Last update:2016,Mar,12

キューバ危機

深まるアメリカとの溝

big5
「独立を果たしたキューバに対し、アメリカのホワイトハウスは当初「冷やかで形式的な態度」であった、と当時のアイゼンハワー大統領の弟は語っているそうです。しかし、農地改革をはじめとした真のキューバ独立を志すカストロにとって、アメリカ系企業が支配するキューバ経済を改革しないで済ますことはできませんでした。ホセ・マルティの理想を現実化しようとしたカストロは、人種差別の撤廃、餓死する人がいない社会を実現するためには、アメリカによる経済支配問題は避けては通れない道でした。
革命が成功してから5カ月が経った1959年6月(33歳)、カストロはサトウキビ畑とタバコ畑の国有化を決定します。これに対しアメリカは、キューバからの砂糖の輸入価格を下げることで抗議の意を示しました。それならばと、カストロの弟のラウルはソ連と交渉し、アメリカの代わりにキューバの砂糖を輸入する、という約束を取り付けました。
経済上の応酬はこれだけに留まりませんでした。キューバは、砂糖を輸出する代わりにソ連から石油を輸入することになったのですが、輸入した石油を精製するキューバ国内の工場はアメリカ企業に支配されていたのです(厳密には、1社だけイギリス企業)。東西冷戦の時代でしたので、アメリカの石油精製企業はソ連産の石油を精製することを拒否します。せっかく石油を輸入しても、精製することができなければ役に立ちません。1960年8月6日、カストロは石油会社の国有化を断行しました。」
日本史好きおじさん
「アメリカ相手に、はっきり対決姿勢を示していますね。これなら確かに、目をつけられますね。」
big5
「これらの一連の改革により、アメリカは大きな経済的ダメージを受けました。当時アメリカが受けた損失額は、約10億$になると推計されているそうです。当時、アメリカ系企業はキューバ国内の鉱山の90%、土地の50%を所有し、キューバの輸出の67%、輸入の75%はアメリカ企業によるものでした。まさに、キューバ経済はアメリカ企業が握っていた、と言えるでしょう。
8月8日には、ゲバラがハバナのブランキスタ劇場で第1回ラテンアメリカ青年会議に出席して、こう言っています。

『ここハバナから声を大にして言おう。ソ連、中国、社会主義諸国と、植民地支配から独立した国々は我々の友人だ。ラテンアメリカ政府の中には、我々を殴りつける相手にへつらうように勧めるのもいるが、奴隷制度擁護の大国との大陸的同盟に連帯することなどできない。キューバ、シー!ヤンキー、ノー!(ヤンキーとはアメリカのこと。)』

「キューバ、シー!ヤンキー、ノー!」は、ラテンアメリカの大学などで広まり、反アメリカ派のスローガンとなったそうです。
これに対し、10月19日、アメリカはキューバ貿易の部分的封鎖を発令しました。これは、キューバ経済に大打撃を与えました。アメリカ企業がキューバ経済を握っていたことは既に述べましたが、それだけではありません。キューバで消費されていた生活必需品や贅沢品など3000品目はアメリカから輸入していたのです。キューバはたちまち物資不足に悩まされるようになります。また、産業を支えている技術者といえば、ほとんどがアメリカ人。彼らはキューバを去って行きました。キューバ人技術者もわずかながらいましたが、彼らは高額報酬に釣られてアメリカへ移住してしまいました。このような状況の中、カストロ体制を批判するキューバ人は次々と国を去り、キューバのアメリカ大使館員の一部は、彼らの出国を積極的に支援しました。カストロはこれらの大使館員を本国に強制送還して対応し、両国間の緊張は日増しに高まっていきました。
1961年1月3日、アイゼンハワーはキューバとの国交断絶を発表。両国間には、戦争の緊張感が漂い始めました。キューバ国内には既に、CIAの支援を受けた反カストロ派が工場を爆破したり、サトウキビ畑に焼夷弾を落とすなどの破壊工作を繰り返していました。4月15日にはアメリカ自身が空軍のB26爆撃機2機を出撃させ、ハバナとサンティアゴ・デ・クーバを爆撃しています。アメリカ陸軍が、キューバに上陸して攻め込んでくるのは時間の問題でした。」

ピッグス湾侵攻事件(コチノス湾侵攻事件)

big5
「そんなある日、アメリカが行動を起こします。1961年4月17日、約1500名の亡命キューバ人が、マイアミやプエルトリコのビエケス島、ニカラグアのプエルトカベサスからアメリカ空挺部隊の支援を受けて出撃し、ピッグス湾のプラヤ・ヒロンに上陸しました。目的は、カストロ政権の打倒です。しかし、侵攻部隊は上陸地点の沼地に足をとられて身動きできなくなってしまうという大失態を演じてしまいます。結果、1,113名が捕虜になるという、大失敗に終わりました。この事件は「ピッグス湾侵攻事件」と呼ばれていますが、これは英語での名称です。キューバはスペイン語なので、スペイン語では「コチノス湾侵攻事件」と呼ばれています。コチノスとは、スペイン語で「豚」を意味するそうです。」
名もなきOL
「キューバ人の中にも、カストロの革命に反対する人たちがけっこういたんですね。」
big5
「そうですね。カストロが掲げた農地改革をはじめとした政策は、貧困にあえぐ大多数のキューバ人には希望の光となりましたが、バティスタ政権の下で裕福な暮らしをしていたキューバ人にとっては、自分たちの今の生活を脅かす危険な政権でした。裕福な層のキューバ人にとっては、カストロの革命政権よりも、現状維持の方が好都合なわけですね。
さて、この侵攻作戦は、アイゼンハワー政権が計画・準備していた作戦で、それを1961年に第35代大統領に就任したあの有名なケネディ(この時44歳)が就任初期に承認し、実行に移された作戦でした。」
日本史好きおじさん
「就任早々に、失態を演じてしまったんですね。知りませんでした。」
big5
「そうですね、期待されていただけに、就任早々の大失敗は一部の支持者の失望を買いました。一方のキューバは、この戦いを「アメリカに対する勝利」ととらえ、自信を深めることになりました。これに対してケネディ政権は、翌年の1962年1月に、キューバを米州機構(略称:OAS)から除名して国際的に孤立させようとしました。米州機構は事実上アメリカ主導の連合なので、アメリカがキューバを除外しにかかれば、その他の南北アメリカ諸国も次々にアメリカに従ってキューバと国交断絶してしまいます(キューバと断交しなかったのはメキシコとカナダのみ)。さらに経済制裁として
・キューバ産の原材料入り製品は禁輸
・いったんキューバの港に入った船舶は、アメリカへの入港を禁止
・キューバに農業製品を輸出することも禁止
と、徹底的にキューバを干上がらせる戦略に出ました。

これに対して、カストロは5月1日にキューバが社会主義国であることを宣言し、アメリカとは対極の陣営につくことを宣言しました。」
日本史好きおじさん
「キューバが社会主義国であることが公にされたのは、この時なんですね。革命当初から社会主義を標榜していたのかと思っていました。」
big5
「そうですね。革命が成功してからしばらくした後、このタイミングで社会主義国宣言を出したのには、他にも意味があるのかもしれません。
これは私見ですが、カストロは当初から社会主義国を目指したのではなく、アメリカとの対決上、自然な流れとして社会主義陣営についたのではないか、と思います。もしも、冷戦時代のまっただ中で、アメリカのすぐそばに位置するキューバが、アメリカと対決して生き残るためには、社会主義国につくのは当然の結果なのではないかと思います。また、農地改革をはじめとしたカストロの改革は、社会主義の考え方に近い部分もあるので、なじみやすかったのではないか、と思います。
さて、ピッグス湾侵攻事件のその後ですが、キューバは1113名の捕虜に対して、ハバナの学校で裁判を行います。結果、アメリカ政府に対して保釈金として6000万ドルを要求することとしました。そして、5月17日の演説で保釈金を農耕機として支払うことを提案しました。しかし、ケネディはこの取引を拒否しました。その理由として、フロリダ州の亡命キューバ人グループが、この条件を「屈辱的」として受け入れを拒否し、むしろさらに反カストロを煽って運動をしていたため、というのが挙げられます。
そこで、ケネディは上記の経済制裁でキューバを困窮させたうえで、その次に医薬品をキューバに送るという条件を出しました。医薬品は製薬企業に供与させますが、企業には税金の控除を受けられる、という条件を付けることで納得させました。ケネディの代案は、この後に発生したキューバ危機で延期されますが、1962年12月24日に成立しています。

キューバ危機とデタント(緊張緩和)
big5
「1962年10月22日、ケネディは世界に向けて大ニュースが発信しました。キューバにソ連製核ミサイル発射基地が建設されている、というのです。そして、この瞬間から対立の構図は「アメリカ vs キューバ」から「アメリカ vs ソ連」という、東西冷戦の2大事陣営トップの戦いに変化した、と言えるでしょう。実際、ケネディはキューバからアメリカにミサイル発射などの攻撃があった場合、それはソ連による攻撃とみなして報復する、と言っています。
10月22日から28日までの間、世界は核戦争勃発の危機に戦々恐々としていました。この交渉が決裂した場合、東西冷戦はたちまち「熱戦」に変貌する、つまり本当の戦争となり、そしてその戦争は核ミサイルを使うことで、第二次大戦よりももっと悲惨な戦争になる、そんなイメージが人々間に広まりました。」
名もなきOL
「核戦争だなんて、そんなの絶対イヤです。」
日本史好きおじさん
「そりゃそうですよ。核戦争をしたいなんて考えている人なんて、まずいません。」
big5
「そうですね。ただ、現実問題として、現代社会の国際関係は、長距離ミサイルと核ミサイルが大きな影響を与えるようになりました。実際に戦争になったら、自分たちの領土に設置されたミサイル基地から敵国を攻撃することができれば、一方的に敵国を攻撃することも可能になっているわけです。その気になれば、核ミサイルを数発撃ち込むだけで、敵国を壊滅させて、自国にはほとんど被害を出さずに戦争に勝つことができます。この軍事力の差は外交にも強く影響しています。
しかし、キューバ危機は「危機」の段階で終わりました。10月29日、当時のソ連のトップであったフルシチョフ(68歳)は、ケネディの提案を受け入れる、と発表。「核戦争」の勃発はなんとか未然に終わりました。この交渉の概要は以下のようになります。
1.ソ連はキューバのミサイル発射基地に設置したミサイルを撤去し、ソ連に持ち帰る。
2.今後、アメリカはキューバを攻撃してはならない。
3.NATO加盟国であるトルコのアメリカ軍基地に設置されているジュピター・ミサイルを撤去すること

歴史上重要なことは、キューバ危機が冷戦の「緊張緩和(デタント、ともいう)」のきっかけとなったことです。キューバ危機をきっかけに、両陣営のトップであるアメリカ大統領とソ連のトップの間には「ホットライン」と呼ばれる電話が設置されることになりました。」
名もなきOL
「よかった。戦争にならずに済んだんですね。でも、この話の中にキューバが出てきていないような・・・」
big5
「そうなんです。そこがキューバにとっては、重要なところです。結果的に、キューバがアメリカに攻め込まれるという事態は回避されました。しかしカストロやゲバラにとって、キューバ危機の結果は、キューバが両大国に挟まれた小さな島国に過ぎない、という事実を改めて認識させられるものでした。それでもカストロは、カリブ海に浮かぶ小国・キューバが生きていくためには、ソ連の支援は必要不可欠であるという事実を受け入れ、共産主義諸国の一員としてキューバを運営していくことになります。」

キューバの危機 略年表          
1959年
6月カストロがサトウキビ畑、タバコ畑の国有化を決定
1960年
8月6日石油会社の国有化を決定
10月19日アメリカがキューバとの貿易を部分的に封鎖
1961年
1月3日アイゼンハウワー大統領がキューバとの国交断絶を発表
4月17日ピッグス湾侵攻事件
1962年
10月キューバ危機


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