519年1月には、神学者のヨハン・エック(Johannes Meier von Eck:33歳)がルターに反論する多数の論争集を発表しました。エックは博識で知られるドイツのカトリック神学者です。ちなみに、エック本人はルターの宗教改革に徹底して反対する一方で、カトリック教会の弊害も厳しく批判していました。それはさておき、ここまで来るとさすがのルターも疲れが見えたのか、同じく1月に教皇特使のカール・フォン・ミルティッツと、今後は双方共に意見を公的に発表しないことで合意に至りました(アルテンブルク協定という)。事態はこれでいったん沈静化したように見えましたが、それも束の間でした。

ライプツィヒ論争(討論) (Leipziger Disputation)
この年の6月27日から7月16日にかけて、ザクセン公ゲオルクの仲介により、ライプツィヒでパリ大学、エルフルト大学の神学者を審判として、ルターとエックの神学論争が行われました。当初は、恩恵と自由意志についての議論が交わされましたが、エックがルターを追及しはじめると、ルターの口からカトリック教会に攻撃の口実を与える格好の材料が出てきました。ルターは
1.教皇も公会議も、誤りを犯していること
2.教皇首位権は誤りであること
3.(異端として処刑された)ウィクリフやフスの説にも真理があること
などを認めました。これは、教皇側にとって容認できない考え方でした。教皇は、教会のトップでなければなりません。教皇も公会議も、決して誤ったことを決定したりしませんし、異端とされた説に真理があるなど、教会にはとうてい認めらるものではありません。教皇側は、この論争で得たルターの言質を、ルター破門の材料としたのです。

ルター破門
1520年、ライプツィヒ論争でネタを獲得した教皇庁は、それらを根拠としてルターに対して破門を警告します。これに対してルターは小論文を書いて反論します。しかし、両者の溝は埋まらず、この年の12月10日、ルターはウィッテンブルクのエルスター門の前で大勢の観衆が見守る中、破門を告げる教皇の勅書を焼いて捨て、さらに同じ火で教会法典を焼き払いました。これで、ルターの破門は決定的となりました。
翌1521年1月5日、正式にルター破門を通知する回勅「デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム」が発行され、ルターは「異端」と宣言されました。この時、ルターは38歳でした。ルターが破門されたことを受けて、世俗権力もルターの扱いを決めていきました。神聖ローマ皇帝・カール5世(20歳)は、4月17、18日に開催されたヴォルムス国会にルターを呼び出します。カール5世はルターに自説の撤回を要求しましたが、ルターはそれを断固拒否。結果、ルターに帝国追放令が出され、一切の法的権利が剥奪されることになりました。こうなてしまっては、ルターはドイツ内で(神聖ローマ帝国内で)これまでのように生活することは期待できませんでしたし、いつ何どき命を狙われるか、わかったものではありません。そんな時、ルターを支援する人物が現れました。5月3日、ルターはウィッテンブルクに帰る途中で何者かによって拉致された、ように見せかけて保護されました。ルターを保護したのはザクセン選帝侯フリードリヒ3世(57歳 「フリードリヒ」という名前はたいへん多い名前なので、ここでは彼を「ザクセン選帝侯フリードリヒ3世」と呼びます。ちょっと長いですが)です。ザクセン選帝侯フリードリヒ3世は、当時の神聖ローマ帝国内の諸侯の中でも最有力者と考えられていた大貴族でした。ルネサンス的教養に溢れたザクセン選帝侯フリードリヒ3世は「賢侯」と呼ばれ、自領に多くの芸術家を招く他、1502年にウィッテンブルク大学を設置し、1508年にルターを神学の教授に迎えていました。また、カール5世の神聖ローマ皇帝即位にも、フリードリヒ3世は協力している実績がありました。ルターにとっては、たいへん頼りになる庇護者でありました。フリードリヒはルターに「ユンカー・イェルク(騎士ゲオルグ)」という偽名を与えて自領のヴァルトブルク城にかくまいます。ルターはそこで新約聖書を古代ギリシア語からドイツ語へ翻訳するという、これまでになかった活動をしています。5月8日にヴォルムス勅令が出され、ルターとそれに追随する者は「帝国の無法者」だ、と宣言されましたが、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世とルターにはあまり影響はなかったようです。ルターは、カトリックが定める様々な制度(例えば、告解や赦罪、聖職者の独身禁欲主義など)を批判を続けました。これらの批判は、少しずつ諸侯や民衆に浸透していきました。
1522年3月1日、ルターはザクセン選帝侯フリードリヒ3世が引きとめるのを固辞し、ウィッテンブルクに戻りました。そして、ウィッテンブルクの人々に暴力・武力を行使する「神の言葉の説教」を行いました。また、教会の礼拝式も改革されました。

ルターの活動はこの後も続きました。ルターはドイツ語版新約聖書を配りながら布教を続けています。しかし、宗教改革の主役は他に移っていきました。

ルターの宗教改革 略年表                                
1517年
サン・ピエトロ大聖堂修築資金調達のため、贖宥状が販売される。
10月31日ルター(34)が95箇条の論題を発表
1518年
3月ルター(35)が「免償についての説教」に加え、様々な文書を発表
4月フランクフルト・アン・デル・オーデル会議でドミニコ会がルター糾弾に立ちあがる
6月新しい教えを流布したことと異端の容疑でルターに対する裁判が始まる
10月ルターが教皇特使カジェンタ枢機卿に出頭を求められるも、自説を棄てることは拒否
1519年
1月神学者ヨハン・エックがルターに反論する多数の論争集を発表する
ルター(36)と教皇特使カール・フォン・ミルティッツが、今後は双方共に意見を公的に発表しないことで合意(アルテンブルク協定)
ルターとエックが論争 ルターが教皇の絶対的権威に疑問を呈する(ライプツィヒ論争)
1520年
6月教皇庁がルター(37)に破門を警告。ルターはこれに小論文で反論
12月10日ルターがローマ教皇の回勅と教会文書をヴィッテンベルクのエルスター門の前で焼き払い、教皇庁との決別が決定的となる
1521年
1月5日正式な破門を通告する回勅「デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム」により、ルター(38)は異端者と宣告される
4月ヴォルムスの国会 ルターが一切の法的権利を剥奪される
5月3日ザクセン選帝侯フリードリヒ3世がルターをヴァルトブルク城にかくまう
5月8日ヴォルムス勅令により、ルターとその追随者は帝国の無法者と宣言される
1522年
3月1日ルター(39)がザクセン選帝侯の意思に反してヴィッテンベルクへ戻る

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