big5
「今回のテーマは第二次世界大戦 後期と題しまして、その名の通り、第二次世界大戦の後半について説明していこうと思います。」
名もなきOL
「第二次世界大戦って、戦争期間は1939〜1945年の7年間なのに、本当に内容が濃いですよね。早く戦争が終わってくれるのはいいんですけど、辛い話もたくさん出てきそうですね。。」
big5
「日本人が連想する「戦争」の話は、ほぼ後半に起きた話ですからね。
さて、それではいつもどおり、まずは年表から見ていきましょうか。」
年月 | ヨーロッパのイベント | 他地方のイベント |
1941年 | 3月 アメリカが武器貸与法を制定 4月 ドイツがバルカン半島侵攻 ソ連との対立鮮明に 4月13日 日ソ中立条約 6月 独ソ戦 開戦 7月22日 英ソ軍事同盟 8月 米英が大西洋憲章を発表 |
4月 日米交渉開始 7月 日本が南部仏領インドシナに侵攻 8月 アメリカが日本への石油輸出全面禁止 12月8日 日本が真珠湾を攻撃 太平洋戦争 開戦 |
1942年 | 1月1日 連合国共同宣言 8月 ドイツ軍がスターリングラードに攻撃開始(スターリングラードの戦い) |
1月2日 日本がマニラを攻略 2月15日 日本がシンガポールを攻略 3月9日 インドネシアのオランダ軍が日本に降伏 5月 日本がビルマ全土を占領 6月 ミッドウェー海戦で日本海軍敗北 8月 アメリカでマンハッタン計画始動 原爆の開発始まる |
1943年 | 1月 カサブランカ会談 連合国軍のイタリア攻撃が決定 2月 ドイツがスターリングラードの戦いで敗北 7月 連合国軍がシチリア島上陸 ムッソリーニ失脚 9月8日 イタリアのバドリオ内閣が降伏かつドイツに宣戦布告 11月 米英中首脳がカイロ会談 カイロ宣言を発表 11-12月 テヘラン会談 |
2月 日本がガダルカナル島から撤退 11月 東京で大東亜会議開催 大東亜共同宣言を発表 |
1944年 | 6月6日 連合国軍がノルマンディーに上陸 8月1日 ポーランドのワルシャワで民衆が蜂起 |
7月 アメリカがサイパン島を攻略 |
1945年 | 2月 ヤルタ会談 4月30日 ヒトラー自殺 5月7日 ドイツが無条件降伏 7月26日 連合国がポツダム会談 ポツダム宣言を発表 |
3月 アメリカ軍が沖縄上陸 8月6日 アメリカが広島に原子爆弾を投下 8月8日 ソ連が日本に宣戦布告 8月9日 アメリカが長崎に原子爆弾を投下 8月15日 日本がポツダム宣言受諾を決定 9月2日 戦艦ミズーリにて日本が降伏文書に調印 9月3日 ソ連が満州、樺太、北方領土4島を占領 |
big5
「さて、ここから第二次世界大戦は後半戦になります。後半戦の幕開けは1941年6月から始まった独ソ戦です。」
名もなきOL
「ナチスドイツがスラヴ系民族が多く住んでいるバルカン半島に侵攻したことで、中立条約を結んでいたドイツ(ヒトラー)とソ連(スターリン)の関係が悪化したことが直接の原因なんですよね。(参考:第二次世界大戦 前半)」
big5
「6月22日の未明、準備を整えたヒトラーは独ソ不可侵条約を無視してソ連に侵攻を開始しました。スターリン側もヒトラーが攻め込んでくる可能性は考慮していたそうですが、迎撃準備は整っていなかったため、緒戦はドイツ軍の快進撃となりました。
開戦から約1か月経った7月22日、ヨーロッパ方面で唯一、ドイツと戦っていたイギリスは「敵の敵は味方理論」で、ソ連と軍事同盟を締結。協同してナチスドイツに当たることとなりました。英ソ軍事同盟です。」
名もなきOL
「独ソ戦が始まったことで、ドイツは東にソ連、西にイギリスを敵とした二正面作戦となってますよね。これは第一次世界大戦の時と同じ構図ですよね。それでもまだアメリカは動かなかったんですか?」
big5
「はい、独ソ戦が始まってもアメリカは参戦していません。ただ、8月9日にアメリカ合衆国大統領のルーズヴェルトと、イギリス首相のチャーチルが大西洋上で会談を行っています。この会談で大戦後の戦後処理の方針と国際協調について8か条の合意が交わされました。これを大西洋憲章と呼んでいます。」
名もなきOL
「自国は参戦すらしていないのに、もう大戦後の構想を練っているなんて余裕ですね。超大国ならではの態度ですね。」
big5
「なお、独ソ戦を機にフィンランドもソ連に宣戦布告しました。冬戦争で負けているので、そのリベンジマッチになります。このフィンランド vs ソ連の第二ラウンドは継続戦争と呼ばれたりします。」
big5
「さて、時間を少し巻き戻して1941年の4月、アジアでは日本が動き出していました。ソ連と中立条約を交わした日本は、東南アジア方面への南進を始めようとしたのですが、これに立ちはだかったのがアメリカでした。
1941年4月16日から、日本側の駐米大使・野村吉三郎とアメリカのハルの間で折衝が始まりました。これを日米交渉と呼びます。」
名もなきOL
「アメリカはヨーロッパの戦争には武器貸与の支援しか行わないのに、太平洋方面では列強として介入してきたんですね。」
big5
「日米交渉が行われている最中に独ソ戦が始まり、しかも緒戦はドイツが快進撃したため、陸軍大臣の
結果、7月にはアメリカが納得する前にヴェトナム南部への進駐を強行しました。これにより、アメリカは態度を硬化させました。7月25日にはアメリカが在米日本資産の凍結を実施、さらに8月1日には日本への石油輸出を禁止するなどして、日本との対立姿勢を明確にしていきました。」
名もなきOL
「それで日米交渉は決裂して、真珠湾攻撃に繋がっていくわけですね。」
big5
「その通りです。この頃日本ではアメリカ主導の経済制裁などをABCDラインと呼び、アメリカ(A)、イギリス(B)、中国(C)、オランダ(D)が日本包囲網を形成している。これを打破すべき、という世論も強くなってきました。
10月、近衛文麿内閣が辞職し、代わって主戦派の東条英機内閣が成立。そして12月8日に有名な真珠湾攻撃が行われ、日本と(主に)アメリカが激突する太平洋戦争が始まりました。3日後の12月11日には、日独伊三国同盟に基づいてドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告。こうして、日本がアメリカと開戦したことでアメリカは第二次世界大戦に参戦することとなったんです。」
名もなきOL
「そういう経緯だったんですね。戦争の話は小学校の頃からよく聞いていましたが、そもそも戦争が始まった経緯はほとんど知りませんでした。」
big5
「いわゆる枢軸国(日本、ドイツ、イタリア)と連合国(アメリカ、イギリス、ソ連)の戦争は1941年12月に形成されたわけですね。もう少し細かく書くと、このうち日本とソ連はまだ中立条約を結んでいたので、ヨーロッパ方面におけるドイツ・イタリア vs イギリス・ソ連・アメリカとアジア方面における日本 vs アメリカ・イギリス、となりますが、これで第二次世界大戦の対立構図が完成したわけです。意外にも、後半戦が始まってからの出来事だったわけですね。」
big5
「まずはヨーロッパ方面から見ていきましょう。緒戦を快進撃で飾ったドイツ軍でしたが、ソ連はとにかく広大です。これまでのヨーロッパでの戦争と違い、短期決戦で勝負をつける、という戦法は通じない相手でした。それでも進撃を続け、1942年8月から要衝・スターリングラード(現ヴォルゴグラード)を包囲します。これが有名なスターリングラードの戦いです。10月には街の9割をドイツ軍が占領し、間もなくスターリングラードも陥落するだろう、と思われました。しかし、ここからソ連軍が逆襲に転じます。11月には援軍とともにソ連軍がドイツ軍を包囲する形となり、厳しい冬の季節に凄惨な市街戦が繰り広げられました。」
名もなきOL
「スターリングラードの戦いは、よく映画などにも取り上げられていますよね。アジア方面の戦況はどうだったんですか?」
big5
「アジア方面でも、緒戦は日本が快進撃を続けました。東南アジア一帯を広く占領し、当時の戦争に必要な物資である天然ゴムの産地を確保しています。しかし、1942年6月のミッドウェー海戦で日本海軍がアメリカ海軍に敗北しました。これをきっかけに日本軍の快進撃は止まり、アメリカ軍の逆襲が始まります。」
名もなきOL
「1942年は東西両方で連合国側が盛り返してきた年だったんですね。」
big5
「1943年になると、その傾向が顕著に表れてきます。連合国側が最初に目を付けたのは、イタリアでした。1943年1月、アメリカ大統領のルーズベルト、イギリス首相のチャーチルに、自由フランス亡命政府のドゴールがモロッコのカサブランカに集まりました。カサブランカ会談です。」
名もなきOL
「どうしてイタリアが最初に狙われたんですか?」
big5
「一言でいえば「一番弱そうだから」でしょうね。イタリアはムッソリーニが世界に先駆けてファシズム国家を形成しエチオピアにも侵攻して占領していました(参考:ファシズムの台頭)。しかし、その後に広げた領土はエチオピアとアルバニアのみです。開戦前後にヨーロッパに領土を拡げたドイツや、朝鮮と満州を支配下に置いていた日本と比べると、現代戦を継続するには資源も経済力も不足していました。
カサブランカ会談で、連合軍はイタリアを下すためにシチリア上陸作戦を実行することを決めました。」
名もなきOL
「ドイツはソ連相手に苦戦していますし、日本は遠い上にアメリカと戦うのに手いっぱいで助けに行ける余裕はなかったですもんね。」
big5
「翌月2月には、スターリングラードの戦いでドイツが敗北。日本はガダルカナル島から撤退し、枢軸国側の劣勢が目に見えるようになってきます。
そして1943年7月10日、イギリスとアメリカを主力とする連合国軍はシチリア島に上陸。その後、あっという間にイタリアは本土に攻め込まれてしまいました。ムッソリーニは7月25日に失脚して逮捕され、9月8日にイタリアは降伏しました。さらに、連合国側に加わって日本とドイツに対して宣戦布告します。三国同盟の一角は、あっさりと敗北してしまったわけですね。」
名もなきOL
「降伏した後に、連合国側としてまた戦争をさせられるなんて、敗戦国の悲哀を感じさせますね。ムッソリーニはどうなったんですか?」
big5
「ドイツ軍の特殊部隊が幽閉されていたムッソリーニを救出し、北イタリアでドイツの傀儡政権として再起を図りました。しかし、敗北の流れにあらがうことはできず、後に敗れて処刑されました。
こうして、第二次大戦の趨勢は独ソ戦と太平洋戦争が始まった1941年を転換点とし、1942年で劣勢になり始め1943年にはイタリア降伏と、枢軸国の敗色濃厚となってきました。」
名もなきOL
「ドイツも日本も、この時点で見切って講和すればよかったのに・・。」
big5
「そうですね、講和が成立していたら世の中は変わっていたでしょうね。最も、優勢になってきた連合国側が講和に応じるかどうかはわかりません。アメリカではミッドウェー海戦に勝利して数か月後の1942年8月に原子爆弾の開発計画である「マンハッタン計画」をスタートさせています。
また、イタリア降伏後の1943年11月に、連合国首脳はカイロとテヘランでそれぞれ会談を行いました。まず11月23日〜27日にかけて、エジプトのカイロでその名も「カイロ会談」が開かれました。主な参加者はルーズヴェルト、チャーチル、そして中国の蒋介石です。蒋介石が入っているということは、会談の内容は対日本戦線です。余談ですが、歴史テストなどでは、カイロ会談の出席者について、蒋介石ではなく毛沢東として引っかける問題が出題されやすいです。後に中国の支配者となった毛沢東ではなく、蒋介石なので注意して下さい。また、ソ連のスターリンも参加していません。一応、日ソ中立条約がありますので、表立って対日本戦線に加わることはできなかったのでしょう。」
名もなきOL
「なるほど。カイロ会談は対日本の会談で、中国の蒋介石が出席、ですね。」
big5
「カイロ会談の結果、12月1日に以下の内容が発表されました。カイロ宣言と呼ばれています。
@満州、台湾、澎湖諸島は中国に返還される。
A1914年以来獲得した太平洋諸島を返還させる。
B朝鮮は時機を見て独立させる。
です。」
名もなきOL
「当時の日本にはとうてい受け入れられない内容でしょうね。となると、この時点で講和しようとしても無理だったのかも・・・。」
big5
「続いて、11月28日から12月1日にかけて、イランのテヘランでテヘラン会談が開催されました。主な出席者はルーズヴェルト、チャーチル、そしてスターリンです。こちらは対ドイツ戦線についての会談となります。わりとすんなりまとまったカイロ会談に比べ、テヘラン会談ではチャーチルとスターリンの利害が一致せず、なかなかまとまりませんでした。しかし、ルーズヴェルトがスターリンの言い分を受け入れる代わりに、日ソ中立条約を破棄してソ連が対日参戦する、という約束を取り付けてまとめました。」
名もなきOL
「この時点でソ連の日本攻撃が決まっていたんですね。」
big5
「こうして、連合国側首脳は戦後処理も視野に入れつつ、ドイツと日本を打ち負かすために合意と妥協を形成することに成功しました。」
big5
「まず最初に動いたのは対ドイツ戦線でした。1944年6月6日、連合国軍主力部隊が北フランスのノルマンディーに上陸しました。ノルマンディー上陸作戦です。ここで連合国軍とドイツ軍の激戦が繰り広げられました。この戦いは映画などでもよく取り上げられますので、見た人もかなり多いと思います。有名どころでは『プライベート・ライアン』ですね。
激戦の末、連合国軍は上陸に成功。ここからドイツに向かって進軍していきます。8月にはフランスの首都・パリが解放されました。また、これに呼応してソ連も東側から積極攻勢に出ます。ドイツ軍は必死に防戦しますが二正面作戦では形勢不利です。この頃から、ドイツの各都市に対して激しい空襲が行われるようになり、戦争は戦場で行われるものではなく、民間字が暮らしている戦線の遥か後方まで攻撃対象となるようになりました。
一方、太平洋戦線では1944年7月にアメリカがサイパンを占領。ここから、アメリカ軍の爆撃機B-29などが日本まで飛んで爆撃を実行できるようになり、11月からは日本の各都市にも空襲が行われるようになりました。日本の歴史教育で教える第二次世界大戦は、ここからの話が多いですね。」
名もなきOL
「昔から戦争は怖いものですけど、空襲は特に酷いですよね。民衆の普段の生活を簡単に壊してしまう空襲は本当に恐ろしいです。平和の大切さがよくわかります。」
big5
「まさにその通りです。さて、ドイツも日本も明らかな劣勢に立たされながらも戦争は継続されました。年を越して1945年2月、既に勝利を確信した連合国首脳は、クリミア半島南端の保養地・ヤルタに集まって会議を行いました。ヤルタ会談です。この時に撮影された、ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンの3首脳の集合写真が有名ですね。」
名もなきOL
「見覚えがあります、この写真。この写真の白黒のが歴史の資料集に乗ってました。」
big5
「ヤルタ会談は2月4日〜11日にかけて開催されました。この内容は最終日の2月11日に発表され、その主な内容は以下の4項目になります。
@戦後、国際連合を設置すること。
Aドイツは米、英、ソ、仏の4か国で分割管理すること。
Bポーランドはじめ東欧諸国には民主的な政府を樹立させること。
Cソ連は日本に宣戦布告する代わりに南樺12日太、千島列島、旅順、南満州鉄道の利権を獲得すること。
です。基本的に、ヤルタ会談で決まったことが第二次大戦後の世界の基本構図となりましたので、その体制をヤルタ体制と呼びます。」
名もなきOL
「似たような話、前にも何回か出てますよね。大国が戦後の世界の体制を決めるっていう話。ナポレオン戦争後のウィーン体制、第一次大戦後のヴェルサイユ体制、そして今回はヤルタ体制なんですね。強い国が幅を利かせる、というのはわかりますけど、なんだかなぁ・・・」
big5
「「大国の都合で重要なことが決められる」については、他の国も感じるところはありました。実際、蒋介石はヤルタ会談の内容を聞いて激怒しました。満州の利権はソ連が引き継ぐ、という部分です。日本との戦争に勝った後は、当然中国が満州を回復する、と思っていましたからね。それを、これまで日本と中立していたソ連にかっぱらわれる、となったわけなので激怒するのも当然でしょう。
ただ、ここで主要人物が一人退場します。ルーズヴェルトです。ヤルタ会談の約2か月後の1945年4月12日、アメリカ合衆国大統領のルーズヴェルトが死去しました。63歳になる年でした。アメリカ大統領の座は、副大統領であったトルーマンが引き継ぐことになりました。」
名もなきOL
「ルーズヴェルトは第二次大戦の終結を見る前に亡くなったんですね。」
big5
「ヤルタ会談の後、まずはドイツが敗北しました。ヒトラーはルーズヴェルトの死から間もない4月30日に愛人と共に自殺(この年56歳)。ソ連軍が首都・ベルリンに侵攻しましたが、ヒトラー亡き後も側近らが抵抗を続けましたが5月2日にベルリンが陥落。ドイツは降伏しました。」
名もなきOL
「ドイツではベルリンが戦場になったんですね。これは知りませんでした。」
big5
「ドイツ敗北により、枢軸国側で残ったのは日本だけです。日本の敗北は既にほぼ確定していましたが、1945年7月17日から8月2日にかけて、ドイツのポツダムで連合国首脳会談が開かれました。出席者はアメリカのトルーマン(ルーズヴェルトは既に病死しています)、イギリス首相のチャーチルとアトリー(7月の総選挙でチャーチル率いる保守党が敗北したため)、ソ連のスターリンです。
日本では、ポツダム会談の結果の一つである「日本の無条件降伏要求」ばかりが取り上げられますが、ポツダム会談では他にもヨーロッパにおける戦後処理体制について話し合われ紛糾しました。元々、資本主義国のアメリカ、イギリスと共産主義国のソ連は相容れない関係です。第二次大戦で「敵の敵は味方」ということで連合してきました。しかし、イタリアもドイツも破れ、残った日本も敗北間近という状況になると、話の論点は「いかにして日本を倒すか」ではなく「戦後、力を付けるのは誰なのか?」となるのが自然な流れでしょう。
結局、ポツダム会談ではヤルタ会談のような合意はあまり得られませんでした。」
名もなきOL
「日本では有名なのに・・・何だか意外ですね。」
big5
「その後は、日本でも有名な戦争末期の流れになります。まず、8月6日にアメリカが史上初となる原子爆弾を広島に投下。続いて8月9日に長崎に投下し空前絶後の被害を与えました。戦争中とはいえ、民間人を相手にここまでする必要はありません。また、ソ連は8月8日に日本に侵攻を開始。日ソ中立条約はまだ有効だったのですが、当然のようにソ連は破棄して攻め込んできました。そして8月15日、日本は無条件降伏を受け入れることを宣言します。と、日本ではこの8月15日に戦争が終わった、としていますが、この時点では降伏すると宣言しただけなので、まだ戦争は終わっていません。戦争終結の協定は9月2日、東京湾に停泊しているアメリカ海軍の戦艦ミズーリにて降伏文書に署名され、長く苦しい第二次世界大戦はようやく終結しました。」
名もなきOL
「本当に長かったですね。でも、知らなかった話も多かったので驚きました。戦争の話は、小学生の頃から何度も聞いていたのですが・・・」
big5
「日本における第二次世界大戦の教育内容は、歴史の流れよりも、空襲や原爆と言った、恐ろしさと悲惨さ、理不尽さに主眼が置かれていますからね。確かに、それらは戦争の恐ろしさを伝えるという意味では重要です。ただ、私はそれだけでは不十分だと思います。現代でも戦争がなくならないのはなぜなのか、止めることはできないのか、これらについて真剣に対策を練るのであれば、歴史の一つとして第二次世界大戦を学ぶことは大変重要だと思います。
と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」
big5
「大学入試共通テストでは、「第二次世界大戦(後期)」で扱ったネタはよく出題されています。試験前に復習しておくのがおススメです。」
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