「アッバース朝が最盛期を過ぎると、アラビア方面から遠く離れた地方で独立国、半独立国が次々と現れ、広大なイスラム帝国は次第に分裂していきました。その中でも、有力だった後ウマイヤ朝、アッバース朝、ファーティマ朝はそれぞれにカリフを名乗ったので3カリフ時代と呼ばれることもあります。」
年月 | イスラム世界のイベント | 他地方のイベント |
789年 | モロッコにイドリース朝成立 | |
800年 | チュニジアにアグラブ朝成立 | カールの戴冠 |
821年 | イラン北東部にターヒル朝成立 | |
867年 | イランにサッファール朝成立 | バシレイオス1世がビザンツ皇帝に即位 マケドニア朝の始まり |
868年 | エジプトにトゥールーン朝成立 | |
873年 | サッファール朝がターヒル朝を滅ぼし、アッバース朝と敵対 | |
875年 | 中央アジア方面にサーマーン朝成立 | |
882年 | オレーグがキエフ公国 建国 | |
909年 | ファーティマ朝成立 | |
932年 | ブワイフ朝成立 | |
946年 | ブワイフ朝がバグダードに入城 | |
1014年 | バシレイオス2世がブルガリア第一次王国を併合 | |
1038年 | トゥグリル・ベクがセルジューク朝を創始 | |
1054年 | 東西教会完全分離 | |
1055年 | セルジューク朝がブワイフ朝を滅ぼしバグダードに入城 | |
1071年 | マンジケルトの戦いでセルジューク朝がビザンツ帝国を破る | |
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「イドリース朝(Idrisid dynasty)は、比較的早い時期に独立した国です。場所も北アフリカの西の端である現在のモロッコ周辺でした。建国者のイドリース・イブン・アブドゥッラー(イドリース1世)は、第4代カリフのアリーとその妻でありムハンマドの娘であるファーティマの血を引く者、と自称している人で、アッバース朝に対してメディナで反乱を起こすものの失敗し、モロッコ方面まで逃げてきた、という経歴の人です。モロッコ周辺のベルベル人ら部族を従えて独立しました。そういう経緯を考えると、イドリース朝はシーア派に近いです。首都となったフェスはイドリース朝滅亡後、現代に至るまでモロッコ方面の重要都市となっています。」
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「アグラブ朝(Aghlabid dynasty)は、現在のチュニジアあたりで成立した王朝です。形式的にはアッバース朝に従属していましたが、事実上の独立国であった、とみなされています。アグラブ朝の名前は創始者のイブラーヒム・イブン・ル・アグラブ(以後、アグラブと記載)に由来しています。成立が800年でカールの戴冠と同年なので、覚えやすいかと思います。
アグラブはアッバース朝のチュニジア方面の太守でしたが、反乱軍討伐で手柄を立てました。ハールーン。アッラシードに4万ディナール金貨を払って国家として独立すること認められたそうです。アグラブ朝はシチリア島に積極的に侵攻し、878年にはシラクサを占領。902年にはシチリア島全域を支配しました。シチリア島にイスラム文化を持ち込んだのがアグラブ朝になります。しかし、その後間もない909年、ファーティマ朝に滅ぼされました。」
アグラブ朝の位置と最大版図
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「ターヒル朝(Tahirid dynasty)は、ニシャープールを中心としたイラン北東部にできた国です。創始者はターヒルといい、アラブ人戦士のリーダーとして手柄を挙げてきた軍人でした。アッバース朝の混乱に乗じて事実上の独立国となりましたが、アッバース朝カリフの権威を認めて貢納は続けていましたので、イドリース朝やアグラブ朝と比べると独立色は薄く、半独立国といったところです。国として続いたのは50年ほどなので短いです。873年にアッバース朝に叛旗を翻したサッファール朝に滅ぼされました。」
ターヒル朝の位置と最大版図
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「サッファール朝(Saffarid dynasty)はイラン東部からアフガニスタン、パキスタンにかけて成立した国です。創始者のヤークーブ(ヤークーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール)は地元イラン人の貧民の出身です。「サッファール」とは銅細工師という意味で彼の職業を意味しています。アラブ人戦士由来でアッバース朝カリフの権威を認めたターヒル朝とはまったく毛色の違う王朝で、アッバース朝とは敵対していました。先述のように、873年にはターヒル朝を滅ぼし、しばしばアッバース朝と戦いました。
しかし、903年に新興勢力となったサーマーン朝に敗れて服属し、独立国家としての歴史は40年弱で幕を下ろしています。しかし、サッファール家はその後も地元の名門としてモンゴルのイル・ハン国の時代も続きました。」
サッファール朝の位置と最大版図
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「トゥールーン朝(Tulunids)は、サッファール朝と同時期に成立したエジプト・シリア方面の国です。創始者のトゥール―ンは元々マムルーク(奴隷身分の軍人 主にアジア方面のトルコ人が多かったが、ギリシア人やスラヴ人もいた)で、アッバース朝の混乱期に実力でエジプト・シリア方面の総督に上り詰めました。サッファール朝とは異なってアッバース朝と敵対はしておらず、独立国というよりは自治国に近い、と評価されることもあります。トゥール―ン朝はマムルークが大きな力を持っていることが特色で、マムルークは後の時代もイスラム文化圏で大きな力を持つ集団でしたので、その先駆け的な存在です。ただ、国としての歴史は40年ほどで短く、最後は宗主であるアッバース朝に滅ぼされました。」
トゥール―ン朝の位置と最大版図
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「サーマーン朝(Samanid Empire)は、イランよりもさらに東、中央アジア方面に成立した国です。中央アジア地域の歴史、という観点では最初のイスラム王朝となります。サーマーン朝は8世紀前半の人物であるサーマーン・フダーに由来しています。サーマーン・フダーはササン朝ペルシアのゾロアスター教神官の子孫であった、と言われています。873年にイランのサッファール朝がターヒル朝を滅ぼしたのをきっかけに事実上独立。アッバース朝はサッファール朝を包囲するためにサーマーン朝の正統性を認めて、サーマーン朝はサッファール朝と戦い、903年にはサッファール朝を服属させました。
サーマーン朝は中央アジアのイスラム王朝として繁栄して120年ほど続きました。首都のブハラはイスラム文化の中心地の一つとなり、有名な学者のイブン・シーナーはブハラで生まれました。また、中央アジア方面に勢力を拡大し、その過程で捕虜としたトルコ人を奴隷(つまりマムルークとして)としてアッバース朝などに輸出する事業も行ったため、そういう観点からも中世イスラム文化の発展に貢献しています。
999年、さらに東方から来たトルコ系のカラ・ハン朝に滅ぼされました。」
サーマーン朝の位置と最大版図
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「次は3カリフ国の一つ、ファーティマ朝(Fatimid Caliphate)です。まず、ファーティマ朝はシーア派国家であることを覚えておきましょう。ファーティマの名は、もちろんムハンマドの娘であり第4代カリフ・アリーの妻であるファーティマから来ています。シーア派の中でも過激派と言われるイスマーイール派がチュニジアで武装蜂起し、909年にアグラブ朝を滅ぼして東に進撃。エジプトを占領して一時的には地中海南岸エリアの広大な領土を治める大国となりました。」
ファーティマ朝の位置と領土の変遷
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「ファーティマ朝の首都はエジプトのカイロですが、カイロはファーティマ朝が新たに建設した街です。カイロにはアズハル学院が建設され、学問の中心地となりました。北東から勢力を拡大してきたトルコ系のセルジューク朝とも対立し、聖地エルサレムを攻略しましたが、これが第一回十字軍の標的となるなど、十字軍時代においてもキープレイヤーとして歴史に登場することになるのですが、それについては別の章で取り扱います。最後は、有名なイスラムの英雄・サラディンに滅ぼされました。これについては、別の章でも再度取り扱います。」
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「ブワイフ朝はこれまで見てきた各地のイスラム王朝とはかなり毛色が違う王朝です。ブワイフ朝の創始者はカスピ海南岸のダイラム地方出身の軍人・ブワイフ兄弟です。なので、イラン系民族になります。ブワイフ朝は軍事政権を樹立すると、946年にバグダードに入城し、アッバース朝のカリフから大アミールに任じられて事実上の支配者となりました。これは何とも奇妙な組み合わせでした。というのも、アッバース朝のカリフは当然スンナ派なのですが、ブワイフ朝はシーア派だからです。シーア派の巨頭がスンナ派カリフに大権を与えられて政治を行う、という不思議な仕組みを作ったのがブワイフ朝です。アッバース朝カリフとブワイフ朝大アミールの関係は、日本の天皇と将軍の関係に似ている、とも言われます。
もう一点、ブワイフ朝で重要なのがイクター制です。イクター制の前提として重要なのは、イスラム文化圏では早くから貨幣経済が浸透していた、ということです。なので、例えば軍人への給与は現金(アター)で支払われていました。貨幣経済はあまり発達しなかったヨーロッパとは大きく異なります。しかし、アッバース朝の力が弱まり、地方で独立政権が増えてきたことで国の現金収入は減少。軍人に満足に給料を支払うことができなくなりました。ブワイフ朝がバグダードに乗り込んだ背景には、このような事情もありました。そこで、ブワイフ朝は軍人に給料(アター)を支払うのではなく、一定の土地についての徴税権(イクター)を軍人に与えることにしました。つまり、軍人に「この土地から税金取っていいから、給料はもうナシね」と言ったわけですね。イクター制は、ブワイフ朝の後に続いたセルジューク朝やアイユーブ朝、マムルーク朝にも引き継がれていきました。
ブワイフ朝は約120年続きましたが、1055年に次に登場するセルジューク朝に滅ぼされました。」
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「最後に登場するのはセルジューク朝(Seljuk dynasty)です。セルジューク朝はオグズ族と呼ばれたトルコ系民族が開いた王朝なので、昔は「セルジューク・トルコ」と呼んでいたこともありました。1038年、開祖であるトゥグリル・ベク(在位:1038〜1063年)がニシャープールにて建国。その後、1040年にはアフガニスタン方面で強勢を誇っていたガズナ朝(参考:インドのイスラム化)を破ってホラサン地方を獲得し、さらに1055年にはバグダードに入城。ブワイフ朝を滅ぼしました。アッバース朝のカリフからはスルタンの称号を与えらえました。イスラム世界の皇帝に相当する称号が「スルタン」です。世界史の重要用語なのでしっかり覚えておきましょう。
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「トゥグリル・ベクの後を継いだアルプ・アルスラーン(在位:1063〜1072年)は、名宰相と称えられるニザーム・アルムルクを登用し、セルジューク朝の統治を安定させました。ニザーム・アルムルクはイラン人でその名の意味は「国家の秩序」だそうです。続く3代目のマリク・シャー(在位:1072〜1092年)の時代に最盛期を迎えました。この期間の主な治績は以下のようになります。
@バグダードにニザーミーヤー学院を創設し、スンナ派神学・法学を振興させた。
A1071年にはマンジケルトの戦いでビザンツ帝国を破り皇帝・ロマノス4世を捕虜にし、小アジアへの進出の契機を作った。
B1074年、天文台建設
C1079年、学者のオマール・ハイヤームらにジャラール暦を作成させる。
となります。大きな功績を残したニザーム・アルムルクでしたが、1092年に暗殺されてしまい、その後セルジューク朝は王家の内紛と分裂によって衰退していくことになります。
セルジューク朝の本家はバグダードを拠点としていましたが、本家の他に4つの大きな分家がありました。そのうちの一つが、小アジア方面を治めたルーム・セルジューク朝(1077〜1308年)です。
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「ルーム・セルジューク朝は第1回十字軍の通り道となったので、十字軍と激しい戦闘になりました。これ以降の話については、別の章で詳しく見ていくことにしましょう。」
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