騎士戦争 (Ritterkrieg)
ルターが投じた「宗教改革」という石は、これまでのカトリック教会や世俗権力の抑圧に耐えかねていた強力なエネルギーを暴発させました。まず最初に起こったのが、騎士戦争(帝国騎士の乱、とも)です。この頃、かつては戦場の華であり、そして重装騎兵としての戦力を誇っていた騎士達の没落が目立つようになりました。火縄銃などの火器が発達するにつれて、重たい甲冑の防御力を大きく下げ、かえって重量というデメリットの方が目立つようになりました。また、戦術面でも変化が起きていました。軍の主力となるのは、長槍を装備した徒歩の傭兵で、長槍兵が方陣を組んで敵と戦うという、古代ギリシャのファランクス戦法のような戦い方が主流になっていました。そのため、重装騎兵は限定された使い方しかできず、あまり活躍できないようになっていたのです。また、平時においても、経済面での困窮が目立つようになりました。
そんな時にルターが現れ、贖宥状の販売を批判し、現在のカトリック教会の体制に異議を唱えたことが、没落していた騎士の心に火をつけました。1522年9月、ライン川流域のシュワーベン、フランケン地方の騎士達は、F・ジッキンゲン(41歳)、U・フッテン(34歳)らに率いられ、トリエル大司教兼選帝侯を襲撃し、騎士戦争が始まりました。
反乱騎士達の首領となったジッキンゲンは、1481年3月2日、エーベルンブルクにて生まれ、1517年(36歳)に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世に仕えていました。1519年の神聖ローマ皇帝選挙では、カール5世を助けた功で帝国侍従・顧問官に任命されています。この経歴からすると、現体制に反対するような立場には感じられませんが、ジッキンゲンは相棒のフッテンに感化され、ルターの宗教改革に著しく共鳴しました。
フッテンは、1488年4月21日にフルダ近郊で生まれました、フルダの修道院学校に入りましたが途中で脱走しています。1515年(27歳)、従兄弟がウルリヒ公爵に殺害されたのを機に、権威に対抗する文筆と闘争の世界に入っていきました。文才に優れていたフッテンは人文主義の大物エラスムスと交流した他、詩人としても評価されており、1517年にはカール5世から桂冠詩人に叙せられています。フッテンは教会を激しく非難し、愛国心を鼓吹して騎士達を鼓舞する、精神面での指導者となりました。
ジッキンゲン、フッテンらの軍に襲撃されたトリエル大司教は、すぐにファルツ伯とヘッセン伯爵ヘッセン・フォン・フィリップ(18歳)に救援を要請し、態勢を整えると反撃に転じました。結果、騎士軍は敗北。ジッキンゲンは居城のラントシュトゥールに敗走し、その後1523年5月7日、城内で死去しました。フッテンはスイスのチューリヒに逃亡し、そこで宗教改革を進めていたツヴィングリに保護されました。しかし、それから間もない1523年8月29日、チューリヒ近郊湖上のウーフェナオ島にて病気で亡くなりました(享年35)。
こうして騎士戦争はあっけなく終焉を迎えました。騎士戦争の評価はいくつかあるようですが、あまり重要視されることはないようで、宗教改革の過程で勃発した私闘(フェーデ)に過ぎない、と見る書物もあります。

ドイツ農民戦争 (Bauernkrieg)
騎士戦争よりも遥かに影響が大きく、歴史的に重要な意義を持っているのが、騎士戦争が終結した翌年1524年から始るドイツ農民戦争(単に「農民戦争」とも。ここでは「ドイツ農民戦争」と書きます)。
この頃のドイツ農民の生活は、まさに圧政に耐えて最低限のところで生き延びている、という状態でした。どのような圧政だったかというと、とにかく税金が重かったようです。教会に収穫の10分の1を納める「十分の一税」をはじめ、山で薪を拾うと税金を取られ、川で魚を釣っても税金を取られ、死亡すると死亡税が取り立てられるなど、満足に生きていくのも難しい環境に置かれていました。そんな中、ルターによる宗教改革の波が起ります。この波に乗って、農民たちに蜂起を促したのがトマス・ミュンツァーでした。ミュンツァーは1490年頃、シュトルベルクの生まれ。ルターの説に共感し、1519年のライプツィヒ論争の後の1520年、ルターの推挙を得てツウィッカウへ布教を行いました。しかし、ミュンツァーの論理はルターのそれよりもかなり急進的で過激なものでした。ミュンツァーは、カトリック教会とそれに結託している世俗の領主らは堕落の道を歩んでおり、現在の秩序は終焉を迎えるであろう、と説きます。そして、その後、本来の平等を取り戻してこの地上に「神の国」を建設するのだ、という革命的な説教を行いました。そのあまりに過激な説教は、共感者を増やすことにはつながらず、むしろあちこちで論争を巻き起こしたために、ミュンツァーはツウィッカウを退去します。次はプラハに行って説教を行いますが、ここでも同じようなことになり、退去して今度はザクセンへ、ということを繰り返していました。元々、ルターにはカトリックを打倒するという革命的な考えは持っていません。そんなルターと、革命を考えるミュンツァーはやがて対立するようになり、ついに決別しました。1523年3月、ミュンツァーはアルシュテットで牧師となり、ドイツ語による礼拝を導入し、そのための礼拝式も新たに作りました。そして、蜂起の時を窺っていました。日々の圧政に耐えかねているドイツ農民にとっては、ルターの理論よりもミュンツァーの革命論の方が心に響いたようでした。
騎士戦争が終わった後、1524年末には農民戦争の前触れとも言える暴動がニュルンベルクとチューリンゲンで発生しました。そして1525年2月に蜂起の絶好の機会が訪れます。この頃、神聖ローマ皇帝カール5世のライバルであるフランス王フランソワ1世は、北イタリアをフランスの領土とすべく、自ら大軍を率いて北イタリアに進軍してきました。カール5世も大軍を動員してフランス軍の撃退に送りだしました。これはチャンスです。各地で農民達が武装蜂起し、教会や領主を襲撃しはじめました。各地で大暴れする武装農民らに貴族らは恐れおののき、農民軍はあちこちで略奪を行うようになりました。時がたつにつれて、武装蜂起は革命を起こすためではなく、単に略奪をして日ごろの憂さ晴らしをしているような状態になりました。そのため、ルターも当初は農民らに同情的な態度をとっていましたが、暴徒化する農民を見て、さらにミュンツァーがある農民軍の指導者となっていることを知ると、「現世の主権は神の摂理であり、これに刃向うのは涜神行為である」と批判するようになりました。一方、2月末にゼバスティアン・ロッツァーとクリストフ・シャッペラーによって書かれた「シュヴァーベン地方における農民団の12カ条」という、農民戦争の基本綱領がありますが、その内容は比較的温和なものであったそうです。
この大規模な農民反乱は、最初はかなり恐れられていましたが、やがてすぐに鎮圧の目処がつきはじめました。まず、各地の農民軍同士はそれぞれ独立しており、横の連携はほとんどありませんでした。これはつまり、各個撃破が可能であることを意味します。そして第2に、北イタリアでの対フランス戦に派遣された神聖ローマ軍が、フランソワ1世を捕虜にするという快勝を挙げて、ドイツに帰還してきたことです。この軍を個別バラバラに行動する農民軍に順番に当てていけば、農民反乱もやがて収束する、という目処が立ちました。しかし、これには懸念もありました。神聖ローマ軍といっても、その多くはランツクネヒトと呼ばれるドイツの傭兵隊で構成されています。このランツクネヒトの兵士たちは、多くが農民出身なのです。ランツクネヒトを農民鎮圧に用いると、逆に農民側に加担するのではないか、という不安がありました。実際、バイエルン侯国の官房長レオンハルト・フォン・エックは、ランツクネヒトよりもボヘミア(現在のチェコ)傭兵を使うことを提案したりしています。結局、ランツクネヒトが反乱鎮圧に宛てられることになりました。レオンハルトの懸念は一部当たりでした。ランツクネヒトの一部は、同胞である農民軍と戦うことを嫌い、むしろ農民軍に味方して、戦術や武器の使い方を教える者たちが出ました。しかしこれは少数派で、多くのランツクネヒトは雇い主の下に残りました。また、騎士戦争の鎮圧に活躍したヘッセン・フォン・フィリップも農民軍鎮圧に大きく貢献しました。
その後、農民軍は一気に瓦解していきました。ライプハイム(4月4日)、ヴルツァッハ(4月14日)、ベブリンゲン(5月12日)、ツァベルン(5月16日)と連敗を重ねます。ミュンツァーは5月15日のフランケンハウゼンの戦いで敗北し、捕えられました。反乱の首謀者であるミュンツァーには苛酷な拷問が加えられ、自説を棄ててカトリックに改宗させられてkら、5月27日に斬首となりました(享年35?)。

こうして農民戦争は鎮圧されました。民衆による下からの改革は潰されましたが、ルター派はその後すぐに、政治的妥協策と認められることになります

なお、ルターは農民戦争が終結して間もない6月13日、元修道女のカタリナ・フォン・ボラと結婚しました。夫婦は後に6人の子供をもうけます。

騎士戦争と農民戦争 略年表          
1522年
9月騎士戦争 開戦
1523年

騎士戦争 終結
1524年
ニュルンベルクとチューリンゲン(現バイエルン)で農民戦争の前触れとなる騒乱勃発
1525年
2月頃ドイツ農民戦争 開戦
5月頃ドイツ農民戦争 終結



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