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| 現在のサン・ピエトロ大聖堂。バチカン市国の著名な観光スポット。1547年からミケランジェロが改築を引き継いだ。完成は1626年。 この大聖堂の修築資金を贖宥状の販売で調達しようとしたことが、宗教改革の引き金をひいた。 画像提供元:Photo by Futta.NET(無料壁紙配布サイト) |
| 1517年 | |
| 春 | サン・ピエトロ大聖堂修築資金調達のため、贖宥状が販売される。 |
| 10月31日 | ルター(34)が95箇条の論題を発表 |
| 1518年 | |
| 3月 | ルター(35)が「免償についての説教」に加え、様々な文書を発表 |
| 4月 | フランクフルト・アン・デル・オーデル会議でドミニコ会がルター糾弾に立ちあがる |
| 6月 | 新しい教えを流布したことと異端の容疑でルターに対する裁判が始まる |
| 10月 | ルターが教皇特使カジェンタ枢機卿に出頭を求められるも、自説を棄てることは拒否 |
| 1519年 | |
| 1月 | 神学者ヨハン・エックがルターに反論する多数の論争集を発表する |
| ルター(36)と教皇特使カール・フォン・ミルティッツが、今後は双方共に意見を公的に発表しないことで合意(アルテンブルク協定) | |
| 夏 | ルターとエックが論争 ルターが教皇の絶対的権威に疑問を呈する(ライプツィヒ論争) |
| 1520年 | |
| 6月 | 教皇庁がルター(37)に破門を警告。ルターはこれに小論文で反論 |
| 12月10日 | ルターがローマ教皇の回勅と教会文書をヴィッテンベルクのエルスター門の前で焼き払い、教皇庁との決別が決定的となる |
| 1521年 | |
| 1月5日 | 正式な破門を通告する回勅「デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム」により、ルター(38)は異端者と宣告される |
| 4月 | ヴォルムスの国会 ルターが一切の法的権利を剥奪される |
| 5月3日 | ザクセン選帝侯フリードリヒ3世がルターをヴァルトブルク城にかくまう |
| 5月8日 | ヴォルムス勅令により、ルターとその追随者は帝国の無法者と宣言される |
| 1522年 | |
| 3月1日 | ルター(39)がザクセン選帝侯の意思に反してヴィッテンベルクへ戻る |