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18世紀欧州戦乱

人物篇 バッハ バロック時代の音楽家

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「「18世紀欧州戦乱」の人物篇へようこそだぜ!ここでは、バロック音楽時代を代表する音楽家の一人であるバッハ(ヨハン・ゼバスティアン・バッハ "Jean Sebastien Bach")について紹介していくぜ!」
名もなきOL
「バッハは私も知っています。有名な音楽家ですよね。頭がフワフワモサモサのおじさんですよね?」
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「そうだな。だが、決定的に違う所が一つある。バッハの↓の髪は、本人の地毛ではない。カツラだ。

Johann Sebastian Bach
バッハ 肖像画 作成者:Elias Gottlob Haussmann 作成年代:1748年

名もなきOL
「え〜、カツラなんですか!?バッハは!そっかぁ、偉大な音楽家さんにも、頭髪の悩みがあったんですね。」
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いや、違うぞ、たぶん。この時代、貴族の屋敷に出入りする音楽家は、カツラをかぶるのが礼儀作法だったんだ。バッハと同い年のヘンデルの肖像画だって、カツラなんだぞ(ヘンデル 参照)。頭髪の悩みがあったかどうか俺は知らんが、それは関係ないんだ。礼儀作法だからな。
ところで、OLさんはバッハと言えば何の曲を思い出す?」
名もなきOL
「えっと、あの曲ですね。メロディーはわかるんですけど、曲名はわからないな・・・」
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「バッハが作曲した曲は本当に多くて、なんと1,000曲近く作っているそうだ。その中で、おそらくたぶん一番有名なのは「主よ人の望みの喜びよ」だな。」


名もなきOL
「これはちょくちょく耳にする曲ですね。こないだ友人の結婚式場でも流れていた曲だわ。」
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「この曲は、元々は教会での儀式用に作られた曲だからな。教会関連でよく使われるぜ。他にもバッハの曲として有名なのが「G線上のアリア」だ。」

名もなきOL
「あぁ、知ってます、この曲。これもちょくちょく聞きますね。」
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「ちなみに、この曲の本当の名前は「管弦楽組曲第3番」の2曲目の「アリア」となるそうだ。今では「G線上のアリア」の名前の方で広まってしまっているな。これについては、後でもう一度紹介しよう。
さて、それではバッハの生涯を見ていこうか。」


<目次>
1.バッハ 年表
2.出生〜青年時代 月明かりの写譜
3.バッハの音楽家キャリア前半 教会オルガニストと宮廷オルガニスト
4.バッハの音楽家キャリア後半 教会カントル


1.バッハ 年表

バッハのできごと 世界のできごと
1685年
3月21日
ドイツ中部の街・アイゼナハで誕生
1688年 (3歳) 名誉革命 勃発 
1693年 (8歳)アイゼナハのラテン語学校に入学
1694年 (9歳)母エリザベート 死去
1695年 (10歳)父アンブロジウス 死去
兄のヤーコプと共に長兄のヨハン・クリストフに引き取られ、オールドルフのラテン語学校に通う
1700年 (15歳)リューネブルクに移り、聖ミカエル教会の聖歌隊員となる
1701年 (16歳) スペイン継承戦争 開戦
1702年 (17歳)聖ミカエル学校を卒業 赤穂浪士の討ち入り
1703年 (18歳)3月:ヨハン・エルンストの宮廷で従僕兼ヴァイオリニストになる
8月:アルンシュタットの新教会オルガニストに就任
1707年 (22歳)ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガニストに転職
10月:マリア・バルバラと結婚
1708年 (23歳)ザクセン=ワイマール公ヴィルヘルム・エルンストの宮廷オルガニストに転職
1713年 (28歳) ユトレヒト条約締結 スペイン継承戦争終結
1714年 (29歳)ワイマールの宮廷楽団楽師長に就任
1717年 (32歳)ケーテンの宮廷楽団の楽長に転職 マリア・テレジア誕生
1720年 (35歳)妻のマリア・バルバラ 死去
1721年 (36歳)アンナ・マグダレーナと再婚
1723年 (38歳)ライプツィヒのトマス教会カントルに転職
1737年 (52歳)弟子のシャベイが雑誌でバッハ批判を展開
1740年 (55歳) オーストリア継承戦争 開戦
1747年 (62歳)プロイセンのフリードリヒ大王を訪問
1748年 (63歳) アーヘンの和約 オーストリア継承戦争 終結
1750年 (65歳)ジョン・テイラーの眼科手術を受けるが失敗
7月28日 死去

2.出生〜青年時代 月明かりの写譜

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「バッハが生まれたのは、1685年。場所はドイツ中部チューリンゲン地方のアイゼナハという街だ。父はヨハン・アンブロジウスといい、職業は町楽師。母はエリザベートという。ちなみに、バロック時代の音楽家として有名なヘンデルも同じ1685年生まれだ。バッハは8人兄弟の末っ子として生まれたのだが、このうち成人した兄弟はバッハを含めて4人だけだ。当時はまだまだ乳幼児の死亡率が高かったからな。
バッハが生まれたころ、アイゼナハ周辺にはバッハ一族が80人くらい住んでいたそうだ。しかも、バッハ一族の男たちの半数以上が何らかの形で音楽に携わっており、チューリンゲン地方では「バッハ一族=音楽一族」として名の知れた存在だったらしい。
幼少期のバッハの人生はなかなか厳しかったようだ。1694年(この年バッハ9歳)に母のエリザベートが、1695年(この年バッハ10歳)には父のヨハン・アンブロジウスが相次いで亡くなってしまった。」
名もなきOL
「小学校3,4年生くらいの年頃ですよね。そんなに幼くして両親を失ってしまうなんて、バッハさんも大変だったんですね。両親を失ったバッハさんは、どうなったんですか?」
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「長兄のヨハン・クリストフがアイゼナハから少し離れた町・オールドルフで学校教師兼オルガニストとして生計を立てていたので、バッハは長兄の家に引き取られることになった。」
名もなきOL
「「オルガニスト」・・って何ですか?」
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「オルガニスト」とは、オルガンを弾くプロだ。ピアノのプロは「ピアニスト」だろ?それのオルガン版だ。当時、まだピアノは世の中に普及しておらず、教会ではオルガンを備えて音楽をやっていたんだ。オルガンも、ピアノと同様に練習しなければまともに弾けない。そこで、「オルガニスト」という職業があったわけだな。オルガンにもいろいろあるが、バッハが弾くことになる教会のオルガンはこんなかんじのものだ。多分、見たことあると思うぜ。「パイプオルガン」と呼ばれることもある。」


パイプオルガンのイラスト 作者:みふねたかし様(かわいいフリー素材集 いらすとや様より)

名もなきOL
「見たことあります!これがパイプオルガンなんですね。そういえば、オルガンとピアノって、両方とも鍵盤があって、鍵盤を押して音を鳴らしますよね。何が違うんですか?」
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「ピアノは、鍵盤を押すことでハンマーが弦を叩き、それで音が出る。つまり、ピアノは弦楽器だ。対してオルガンは、鍵盤を押すと空気が管に流れ込み、それで音が出る。つまり、オルガンは管楽器だ。」 名もなきOL
「なるほど、そういう違いなんですね。わかりました。」
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「というわけで、バッハは長兄のヨハン・クリストフから音楽を学ぶことになった。この頃のバッハには、有名なエピソードがあるので紹介しておこう。
長兄の家には楽譜がたくさんあったので、バッハは勉強も兼ねてこれらの楽譜を写譜する(コピーする)ことにした。しかし、長兄はこれを許さなかった。」
名もなきOL
「え〜、どうしてダメなんですか?弟が勉強しようとしているのに。。ケチんぼ兄さんですね。」
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「当時、楽譜をコピーするには所有者にお金を支払うのが習慣だったんだ。音楽に関わる仕事をしている人にとっては、それは当然のことであり、写譜料が収入源の一つになっていたんだ。後に、バッハ自身も自分の楽譜を弟子たちが写譜する時は写譜料を取っていたんだ。それに、長兄には他の弟子もいたので、弟だけを特別扱いするわけにはいかなかったんだ。音楽家の世界も「徒弟制度」なので、親方と弟子の上下関係はしっかりと区別されている。なので、長兄はバッハに写譜を許さなかった。しかし諦めきれないバッハは、夜になって皆が寝静まってから、こっそり楽譜を取り出して、月明かりを頼りに写譜をした。半年かけて、欲しかった楽譜の写譜を完了させたらしい。」
名もなきOL
「おぉ、バッハさん、すごい根性ですね。月明かりを頼りに勉強するなんて、「蛍雪の功」みたいですね。」
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「しかし、バッハが隠れて写譜していたことが長兄にバレ、写譜した楽譜はすべて没収されてしまった、という話だ。この話が本当かどうかは、いろいろ議論されているそうだ。また、バッハがそこまでして写譜したかった楽譜とは何なのか、ということもいくつかの説があってハッキリしていない。だが、若い頃のバッハの有名なエピソードとして知られている話なんだ。
こんなかんじで成長したバッハは、1700年(この年バッハ15歳)に長兄の家を出て、ドイツ北部で研鑽を積んだ。そして、いよいよバッハはオルガニストとしてのキャリアをスタートさせることになるんだ。」

3.バッハの音楽家キャリア前半 教会オルガニストと宮廷オルガニスト

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「バッハが最初に「オルガニスト」となったのは、アルンシュタットというドイツ中部の町の教会だ。アルンシュタットは、バッハの故郷であるアイゼナハにも近く、故郷の近くで就職することはバッハの希望だったらしい。」

Bachkirche Arnstadt
アルンシュタットのバッハ教会 Wikipediaより

名もなきOL
「現代でいうUターン就職(大学を卒業したら地元に戻って就職する)みたいなものですね。教会のオルガニストって、どんな仕事なんですか?」
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「この時の主な職務は以下の通りだ。以下の礼拝の際にオルガンを演奏すること。
・毎週月曜・木曜の朝の短い礼拝
・毎週土曜・日曜の午後の晩課
・毎週日曜朝の主礼拝
という内容だ。他に、ラテン語学校の生徒達で構成される聖歌隊の訓練も頼まれたのだが、こちらは「契約に含まれていなかった」として断っている。」
名もなきOL
「なんか、アルバイトのシフトみたい。しかも、あまり埋まってないですね。日曜は朝から晩まで忙しいっぽいですが、火・水・金は完全にフリーで、月・木は朝だけ、土曜は夜だけ、で、学生のアルバイトみたいですね。」
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「そうだよな。実際、バッハは豊富な自由時間を使って多くの曲を作曲したそうだ。収入面を見てみると、教会オルガニストの職務内容で、給料は年間75ターラー。他に上記以外の教会活動で演奏すれば1ターラーが臨時で支給されたそうだ。また、バッハ個人の音楽活動として、弟子をとってレッスンしたり、写譜料や演奏料をもらっていたようなので、1年間で100ターラーくらい稼いでいたかもしれない。」
名もなきOL
「それって、何円くらいなんですか?」
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こちらの「コインの散歩道」様の考察だと、1ターラー=2〜3万円くらい、と計算されている。間を取って1ターラー=2.5万円とすると、100ターラーは250万円だな。現代日本の感覚で250万円だと決して裕福とは言えないな。だが、若者のアルバイトがこの内容で1年で250万円稼いでいたと考えると、けっこう高い時給で働いていたことになるな。」
名もなきOL
「自由時間も多くて、わりと恵まれた職場だったんでしょうね。」
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「そうだったと思うんだが、いろいろと事件があってな。1707年(この年バッハ22歳)、バッハは約4年間勤めたアルンシュタットの教会オルガニストを辞職し、代わりに近くのミュールハウゼンという街の教会オルガニストに転職した。待遇はミュールハウゼンの教会も、アルンシュタットの教会もだいたい同じくらいだったから、バッハの生活もそれほど変わらなかった。いや、一つ大きな変化があったのは結婚だな。ミュールハウゼンに引っ越してから数カ月後、バッハはマリア・バルバラという女性と結婚した。ちなみに、このマリア・バルバラはバッハの「はとこ(祖父母の兄弟の孫)」にあたる。マリア・バルバラの父はヨハン・ミヒャエル・バッハといい、バッハの父の従兄弟にあたる。」
名もなきOL
「バッハ一族内の結婚だったんですね。でも、はとこの関係ならけっこう遠めだから、近親婚の心配はあまり無いかな。」
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「バッハとマリア・バルバラの間には5男2女が生まれたのだが、残念ながらバッハの子の時代もまだまだ乳幼児死亡率は高かった。2男1女は夭逝してしまい、成人したのは3男1女だけだ。このうち、長男のヴィルヘルム・フリーデマンと次男のカール・フィリップ・エマヌエルは音楽家として成功しているぜ。バッハは自ら自分の子供達に音楽教育を施し、また弟子も数多く取っていたので、家は常に音楽で溢れているにぎやかな家だったそうだ。後に、次男のカール・フィリップ・エマヌエルが伝記作家のフォルケルに「蜂の巣のように賑やかだった」と語っている。」
名もなきOL
「ステキですね。一家で演奏ができるって。ちょっと憧れます。」
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「結婚して家庭的にも充実したバッハだったが、ミュールハウゼンでの仕事は1年くらいで終わってしまった。1708年(バッハこの年23歳)、バッハは上手い具合に、ザクセン=ヴァイマル公のヨハン・ヴィルヘルム・エルンストの宮廷オルガニストとして採用されることが決まった。待遇もミュールハウゼンの3倍くらいに倍増するので、バッハにとっては相当いい話だったに違いない。」
名もなきOL
「給料3倍で引き抜かれるって、すごいヘッドハンティングですね。羨まし過ぎます。」
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「やはり、街の教会オルガニストよりも、音楽好きの貴族に雇われたほうが、待遇も良くて仕事も気楽なんだろうな。しかし、宮仕えには宮仕えの苦労があった。1717年(この年バッハ32歳)、雇い主である貴族の揉め事にバッハが関与せざるを得なくなってしまい、結果としてバッハはザクセン=ヴァイマル公の宮廷を去り、代わりにケーテン公の宮廷楽師として転職することになったんだ。しかし、ザクセン=ヴァイマル公は、バッハが辞職が認められるよりも先に、ケーテン公のオファーを受けたことが「不服従」の罪だ、としてバッハ約1か月間牢屋に繋がれることになってしまった。その後、釈放されたのだが、けっこうな災難だっただろうな。」
名もなきOL
「牢屋に入れられるような事態になるなんて・・・それも大変ですね。」
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「ケーテン公の宮廷で働いたのは約6年間だ。最初は、優雅で自由な、かなりいい職場だったようだが、状況は主君の結婚で変わってしまった。」
名もなきOL
「主君の結婚で状況が変わった?・・というと、主君の奥様に嫌われてしまった、とかですか?」
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「惜しい、ちょっと違う。主君の奥様は大の音楽嫌いだったんだ。」
名もなきOL
「おぉっと、それはバッハさん、不可抗力ですね。」
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「ケーテン公の宮廷楽団にかける予算は縮小され、雇い主であるケーテン公もだんだんと音楽への情熱が冷めていってしまった。おそらく、バッハの居心地が悪くなっていったんだろうな。また、妻のマリア・バルバラが死去し、後妻としてアンナ・マクダレーナと再婚した。アンナは若かったので、バッハとの間に6男7女が生まれた(そのうち、成人したのは3男3女)。後妻との間に生まれた子を育てるためにも、バッハはまだまだ頑張って働く必要があったわけだ。そこで、バッハは再び別の職場を探すことにした。」
名もなきOL
バッハさんって子沢山なんですね。お父さん、頑張らないと・・!!」

4.バッハの音楽家キャリア後半 ライプツィヒの教会カントル

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「バッハの職場探しは難航したようだが、1723年(この年バッハ38歳)に大都市・ライプツィヒにあるトマス教会のカントルに決まった。」

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現在のライプツィヒ トマス教会  Wikipediaより

名もなきOL
「「カントル」って何ですか?」
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カントルとは、「教会の音楽監督」といったところだな。仕事内容は幅が広く、まず教会付属の学校で音楽教師としての仕事、それから教会が関与する様座な活動に音楽の責任者として参加する仕事があった。宮廷楽団長は、とにかく音楽の仕事に専念することができたが、カントルはもっと仕事の幅が広いかんじだな。待遇は、基本給100フロリンで、これはケーテン宮廷楽団長の約4分の1に過ぎないそうだ。大幅な年収ダウンだな。」
名もなきOL
「年収が4分の1って、かなりのダウンですよね。バッハさん、よく決断したなぁ・・」
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「同感だな。俺でも、年収が4分の1になるのに転職する、という決断はなかなかできないな。よっぽど、年収以外の何かが無い限りは絶対に取れない選択肢だ。
案の定というか、これはおそらく予想されていたことなんだが、カントルの仕事は宮廷楽師に比べると安い給料で仕事はキツイ、というものだった。バッハもこれにはまいったようで、友人に新たな就職先を紹介してほしい、という手紙を送っている。ちなみに、この手紙は現存しているので、バッハ研究の貴重な一次史料になっているぜ。
しかし、次の職場は見つからず、バッハはカントルとして生涯を終えることになった。
カントルとして働いている時期にあった、バッハの大きなイベントはプロイセンのフリードリヒ大王を訪問したことだな。OLさんはフリードリヒ大王の話は覚えているかな?」

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1745年頃に描かれたフリードリヒ大王

名もなきOL
「プロイセンをドイツの強国にのし上げた名君と称えられていますよね(詳しくは「オーストリア継承戦争」参照)。」
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「正解。そして、このページで重要なことは、フリードリヒ2世(大王)は音楽が好き、ということなんだ。フリードリヒ大王は子供の頃から音楽と楽器に親しんでいた。父のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は音楽を禁止していたこともあって、父王の目を盗んで楽器を演奏したりしていたことが、よりいっそう音楽への関心を深めていったのだろう。成人してから、大王自身もフルートを演奏するし、宮廷には楽団を抱えていたし、そしてさらに、バッハの次男のカール・フィリップ・エマヌエルはフリードリヒ大王の宮廷楽団員として仕えていたんだ。これがきっかけとなって、1747年(バッハこの年62歳)にバッハはフリードリヒ大王の宮廷を訪問した。バッハの来訪を知ったフリードリヒ大王は演奏会の最中だったんだが、中止して「皆の者、老バッハが到着した!」と叫び、興奮しながらバッハを迎えた。そして、宮廷にある複数のピアノを弾かせ、さらに主題を与えて即興演奏をさせるなど、難題を出していったんだが、バッハは見事にそれに応えていった。宮廷の人々は、バッハの技術の高さに驚いたそうだ。」
名もなきOL
「さすがバッハさん!60代という年を感じさせなかったんですね。」
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「その後、バッハはフリードリヒ大王から作曲を依頼されて、一曲作ることになった。この曲は「音楽の捧げもの」という題名でフリードリヒ大王に献上されたんだ。しかし、「音楽の捧げもの」は、大王の宮廷で演奏されることもなく、やがて忘れ去られ、バッハに作曲料が支払われることもなかった。」
名もなきOL
「なんでそんなことになっちゃったんですか?」
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「音楽の捧げもの」は、普通の曲ではなかったんだ。演奏するためには、まず楽譜に散りばめられた謎解きをしなければならず、これがけっこう難しいものだったらしい。」
名もなきOL
「そんな奇妙な曲をあえて王様に献上するということは、バッハは何かイヤな思いをしたんでしょうかね?」
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「たぶんそうだったんじゃないか、と言われている。フリードリヒ大王は確かに音楽好きなんだが、音楽のパトロンというよりも、自分自身の演奏を引き立てるための音楽を愛していた、というのがよくある説だな。それを知ったバッハは、あえて謎かけを付けた曲を作って「本当に音楽が好きなら解いて演奏してみろ」と、フリードリヒ大王の音楽に対する理解と技術の浅さを指摘して鼻を明かしてやろうとした、という説だな。」
名もなきOL
「でも、そんなこと王様相手にわざわざするかな?王様を怒らせても、あまり良い事にはならないと思います。」
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「俺もバッハの真意はわからない。推測だが、バッハは音楽家としての才能を歴史に残そうとしたんじゃないか、と思うぜ。この時バッハは62歳。当時としては十分高齢者だ。フリードリヒ大王は、これまでバッハが接してきた中で一番社会的地位が高い。国王に曲を献上すれば、それはおそらく歴史に残るだろうし、その曲で自分が評価される、と考えたんじゃないだろうか。」


バッハの最期
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「その後、バッハは体調を崩す。1749年には脳卒中で倒れ、さらに目が見えなくなってきた。1750年、バッハは、イギリスの眼科医として当時有名だったジョン・テイラーという人物から目の手術を2回受けた。ジョン・テイラーは「手術は成功した」と新聞記者らに発表したが、実際には失敗していた。しかも術後間もなくバッハは完全に失明してしまったうえに、再び体調を悪化させてしまったんだ。それから数カ月後の1750年7月28日に死去した。バッハ、65歳になる年だった。」
名もなきOL
「後半はいろいろたいへんな人生だったんですね。ところで、ジョン・テイラーってどこかで聞いたような・・?」
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「バッハと同い年の音楽家・ヘンデルの目の手術をして失敗しているな(詳しくはこちらを参照「ヘンデル バロック時代の音楽家」)。ちなみに、ヘンデルが手術を受けたのは1752年なので、バッハの2年後のことだ。ヘンデルも手術後、間もなく完全に失明してしまっている。死んだのは1759年なので、ちょっと時間が経っているが、ヘンデルもジョン・テイラーの被害者の一人になった、というのは奇遇な話だよな。ちなみに、バッハとヘンデルは同年生まれのドイツ人音楽家なので、比較されることも多い。俺なりにまとめたバッハとヘンデルの比較表を載せておくぜ。



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「さて、最後にバッハの死後の話をしよう。バッハは今では世界クラスで有名な音楽家だが、意外なことにその死後は忘れ去られた存在になっていた。バッハの名が再び広まるきっかけになったのは、1829年、当時20歳の若者だったメンデルスゾーンがバッハの「マタイ受難曲」を演奏したことだ。これで「ちょっと昔にいたバッハは凄い」ということで有名になり、埋もれてしまった曲が再発見されると同時にバッハ個人の研究も盛んになっていき、ついには世界史に名を残す人物となったわけだな。」
名もなきOL
「バッハって、一度は埋もれてしまったんですね!これも意外ですね。モーツァルトとかみたいに、生きている時から凄くて有名だったのかな、ってなんとなく思っていました。」
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「芸術系の人物の評価は、時代が変わるとともに大きく変わることはわりとあるよな。美術の世界でも、例えば有名なゴッホは、生前はほとんど売れない画家だったんだが、ゴッホが死んでから、その絵が高く評価されるようになって、世界的に有名になっているしな。まさに『歴史は作られる』という事実を端的に示している事例だと思うぜ。
と、いったところで、18世紀に生きたバロック時代の音楽家、バッハの紹介はいったんここで終わりとしよう。バッハはよく研究されているので、いろいろなエピソードや時代背景などネタが多い。ここで紹介したのはごく一部だ。バッハについてもっと知りたい、という方は、こちらの「詳細篇」も是非読んでくれよな。」


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参考文献・Web site
バッハ 神はわが王なり 著:ポール・デュ=ブーシェ 監修:樋口隆一 222ページ

バッハの誕生から死まで、豊富な挿絵と解説でバッハの生涯とその音楽を解説しています。バッハの入門書としてオススメ。


バッハ 作曲家 人と作品シリーズ 著:久保田慶一 336ページ
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バッハという人物と、その音楽について詳細に研究した本。より詳しくバッハを知りたい時にオススメです。