Last update:2022,Jul,16

18世紀欧州戦乱

人物篇 バッハ バロック時代の音楽家 詳細篇

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「「18世紀欧州戦乱」の人物篇へようこそだぜ!ここでは、バロック音楽時代を代表する音楽家の一人であるバッハ(ヨハン・ゼバスティアン・バッハ "Jean Sebastien Bach")の本編では省略した、より詳細でマニアックなバッハの話をしていきたいと思うぜ。」
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「詳細篇は、OLさんに代わって私がお相手しますね。本編をまだ見ていない、という方々は、まずはこちらの本編をご覧になってから、この詳細篇を読むのがオススメです。」
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「それでは、早速見ていこうか。」

Johann Sebastian Bach
バッハ 肖像画 作成者:Elias Gottlob Haussmann 作成年代:1748年


<バッハ 詳細篇 目次>
1.バッハ一族
2.聖歌隊員だった少年時代
3.従僕兼ヴァイオリニスト
4.アルンシュタット教会オルガニスト 退職までの経緯 1705-1707年
5.ブクステフーデからの提案と縁談 1705年
6.ミュールハウゼン教会オルガニスト 退職までの経緯 1708年
7.ワイマール公宮廷オルガニスト 1708-1717年
8.弟子・シャイベの批判 1737年


1.バッハ一族

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「さて、バッハが生まれた当時、バッハ一族といえば音楽一族としてそこそこ有名だった、という話は本編でも紹介していたとおりだ。そのため、同姓同名の「バッハさん」も多く、バッハを詳しく研究しようとすると、史料を見てもどのバッハの話かわからないことが多く、かなり難易度は高いそうだぜ。」
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「手紙一つ調べるにも、同姓同名が多かったら、どのバッハさんのことなのかわからないですもんね。」
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「バッハの幼少期について不明な点が多いのも、そういう背景が原因なんだろうな。ところで、バッハ一族については、バッハ自身が1735年(50歳)の時に『音楽家系バッハ一族の起源』と題した系譜を作成しているんだ。なので、バッハ一族の研究の基礎資料としてこれを利用することができている。面白いことに、バッハ自身も間違えていたり、不明なのか書き忘れたのかわからないが、年月が抜けていたりするところもある。だが、研究者たちがいろいろ検討した結果、多くの部分は訂正されたり補われたりして、バッハ一族の基礎資料として有用になっているそうだぜ。」
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「自分自身のことはともかく、遠い親戚になるとバッハもあまり把握していないでしょうから、多少の間違いはやむを得ないですね。それよりも、このような記録を残している貴重さに注目すべきですね。」
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「まったくだな。『バッハ 神はわが王なり』にその一部が載っているので、ここではその中でも俺が注目した部分を取り上げてみよう。」

(1) ヨハン・アンブロジウス・バッハ 1645年2月22日〜1695年
バッハの父。アイゼナハの宮廷と町の楽師。エルフルトで生まれ、アイゼナハで亡くなった。エルフルトの市参事会員を務めていた親戚のヴァレンティン・レンマーヒルト氏の娘エリザベータと結婚。

(2) ヨハン・クリストフ・バッハ 1671年〜1721年
バッハの長兄で、アンブロジウスの長男。オールドルフの町のオルガニストと学校教師を務め、その町で亡くなった。

(3) ヨハン・ヤーコプ・バッハ 1682年〜1722年
バッハの次兄でアンブロジウスの次男(正確には三男)。アイゼナハで生まれ、父の後任として町楽師を務めたハインリヒ・ハレ氏に弟子入り。1704年、オーボエ奏者としてスウェーデン王カール12世の軍楽隊に入り、ポルタヴァの不幸な戦いを経験して王に従ってトルコのペンデルに逃れて9年過ごした。王が帰国する1年前に王の宮廷楽師としてストックホルムに戻ることを許され、そこで1722年に亡くなった。子供はいなかった。

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「バッハの次兄のヨハン・ヤーコプはスウェーデン王カール12世の軍楽隊にオーボエ奏者として就職したんですね。1704年といえば、カール12世がナルヴァの戦いでピョートル1世の軍を破った後、ポーランドに攻め込んでアウグスト2世に対抗してスタニスワフ・レシチニスキをポーランド王に擁立した年です。スウェーデン軍がドイツ方面で勝っていた時期です。音楽家の就職先には、町や宮廷の楽師だけでなく軍楽隊、という選択肢もあったんですね。」

2.聖歌隊員だった少年時代

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「本編では省略したが、幼少期のバッハは教会の聖歌隊のメンバーとして歌っていたんだよな。アイゼナハの街にある聖ゲオルク教会の聖歌隊のメンバーになり、ソプラノを担当。美しい歌声で評判で、毎週日曜日に行われる教会の行事でも歌っていたそうだ。」
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当時、ドイツの教会では女性が聖歌隊に入ることはできなかったそうですね。そこで、高い音域は声変わりする前の少年たちが担当していたわけですね。少年バッハは独唱部分を歌うこともあったので、歌もかなり上手かったのだと思います。」
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「聖歌隊で歌えば、わずかながら収入も入るからな。聖歌隊の仕事が、幼少期〜青年期のバッハの貴重な収入源になっていた。1700年(この年バッハ15歳)、兄のヨハン・クリストフの家で世話になっていたバッハは、家を出て独り立ちすることになる。独り立ちしたバッハの収入源になったのが、聖歌隊の仕事だったんだ。北部ドイツのリューネブルクという街に聖ミカエル教会がある。そこの聖歌隊員募集の報せがバッハの元に来たので、これに応募したんだな。給料は月額12グロッシェンで、他に結婚式や葬式などで歌うとボーナスが出て、ローソクや薪が支給される、という待遇だ。決していい待遇ではないが、若者が一人で暮らす分にはなんとかなる、という金額だったらしい。バッハは友人と共に約350kmの道のりを歩いて旅してリューネブルクへ行った。」
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「ただ、15歳というとそろそろ声変わりしてしまいますよね。」
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「そのとおり。実際、バッハはこの頃声変わりして、少年聖歌隊として歌うことはできなくなったんだ。だが、歌には伴奏がいるので、バッハはヴァイオリンやオルガンなどの伴奏を担当したらしい。」

3.従僕兼ヴァイオリニスト

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「バッハの音楽家としてのキャリアについて見ていこう。本編では省略したが、アルンシュタットの教会オルガニストに就職する前に、バッハはヴァイマル公ヨハン・エルンスト3世の宮廷に「従僕兼ヴァイオリニスト」という待遇で3カ月ほど宮仕えしていたんだ。約3か月という限られた時間ではあったが、ここでバッハは宮廷に仕えること、宮廷での音楽家たちの地位や仕事、待遇などをある程度知ることができただろう。」
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「バッハはこの頃から、自身の肩書を「宮廷楽師」とか「宮廷オルガニスト」とし始めたそうですね。厳密に考えれば、だいぶ背伸びした表現になります。その後、本当に「宮廷オルガニスト」になっていますので、この時から既に宮廷で音楽家になることを考えていたのでしょうね。」
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「そうだな。実際、バッハは後年に、「宮廷楽師」という公式に認められた称号を得ることにこだわるようになっている。おそらく、この点はバッハにとって譲れない部分だったんだろうな。」

4.アルンシュタット教会オルガニスト 退職までの経緯 1705-1707年

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「次のテーマは、バッハが最初に就職したアルンシュタットの教会オルガニストを退職するまでの経緯について見ていこう。この退職には、大きな原因が2つあるのが特徴だな。」

ファゴット奏者ガイエルスバッハとの戦い
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「まず最初の事件は1705年8月(この年バッハ20歳)、アントン・ギュンター伯爵の居城から帰宅途上にあったバッハが、ガイエルスバッハという人物に棍棒で襲撃される、という事件が起きた。ガイエルスバッハは、バッハよりも3歳年上のラテン語学校の生徒で、ファゴットを担当していた。ある日、バッハがガイエルスバッハを「お前のファゴットは年老いたヤギのようだ」とか「青二才のファゴット奏者」と呼んで侮辱したということでガイエルスバッハの恨みを買い、襲撃に及んだ、という経緯だった。バッハは帯びていた剣を抜いて応戦したが、近くにいた生徒らによって二人とも取り押さえられ、事なきを得た、という事件だな。」
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「まぁ、早い話がケンカなんですけど、お互い武器を取って戦ったので大問題になっちゃったんですよね。」
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「この件で、バッハは聖職者会議に呼び出され、尋問を受けることになった。尋問の内容をまとめたものが『バッハ 神はわが王なり』に載っているので、内容を抜粋して紹介するぜ。
「新教会のオルガニストであるヨハン・セバスティアン・バッハは、本日、聖職者会議に出頭し次のように訴えた。それによると、バッハ昨夜自宅に戻る途中、城を出てマルクト広場にさしかかったところで、ランゲンシュタインの方角に6人の生徒たちがいるのを見た。バッハはそのまま市役所の前を通りすぎたが、その6人のうちのひとり、ガイエルスバッハという名の生徒がバッハのあとをつけてきて、どうして自分を侮辱したのかと叫びながらバッハに殴りかかった。バッハは自分は侮辱などしていないと答えた。しかし、それっきり黙ってしまったので、議論はすれちがいに終わった。そこでガイエルスバッハは、自分を侮辱しなかったにしろ、自分のファゴットを侮辱したのだから、自分を侮辱したのと同じことだ、それにバッハは犬に対するように自分に話しかけたと言って、バッハに飛びかかった。この思いがけない出来事に、バッハは思わず剣に手をかけた。ガイエルスバッハはバッハの腕を掴み、乱闘が始まった。その間にガイエルスバッハと一緒にいた他の生徒達も駆けつけてきた。そのうちの二人はシュットヴュルフェルとホフマンという名前で、他の生徒の名前もこの二人の口から明らかになると思われる。バッハは乱闘から逃れると、この決着は明日つけよう。自分の名誉のためにも君とは争いたくないとガイエルスバッハに言って、ようやく家に帰ることができた。バッハは当聖職者会議に対し、こういった出来事は不愉快だし、このままでは安心して街を歩くこともできない、かくなるうえはガイエルスバッハという生徒にしかるべき罰を加えて自分を満足させてほしい、また、この生徒たちや他の生徒たちから侮辱されたり、襲われたりしないようにしてほしいと畏まって要求した。 アルンシュタットの聖職者会議 1705年8月5日 ジル・カンタグレル」
『その時代におけるバッハ』アシェット社、1982年

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「これによると、ケンカを仕掛けてきたのはガイエルスバッハの方なんですけど、その原因はバッハがガイエルスバッハのファゴットを侮辱したことのようですね。それから、バッハの物言いも「犬に対するような」と言っていますね。この事件からわかることは、バッハは教会の聖歌隊の指導も担当していた、ということですね。バッハの仕事は「オルガンの演奏」なのですが、教会側は聖歌隊の指導もバッハの職務に含まれているべき、と考えており、バッハの職務内容について明確に合意されていなかったのではないか、と思いますね。」
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「この尋問の結果、バッハの正当防衛が認められてお咎めは無かったんだが、会議に呼び出されて尋問される、ということ自体がバッハにとって不名誉なことだっただろう。この後間もなく、バッハは休暇を願い出て旅行に出かけた。行先は、北ドイツのリューベックだ。リューベックには、オルガニストとして有名なブクステフーデという人物がいた。バッハは、ブクステフーデの演奏を聴くために、休暇を取って400km北のリューベックまで旅行したんだ。これが次の問題のきっかけになる。」

無断休暇延長
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「ブクステフーデの演奏にすっかり感心したバッハは、なんと無断で休暇を延長してリューベックに滞在することにした。」
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「これに関しては、バッハが悪いですね。無断欠勤はマズイですね。」
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「そうだよな。当然のようにアルンシュタットの聖職者会議は怒った。帰ってきたバッハは早速聖職者会議に呼ばれ、様々な尋問を受けることになった。聖職者会議とバッハのやり取りは、『作曲家 人と作品シリーズ バッハ』によると、以下のようになっている。
まず、バッハがリューベックに行った理由を尋ねられると「私の芸術において何かを得るためだ」とバッハは答えた。それに対して聖職者会議は「君が教会で演奏する曲は、奇妙で聴衆を困惑させていることについてだが・・」と、バッハの演奏する曲に対する苦情が始まった。つまり、ケンカ以外にもバッハの仕事に対する教会側の苦情はあったわけだな。教会側は、さらに付け加えて「見知らぬ女性に教会で歌わせた」ことや「聖歌隊をきちんと指導できず、ケンカ騒ぎに発展した」ことも取り上げてバッハを糾弾した。」
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「ケンカと無断欠勤が引き金となって、これまでのバッハの仕事に対する教会の不満が爆発した、というかんじでしょうかね。バッハもこれに納得できず、次の就職活動を始めてミュールハウゼンの教会オルガニストとなるわけですね。」
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「偉大な音楽家の、若き日の失敗、といったところだろうか。」

5.ブクステフーデからの提案と縁談 1705年

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「さて、ここでマニアックなこぼれ話をしておこう。バッハが断った縁談の話だ。上で書いているように、バッハは休暇を取ってリューベックまでブクステフーデの演奏を聞きに行った。ブクステフーデはリューベックの聖マリア教会のオルガニストだったんだが、もう60代後半の高齢者で、後継者探しをしていたんだな。バッハはブクステフーデの演奏にたいへん感心し、ブクステフーデもまたバッハのことを気に入ったようで、バッハに教会オルガニストの後任にならないか、と提案した。しかし、条件としてブクステフーデの30歳になる娘と結婚することが挙げられたんだ。バッハはブクステフーデの提案を断ってアルンシュタットに帰った。
という話だな。」

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ブクステフーデ 制作者:Johannes Voorhout 制作年:不明

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「この縁談、バッハはけっこう迷ったんじゃないか、と私は思いますね。このタイミングは、まさにアルンシュタットでガイエルスバッハとのケンカ騒動があった直後なので、バッハがアルンシュタットを離れてリューベックに移る、という選択肢もあり得たと思います。ただ、30歳になるブクステフーデの娘との結婚は、ちょっと考えものですね。なにしろ、この時点でバッハは20歳で歳の差が10歳あります。それに加えて、当時は平均寿命も短いので、30歳ともなると人生の後半に入っている感があります。それを考えて、バッハはこの話を断ったんじゃないか、と私は思いますね。」
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「面白いのは、これより2年前の1703年に、バッハ同様にブクステフーデの演奏を聞きに来たバッハと同い年のヘンデルに対しても、ブクステフーデは娘との結婚を条件に教会オルガニストの後任者の座を提案しているんだよな。そして、ヘンデルにも断られている。ブクステフーデにとって、娘の縁談は重大な問題だったことがうかがえるな。」
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「こんなに断られていると、娘さんが可哀想に思えてきますね。」

6.ミュールハウゼン教会オルガニスト 退職までの経緯 1708年

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「1707年、22歳になるバッハはアルンシュタットの教会オルガニストを辞めて、ミュールハウゼンの教会オルガニストに転職した。待遇はアルンシュタットとほぼ同じで年額75ターラー、ただし、穀物や薪の支給があったので、本給だけならアルンシュタットよりも少しだけ良かったのかもしれない。だが、ミュールハウゼンで仕事をしたのは約1年というわずかな期間だ。」
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「いったい、ミュールハウゼンで何があったんでしょうね?」
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「今度は宗教と音楽の問題で揉めたんだ。キリスト教の教会活動において、音楽は重要な要素だった。荘厳な音楽や讃美歌は、唯一神への信仰を布教するためにも、より強固にするためにも重要な役割を果たしていた。ルターは宗教改革を行ったが、ルターは特に音楽の重要性を強調した。バッハ自身も、ミュールハウゼンの教会も、宗派はルター派で同じだ。
ところが、この時代になるとルター派の中でも、いくつかの分派が生じていた。その一つが、教会音楽について意見を異にする正統派と敬虔派だ。ルター派の特徴の一つは、教会活動に音楽を取り入れることだ。ルター自身が音楽を愛していたので、音楽と信仰は結びついていたんだ。しかし、時を経て音楽も少しずつ進化し、教会音楽にもいろいろな曲が作られるようになる。敬虔派は「最近の教会音楽は派手すぎで、劇的過ぎる。もっと信仰に重きを置くべき」と批判し、正統派は「ルターの教えを字義どおりに受け止めて音楽に価値を置くべき」と主張して揉め始めたんだ。」
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「宗教問題って、本当にたいへんですよね。ルター派同士でも、こういうことで分裂したりするとは・・」
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「オルガニストであるバッハは正統派を擁護したんだが、バッハが務めていた教会のトップは敬虔派だったんだ。そういういざこざが原因になって、バッハはミュールハウゼンの教会オルガニストを辞職することになったわけだ。もちろん、家族を養うためにもバッハは次の職を探さなければならない。上手い具合に、ザクセン=ヴァイマル公のヨハン・ヴィルヘルム・エルンストの宮廷オルガニストとして採用されることが決まった。ヴィルヘルム。エルンストは熱心な正統派の支持者だったので同じ宗派だったし、待遇もミュールハウゼンの3倍くらいに倍増するので、バッハにとっては相当いい話だったに違いない。」
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「給料3倍で引き抜かれるって、すごいヘッドハンティングですね。羨まし過ぎまです。」

7.ワイマール公宮廷オルガニスト 1708-1717年

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「ヴァイマル公の宮廷オルガニストとしての職務は、宮廷内の礼拝堂で行われる儀式の際にオルガンを演奏することに加え、宮廷楽団が演奏する際にはヴァイオリンやチェンバロ奏者として参加する、というものだった。宮廷で働くとなると、いろいろと忙しそうに思えるが、バッハはかなり自由に過ごしていたらしい。というのも、ヴァイマル公は、バッハが宮廷を離れて他の街や教会でオルガンを演奏することを許していたので、実際にあちこちに足を運んで演奏していた。バッハの演奏は素晴らしいので、この頃から「名オルガニスト・バッハの名前が知られていくようになったようだ。」
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「「音楽家」というよりも、「オルガニスト」として知られていったんですね。現代とは違う意味で有名になったんですね。」
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「そうそう、そこもバッハの一つの特徴、というか時代の特徴の一つだな。バッハが「音楽家」として評価されるのは、実はバッハの死後なんだ。
「名オルガニスト」としての名声を高めたバッハには、いくつかの街から教会オルガニストとして採用したいというオファーも来た。だが、街の教会オルガニストの待遇は、宮廷オルガニストに比べればだいぶ低い。しかし、ハレという街は新設の素晴らしいオルガンを持っており、その話にはバッハもある程度迷いが生じたそうだ。ヴァイマル公はバッハがよそに引き抜かれるのを恐れたのか、1714年(この年29歳)には、年俸を225フロリンから250フロリンへと約10%増やされた上に「宮廷楽師長」という称号までもらった。楽師長となると、オルガンを弾くだけでなく、ヴァイマル公お抱えの楽団のリーダーとして指導も行わなければならない。さらに、毎月1曲の新曲を作曲しなければならない、という義務も課せられた。待遇の向上と共に、責任も増えたわけだな。」
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「とんとん拍子で出世していきますね。そして、キャリアプランも手堅いですね。家族を養うためにも、やはり待遇とかを気にしているんですね。」
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「若い頃は貧しかったからな、バッハは。宮廷オルガニストになった後も、お金の使い道はけっこう厳しかったようで、バッハは珍しく家計簿も作っていたそうだ。バッハの家計簿は、バッハ研究の際の重要な史料になっているんだぜ。」
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「音楽に一点特化して、自分の道を邁進していくというよりも、手堅く人生を歩んでいる感じがしますね。」
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「そうだな。しかし、順風満帆だったバッハの人生にも、ピンチが訪れる。」
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「どんなピンチだったんですか?」
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「宮廷オルガニストならでは、というピンチだ。主君であるザクセン=ヴァイマル公のヨハン・ヴィルヘルム・エルンストの甥にエルンスト・アウグストという人物がいた。彼は音楽の才能に恵まれており、バッハとも仲良くなっていた。ところが、エルンスト・アウグストはザクセン=ヴァイマル公と仲が悪く、ついには喧嘩してしまった。ザクセン=ヴァイマル公は、バッハら宮廷楽団のメンバーがエルンスト・アウグストの屋敷で演奏してはいけない、という禁止令が出たのだが、バッハはこれを聞かずに演奏してしまうんだ。」
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「バッハって、けっこう自分の雇い主に対して強気にでますよね。しかも、今度の相手は貴族(公爵)なのに。。」
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「マズイ話だよな。宮廷オルガニストは主君に雇われている身だ。言ってみれば、主君の一存で解雇されることだってありえる。バッハの方でも、この頃にはヴァイマル=ザクセン公に見切りをつけたのか、エルンスト・アウグストの義兄であるアンハルト=ケーテン公の宮廷楽団の楽長のオファーが来たので、渡りに船とこれを受けるんだ。ところが、この時点でザクセン=ヴァイマル公から退職の許可は出ていない。」
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「ザクセン=ヴァイマル公の面目は丸つぶれですよね。禁止令を破られた挙句に、ちゃっかり別の宮廷に鞍替えしているわけですし。」
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「当然、バッハは主君の怒りを買ってしまい「不服従の罪」ということで、約1カ月の間牢に入れられてしまった。1カ月後には、許されて無事に新しい雇い主の所に行っている。このエピソードは当時の「宮廷の音楽家」の地位がよく示されているいい例だと思うぜ。」
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「そうですね。まだ革命の時代じゃないですし。「貴族が政治の中心」だ、っていうことがよくわかりますね。」

8.弟子・シャイベの批判 1737年

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「これはバッハの元弟子がバッハを手厳しく批判した、という話だな。1737年(この年バッハ52歳)、バッハの弟子だったシャイベという人物に、音楽の雑誌で「バッハは偉大だが、バッハが作る曲は天才向けの難しい曲ばかりで、演奏者のことを考えていない」と批判された、という事件だ。」
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「これって、「バッハの技能は並外れている」と言っているようにも取れますよね?」
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「そうだな。シャイベの批判に対し、バッハは直接反論することはせず、友人のビルンバウムに反論を頼んだ。こうして、しばらく雑誌上で「バッハ vs シャイベ」の音楽論戦が繰り広げられた。俺は音楽の事はわからないが、シャイベによると「バッハの宗教音楽は、他の音楽家の曲に比べて毅然とした態度や合理的精神に欠けている」と言ってやはり批判している。」
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「流行り廃りがある芸術の世界では、このような論争はよくある話ですね。実際、音楽史ではバロック時代が終わってロココ音楽や古典派の時代に変わっていく頃ですから、旧時代の音楽を批判することで新時代の音楽が形成されていく、というのは必然的な歴史の性質だと思いますね。」


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参考文献・Web site
バッハ 神はわが王なり 著:ポール・デュ=ブーシェ 監修:樋口隆一 222ページ

バッハの誕生から死まで、豊富な挿絵と解説でバッハの生涯とその音楽を解説しています。バッハの入門書としてオススメ。


バッハ 作曲家 人と作品シリーズ 著:久保田慶一 336ページ
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