Last update:2017,Mar,25

2.モンゴル高原統一へ

ケレイト族との同盟 増える仲間

big5
「さて、弱者の立場にあったテムジンにも、ついに頼れる味方が登場します。ケレイト族の族長トオリル(生年不詳 中国語史料では通称「ワン・ハン」)です。ここでもう一度当時のモンゴル高原の勢力分布を見てみましょう。」

big5
「まず、テムジンらが属するモンゴル族の縄張りには、オノン川が流れていました。モンゴル高原での位置関係は、中央北部といったところでしょうか。その東には敵対しているタタル族がいて、彼らの縄張りはケルレン渓谷の付近でした。モンゴル族の南東に位置しているのがトオリルのケレイト族です。ケレイト族の縄張りはオノン川上流とセレンガ川上流、それからトーラ渓谷とオルホン渓谷のあたりを支配下に置いていました。タタル族の縄張りからさらに南東に行くと、金が建設した長城に沿った領域を支配しているオングト族がいました。西に目を向けると、バイカル湖とセレンガ川の間を縄張りにしているメルキト族がいます。さらに西方のイルティシュ川からタルバガタイ山脈のあたりにナイマン族、ウイグリアスタン(タリム盆地)のあたりにカルルク族、というかんじです。
なお、これら部族を言語で分けると
モンゴル語:モンゴル族、メルキト族、タタル族
トルコ語:カルルク族、オングト族
と、なります。カルルク族とオングト族はトルコ語を話すという共通点の他に、ネストリウス派キリスト教を信仰していたことも共通点です。
これらの部族のうち、当時モンゴル高原の遊牧民で最も繁栄していたのはケレイト族でした。テムジンは、強大なケレイト族と同盟したんです。」
日本史好きおじさん
「当時、最弱とも言えるテムジンの部族が、最強のケレイト族をよく味方につけましたな。どのように交渉したのですか?」
big5
「実は、トオリルはテムジンの父エスゲイの大親友だったんです。「盟友」という日本語訳が使われることもあります。当時のモンゴル族の言葉では「アンダ」と呼ばれていました。「個人間の同盟」というところでしょうか。トオリルは、アンダだったエスゲイの息子がいろいろ苦労しているのを見て、助けてやろうと思ったのではないかと思います。」
名もなきOL
「優しいですね。トオリル。」
big5
「トオリル率いるケレイト族との同盟により、テムジン率いるモンゴル族は次第に勢力を拡大していくことになります。もう一つ重要なことは、テムジンの人柄が多くの優れた仲間を作っていった、ということです。その一人がボオルチュ(生没年不詳)です。二人の間にはこんなエピソードがあります。
ある時、テムジンの馬が8頭盗まれてしまいました。遊牧民にとって、馬はなくてはならない財産です。テムジンは馬泥棒を追いかけました。その途中でボオルチュに出会います。ボオルチュはテムジンに馬泥棒らが逃げた方向を教えるだけでなく、テムジンと一緒に馬泥棒を追いかけたんです。そして二人は馬泥棒を発見し、無事に馬を取り返しました。テムジンはお礼に、馬を何頭かあげるといいましたが、ボオルチュは8頭とも君の大事な馬なんだから受け取れない、と辞退したんです。それ以来、二人は強い信頼関係で結ばれました。その後も、テムジンと苦楽を共にしたボオルチュは、後に「ダルハン(Darkhan)」という特権身分の資格を与えられ、アルタイ山脈方面の軍を管轄する右手の万戸長に任命されています。」
高校生A
「ボオルチュもカッコイイですね。お礼を受け取らないなんて、男前です。」
big5
「もう一つ有名なエピソードが、シギ・クトクの話です。テムジンがタタル族との戦いに勝利し彼らの陣地を占領した時、ゲルの中に一人の男の子が取り残されているのを発見しました。おそらく、戦に敗れて逃げる時の混乱の中で、置いてけぼりをくらってしまったのでしょう。その男の子はきれいな毛皮を着て、金の耳飾りをつけていたので、タタル族の中でも身分の高い家の子のようです。テムジンは男の子を連れて帰り、シギ・クトクと名付け、一番下の弟として育てました。成長したシギ・クトクは、主に内政面で活躍しました。モンゴル帝国の法律を制定し、最高位の裁判長を務めたほか、特技の算術を活かして税の仕組みを整えています。
他にも、テムジンは身寄りのない敵方の子供を引き取って育てたそうです。」
名もなきOL
「チンギス・ハーンって怖いイメージがありましたけど、子供や恵まれない人には優しかったんですね。」
big5
「他にもたくさんあるのですが、特に有名な仲間はジャムハ(ジャムカ、とも)です。ジャムハはテムジンのアンダでした。ただ、後にジャムハはテムジンと戦うことになりますが、それまでは強力な味方として活躍していました。」


メルキト族の襲撃とテムジンの苦難

big5
「こうしてテムジンは、仲間を増やして徐々に力をつけていきました。そんなある日、事件が起こります。元々、モンゴル族と仲があまり良くなかったメルキト族が、突然群れをなしてテムジンを襲撃したんです。テムジンはなんとか脱出しましたが、妻のボルテは逃げ遅れメルキト族に捕まってしまいました。」
日本史好きおじさん
「その話は聞いたことがありますぞ。たまには私にも話をさせてください。
ウォッホン。
メルキト族に捕らえられたボルテは戦利品としてメルキト族のある男の妻にされてしまったのです。テムジンは、トオリルやジャムハといった盟友の協力を得て、メルキト族に逆襲をかけてボルテを奪い返したのですが、その時ボルテは既に妊娠していたのです。その後、間もなくボルテは男の子を出産しました。男の子はジョチ(ジュチとも。最近はジョチと書くことが多いようです。)と名づけられ、テムジンの長男とされたのですが、このような経緯があったために、ジョチは本当はテムジンの子ではない、という話がたびたびささやかれました。テムジンはそのようなことを一切気にせず、ジョチを自分の子として扱ったのですが、大人になってから次男のチャガタイがジョチをメルキト族の子どもだと、罵倒して喧嘩したりするようになりました。それで、テムジンとジョチは自分たちの血の繋がりについて葛藤するわけですね。」
big5
「ありがとうございます。日本史好きおじさんの話は、中国語史料の「元朝秘史」が伝えるエピソードです。せっかくなので、この話はちょっと詳しく扱いましょう。「元朝秘史」が伝えるメルキト族の襲撃とボルテの出産については、ほぼ日本史好きおじさんの話と同じなのですが、いくつか補足すると
@実はテムジンの母であるホエルンは、最初はメルキト族の男と結婚していたのだが、父エスゲイがメルキト族との戦いに勝利したときに、ホエルンを奪って自分の妻とした、という過去があった。
Aそのため、メルキト族は過去の恨みの報復としてボルテを奪い、ホエルンの元夫の弟に妻として与えた。
という背景があります。
日本で有名な小説『蒼き狼』では、元朝秘史寄りの立場で描かれていますね。」
日本史好きおじさん
「ということは、もう一つの史料では話が違うのですかな?」
big5
「ペルシア語史料の「集史」では、「元朝秘史」よりもあっさりした話になっています。メルキト族が襲撃し、ボルテが捕らえられるところまでは一緒なのですが、この時既にボルテはテムジンの子を身ごもっていた、と明記しています。出生の謎なんかないわけです。また、奪還の仕方がまったく違います。ボルテ奪還に動いたのはテムジンというよりもトオリルで、トオリルがメルキト族に使者を送り、「テムジンは自分の子どもと同様だから、ボルテを返してくれ」と頼み、メルキト族はこれを受け入れ、ケレイト族にボルテを送り返しました。テムジンは、セベという男をボルテ受取の使者としてケレイトに送り、ボルテはセベに連れられて帰ったのですが、その途中で産気づいてそのまま出産。セベは赤ちゃんが冷えないように自分の服や手持ちの粉やらなんやらで臨時の防寒着を作り、大事に抱えてテムジンのところまで帰りました。
という話になってます。ちなみに「ジョチ」とはモンゴル語で「旅人・客人」という意味だそうです。ジョチは、生まれながらにして旅をしてテムジンの元にやってきた、という由来かと思います。「元朝秘史」が伝えるような戦いも葛藤もありません。」
日本史好きおじさん
「・・・日本史でもそうですが、自分が信じていた話の真偽が実は疑わしい、と知ると、なんだか悲しい気分になりますな。。」
big5
「そうですね。でも、このエピソードに関しては、「元朝秘史」と「集史」のどちらが正しいか、他に検証できる史料も無いようなので、決着をつけることはできません。
あえて挙げるとすれば「元朝秘史」は、ホエルンは最初メルキト族の男と結婚したとなっていますが、ホエルンが所属するコンギラト族は、習慣的にモンゴル族の男と結婚していたそうです。なぜ、ホエルンが例外的にメルキト族の男と結婚したのか、理由が不明のままになっています。だからといって、これを理由にして「元朝秘史」は誤り、と断定することはできません。
もしかしたら、両方とも事実とは違うのかもしれません。なので、歴史小説家や作家は、それぞれの考えに基づいて、話を構築していくわけですね。」

モンゴル族の勢力拡大

big5
「それから時が流れ、テムジンとボルテの間には1184年には次男チャガタイ、1186年には三男オゴデイが誕生。家族は賑やかになりました。牧畜の腕前も一流で、家畜の数も大幅に増えていました。そうなると、テムジンの能力と名声が遊牧民の間でますます評判になり、テムジンの元には多くの遊牧民が集うようになりました。この中には、父エスゲイが亡くなった後にテムジン達を見捨てた人々も混じっていたそうですよ。」
名もなきOL
「一度は自分を捨てた彼らを受入れたのも、テムジンの器の大きさを示しているんでしょうね。」
big5
「そして1189年頃、テムジンはキヤトのリーダーに選ばれました。この時、テムジン27歳です。1193年には四男トゥルイが誕生しています。」
日本史好きおじさん
「31歳で4人の息子のお父さんですか。若いですな。」
名もなきOL
「男の子4人って、家が壊れそう。」
高校生A
「家は折りたたんで運べるゲルだから、たぶん大丈夫ですよ。」
big5
「さて、若いお父さんとなったテムジンに、ここで一つの節目が訪れます。
1195年から1197年の間に「クリルタイ」と呼ばれる会議が開かれ、モンゴル族のリーダーである「ハン」に即位しました。これは第一次即位、と呼ばれています。実は、チンギス・ハーンは2回「ハン」に即位しているらしいです。後述する2回目の方が有名なので、教科書などには2回目の即位を「ハン」即位式としていることが多いです。」
名もなきOL
「第一次即位は、時期も未確定なんですね。」
big5
「そうです。歴史家が悩むところです。さて、ハンとなったテムジンは、公平な政治のために「ヤサ」と呼ばれる法典の編纂を始めました。残念ながら、現在ではヤサはほとんど失われてしまい、断片しか残っていませんが、モンゴル族に先祖代々伝わる伝統を基にした政治・倫理綱領のようなものだったそうです。
さて、この頃に起きた事件の一つに、中国北部の大国・金とタタル族の戦いがありました。1196年、金とタタル族の関係が悪くなり、金の皇帝はタタル族討伐の大軍を送ることを決定。金は、ケレイト族のトオリルにもこの戦いに参加するように要請しました。トオリルは金の要請に応えて軍を率いて出陣します。これに伴い、トオリルと同盟しているテムジンも出陣しました。タタル族は城に立て籠もって抗戦しましたが、金・ケレイト・モンゴル連合軍の攻撃でついに落城しました。この勝利に金の皇帝は大喜びし、戦勝記念碑を立てています。また、協力したモンゴルの遊牧民への恩賞として、トオリルをモンゴル高原の王に任命しました。なお、テムジンは百戸長(百人の兵士の長、という意味)に任命されています。今のところ、テムジンの名前が公的な史料に載った最初の事件になっています。
ちなみに、この戦勝記念碑が発見・解読されたのはわりと最近で1991年のことです。さらにちなみに、この戦勝記念碑を発見したのは日本人リーダーのチームです。日本のモンゴル史研究者の加藤晋平氏がリーダーを務めたチー厶でした。」
日本史好きおじさん
「おぉ、日本人の発見なのですな!素晴らしい!」
名もなきOL
「モンゴルの歴史を研究している日本人がいるんですね。そのことにビックリです。」
big5
「チンギス・ハンやモンゴル帝国は世界史レベルの知名度なので、外国人の歴史研究者も多いんですよ。むしろ、地元モンゴルよりも多いかもしれません。。
さて、タタル族討伐戦の後の話です。ケレイト族のトオリルは自信満々で我が世の春を謳歌していました。なにしろ、金の皇帝から「モンゴル高原の王」に任命されたわけですから、そんじょそこらの遊牧民の族長らとは格が違います。ただ「モンゴル高原の王」であるわりには、トオリル本人の能力はあまり高くなかったようです。ある時、トオリルは西のナイマン族と戦ったのですが、結果は大敗北。自慢の宝物や家畜、さらには家族まで捕らえられるという大ピンチに陥ります。困ったトオリルは命からがらテムジンにもとに逃げ込みました。」
高校生A
「なんか、同盟当初と比べて力関係が逆転してますね。」
big5
「まさにそうですね。1199年、テムジンはトオリルを助け、ナイマン部族から奪われたものを取り返してあげています。」
高校生A
「なんか、モンゴル高原の王にしてはだらしないですね。テムジンの方が、モンゴル高原の王にふさわしいんじゃないでしょうか。」
big5
「そうです。なのにトオリルは「自分はモンゴル高原の王なんだ!金の皇帝に認められてるんだぞ!」と威張り散らしていたわけです。そのような態度は、やがて周辺部族の支持を失っていくことになります。」

タタル族討伐とケレイト族滅亡

big5
「状況が大きく動いたのは1202年(テムジン40歳?)のことでした。テムジンはついにタタル族を完膚なきまでに叩きのめし、長い戦いに終止符を打ちました。タタル族の族長はじめ、逆らう者は殺されましたが、かなりの数のタタル族がテムジンに降伏しました。これ以後、モンゴル軍にはタタル族の兵も数多く従軍するようになり、テムジンの軍事力はかなり大きくなったと考えられています。」
名もなきOL
「実力者がメキメキ実力をつけてきたんですね。」
big5
「その一方で、ケレイト族のトオリルは相変わらずだったようです。1203年、トオリルに匿われていたジャムハ(この時、テムジンとジャムハは敵対関係にありました)は、トオリルにテムジンを不意打ちして倒すべき、と薦めます。テムジンは最近人気を集めているので、今のうちに倒してしまわなければ、モンゴル高原の王という地位が危ない、というかんじでトオリルを説得したわけです。その話に恐れを抱いたトオリルは、ある日突然大軍を率いてテムジンを襲撃しました。」
名もなきOL
「え、あの優しかったオン・カンがテムジンを裏切って攻めて来たんですか?しかも不意打ちで。がっかりだなぁ・・」
日本史好きおじさん
「まぁ、でも不意打ちは戦術としては有効ですぞ。日本の戦国時代でも・・」
高校生A
「でも、同盟相手を突然襲うのは、明らかにルール違反ですよね。」
big5
「その通りです。不意打ちが戦術として有効なのは事実ですが、その相手が同盟国だった場合は完全にルール違反です。さて、トオリルの急襲を受けたテムジンは少数ながらも奮戦しましたが、やはり多勢に無勢では限界があります。テムジンは不利な戦を続けないで、東のコンギラト族のもとへと逃れていきました。そこで力を回復させ、逆襲の機会を伺いました。
一方、トオリルはテムジンを追い払ったことに気を良くし、すっかり油断していました。それを知ったテムジンは、軍を率いて出陣し、一夜のうちに馬を走らせてケレイト族領に侵入。トオリルを襲撃しました。」
高校生A
「今度はテムジンが不意打ちを食らわしたんですね。」
big5
「そうです。この時、モンゴルとケレイトは当然敵対関係にありますから、不意打ちされてもケレイトは文句が言えません。結局、トオリルはまともに迎撃することもできず、テムジンの軍から逃げ回るだけでした。トオリルは、かつて戦ったことがある西のナイマン部族の元に落ち延びようとしましたが、国境を守るナイマン部族の兵士らに発見されます。トオリルは「自分はモンゴル高原の王、ケレイト族のトオリル・ハンだ」と名乗りましたが信じてもらえず、殺されてしまいました。1203年、ケレイト族はこうして滅びました。」
日本史好きおじさん
「トオリルに、テムジン襲撃を勧めたジャハはどうなったのですかな?」
big5
「ジャムハは何とか落ち延びて、ナイマン族に受け入れられました。そして、再びテムジンと戦うためにナイマン族を説得しはじめます。」
高校生A
「すごい執念ですね。」
big5
「本当にすごい執念だと思います。元アンダだったテムジンには絶対に従いたくなかったのでしょうね。それでは、次へ行きましょう。」

ナイマン国滅亡

big5
「トオリルのケレイトが滅んだ翌年の1204年、ケレイトの西隣にいたナイマン族は、モンゴル族が最近にわかに成長しているのを見て危機感を持ちました。味方になりそうな部族を検討したところ、長城付近を縄張りにしているオングト族が味方になると見込んで、モンゴル族に対する共同戦線を持ちかけました。しかし、見込は完全にハズレでした。オングト族は協力するどころか、ナイマン族の計画をテムジンに伝えたんです。ナイマン族の計画を知ったテムジンは、逆にナイマン族に攻撃をしかけました。不意打ちを受けたナイマン族はたちまち敗走し、ナイマンの王ダヤン・ハン(漢字では「太陽汗」)はアルタイ山の戦いで戦死。ナイマン族の国は滅びました。」
高校生A
「ジャムハはどうなったんですか?」
big5
「ジャムハはナイマンを捨てて再び逃亡し、モンゴル族と元々仲が悪いメルキト族のもとへと落ち延びていきました。」
高校生A
「まだテムジンと戦い続けたんですね。本当にすごい執念だ。」
big5
「ただ、ジャムハの抵抗もここまででした。1205年、ジャムハはついに捕らえられてテムジンの元へ引き出されました。テムジンは、降伏して自分に仕えるように説得したのですが、ジャムハは断固拒否。ジャムハは処刑されました。」
日本史好きおじさん
「テムジン宿命のライバルもついにここで倒れたのですな。」
big5
「なお、ジャムハが捕らえられた経緯は、2つの話が残っています。1つは、テムジンがメルキト族を攻撃し、この戦いでジャムハと捕らえた、という話。もう一つは、ジャムハの部下の裏切りによるものです。一部の部下は、逃亡生活を続けるよりもジャムハを捕まえてテムジンに差し出せば、褒美ももらえるだろう、と期待しました。ある日、ジャムハを不意打ちして捕らえ、そのままテムジンの元へ連れて行きました。彼らはテムジンに褒美をくれと言ったのですが、このような裏切り行為はかえってテムジンの怒りを買い、裏切り者の部下たちはすぐに斬首となりました。
ここから先は、一つ目の話とほとんど同じです。テムジンはジャムハを助命しようとしたのですが、ジャムハ断固拒否して死を望んだため、テムジンもついにジャムハの意向を汲みました。ちなみに、処刑の方法が特徴的です。斬首などではなく、ジャムハを皮袋に入れて地面に転がし、大勢の馬を走らせて轢き殺す、というものでした。」
名もなきOL
「えぇ?なんでそんな残酷な殺し方をしたんですか?もっと別の方法があったんじゃ・・・」
big5
「私も最初はそのように感じたのですが、当時、この殺し方は血を流さないで殺すという、貴人のための方法だったそうです。
ともあれ、こうしてナイマン国もあっさりと滅んでしまいました。ちなみに、ダヤン・ハンの息子の一人にクチュルクという人物がいました。クチュルクは、なんとか命拾いして「西遼」という国に落ち延びていき、なんとクーデターを起こして西遼を乗っ取っています。
また、モンゴル族に協力したオングト族は、モンゴル族の仲間として信頼を得ることができました。オングト族は、遊牧民には珍しくネストリウス派のキリスト教徒が多かったため、その後発展を続けるモンゴル帝国内で、ネストリウスはキリスト教は安定した地位を築いていきました。
さらにちなみに、ナイマン族征討のきっかけについては別の話もあります。モンゴル史研究者である考古学者・白石典之氏の著書『チンギス・ハンの墓はどこだ?』によると、ナイマン族のダヤン・ハンは、モンゴル族についての予備知識ほとんど無しでモンゴルに攻め込んで大敗した、と記しています。先にナイマン族がモンゴル族を攻撃した、という内容ですね。」

チンギス・ハン 誕生

big5
「ケレイト国、ナイマン国とモンゴル高原の強大な勢力を打倒したテムジンは、モンゴル高原の覇者として多くの遊牧民達に支持されました。1206年、モンゴル族をはじめとするモンゴル高原の各部族が集って会議を開き、モンゴル族と味方の部族でテムジンをハン(王)とする新しい国を作ることが決まりました。これが「モンゴル帝国」です。
ここで、高校生A君ように世界史のテスト対策を。このように、ハンを決める重大な会議をモンゴルでは「クリルタイ」」と呼んでいました。なので
「1206年にクリルタイが開かれ、チンギス・ハンが即位した。」
というような選択肢が出てきたら、これは正しい文章、と考えましょう。「クリルタイ」という用語に惑わされないようにね。」
高校生A
「はい、わかりました。「クリルタイ」と。」
big5
「なお、モンゴル語での国の名前は「イケ・モンゴル・ウルス」と言います。「イケ」は「大いなる」、「ウルス」は「国」という意味なので直訳すれば「大いなるモンゴル国」となります。ただ、本コーナーでは、昔から慣用されている「モンゴル帝国」と記載することにします。
そして、モンゴル帝国のハンに選ばれたテムジンには「チンギス・ハン」の名が贈られたわけです。チンギス・ハンの誕生ですね。ここからは、テムジンではなくチンギス・ハンと書くか、略してチンギスと書くことにします。
なお、「チンギス」の意味には諸説あります。「海のように広い心を持った」という意味だとか、シャーマニズムの最高神の名前、などと言われていますが、確かなことはわかりません。」



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