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18世紀欧州戦乱

人物篇 デフォー

small5
「「18世紀欧州戦乱」の人物篇へようこそだぜ!ここでは、『ロビンソン・クルーソー』の著者であるデフォー(ダニエル・デフォー "Daniel Defoe")について紹介していくぜ!」
名もなきOL
「デフォーさんの著書の中でも一番有名な『ロビンソン・クルーソー』、有名ではないけれど、新型コロナウィルスが猛威を振るっている現代社会に通じるところがある『ペストの記憶』については、それぞれのページを見てみてくださいね。」
small5
「名作と評価が高い『ロビンソン・クルーソー』だが、その著者であるダニエル・デフォーはどんな人物だったのか、ここではその人物像に迫りたいと思うぜ。まずは、いつもどおり、デフォーの年表を見てみよう。」

Daniel Defoe Kneller Style
デフォー 肖像画 作成者:不明 作成年代:17世紀〜18世紀

デフォーのできごと 世界のできごと
1660年 イギリスのロンドンで誕生
1665年 (5歳) ロンドンでペスト大流行
1666年 (6歳) ロンドン大火
1670年? (10歳)母アリス死去
1684年 (24歳)結婚
1685年 (25歳)モンマスの反乱に参加するも、処罰を免れる モンマスの反乱
1688年 (28歳) 名誉革命 大同盟戦争開戦
1692年 (32歳)700ポンドの借金で債務者監獄に収監される
1701年 (41歳) スペイン継承戦争開戦
1702年 (42歳) ウィリアム3世死去 アン女王が即位
1703年 (43歳)国教会を批判した罪でさらし台に上げられる
1704年 (44歳)ハーレーのもとで週刊誌『レヴュー』を刊行 実質的な政府広報官となる
1707年 (47歳)スコットランドに偽名で潜入 イングランドとスコットランドが合併してグレート・ブリテン王国となる
1713年 (53歳)政争に敗れてデフォーが逮捕され、『レヴュー』が廃刊となる
1714年 (54歳) アン女王死去 ジョージ1世が即位しハノーヴァー朝はじまる
1719年 (59歳)『ロビンソン・クルーソー』を刊行
1720年 (60歳)『ロビンソン・クルーソー反省録』『海賊シングルトン』を刊行
1722年 (62歳)『ペストの記憶』『モル・フランダース』『ジャック大佐』を刊行
1724年 (64歳)『ロクサーナ』
1726年 (66歳) スウィフトが『ガリヴァー旅行記』を刊行
1730年 (70歳)借金取りからのがれるために失踪
1731年
4月24日
(71歳)家族と離れたまま死去

人生の概要

名もなきOL
「なんか、晩年が悲しいですね。借金取りから逃れるために失踪して、孤独で死を迎えるなんて・・・」
small5
「そうだな。俺がこれまで読んだ著者紹介では、たいてい
「ロビンソン・クルーソーのように、浮き沈みの激しい人生であった」
ということが書かれているんだぜ。
デフォーの子供のころの話は不明なところが多い。生まれた年も実ははっきりしていないんだ。ここでは1660年説をとったが、1659年とする説や1662年説もあるそうだ。場所についてはイギリスのロンドンでほぼ確定しているようだな。父はジェームズ・フォーといい、母の名はアリスという。父の仕事は獣脂ろうそくの製造だったそうだ。」
名もなきOL
「あれ?名字は「フォー」ですか?「デフォー」じゃなくて?」
small5
「そうなんだ。実は「デフォー」というのはペンネームなんだ。本当の名字は「フォー(foe)」だ。英語の"foe"の意味は「敵」とか「裏切者」なので、あまりいい意味ではないんだな。デフォーはそんな名字を嫌って、ペンネームは貴族的な響きを持つ"De"をつけたのだろう、と考えられている。ちなみに、デフォーがペンネームとして使っていた名前は少なくとも198個確認されているそうだぜ。」
名もなきOL
「えぇ!?そんなにいっぱい!?」
small5
「たいていの作家はペンネームを使っているが、デフォーの場合はその数の多さが際立っているな。数が多い理由としては
(1)どのペンネームにするか、デフォー本人も悩んで決められなかった。
(2)ペンネームに悩みながらも、政治パンフレットや評論などたくさん書いた。
(3)政治パンフレットなどは、誰が書いたのか不明にしておくほうがいいこともあった。
というわけだ。なので、後の時代にデフォーを研究しようとした人は、どの作品がデフォーが書いたものなのか、特定するのに苦労しているそうだぜ。
さて、デフォーの少年時代なんだが、生年がはっきりしていないのと同様にあまり詳しいことはわかっていない。ただ、幼少期をロンドンで過ごしたのは確実みたいだな。5歳の時にロンドンでペスト大流行、6歳の時にロンドン大火という2つの災害を経験している。ロンドン大火の時、近所では彼の家と他2軒しか建物が残らなかったそうだ。そして、1670年(デフォー10歳)の時に母のアリスが無くなっている。
青年期になり、1684年(デフォー24歳)に結婚。その翌年にジェームズ2世の即位に反対するモンマスの乱が起きた。この時、25歳になるデフォーはモンマス公側についたそうだ。反乱はあっけなく失敗し、モンマス公は処刑されるのだが、デフォーは処罰を免れたそうだ。」

商人としてのデフォー

名もなきOL
「デフォーさんって、イギリス国教会が嫌いなプロテスタントなんですよね?なんで、国教会のモンマス公に味方したのかしら?」
small5
「そこは俺も不思議に思うんだぜ。だが、デフォーは国教会も嫌いだが、カトリックも嫌いだ。国教会のモンマス公 vs カトリックのジェームズ2世 という争いでは、彼にとっては宗教的な違いはそれほどなかったのかもしれないな。
ともあれ、モンマスの乱が、彼の政治に興味を持つきっかけになったようだぜ。それから3年後の名誉革命の際には、ウィリアム3世をロンドンまで迎えに行く団体に加わっている。オランダ人のウィリアム3世はプロテスタントだから、デフォーと同じ派だ。デフォーは様々な論文を書いて、ウィリアム3世の支持を集めることに尽力したんだぜ。」
名もなきOL
「この頃から、文章を書くのが仕事だったんですね。」
small5
「その一方で、商人として商売もしていたんだ。商売はうまく行ったり行かなかったりしたようで、1692年には700ポンドの借金をこしらえて、債務者監獄に収監されているんだ。」
名もなきOL
「債務者監獄ってなんですか?」
small5
「当時のイギリスにあった、債務を払えなくなった人が収監される刑務所だ。まぁ、破産した人が罰として入れられる監獄、といったところか。デフォーは、何度かこの債務者監獄に収監されることになったそうだ。」
名もなきOL
「なかなか波乱万丈な人生ですね。」
small5
「そんなデフォーだったが、ウィリアム3世が死去した後、国教会を批判したということで捕まり、さらし台に上げられて民衆のさらし者にされる、という処罰を受けているぜ。ところが、デフォーはその時に「さらし台への讃美歌」を発表し、普通は民衆から汚物を投げつけられるところを、花と飲み物が与えられたそうだ。」
Daniel Defoe by James Charles Armytage
さらし台のダニエル・デフォー  画:ジェームズ・チャールズ・アーミテージ 作成:1901年

政治活動家としてのデフォー

small5
「これがきっかけとなり、デフォーは同じ非国教徒で、トーリー党の有力者であったハーレーに気に入られ、彼の支援を受けながら週刊誌『レヴュー』を刊行して、政府広報官のような仕事を始めた。1707年のイングランドとスコットランドの合同の際には、スコットランドに偽名を用いて潜入し、スコットランド人民にイングランドと合併することを勧める政治パンフレットを作成する活動も行ったそうだ。」
名もなきOL
「なんとうか、スパイのような仕事ですね。秘密の情報を集めるとかじゃなくて、裏で世論を操作する仕事ですね。」
small5
「この頃が、政治活動において最もデフォーが充実していた頃だろうな。イングランドとスコットランドの合併は、日本人にとっては「イギリス国内の話」と感じるが、実際には2つの国の合併だ。これはイギリスの歴史にとっては大きな話のはずだぜ。その中で、デフォーに与えられた任務はスコットランドの世論を操作して、イングランドとの合併がスコットランドの取るべき道だ、と民衆に思わせることだった。この頃はパンフレットが民衆に訴えかける重要なメディアの役割を果たしていたから、この仕事はかなり重要だったはずだぜ。
ところが、それも長くは続かなかった。アン女王の死が近づくと次期政権の座を巡って政争が起こった。デフォーを支援していたハーレーは失脚し、これに伴ってデフォーは逮捕されてしまった。ついでに力を注いでいた『レヴュー』も廃刊となった。デフォーは釈放されたが、以降は政治の世界ではなく、作家として活動していくことになったんだ。」
名もなきOL
「なるほど。権力争いに負けて、現役を終えてから作家になった、っていうかんじなんですね。」

作家としてのデフォー

small5
「そうなんだ。なので、人生後半になってから、俺たちが知っている『ロビンソン・クルーソー』の著者になった、というわけだぜ。『ロビンソン・クルーソー』が刊行されたのは1719年4月で、デフォーが59歳になる年だ。『ロビンソン・クルーソー』はかなりの人気を博し、1719年のうちに3回追加で刊行されたんだ。それと、あまり人気にはならなかったようだが、第2部、第3部も著している。これらについては、『ロビンソン・クルーソー 深読み篇』で紹介しているから、是非こちらも読んでみてほしいぜ。」
名もなきOL
「『ロビンソン・クルーソー』は、多くの人が知っている有名な作品ですよね。でも、デフォーの他の作品はあんあまりよく知らないな。small5さんが紹介している『ペストの記憶』しか私はわからないです。」
small5
「俺も読んだことないし、あまり聞かないよな。他の作品としては、1720年の『海賊シングルトン』、1722年の『ペストの記憶』以外だと『ジャック大佐』と『モル・フランダーズ』があるな。『モル・フランダーズ』は、不幸な境遇で生まれ育ち凄腕のスリになったイギリス人女性の話だそうだ。日本語訳も出ている。1724年に『ロクサーナ』を書いている。デフォーの作品の中で、比較的知られている作品はこんなところだな。ちなみに、1726年に同じイギリス人のスウィフトが『ガリヴァー旅行記』を著している。一説によると、これはデフォーの作品を批判していたスウィフトが、ロビンソン・クルーソーに対抗するために書いた、とも言われているぜ。このように、当時のイギリス文壇では、デフォーは攻撃されることも多く、しばしば批判合戦を繰りひろげたそうだ。」
名もなきOL
「現代文学の世界も、「他人に認められる」ってけっこう難しいですよね。読む人の好みとかあるし。日本でも川端康成と芥川龍之介がケンカしたりしてますからね。ちなみに、晩年に借金を作った理由は何だったんですか?」
small5
「そこは俺も調べたんだが、理由を書いている資料は見つからなかったな。」
名もなきOL
「なるほど。でも、デフォーは人生後半で歴史に名を残す偉業を成し遂げたわけですね。人生いろいろなんだな。」
small5
「最後は借金取りから逃げ回って孤独死を迎える、っていうのも人生いろいろ、だよな。
さて、ここで人物としてのデフォーの紹介は終わる。だが、デフォーの作品研究は、現在でもイギリスなどで継続されているんだぜ。それくらい、奥が深い作家だということは知っておいて損はないぜ。」




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