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広がる世界・変わる世界

16世紀の文化と人文主義

導入

big5
「さて、今回のテーマは16世紀の文化です。この時代の文化の特徴は、まずなんといっても宗教改革のきっかけにもなった人文主義(ヒューマニズム)です。」
名もなきOL
「人文主義(ヒューマニズム)って、何ですか?」
big5
「一言でいうと、神が支配する中世的な世界観ではなく、人間そのものの本質を追求する思想、ですね。簡単に言うと、中世のヨーロッパ文化は、カトリック教会が教える神が支配する世界観でした。ところが、ルネサンスによってキリスト教が誕生する以前の古代ギリシア・ローマ文化の復興が盛んになってくると、「神が支配する世界」よりも前に生きた人々の価値観や芸術・美術などが再評価されるようになりました。その結果、中世の神が支配する世界観とは異なる、人間とありのままの世界を考える思想が広がっていったんですね。
なので、人文主義はしばしば腐敗したカトリック教会の批判に繋がり、これが1517年から始まったルターの宗教改革へと繋がっていくことになりました。そしてその後もしばらくは、カトリックと新教プロテスタントの争いが続く中で、人文主義はさらなる発展を遂げていくことになったわけですね。人文主義は、やがて啓蒙思想や合理主義思想へと姿を変え、近代社会の礎となっていきます。」
名もなきOL
「なるほど。中世と近代の中間くらいの立ち位置なんですね。」
big5
「まさにその通りですね。時代区分の用語に「近世」という言葉があります。これは「中世」と「近代」の中間の時代を指す用語なのですが、人文主義は「近世」の文化と考えてもいいと思います。
さて、それではまずは「人文主義思想」の大家達から見ていきましょう。」

人文主義

エラスムスと愚神礼賛

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「まず最初に紹介するのは16世紀最大の人文主義者、と言われるオランダのエラスムス(1469頃〜1522年)です。」

Holbein-erasmusエラスムス 制作年:不明 制作者:ホルバイン

big5
「エラスムスの代表作は1509年に著した『愚神礼賛(ぐしんらいさん)』です。カトリック教会の形式化や聖職者の腐敗を批判し、ヨーロッパ全土に大きな衝撃を与えました。高校の世界史テストや大学入試センター試験対策なら、ここまで知っておけばOKですね。」
名もなきOL
「そういえば高校生の時に、「なんか偉そうな名前だな」、って思ったのを思い出しました。エラスムスってこういう人だったんですね。」
big5
「これだけでは面白くないので、もう少しエラスムスについて深堀をしていきましょう。エラスムスは人文主義者ですが、思想のよりどころは「文献」、つまり書物にありました。なので、エラスムスのことを「文献主義者」ということもありますね。特に、当時の知識人の標準言語だったラテン語ではなく、ギリシア語原典に基づいた新約聖書を1516年に『校訂新約聖書』としてスイスのバーゼルで刊行したりしています。また、聖書について正確な知識が一般にも広まり、聖書に基づいて生活することが重要だと考えました。」
名もなきOL
「あれ?それってルターさんの聖書至上主義とよく似ていますよね?」
big5
「はい、よく似ています。時系列では、ルターの宗教改革よりもエラスムスの活動の方が先なので、宗教改革については「エラスムスが産んだ卵をルターがかえした」、と表現されることもあいrます。
また、エラスムスは交友関係が広く、同時代の著名人ともよく交流していました。特に有名なのが、イギリスを代表する人文主義者のトマス・モアや、上の肖像画を描いた肖像画家のホルバインらです。愚神礼賛はエラスムスがイギリスを訪れてトマス・モアの家に滞在しているときに書かれているんです。実際、最初の1冊はトマス・モアに献呈されています。」
名もなきOL
「そうなんですね。「エラスムスが産んだ卵をルターがかえした」ですか。ということは、ルターとも仲が良かったんですか?」
big5
「そう思われがちですが、実はルターとは仲が悪いです。ルターが贖宥状の販売の件でカトリック教会を批判していた最初の頃は、エラスムスもルターを支持していたそうですが、やがてルター派がカトリックから分裂する頃になると一転してルターを批判しています。」
名もなきOL
「意外ですね。聖書に基づいて生活すべき、とかルターと同じ意見のように感じますが・・・」
big5
「その部分は確かに共通しています。カトリック教会を批判している、という点も同じです。ただ、エラスムスはカトリック教会が是正されれば十分と考えており、新教の創立などは考えていなかったのに対し、ルターはカトリック教会そのものをよしとせず、自身の信仰を貫いて新教を創立したことが、エラスムスとルターの大きな違いなんですね。」
名もなきOL
「なるほど。基本的な考え方は同じでも、既存のカトリック教会に対する態度がまったく異なっていたんですね。」

トマス・モアとユートピア

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「さて、次はイギリスを代表する人文主義者・トマス・モア(1478~1535年7月6日)です。」

Hans Holbein, the Younger - Sir Thomas More - Google Art Projectトマス・モア 制作者:ホルバイン 制作年:1527年

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「トマス・モアはヘンリ8世に仕え、法律家として最高位の大法官という地位にまで出世しました。代表作は1516年に著した『ユートピア』です。「ユートピア」はトマス・モアが作った造語で、今では「理想郷」と訳されたりしていますね。『ユートピア』は、トマス・モアがユートピアの住人から話を聞く、という形式で当時のイギリス社会を批判しました。特に、第一次エンクロージャーについて「羊が人間を食う」と表現したことが有名ですね。
高校の世界史定期試験や大学入試センター試験なら、ここまで知っていればOKです。」
名もなきOL
「トマス・モアは忘れていましたが、ユートピアは覚えています。どこにもない、理想郷の話なんだって。あと、「羊が人間を食う」という表現も印象に残りますね。」
big5
「そうですね。エラスムスの時と同じく、これだけでは面白みに欠けると思いますので、トマス・モアについてももう少し深堀しましょう。
トマス・モアはオックスフォード大学でギリシア語を学び、この時に人文主義に触れたそうです。エラスムスの項で述べたように、オランダのエラスムスと仲が良く、エラスムスの愚神礼賛はトマス・モアの家に滞在中に書かれたものでした。
法律の専門家としてヘンリ8世に仕え、1515年に外交交渉の一員としてオランダにわたり、アントウェルペン滞在中に『ユートピア』を執筆しました。その後、1516年にロンドンに帰ってから「ユートピア」を発表しています。1529年に大法官に任命されました。なので、トマス・モアは思想家や論述家というよりも、ヘンリ8世に仕えた官僚の方が本職でした。
ただ、ヘンリ8世はかなり変わった人でした。トマス・モアは自身の考えや信仰に基づいて、ヘンリ8世の離婚問題や首長法などの宗教改革に反対したため、1535年7月6日に大逆罪で処刑されました(この年、トマス・モア57歳)。」
名もなきOL
「ヘンリ8世!覚えています。かなりヤバイ人ですよね。トマス・モアさんはヘンリ8世の被害者の一人ですね。」

ヘブライ語のロイヒリン

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「さて、次に紹介する人文主義者はロイヒリン(1455~1522年)です。代表作は1506年に刊行された『ヘブライ語入門』です。高校の世界史定期試験や大学入試センター試験なら、ここまで知っていればOKですね。」
名もなきOL
「この人は全然覚えていないですね。教科書に出てきたかしら?それに、代表作の『ヘブライ語入門』って、言語学を専攻していた人なんですか?」
big5
「せっかくなので、ロイヒリンの話も深堀しましょうか。OLさんが考えたとおり、ロイヒリンはラテン語、ギリシア語など古い外国語をよく研究しました。中でも際立っているのがヘブライ語の研究でした。ヘブライ語って、何人の言葉か覚えていますか?」
名もなきOL
「えっと・・・あ、ユダヤ人です。」
big5
「そうです、ユダヤ人です。そして、キリスト教はユダヤ教から発展して成立したものです。なので、旧約聖書なども、元々は当時の知識人の標準語であるラテン語ではなく、古代ユダヤ人のヘブライ語で書かれていたわけですね。エラスムスやルターが主張するように「聖書が大事」というのであれば、本家本元はヘブライ語で書かれた聖書になるはずです。ロイヒリンはそう考えてヘブライ語を学び、ヘブライ学の権威となりました。」
名もなきOL
「なるほど、筋が通っていますね。」
big5
「しかし、ロイヒリンの研究はカトリック教会にとって脅威となるものでした。なぜなら、ラテン語聖書に基づくカトリック教会の考えが、ロイヒリンのヘブライ語研究の結果と異なるものであった場合、間違っているのはカトリック教会、ということになります。これは、カトリック教会にとってあってはならないことです。また、ヘブライ語の研究を進めることは、当時差別されていたユダヤ人を擁護することになりかねない、ということでカトリック教会のみならず、政治的・経済的な利害関係も絡んで大問題となり、1512年にはロイヒリンは異端裁判にかけられることになったんです。なお、ロイヒリンを訴えたのは「改宗ユダヤ人」と呼ばれる、キリスト教に改宗したユダヤ人だったことも重要ですね。当時、差別から逃れるためにキリスト教に改宗するユダヤ人も多かったんです。改宗ユダヤ人は、異端者のあぶり出しに積極的に臨むことでキリスト教世界から認められようとする傾向がとても強かったんですね。ロイヒリンは、それに目を付けられたわけです。」
名もなきOL
「ロイヒリンさんの考えは筋が通っていますね。でも、だからこそ政治的、経済的にも問題視されたわけですね。」
big5
「1513年、マインツの裁判所でロイヒリンは異端である、との有罪判決が出されました。しかし、人文主義者らはロイヒリン支持を表明します。後に帝国騎士の乱を起こすドイツのフッテンは「ロイヒリンの勝利」を刊行して、ロイヒリン支持を表明しています。それらの効果もあったのか、2度目の裁判ではロイヒリンが逆転勝利しました。しかし、異端審問官は納得できず、3度目の裁判を準備し始めました。ロイヒリン裁判はヨーロッパ世界でかなりの注目を集めていたのですが、1517年にルターの宗教改革が始まると世間の目はそちらに奪われていくことになりました。」

ルターのサポート役 メランヒトン

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「さて、次に紹介するのはルターのサポート役を務めたメランヒトン(1497~1560年)です。上述のエラスムス、トマス・モア、ロイヒリンと比べるとメランヒトンは影が薄く、高校世界史では省略されることも多いです。代表作は1521年の「神学概論」や1530年のアウグスブルク信仰告白なのです。これだけ知っているだけでも、大学入試センター試験対策なら十分でしょう。」

PhilippMelanchthonメランヒトン 制作者:Lucas Cranach the Elder 制作年:1543年

big5
「せっかくなので、メランヒトンについても深堀しておきましょう。「メランヒトン」というのは本人が名乗った異名で、本名はScwarterd(黒い土、の意味)というのですが、ギリシア語で「黒い土」はMelanchtonというので、自身を「メランヒトン」と名乗った、というけっこう変わった人です。なお、母方のおじはロイヒリンです。なので、ロイヒリンのちょっと遠めの親戚になりますね。」
名もなきOL
「それだけで、ギリシア語がよほどお気に入りだったことがわかりますね。」
big5
「そうですね。メランヒトンはルターと同じヴィッテンベルク大学でギリシア語を教えていた神学者です。当初からルターの宗教改革に共鳴し、始終、ルターのサポート役として宗教改革に取り組んでいました。1521年に著した『神学概論』は、プロテスタント神学を体系化した最初の書物になります。ルター派は新しい宗派ですので、その考え方を体系化してまとめる、という地味ながら重要な仕事をしたわけですね。また、メランヒトンはルターを支持しながらも、新旧両派の和解を仲介しようとしました。結果的にその目論見は失敗してしまうのですが、ルター派の確立の影の功労者です。」

美術

デューラー

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「さて、ここから美術の話に入ります。まず、美術の時代区分についてです。ここでは「16世紀 宗教改革時代の美術」というグループにして紹介していますが、この頃のドイツやオランダ方面の美術は北方ルネサンスというグループ分けもよく使われます。
さて、トップバッターはニュルンベルク生まれの画家・デューラーです。」

Albrecht Durer - Selbstbildnis im Pelzrock - Alte Pinakothek自画像(デューラー) 制作者:デューラー 制作年:1500年

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「デューラーは絵画だけでなく版画にも優れており、多くの作品を残しています。上記の自画像もその一つですね。有名な作品が多いのですが、その中から代表作を一つだけ選ぶのであれば、この『四使徒』がおそらく資料集などに一番よく登場しているかと思います。」

Vier Apostel (Albrecht Duerer)四使徒 制作者:デューラー 制作年:1526年

big5
「高校世界史の定期試験や、大学入試センター試験であれば、これだけ知っていれば十分でしょう。ですが、これだけだと面白みがないので、もう少し深堀します。
デューラーが生まれたニュルンベルクはドイツ南部にある大都市で、帝国自由都市の一つでした。デューラーの父は金細工職人でした。子供のころから絵が上手で、銅版画の製作も得意だったので絵画を学びました。ルネサンスの本場・イタリアにも2回旅行し、特にヴェネツィア派の多彩な自然描写と人体表現を学んだそうです。上の『四使徒』は、デューラー晩年の作品なのですが、これは当時の常識である顧客の注文で作ったのではなく、自分で描いてニュルンベルク市参事会に寄付した作品です。そのため、現代的な芸術家のはしりだとか、この絵はルター派に共鳴していたデューラー自身の信仰を表現している、と言われています。
デューラーについては、山田五郎氏がYou tubeで興味深く説明されているので、こちらもおススメです。」

名もなきOL
「著作権に関する法廷闘争とかもしていたんですね。そういう意味でも、時代を先取りするかのような人だったんですね。」
big5
「そうですね。その点は、山田五郎氏も指摘しているように、デューラーは帝国自由都市であるニュルンベルク市民という、自立した市民としての背景を持っているからだ、というのが大きな要因ではないか、と思います。」

肖像画家のホルバイン

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「次に紹介するのは、肖像画家として名を上げたホルバイン(1497~1543年)です。既に登場したエラスムスやトマス・モアの肖像画もホルバインの作品です。ヘンリ8世に仕えて宮廷画家となりました。高校世界史の定期試験や、大学入試センター試験であれば、これだけ知っていれば十分でしょう。」

HolbeindJホルバイン

名もなきOL
「デューラーも上手ですけど、ホルバインさんも上手ですね。」
big5
「せっかくなので、ホルバインについても少しだけ深堀しておきます。
当初、ホルバインは宗教画家としてキャリアをスタートさせました。ところが、宗教改革が始まって状況は一変。プロテスタントの信条では宗教画を好まなかったので、肖像画家に転向しました。その後、バーゼルやイタリアを経てイギリスにわたり、ヘンリ8世の宮廷画家になりました。ホルバインも、宗教改革の影響で人生が変わった人物の一人ですね。」

フランドル派 農民の画家ブリューゲル

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「次に紹介するのは、フランドル派の画家・ブリューゲル(1525?~1569年)です。ブリューゲルは農村の風景を描いた作品が多いので「農民の画家」と呼ばれることもあります。代表作は『農民の踊り』(1568年頃)、『農民の結婚式』などです。↓を見てください。」

Pieter Bruegel d. A. 014農民の踊り 制作年:1568年頃 制作者:ブリューゲル Pieter Bruegel d. A. 011

農民の結婚式 制作年:1568年頃 制作者:ブリューゲル

名もなきOL
「デューラーやホルバインと比べると、ちょっと中世っぽいかんじのタッチですね。ただ、登場人物が多くて、当時の農民の生活の一部を忠実に描いてるんじゃないかな、と思います。」
big5
「ブリューゲルについては、上記の内容を把握しておけば高校世界史の定期試験や大学入試センター試験では十分でしょう。ですが、ブリューゲルについても、少しだけ紹介しておきます。というのも、ブリューゲルの生涯は他の人物に比べると謎が多いんです。
生まれたのは1525年頃ではないか?と考えられていますが、1530年頃という説もあります。その他のことも不明点が多く、謎が多い画家です。ただ、ブリューゲルの一族には画家が多く、息子のピーターとヤンも画家なので、「ブリューゲル(父)」と表記されることもありますね。元々は版画の下絵制作者として画家としてのキャリアをはじめ、途中から油絵に転向したようです。」

思想

君主論のマキアヴェリ

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「次は、この時代に登場した有名人・マキアヴェリ(1469~1527年)です。代表作の『君主論』(1513年)も有名です。君主とは、公明正大であるよりも権謀術数に長けた冷徹非情であるべき、という考え方はマキアヴェリズムと呼ばれ、その後に大きな影響を与えました。この内容を把握しておけば高校世界史の定期試験や大学入試センター試験では十分でしょう。」

Portrait of Niccolo Machiavelli by Santi di Titoマキアヴェリ 制作者:Santi di Tito  制作年:1550~1600年

名もなきOL
「マキアヴェリってこの時代の人なんですね。もっと後、フランス革命頃くらいの人だと思っていました。」
big5
「マキアヴェリは「近代政治学の祖」と評されることもあるので、近代の人物だ、というイメージを持つ人が多いです。でも、実際は16世紀前半の宗教改革と同じころに活躍しています。マキアヴェリについても、少し深堀しておきましょう。
マキアヴェリは元々フィレンツェ共和国の外交官でした。マキアヴェリは、教皇・アレクサンデル6世の子であるチェーザレ・ボルジアと知り合い、その冷徹非情な策略で次々と敵を倒していく姿を見て、これこそ理想の君主、と考えたそうです。なので、「君主論」はチェーザレ・ボルジアをモデルとしている、と考えられています。
ちなみに、チェーザレ・ボルジアは群雄割拠状態のイタリア半島を武力で統一するのではないか、と期待されていた時もありましたが、最終的には失敗してスペインに落ち延びその地で死んでいます。なので、高校世界史では省略されることがほとんどです。その一方で、物語などにはしばしば登場する人物でもあります。なにしろ、妻帯が禁じられているはずの教皇の息子、ということで物語にも取り上げられることが多い人物ですね。」

文学

風刺文学のラブレー

big5
「お次は文学の分野から、宗教改革時代に新旧両派の争いを風刺文学という形で批評したフランスのラブレー(1483?~1553年)です。代表作は『ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語』という大作です。ただ、その内容は猥雑ネタでいっぱいなので、パリ大学神学部からは禁書指定されています。」

Francois Rabelais - Portraitラブレー 制作者:不明 制作年:不明

名もなきOL
「ルターたちが「マジメ」に宗教問題に取り組んだ人たちとするなら、ラブレーはそれを脇から冷やかに見て批評する批評家、といったかんじでしょうかね。」
big5
「そのイメージでだいたいあっていると思います。立ち位置は、エラスムスに近いでしょうね。カトリックもプロテスタントにも批判的なので。実際、ラブレーはガルガンチュアの物語は匿名で刊行したりしていますので、カトリックからもプロテスタントからも批判されることは間違いありませんでした。
ラブレーについて少しだけ深堀しておくと、ラブレーの批評はカトリックもプロテスタントも批判しただけではなく、時にはかなり深い古代ギリシア時代の古典知識を使って揶揄しているところに、凄さがあるそうです。元々、ラブレーは幼少の頃にフランチェスコ派の修道院に入れられ、修道士として勉強していたのですが、ラテン語、ギリシア語を学んで人文主義の影響を強く受けました。また、医術にも知見があったようで、フランソワ1世の重臣がイタリアに赴いた時には、侍医として同行していたそうです。」

学問

地動説のコペルニクス

big5
「最後に学問の分野からコペルニクス(1473~1543年)です。地球が宇宙の中心ではなく、地球は自転しながら太陽の周りを回っている(公転)という、現代では当たり前の地動説を発表したことで、あまりにも有名ですね。」

Nikolaus Kopernikusコペルニクス 制作者:不明 制作年:1580年?

名もなきOL
「当時は、地球を中心にしてあらゆる星は回っている、という天動説が当たり前でしたから、コペルニクスの地動説はかなり斬新な説だったんでしょうね。」
big5
「はい。天動説は2世紀、ローマ帝国時代のプトレマイオスの頃からおよそ1400年もの間、世間一般に信じられていた説(古代 古代ローマの文化 参照)です。そこから見れば、コペルニクスの地動説はあまりに斬新な考えでした。そのため、今でも「従来の常識をひっくり返すような革新的な変化」のことを「コペルニクス転回」と言ったりします。せっかくなので、コペルニクスについても少し深堀しておきましょう。
コペルニクスはポーランドの人です。当時、ポーランドはリトアニアと連合していたので、細かく言うとポーランド・リトアニア王国の人です。コペルニクスの地動説は、カトリック教会はもちろん、ルター派など聖書至上主義のプロテスタントにとっても、「地球が世界の中心ではない」という到底受け入れられない理論でした。地動説を声高に主張すれば、キリスト教世界におそらく居場所はなくなったでしょう。実際、コペルニクスが自身の学説を書物にまとめて発表したのは、死の直前の1543年のことでした。
ただ、地動説についてはそれより前から友人・知人には話していたようで、どこかから地動説を聞いたルターは「聖書からそんな解釈はできない」といって厳しく批判しました。また、地動説はあまりに斬新過ぎたために、他の学者からもあまり理解できず、センセーショナルな内容の割には、注目を集めるまでには時間がかかりました。コペルニクスの地動説を受け継ぎさらに発展させたのは、コペルニクスの死からおよそ100年後、イタリアのガリレオ・ガリレイになります。

と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」

大学入試 共通テスト 過去問

big5
「大学入試共通テストでは、人文主義と16世紀時代の文化ネタはたまに出題されています。試験前に復習しておけば、運よく出題されるかもしれません。」

平成31年度 世界史B 問題7 選択肢@
・コペルニクスが、天動説を唱えた。〇か×か?
(答)×。地動説です。基本知識なので、これは正答したい問題です。

平成31年度 世界史B 問題30 選択肢@
・ラブレーは、『愚神礼賛』で教会を風刺した。〇か×か?
(答)×。ラブレーではなくエラスムスです。基本知識なので、これは正答したい問題です。

令和2年度追試 世界史B 問題1 選択肢C
・プトレマイオスが、地動説を唱えた。〇か×か?
(答)×。プトレマイオスではなくコペルニクスです。基本知識なので、これは正答したい問題です。




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