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中世

中世東ヨーロッパとビザンツ帝国

導入

「今回のテーマは中世東ヨーロッパ世界とビザンツ帝国の歴史です。西ヨーロッパでフランク王国が栄え、分裂してドイツ、フランス、イギリス、イタリアの基礎が作られていた頃、東ヨーロッパではビザンツ帝国を中心に歴史が作られていきました。キリスト教(ギリシア正教)が徐々に広まっていき、ビザンツ帝国の周辺国家としてブルガリア、ポーランド、キエフ大公国、トルコなどの新国家が形成されていく時代です。西暦でいうと800年〜1100年くらいの約300年間の歴史になります。」

年月 東ヨーロッパのイベント 他地方のイベント
679年 ブルガリア第1次王国 建国
830年 チェコ人がモラヴィア王国 建国
863年 キュリロスらがモラヴィア王国にギリシア正教布教始める
867年 バシレイオス1世がビザンツ皇帝に即位 マケドニア朝の始まり
875年 バシレイオス1世が南イタリアを回復
882年 オレーグがキエフ公国 建国
886年 レオン6世がビザンツ皇帝に即位
906年頃 モラヴィア王国がマジャール人に滅ぼされる
913年 ブルガリアのシメオン1世がコンスタンティノープルを攻撃
966年 ポーランド王国がカトリックに改宗
968年 ビザンツ帝国がアンティオキア占領
976年 バシレイオス2世がビザンツ正帝となる
980年 キエフ大公ウラジミル1世即位
988年 ウラジミル1世がギリシア正教に改宗
992年 ヴェネツィアがビザンツ帝国から通称特権を獲得
1014年 バシレイオス2世がブルガリア第一次王国を併合
1042年 セルビア王国独立
1054年 東西教会完全分離
1057年 マケドニア朝終焉
1071年 マンジケルトの戦いでセルジューク朝に大敗

モラヴィア布教とキリル文字

<要点>
・830年、チェコ人がモラヴィア王国(現チェコの東部)を建国
・863年頃、キュリロスらがモラヴィア王国にギリシア正教布教を始める。キリル文字が考案される。
・906年頃にモラヴィア王国はマジャール人に滅ぼされるも、ギリシア正教はブルガリアで広まる。

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「863年頃、時のビザンツ皇帝・ミカエル3世の命令で、高名な学者であったキュリロスがビザンツ帝国の北西方面に位置するモラヴィア王国にギリシア正教布教に出発しました。モラヴィア王国というのは、830年にモラヴィア地方で(現在のチェコの東部、ブルーノを中心とした一帯。ドイツ語ではメーレン)チェコ人が興した国です。」

Great Moravia at its greatest extent during the reign of Svatopluk I (9th century)
スワトプルクの治世期 (871-894) に最も拡大したモラヴィア王国の版図

モラヴィア王国は東フランク王国と領土を接して争っていたため、カトリックである東フランク王国に対抗する目的で、ギリシア正教に改宗してビザンツ帝国を味方に付ける、という狙いがありました。そこで、モラヴィア王はミカエル3世にギリシア正教への改宗を依頼。それで派遣されたのがキュリロスだった、というわけです。キュリロスは以前からスラヴ人との交流が多く、彼らの言語や習慣に詳しかったそうです。そこで、当時文字を持たなかったスラヴ語を表現するために、キリル文字を考案しました。ロシア、ウクライナ、ブルガリア、セルビアなどで現在も使われているキリル文字の誕生です。」

Romanian-kirilitza-tatal-nostru
キリル文字

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「モラヴィア王国はギリシア正教に改宗しかけたのですが、いろいろあった結果906年頃にマジャール人に滅ぼされてしまいました。というわけで、キュリロスによる布教は結果的に失敗したのですが、ギリシア正教に改宗した人々の一部は、当時栄えていたブルガリア王国に逃れ、ブルガリアでギリシア正教が広まるきっかけになりました。」


ビザンツ帝国とブルガリア王国の戦い

<要点>
・681年頃、ブルガリア人が現在のブルガリア、ルーマニア、マケドニアなどにまたがる広大な王国を建国。
・867年、バシレイオス1世がビザンツ皇帝に即位。マケドニア朝の始まり。
・ブルガリアはギリシア正教に改宗し、一時期は友好関係だった。
・ブルガリアのシメオン1世が913年にコンスタンティノープルを攻撃し、戴冠式を行う。

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「キュリロスのモラヴィア布教の話で、結果としてギリシア正教はブルガリアで広まった、という話をしましたので、ここではブルガリア王国の話をします。ブルガリア王国は、一度滅んでしばらくした後に再び建国されていますので、最初にできたブルガリア王国を「第一次ブルガリア王国」などと呼んだりしますが、ここでは「ブルガリア王国」と記載します。

Southeastern Europe Late Ninth Century
ブルガリア王国(9世紀後半)の領土と周辺国

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「ブルガリアの人々は当初ブルガール人と呼ばれ、ビザンツ帝国の北方を脅かす異民族として恐れられていました。ブルガール人とビザンツ帝国の争いは長く続いたのですが、681年頃にビザンツ帝国と和平して建国。↑の地図は9世紀後半のものですが、その領土は現在のブルガリアに留まらず、セルビアやマケドニアなどにもまたがる広い領域を領土としました。
そんなブルガリア王国でギリシア正教が広まったのは、ボリス1世(在位:852〜889年)が国王の頃です。ギリシア正教に改宗した、ということもあって、ボリス1世の頃はビザンツ帝国との関係は友好的でした。一方、ビザンツ帝国では867年にマケドニア地方の農民出身のバシレイオス1世(在位:867〜886年)が皇帝に成り上がりました。バシレイオス1世から始まる王朝を出身地の名前をとってマケドニア朝(867〜1056年)と呼びます。
しかし、世代が代わり、ボリス1世の息子であるシメオン1世(864〜927年 在位:893〜927年)の治世になると、ブルガリアはビザンツ帝国を激しく攻撃します。913年には、ビザンツ帝国の首都・コンスタンティノープルを包囲し「皇帝」としての戴冠式を行わせるなど、ビザンツ帝国に辛酸をなめさせています。このため、シメオン1世は「シメオン大帝」と呼んだり、ブルガリア王国を「ブルガリア帝国」と呼んだりすることもありますが、ここでは「シメオン1世」「ブルガリア王国」と記載します。シメオン1世は周辺地域に侵攻し、西はアドリア海に接するなど、ブルガリア王国史上最大の領土と実現しました。しかし、シメオン1世の死後、両国は再び友好的になりました。
一方その頃、ビザンツ帝国では古代ギリシア時代の文化・学術の掘り起こしと再評価の風潮が盛んになっていました。これをマケドニア朝ルネサンスと呼びます。また、封建制度とは異なる官僚制と皇帝専制体制の整備が進み、この頃のビザンツ帝国はかなり繁栄していました。」


バシレイオス2世の時代

<要点>
・966年、西スラヴ人のポーランドは、スラヴ人国家の中でいち早くカトリックに改宗した。
・988年、キエフ大公ウラディミル1世はビザンツ皇帝バシレイオス2世の妹アンナとの婚姻によりギリシア正教に改宗した。
・1014年、バシレイオス2世は長い戦争の果てにブルガリア王国を滅ぼし、帝国は最盛期を迎えた。

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「963年、バシレイオス2世(958〜1025年 在位:963〜1025年)がビザンツ皇帝に即位しました。この時点ではまだ5歳だったので、政治の実権は大人の共同皇帝が握っていましたが、976年にはただ一人の正帝となります。バシレイオス2世の異名は「ブルガリア人殺し」です。どうしてそんな異名が付いたのかは、後で出てきます。

Basil II "the Bulgar Slayer"
バシレイオス2世 制作者:不明 制作年:11世紀

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「バシレイオス2世が即位した後、周辺国ではキリスト教への改宗が進みました。まず966年、ポーランド王国がカトリックに改宗しました。ポーランドはスラヴ系民族の中でも西スラヴ人の国なのですが、スラヴ系国家の中ではいち早くカトリックに改宗しました。
988年には、現在のウクライナ辺りを治めていたキエフ大公国ウラディミル1世がギリシア正教に改宗しました。きっかけになったのは、バシレイオス2世の妹・アンナとの政略結婚です。バシレイオス2世は、ブルガリアなどの敵と戦うために、ウラディミル1世とは同盟することを選びました。アンナとの政略結婚はその一環です。990年にはギリシア正教がキエフ大公国の国教となりました。
ウラディミル1世を味方につけたバシレイオス2世は、これまでしばしば敵対していたブルガリア王国と長きにわたる戦争を始めました。当初はブルガリア王国が優勢でしたが、途中からビザンツ帝国が逆転。1014年の戦いで大勝利してブルガリア兵士14,000人を捕虜としました。この捕虜は助命される代わりに、100人ずつのグループに分けられ、99人は両目を潰され、1人は片目だけを潰されました。そして、片目だけが見える兵士が両目を潰された99人を連れてブルガリアへ帰ったそうです。時のブルガリア王は、自国の兵士がこのような惨状で続々と帰還する様子を見て卒倒し、数日後に死去しています。その後も戦争は続きましたが、1018年にブルガリア王国は崩壊。ビザンツ帝国に併合されました。バシレイオス2世の「ブルガリア人殺し」の異名はこうした事績に由来しているわけですね。」


セルジューク・トルコの小アジア進出

<要点>
・1054年、ギリシア正教とローマ教皇をお互いを破門し、別々の道を歩み始めた(東西教会の分裂)。
・1071年、マンジケルトの戦いでビザンツ帝国がセルジューク・トルコに大敗。小アジアを失った。

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「バシレイオス2世の死後、しばらく後にマケドニア朝は断絶し、ビザンツ帝国は中間期に入ります。その間に大きな事件が2つありました。
最初の事件は1054年の東西教会の分裂です。以前から、聖像禁止やスラヴ人への布教方法などをめぐって、ローマ教会とコンスタンティノープル教会は意見が合いませんでしたが、1054年には些細なこじれがエスカレートして、お互いに破門しあう、という仲違いを起こしました。以前はこれを「大シスマ(シスマとは分裂という意味)」と呼んでいましたが、今では「東西教会の分裂」などと呼ばれることが多いです(シスマというと、一般的には14世紀後半から始まった教皇並立時代を指します)。これ以降、それぞれの道を進んで異なる歴史を歩んでいくことになりました。
もう1件はビザンツ帝国にとってもっと重要な転換点となった、1071年のマンジケルトの戦いにおける大敗です。当時、中央アジア方面でトゥグリル・ベク(990〜1063年)が築いたセルジューク朝(Seljuk dynasty 以前はセルジューク・トルコ、と表記することが多かった)が急速に勢力を広げていました。1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ帝国の軍は退廃し、時のビザンツ皇帝ロマノス4世が捕虜になるほどでした。ロマノス4世は莫大な身代金の支払いと領土割譲を条件に解放されましたが、その後間もなく帝国内で起こったクーデターで臣下に裏切られ追放されています。また、小アジア(アナトリア)方面はセルジューク朝の領地となり、ビザンツ帝国は急速に勢力を失うことになりました。」


西欧とビザンツ帝国の違い

西欧 ビザンツ帝国
政治 ・世俗権力(国王、皇帝)と宗教権力(教皇)の二元支配
・封建制度(地方分権型)
・皇帝が政教両権のトップ(皇帝教皇制)
・官僚制度と軍管区制(テマ)
社会
経済
・農奴制荘園を基盤とする農業中心の自給自足経済 ・自由農民と地中海貿易による経済振興
・(11世紀後半からは大土地所有が進む)

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「さて、最後に西ヨーロッパの中世とビザンツ帝国の重要な違いを確認しましょう。まずは政治面から。西欧では「中世西ヨーロッパの始まり」で見たように、国は封建制度で成り立っていました。現代風に言えば、国王が直接統治するのは自分の直轄領だけであり、それ以外の土地はそれぞれ封じられた貴族が支配する地方分権型でした。一方、ビザンツ帝国では、領地はすべて皇帝が統治しており、行政実務を行う官僚が多数いました。また、貴族らは軍管区(テマ)の長となることで各地を統治しましたが、これは封建貴族とは異なりその土地の領有(私物化)が認められたわけではなく、皇帝に任命されて派遣されている政府高官でした。なので、中央集権型といえます。また、宗教面も大きく異なります。ビザンツ帝国では宗教面でも皇帝がトップであったため、皇帝教皇制と呼ばれることもあります。一方、西ヨーロッパでは国王と教皇は別の存在であり、両者はたびたび対立することになりました。
続いて社会・経済面を見ていきましょう。西ヨーロッパでは、封建制度に基づいた状況になっており、人間のほとんどは農奴が農業を行う農業中心の自給自足型経済でした。一方、ビザンツ帝国では地中海貿易などによって商業活動が盛んとなり、経済面では西ヨーロッパよりもかなり発展していました。また、国民の多くは自由農民と呼ばれ、自分の土地を持ち農業を行う農民もいれば、貿易商人、職業軍人など西ヨーロッパよりもかなり職種が多かったと分析されています。ただ、ビザンツ帝国でも、古代ローマと同様に一部の貴族による大土地所有制が次第に進んでおり、バシレイオス2世はたびたび大土地所有を防ぐ政策を出して歯止めをかけていました。しかし、マンジケルトの戦いで敗北するなど、帝国の勢力が衰えてきた11世紀以降は大土地所有制が進み、新たな時代に移り変わっていくことになります。」



大学入試 共通テスト 過去問

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参考文献・Web site