Last update:2016,Mar,19

現在のキューバへ

ゲバラの別れ

big5
「キューバ危機の後、キューバ革命の英雄であるカストロゲバラの政治路線は違う方向に向き始めました。簡単に言うと、カストロは現実路線を優先し、ゲバラは理想を追い求めた、というところでしょうか。ソ連のことはあまり好きではないけれど、現状のキューバが生き抜いていくために、ソ連と付き合っていこうとしたカストロに対し、ゲバラはアメリカなど資本主義諸国と融和していくような政策を執るソ連を批判し続けました。」
日本史好きおじさん
「なんかわかる気がします。ゲバラはカリスマがあってたいへん高潔な精神を持っている人なので、現実に合わせて考え方を変えていく、というやり方はたぶん好きじゃないでしょうね。」
名もなきOL
「ゲバラってそんなに高潔な人だったんですか?高潔そうなイメージはありますけど。」
big5
「明確な理想を持っていて、自らそれを実践する人物でした。象徴的なエピソードが一つあります。革命が成功した後、キューバ政府の要職を担っていたゲバラですが、彼は休日になると農民と一緒になってサトウキビ畑の農作業を手伝ったりしていました。彼がリヤカーや農業用トラックなどでサトウキビを運ぶ姿は、写真にも残っています。そして、それを政府高官たちにも求めたそうです。」
日本史好きおじさん
「普通の政府高官なら、農業が趣味でもない限り、畑で農民の手伝いなどまずしないでしょうね。彼らは彼らで、別の仕事で忙しかったりしますし。」
big5
「そうですよね、普通は。ただ、ゲバラはこれまで見てきたように、普通の人とは一線を画していました。農業は国家の礎であることを、彼は身をもって示していたわけですね。このエピソードが、キューバ革命後のゲバラの姿勢を一番的確に表現している、と私は思っています。」
名もなきOL
「そうなんですね。個人でサトウキビ畑で農業するのは、趣味でもいいんじゃないかと思いますけど、他の政府高官にまで求めるのは、ちょっと行き過ぎのような気もしますね。」
big5
「そんなゲバラから見れば、社会主義の理想を掲げながらも、ソ連が資本主義国と取引して経済発展を実現しようとしている姿は、きっと許されざる存在だったのではないか、と思います。
ゲバラのソ連批判が深刻な問題となったのは、1965年2月24日にアフリカの地中海北岸の国・アルジェリアで開催された第2回アジア・アフリカ経済会議の席でした。ゲバラは演説で、ソ連がアメリカをはじめとした資本主義諸国とも経済取引を進めていることを鋭く批判し、これがソ連の逆鱗に触れてしまいます。ソ連はゲバラの演説を侮辱とし、キューバに厳しく抗議しました。」
日本史好きおじさん
「ソ連との関係は、キューバにとっては死活問題でしょうね。」
big5
「そのとおりです。3月末頃、カストロとゲバラは丸2日間、二人っきりで部屋に閉じこもって話し合いをしたそうです。その結果、ゲバラはキューバを去ることとなりました。そもそも、カストロはキューバ人ですが、ゲバラはキューバ人ではなくアルゼンチン人です。ゲバラにとって、キューバは母国ではないのです。ゲバラは圧政に苦しむ人々を救う目的で革命を志し、縁あって出会ったカストロの革命に協力しました。もともとゲバラはカストロに力を貸す際に
「革命が成功したら、折りを見て私はキューバを去る」
という約束をしていた、とも言われています。対ソ連の方針で、カストロと方針が大きく違ってしまった以上、キューバに残留しなければならない理由はなかったのかもしれません。ゲバラは、人知れず静かにキューバから姿を消しました。やがて、ゲバラの姿が見当たらないと、キューバ中で大騒ぎになります。新聞記者らは、カストロが事情を知っていると考えインタビューを試みましたが、カストロは
「ゲバラは革命のために、自分がもっとも役立つところにいるだろう。」
4月20日、終日サトウキビを刈った後、静かにこう答えたそうです。」

名もなきOL
「ゲバラはどこに行ってしまったんですか?」
big5
「キューバを去った後、ゲバラは圧政に苦しむ人々を解放するため、アフリカのコンゴでゲリラ戦を指導しました。しかし、革命組織が未熟だったために活動は突然打ち切り。ゲバラはコンゴを去っています。ゲバラは、新たな活動の場所を南米ボリビアに決めました。ボリビアでも、アメリカに従う独裁政権が幅を利かせていたのです。しかし、ボリビアでの活動は情報漏洩のために失敗。1967年10月9日、ゲバラはアメリカ軍の支援を受けたボリビア政府軍に捕らえられ、銃殺されました。37歳でした。」

カストロによる独自の共産主義国家政策

big5
「ゲバラがキューバを去った後、カストロは共産主義国家キューバの独裁者となりました。ソ連を批判するゲバラが去ったこともあり、キューバはソ連をトップとした共産主義圏の一員として活動し、1968年のソ連によるチェコスロヴァキア侵攻(「プラハの春」と呼ばれる事件です)では、ソ連支持を表明。さらに、1975年〜1991年にはアフリカ南西部の国・アンゴラの内戦でソ連派に援軍を送るなど、共産主義圏の一員として活動してきました。1976年にソ連型のキューバ新憲法を発布し、国家評議会議長・閣僚評議会議長(いわゆる首相)に就任したカストロは、2008年2月(82歳)に辞任するまで30年以上という長期間にわたってキューバの政治を行ってきました。」
名もなきOL
「82歳まで現役だったんですか!それは長いですね。でも、いい政治をしてくれる人が長いならいいですけど、悪い政治をする人が長かったらイヤですよね。」
日本史好きおじさん
「最近の日本は、短期間政権が続いていますからね〜。どっちがいいかは難しいところだと思います。」
big5
「そうですね。暴君が30年も君臨したら、国民は困りますよね。ただ、何が「いい政治」で何が「悪い政治」かを、きれいに分類するのは難しいものもあります。
さて、キューバの政策はどうだったかを簡単に見ていきましょう。市場経済を導入した中国などとは異なり、共産主義の原理原則に近いことが特徴です。例えば・・・

医療費は無料

なんとキューバは医療費がタダなんです。日本の一部自治体では、乳幼児に限って医療費無料を実施しているところもありますが、キューバは国全体です。キューバのGDPはとても低い一方で、国民の平均寿命は先進国並みに高い、という統計データを、このシリーズの冒頭に載せましたが、これは社会的身分に関わらず、キューバ国民は等しく医療を受けられるべき、という平等の精神に基づいた政策といえるでしょう。資本主義、共産主義に関わらず、医療費は高いというのが相場で、国によっては低所得者層は満足な医療サービスを受けることができない、というのはよくある事情なのですが、経済的には決して豊かとは言えないキューバで、医療費無料サービスを維持しているのは、たいへん珍しい事例なのではないでしょうか。」
名もなきOL
「それは優しくて「いい政治」だと思います。貧乏だからお医者さんに診てもらえないなんて、いい世の中とは思いません。」
big5
「そうですよね。カストロは事実上キューバの独裁者となっていますが、その政策はこれまでの独裁者とはまったく異なる内容のものでした。革命当初の信念は、革命成功後も生き続けていたようです。
さて、次に有名な政策は、

基本的な食料は配給制

キューバ国民の年収は他国に比べてたいへん低いのですが、それを補うかのように、基本的な食料は格段に安い値段で配給されています。この制度のため、キューバでは年収が低くても、それなりには食べていけるようになっているそうです。ただ、配給品は供給量が不十分なことが多いようで、配給品を受け取るのに何時間も並ばなければならない、という問題もあるそうです。また近年では配給品が少しずつ値上がりしているなど、配給品だけで完全に食費を賄うことは難しくなっている、というレポートもあります。」
名もなきOL
「配給品だけで足りない時はどうするんですか?」
big5
「国営のレストランで外食することもできますが、品質面ではあまり評判が良くないみたいですね。現在では、個人経営の小さなレストランや、「自由市場」と呼ばれる市場で農作物などを買うことは認められているので、市場で買うこともできます。ただ、値段は配給品に比べて高く設定されているそうです。」

アメリカとの国交回復

big5
「1961年1月3日に、アイゼンハワー大統領が国交断絶してから54年の歳月が流れた2015年7月1日、アメリカのオバマ大統領は、ホワイトハウスでアメリカとキューバ国交回復の声明を読み上げました。7月20日には両国の大使館が再開され、禁輸をはじめとした経済制裁の解除も進められる見込みになっています。」
日本史好きおじさん
「それは、両国に良い影響を与えそうですね。アメリカは、かつてのキューバ危機のような弾道ミサイルの脅威に晒されるリスクは下がるでしょうし、キューバの経済は改善されそうですね。」
名もなきOL
「日本からキューバへも旅行に行きやすくなりそうですね。友達がキューバに行った時は、すごく時間がかかってたいへんだった、って言ってました。」
big5
「アメリカ・キューバの国交回復は、おおむね好意的に受け取られているみたいです。ただ、社会主義で貧しい国と、世界の経済大国アメリカが急速に接近しすぎると、キューバ経済が大きなダメージを受けるのではないか、という懸念もありますので、その点は注意が必要でしょうね。
また、アメリカ政治の面にも、まだ不確定要素があります。野党である共和党からは、カストロの独裁政権下にあるキューバとの国交正常化は時期尚早という反対意見も出ているからです。議会では、共和党が多数を占めているため、今後どのような議論が交わされるかはまだ不明ですが、今後の両国の関係改善に向けて、大きな一歩となることが期待されています。」

現在のキューバへ 略年表                
1965年
4月ゲバラがキューバを去る
1967年
10月9日ボリビアでゲバラが捕えられ、銃殺される
1968年

ソ連のチェコスロヴァキア侵攻支持(プラハの春)を表明
1972年
7月キューバがコメコンに加盟
1975年
12月キューバ共産党 第1回大会 カストロが第1書記に就任
ソ連型憲法を採択
1976年

キューバ新憲法公布 国家評議会と人民議会が制定される。
カストロは国家評議会議長兼閣僚評議会議長(首相)に就任
2008年
2月カストロが国家評議会議長兼閣僚評議会議長を辞任。弟のラウルが後継者となる
2015年
7月20日アメリカとキューバが両国大使館を再開。54年ぶりの国交回復


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