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18世紀欧州戦乱

人物伝篇

small5
「ここだな、big5が言ってた歴史の研究室、っていうのは!」
名もなきOL
「え・・・って誰ですか?突然。」
small5
「俺はsmall5。big5のいとこだ。big5の奴に頼まれてよ、人物伝篇を俺が担当することになったんだぜ。俺は、big5みたいなアマちゃんとは違うからな。あいつはよく「中立の立場で」とか言ってやがるが、そんな聖人君子みたいなやり方は俺にはできん!歴史ってのは、人間が作ってきたモノなんだ。キレイ事ばかりじゃ、世の中は見えてこないぜ。良い話も悪い話も、ビシバシ遠慮なくやっていくからな!そこんとこヨロシク!」
名もなきOL
「(乱暴な感じだけど、ある意味当たってるかも・・)
そうなんですね。最初は誰を扱うんですか?」
small5
「big5からは、「本編と同じ時代の人で」って頼まれてるからな。アイツの方が本編ってのは気に入らないが、歴史の流れを知ることは重要だ。本編と同じ時代に生きた人物を見ていくことで、見え方は深くなるだろう。
ということで、まずは科学者・ニュートンだ!お前でも名前くらいは聞いたことあるだろ?」
名もなきOL
「ム・・・(怒)。知ってますよ。リンゴが木から落ちるのを見て、重力を発見した人ですよね。」
small5
「そのとおりだ。「万有引力の法則」だな。ニュートンが偉大な科学者と評価される理由の一つだな。そんなニュートンって、どんな人物だったと思う?」
名もなきOL
「えっと・・・それは、偉大な科学者なんだから、研究熱心で、人格的にも優れた人だったんじゃないかしら・・??」
small5
「研究熱心だったというのは当たっているが、「人格的に優れている人」からは程遠いタイプの人間だったみたいだぜ。俺から言わせれば、『天才的だがワガママ科学者』だな。これから、ニュートンの素晴らしいところも、イマイチなところも、遠慮なく紹介していくぜ。」

ニュートンの良い所&悪い所

GodfreyKneller-IsaacNewton-1689.jpg
パブリック・ドメイン, リンクによる

↑ 1689年の肖像画 ゴドフリー・ネラー画

small5
「ニュートンと言えば、リンゴの木の話に代表される「万有引力の法則」の発見が有名だが、他には何があるか知ってるか?」
名もなきOL
「え?ニュートンさんって、他にも発見してるんですか?」
small5
「あぁ、他にはプリズムを使った分光の実験と、微分積分に関する研究だ。俺は数学の専門家ではないから、何が凄いかを説明することはできないが、わかりやすく説明している動画があるので、それを紹介しておくぜ。詳しくは、こっちを見てくれ。

これに万有引力の法則を加えた3つの業績を「三大業績」としていることが多いな。ニュートンがこの三大業績をまとめ上げたのは、1665年〜1666年。ペスト大流行のために、在籍していたケンブリッジ大学が閉鎖されて実家に戻っている時の間、だったらしい。この時、ニュートン22-23歳だ。若い時に、有名な業績は成し遂げてしまっていたんだぜ。まさに『天才科学者』だろう。」
名もなきOL
「やっぱり凄い人なんじゃないですか!」
small5
「俺がニュートンを『天才的』と評するのは、このためだ。次は『ワガママ』の根拠を話すぜ。
若くして実績を上げたニュートンは、鼻高々だったことだろう。そうなると、自然にプライドも高くなるもんだ。実際、それに見合うだけの業績を上げているからな。ただ、ニュートンのプライドの高さは『ワガママ坊や』に繋がってしまった。1680年ニュートン38歳の時、1か月の間隔をあけて観測された彗星が、同一のものか、別のものか、の議論について、初代グリニッジ天文台長のジョン・フラムスティード(34歳)と揉めた。」

John Flamsteed.jpg
CC 表示 4.0, リンクによる

small5
「ニュートンは、この2つの彗星は別のものだと主張したが、フラムスティードは実測データに基づいて同一のものであると主張。お互い、なかなか譲らなかったが、最終的にはニュートンが自説の誤りを認めたことで決着した。」
名もなきOL
「どんな偉人にも、間違いはあるわ。間違えたことがあるから、と言ってニュートンの業績が傷つけられることはありません。」
small5
「その通りだと思う。ただ、ニュートンはこれで終わりにしなかった。フラムスティードを憎み、別の形で報復することにした。」
名もなきOL
「報復って・・・」
small5
「まず、1687年(ニュートン45歳)、名著と称えられている「自然哲学の数学的諸原理」を執筆している際に、ニュートンはフラムスティードに観測データの提供を求めた。フラムスティードは、要求に答えて観測データを送ったんだが、ニュートンはそのデータ内容が気に入らない。自分の考えと符合していないからだ。そこでニュートンは、フラムスティードはわざと間違ったデータを自分に寄越してきた、とフラムスティードを厳しく批判した。」
名もなきOL
「うーーん、ちょっと大人げないかな・・」
small5
「論理の正しさを議論している最中に、相手の論理を批判することは悪いことじゃない。むしろ、あるべき姿と言えるだろう。だが「わざと間違ったデータをよこした」と騒ぐのは、相手の人格を貶める行為であって、科学者のあるべき姿とは言えない。単純に、ニュートンはフラムスティードが嫌いなだけ、なのさ。フラムスティードに対する嫌がらせは、もっと激しくなる。
1712年、フラムスティードはこれまでの自分の観測結果をまとめて本を出版しようとするが、ニュートンは嫌がらせをした。友人の天文学者ハレー、そうそう、有名なハレー彗星の名付け親だぜ、このハレーと一緒になって、手元にあった古いフラムスティードの観測データを使って、先に王立学会編として本を出版したんだ。この時、ニュートンは王立学会の会長の地位にあり、学会での地位や名声は確固たるものだった。フラムスティードの本が出ることが、嫌で嫌で仕方なかったようだぜ。」
名もなきOL
「これは、マズイですね・・」
small5
「これにはフラムスティードも怒って、裁判に訴えた。裁判の結果、フラムスティードの訴えが認められ、ニュートンとハレーが出した本の在庫は、すべてフラムスティードが回収。既に、図書館に出回っていた本も、なるべく回収して、焼却したそうだ。これに対して、ニュートンは自分の名著「自然哲学の数学的諸原理」の第2版から、フラムスティードの名前を削除。フラムスティードが出版には、王立学会からは一切カネを出さないことにした。そのため、フラムスティードが生きている間に本の出版をすることはできなかった。本が出版されたのは、フラムスティードが死んでしばらくたった1725年になってからだ。
これは、学会の長としての責務よりも、ニュートン個人の感情を優先した結果だと思うぜ。だから俺は『ニュートンはワガママ』と言ってるんだ。」
名もなきOL
「知らなかったです。こんな話があったなんて。ニュートンのイメージダウンしちゃった。」
small5
偉大な科学者であることと、優れた人格者であることは、必ずしもイコールじゃない、っていういい例だと思うぜ。そして、俺はそういう子供じみたこところがある人間・ニュートンの方が、個人的には好きだけどな。こういうタイプは、味方にしておけば強いし、きっと役に立つぜ。敵に回したら、フラムスティードみたいな扱いをされるけどな。」
名もなきOL
(big5さんの本編とは明らかに空気が違う・・)

アイザック・ニュートン(Issac Newton) 個人の年表

small5
「さて、ニュートンの良い所と悪い所の両方をざっと見たところで、ニュートンの人生を年表にしてみたぜ。」
ニュートンのイベント 世界のできごと
1642年12月25日 イングランド東海岸のリンカンシャー州ウールスソープ村にてニュートン誕生 ピューリタン革命勃発 内戦始まる
1646年 母のハナが再婚して家を出る。ニュートンは母方の祖父母に育てられる。
1649年
チャールズ1世が処刑され、共和政へ移行
1653年 ハナの再婚相手が死去したため、ハナはニュートン家に戻る。 クロムウェルが護国卿に就任
1655年 ウールスソープから離れ、グランサムのグラマースクールへ通う
1659年頃 実家の農園手伝いのために、グラマースクールを一時辞める
1660年頃 グランサムのグラマースクールに再入学 チャールズ2世が即位 王政復古
1661年 ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学
1663年 数学への興味が湧く
1664年 法線影決定法の論文を書く
1665年 学士号取得
ペスト流行によりケンブリッジ大学閉鎖 ニュートンはウールスソープへ戻る
(創造的休暇 or 驚異の年1年目)
ロンドンでペスト大流行
1666年 (驚異の年2年目) ロンドン大火
1667年 ケンブリッジ大学に戻り、フェローに就任
1668年 反射式望遠鏡を作成する
1669年 反射式望遠鏡を発表
ルーカス教授職に就任
1671年 王立協会で望遠鏡を発表
1672年 王立協会会員に選出される
ロバート・フックとの対立が始まる
1679年 母のハナが死去
1680年
徳川綱吉が5代将軍となる
1687年 『プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)』(全3巻)を刊行
1688年 ケンブリッジ大学より、下院議員に選出される 名誉革命 勃発
1689年
大同盟戦争 勃発
1696年 王立造幣局に勤務
1697年
大同盟戦争 終結
1699年 王立造幣局の長官に昇進する
1701年 スペイン継承戦争 開戦
1702年 赤穂浪士の討ち入り
1703年 王立協会の会長となる
1705年 アン女王からナイトの称号を授けられる
1710年 グリニッジ天文台の監察委員長に就任
1716年 徳川吉宗が8代将軍となる
1725年 ケンジントンに引っ越す
1727年 死去

両親と幼少期

small5
「ニュートンの名前はアイザックという。だから、アイザック・ニュートン(Isaac Newton)というのが姓名だな。生まれたのは1642年。この年、イギリスではピューリタン革命が勃発し、内戦が始まっているんだぜ。」
名もなきOL
「あらら、それはまたたいへんな時に生まれたんですね。」
small5
「たいへんだったのは国だけではなく、ニュートンの家庭もだった。父は、ニュートンと同じアイザックといい、ウールスソープ村で農園を経営しており、歴史用語でいう「ヨーマン(独立自営農民)」の家だった。自身の土地を持たない小作農とは違って、ヨーマンは自分の土地を持っていた。自分自身で農業してもいいし、小作農を雇って、自身は経営に専念することもできた。現代で例えるなら、小規模ながらも会社経営者、といったところだった。」
名もなきOL
「ということは、経済的にはわりと余裕があった家だったんですね。」
small5
「そのとおりだ。たまに、小学生向けの偉人伝などで『ニュートンは貧しいながらも、一生懸命に勉強し・・・』と書いてある本があるが、あれはほぼウソと言っていいだろう。これからたびたび出てくるが、ニュートンの家は決して貧しい家ではなかった。
さて、話を戻そう。ニュートンの父も、名前はアイザックという。ニュートンと同姓同名だ。」
名もなきOL
「お父さんと同じ名前なんですね!何か特別な意味があるんですか?」
small5
「いや、無いな。息子が父と同じ名前、というのは、今でもたまに欧米の家庭に残っている、昔からの風習だ。日本にはない習慣だから、日本では特別視されがちだが、ニュートンは日本人ではない。日本の習慣の尺度で測ると、誤解を生む。父ニュートンは、ニュートンが生まれる数か月前に亡くなった。死因ははっきりしていない。病死だとか、ピューリタン革命に関連した騒ぎの闘争に関わって死んだ、とも言われている。」
名もなきOL
「生まれる前にお父さんが亡くなってしまうなんて・・・人生の最初からハードモードだったんですね。お母さんはどんな人だったんですか?」
small5
「ニュートンの母はハナ、という。ハナの実家アスキュー家の社会的地位は、歴史用語「ジェントリ」にあたり、ニュートンのヨーマンよりも一階級上だ。ジェントリは爵位がないので、いわゆる「貴族」ではなかったが、ヨーマン同様に自前の土地を持ち、小作農を雇って農園を経営するなど、比較的裕福な階級だった。
父ニュートンは37歳の時、ハナと結婚した。この時、ハナは19歳。父ニュートンから見ると、18歳も年下の格上良家の令嬢と結婚したわけだ。なので、そもそもなぜこの二人が結婚に至ったのか、歴史資料も疑問を呈していることが多く、ニュートンの歴史の謎の一つ、とされているそうだ。」
名もなきOL
「父ニュートンさんは、すごく優秀で将来が嘱望されていたんじゃないですか?だから、格上のジェントリの家からでも、娘を嫁に送った、という可能性はありませんか?」
small5
「可能性はあるな。ただ、そうなると優秀で将来を嘱望されるような父ニュートンが、37歳まで独身だったのか、という疑問が残る。当時、多くの世帯は「夫婦と子供」が基本だったので、独身を通す、というのはけっこうレアな話なんだ。現代みたいに、独身者が珍しくない、という時代じゃないんだぜ。残念ながら、父ニュートンの人柄を伝える史料は今のところ見つかっていない。父ニュートンを評価した表現が「粗野で金の無駄使いが多い、意志が弱い男だった」いうのが一つだけ残っている。」
名もなきOL
「ガサツでだらしなくて、意気地なし、ってことかぁ・・それなら、違いますね。」
small5
「ただ、この評価はハナの再婚相手であるスミス氏の評価なので、その分は割り引いて考える必要があると思うぜ。後で話すが、このスミス氏もかなりのクセモノだ。
と、話がそれたが、この評価からもう一つ読み取れる情報がある。それは、「父ニュートンには無駄遣いできるくらいの経済力はあった」ということだ。無駄遣いが、何に対してどれくらいなのか、ということまではわからないが、ヨーマンだったことも考えると、自前の農園経営で上がる収入を、スミス氏から見ると「無駄遣い」にしており、うだつの上がらない生活を送っていたのではないか、というのが俺の推理だぜ。まぁ、確証はないがな。
と、まぁ、こんかかんじで、天才科学者ニュートンは、貴族の生まれではないが、それなりに経済力がある家庭に生まれた、ということが言えるだろう。
余談だが、ニュートンは誕生したとき、体重1kg程度の超未熟児として生まれたそうだ。立ち会った産婆が『この子は長くは生きれないだろう。』と言うほどだったらしい。ところが、ニュートンは84歳という、当時ではかなりのご長寿だぜ。」
名もなきOL
「生前にお父さんが亡くなって、どんな少年時代を過ごしたんですか?ニュートンは?」
small5
「先に出てきたように、母のハナは再婚した。ニュートンは3歳の時だ。ハナの再婚相手は、バーナマス・スミスといって、ウールスソープから南に2.5kmの程にあるノース・ウィザムで教会を構える司祭(牧師)だった。この時点で64歳だ。」
名もなきOL
「えぇ!?64歳!?もうお爺ちゃんじゃないですか!ハナさんって、まだ20歳そこらですよね?どうして・・・??もしかして、後妻業??」
small5
「俺自身はそうなんじゃないか、と思う。ただ、再婚に関する史料は残っていないようで、いろいろな本がいろいろな説を述べている。後妻業、というと悪いかんじがするが、ハナさんはそのことも考えたうえでの再婚だったのではないか、と思うぜ。事実から検証すると、まずスミス氏は妻の連れ子となるニュートンを完全に無視した。ハナは、スミスの家で生活したが、ニュートンがスミスの家に来ることは許されなかった。だから、ニュートンは3歳で母親から引き離されたわけだ。ニュートンの面倒を見たのは、ハナの母と、たぶん父も、だろうな。」
名もなきOL
「そんな、かわいそう。。そんな大人の都合で、3歳の子が辛い思いをするなんて。。それにしても、そのスミスさん、聖職者のくせに人間が小さすぎませんか?」
small5
「そうだな、俺もそう思う。スミス氏のニュートンに対する冷酷な対応は、当時でもかなり異常だったんじゃないか、と思うな。そもそも、だ。聖職者は独身でいることが求められていた。教会という、世間とは独立した特殊な世界だから、その中で人生の大半を過ごしてきたスミス氏には、おそらく一般的な常識は通用しないだろう。そんな彼が、なぜ結婚しようと思ったのか?たぶん、自分の遺産を継承する実子が欲しくなったのだろう。そんな時、折よくジェントル出身の若い未亡人が付近の村にいたので、ちょうどいタイミングだったのではなかろうか。
一方のハナにとっても、冷静に考えれば悪くない話だ。ハナにとっても、子供がニュートン1人、というのは不安だった。当時の医療体制・技術では、一般庶民のうち大人まで成長するのは4人に1人程度だったらしいから、3歳のニュートンが成人するとは限らない。家系を絶やさないためには、もう数人は子を産むことが、女性に求められた。スミス氏はニュートンを受け入れないという器が小さい男だったが、ポイントは年齢だろう。既に60代半ばのスミス氏の余命は、おそらく数年だろう。その間に、妻としての役目を果たし、子供をもうければ、やがてスミス氏に寿命が訪れる。そうなれば、スミス氏が残した遺産を受け取って、ハナはニュートン家に戻ってこれる。その時には、ニュートンも幼児ではないし、あとはニュートンを農園の経営者に育てれば、その後の人生は順調にいくだろう、とな。両者の思惑は、そんなかんじだったのではないか、と思うぜ。現代でも、女性の方が現実的思考では男よりも1枚上手だからな。」
名もなきOL
「冷静に考えればそうなんでしょうけど・・・やっぱりニュートン君がかわいそう。」
small5
「そうだよな。実際、少年ニュートンは、母を奪ったスミス氏を相当憎んだようだ。こんな記録が残っている。ニュートンが20歳くらいの頃、神へのこれまでに犯した罪の告白として書き残した文書で、こう記述している。
『少年時代、義父のスミス氏と母に対して「義父と母を殺して、2人の家を焼き払いたい」と思ったこと。もう一つは、「誰かを呪い殺したい」と思ったこと。』
呪い殺したい誰か、というのは、おそらく義父のスミス氏だろうな。
それと、ニュートンは成人してから、幼少期のニュートンを育てた祖父母に対して、何も記録を残していない。祖父母に言及した、という記録も残っていないそうだ。なので、この頃のニュートンがどんなふうに生活していたのか、情報がまったく残されていないんだぜ。
そんな辛い幼年期が終わったのは、1653年のこと。ニュートン少年11歳になる年のことだ。ハナは、スミス氏との間に一男二女をもうけていた。スミス氏の遺産は、ハナと3人の子どもたちに相続された。もちろん、ニュートンには何一つ残されていない。」
名もなきOL
「やーね。ホント、小さいジジイだわ。」
small5
「しかし、ニュートンはその小さいジジイから、金よりも価値のある重要なものを継承することになった。それは、200冊ほどの本だ。」
名もなきOL
「200冊って、かなりね。でも、本がそんなに重要なの?」
small5
「現代では本は珍しくないが、当時は、本は貴重品だった。紙自体が高級品だったこともあるが、そもそも庶民のほとんどは読み書きができない。ニュートンの父もそうだった。そんな庶民にとっては、本は豚に真珠的なものだっただろう。つまり、需要も貴族や聖職者などの一部に限られていたわけだ。そんな中で、ニュートンは200冊もの本を手に入れたわけだ。実際、成長したニュートンは、この本を読んで知識をつけていくことになる。これが、その後のニュートンの成長方向を決めた、といっても過言ではない、と俺は思っているぜ。」
名もなきOL
「人生、何がどうなるかわからないですね。」

グランサムの学生時代

small5
「ここからは、ニュートンが地元の、といっても家からは通えなかったので寄宿していたのだが、学校での話だぜ。」
名もなきOL
「ついに、天才学者の本領発揮なんでしょうね。楽しみ♪」
small5
「幼年時代のニュートンは不遇だったが、その後の人生を考えると、恵まれていた、ともいえる。まず、ウールスソープの村に、子供が読み書きを習う小学校のような学校ができていた。現代人が想像するような、しっかりとしてシステムが作られた小学校ではなく、江戸時代の寺子屋みたいなものだったようだぜ。1655年(1654年説もある)、ニュートンが13歳になる年、ウールスープの北東にあるグランサムの街にある、キングス・スクールに通うことになった。グランサムは、ウールスソープかた遠くて、通学はできない。そこで、ニュートンはハナの友人であるウィリアム・クラークの家に寄宿して、通うことになった。これができたのは、ハナの人的ネットワークはもちろん、ニュートンを寄宿させて学校に通わせるだけの経済力があってこ、の話だ。」
名もなきOL
「なんだかんだ、お金は大事ですね。」
small5
「ニュートンが通ったグランサムのキングス・スクールは、当時イギリス各地に作られていたグラマースクール(訳語は「文法学校」)の一種だった。グラマースクールは、名前の通り読み書きを教えることが目的で、特にラテン語を教えることが目的だ。その後、グラマースクールは、ラテン語のみならず、歴史や数学など、他の強化も教えるようにってきた。グランサムのキングス・スクールは、教科の拡充に熱心だったようで、数学なども積極的に教育してきたようだ。これも、後のニュートンには大いに役立った、と考えられる。」
名もなきOL
「ニュートンはどんな生徒だったんですか?やっぱり優秀だったんですか?」
small5
「それが意外なことに、入学したてのニュートンはあまり勉強に身が入らなかったらしく、成績は最下位に近いくらいだったそうだ。というのも、教育熱心なグランサムのキングス・スクールでは、成績順に生徒を並ばせる、ということもやっていた。ニュートンは悪い方に位置していたそうだ。そんなある日、ニュートンは成績がよいことを鼻にかけた同級生から強烈なキックをくらった。」
名もなきOL
「あら、ケンカ?大丈夫かしら?」
small5
「内気でおとなしい生徒だったニュートンだったが、この時は違った。蹴った相手を校庭に呼び出して、蹴る殴るのケンカをして相手を倒してしまった。この時、相手の仲間もまとめて倒してしまったらしい。」
名もなきOL
「意外と腕っぷしも強かったのかしら。そんなイメージ全然ないけど。」
small5
「これがきっかけとなって、ニュートンは友人からも一目置かれるようになり、勉強にも身が入って、成績はトップクラスに躍り出たそうだ。俺もこのような事件は思春期の男の子が、一皮むけるいいきっかけになる、と思っている。
ただ、武勇伝はこれくらいで、やはりニュートンは学者になる男だ。ニュートンが寄宿しているクラークは、薬剤師の家だったので、様々な薬品や実験室があった。ここでニュートンは薬の調合などを手伝い、化学実験の楽しさに触れた。これは、後にニュートンが錬金術に没頭するきっかけになった。
他にはこんな話もある。奥さんの連れ子でストーリという女の子がいた。彼女の話によると、ニュートンは「いつも陰気で口数が少なく、考え込んでいるような少年だった。」ということだ。もう一つ、重要な話がある。「小さなテーブル、食器棚、赤ちゃんや装身具をのせる家具などを作ってくれた。」というエピソードだ。」
名もなきOL
「へ〜、手先が器用だったんでしょうね。。」
small5
「そのとおりだ。ニュートンは工作が得意で、いろいろなものを自作していた。ストーリに作ってあげた、ままごと遊びの道具くらいなら、手先が器用な人ならできてしまうと思う。ただ、ニュートンの場合は「手先が器用」というレベルを超えるものだったようだぜ。まず、ストーリの外遊びのおもちゃとして、四輪車を作った。

名もなきOL
「三輪車に1個車輪を足したんですか?」
small5
「いや、ペダルでこいで進む四輪車ではなく、ハンドルで巻き上げ機を回すと進む、という四輪車だったようだぜ。ストーリはそれがたいそう気に入って、外で乗り回して遊んだらしい。これには、周囲の大人もビックリだったそうだ。
もう一つは日時計だ。ニュートン少年は、日が差し込む部屋もちろん、日が当たる外の壁にも線やら時間やら、季節を表す記号を書いたりして、日時計を作ったそうだ。そのため、クラーク家の近所の人は、ニュートンが書いた日時計を見れば時間がわかったらしい。」
名もなきOL
「それはすごいですね!確かに、手先が器用っていうレベルを超えていると思うわ。」
small5
「そして、注目すべきは水時計だな。母のハナがスミス氏の遺産から持ち帰った蔵書の中に、ジョン・ベイト(John Bate)という人物が書いた『自然と人工の不思議(The Mysteries of Nature and Art)』という技術書があった。ニュートンはこの本を気に入っており、クラーク家にも持参して、熱心に読んでいた、とクラーク家の人によって語られている。ニュートンは屋根裏部屋に、この本から得た知識を絵にして壁に描いていたらしい。」
名もなきOL
「ニュートンって絵も得意だったんですね。」
small5
「工作が得意な人は、たいてい絵も得意だよな。ニュートンの場合、絵だけではおさまらず、本に書いてある様々な道具を自作することを始めていった。そして、おそらくその中で一番優れたものが、水時計や日時計だった。クラーク家とその付近の人たちは、ニュートンが作った時計で時刻をしることができたそうだ。
『大人が読みたいニュートンの話』の著者である石川憲二氏は、実際にニュートンが読んだ本を、ネットで探し出しているので、敬意を表してここでも紹介するぜ。
自然と人工の不思議(The mysteries of nature and art)
グラスゴー大学電子図書館 自然と人工の不思議の解説
そうそう、このストーリという女の子だが、ニュートンはこの子が好きだったようだ。実際に2人は付き合っていたのではないか、という説もある。残念ながら、2人が結婚することは無いのだが、2人の交流は晩年まで続いた。生涯独身だったニュートンにとって、唯一といっていいラブロマンス、だったかもしれない話だ。」
名もなきOL
「うーん、個人的には、それはニュートンが一方的に好きだっただけ、のような気が。。なんとなく。天才学者とか、付き合うのたいへんそうだし。」
small5
「そんなグランサムの学生時代だったが、ある日突然中断する。母のハナが、実家に戻って農園を手伝え、というのだ。意外なことに、ニュートンは特に拒否することもなく、学校を辞めて農園に戻ってしまった。だが、ハナの期待とは裏腹に、ニュートンは農作業にまったく身が入らなかった。1日中本を読み続け、目の前で家畜が逃げても気がつかなかった、という話が残るくらい、農作業はダメだった。おそらく、もうニュートンは「学者」になっていたのだろう。」
名もなきOL
「そうでしょうね。でも、そんなニュートンが、よくお母さんの言うことを聞いて学校を辞めて、農園に戻ってきましたね。」
small5
「ニュートンは、とても母のハナを大事にしていた。それは、彼自身の言動が証明している。なので、母の言うことを聞く、というのは、青年ニュートンにとっては当然のことだったのだろう。そのため、1部の本では「ニュートンはマザコンだった。だから、生涯独身だった」と書いているものもあるが、俺は違うと思うぜ。
そんなニュートンの人生を軌道修正した人物が2人いた。グランサムのキングス・スクールの校長先生と、ハナの弟(つまりニュートンの叔父)のウィリアム・アスキューだ。2人は、ハナを訪れると、ニュートンを復学させてほしい、と伝えた。ハナは渋り、これ以上学費は出せない、と言ったところ、校長は学費を免除する、と言ったそうだ。」
名もなきOL
「すごい、期待されてますね!」
small5
「こうして、ニュートンはグランサムのキングス・スクールに復学することになった。そして、学校を卒業すると、叔父のウィリアムが、自身が学んだケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学することを勧め、校長先生も同意。こうして、ニュートンはケンブリッジ大学に進学することになるぜ。」

余談 ニュートンに大学進学を勧めたのは誰?

ケンブリッジ大学生時代

small5
「さて、そろそろ天才学者・ニュートンの本編に入っていくぜ。1661年6月5日、ニュートンは晴れてケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジの学生となった。まずは、当時の大学について、簡単に解説していくぜ。」
名もなきOL
「ケンブリッジ大学って、超有名じゃないですか!やっぱりニュートンはすごいですね!」
small5
「ニュートンはすごいが、当時のケンブリッジ大学は、いまほど優秀な大学ではなかった。当時、学問の最先端を行っているのはフランスなどの大陸にある大学で、科学、数学、医学、歴史学など、学問の幅は広がっていた。一方で、島国イギリスで学問と言えばラテン語をはじめとした古典が重視され、その他の学問を学んでいる学生は少なかった。そのため、ケンブリッジ大学で学ぶ学生も、掛け算や割り算があまりできない者もわりといたらしい。なので、現在の高校と大学を足したようなかんじ、だな。」
名もなきOL
「へ〜、意外。それなら、私でもケンブリッジ大学に入れそうですね(笑)」
small5
「あと、ついでに当時の大学の仕組みについても簡単にふれておこう。ケンブリッジ大学は複数の「カレッジ」と呼ばれる、宿舎兼大学の集合体だ。学生は、いずれかのカレッジに所属し、他の学生や教員と共に宿舎で共同生活を送りながら勉強するんだ。ニュートンは、トリニティカレッジ、というカレッジに所属した。それぞれのカレッジには長官である「学寮長」がいて、学寮長は国王が任命した。学寮長の下には、実際に授業を行う「フェロー」がいた。現代の大学でいう教授、あるいは講師に相当するな。フェローとほぼ同列の位置に、司祭と一般教授というのがいた。そして、それぞれのフェローの下に、学生が所属して、寮の中で生活しながら勉強するんだ。」
名もなきOL
「楽しそう!毎日合宿みたいなかんじなんでしょうね。」
small5
「元々は、全寮制の修道院が起源だったらしい。なので、大学といっても、当時はまだまだ宗教施設としての特徴が強かった。司祭もいたしな。教員は、イギリス国教会信徒でなければならなかったし、同時に聖職者でもあったので、独身であることが義務付けられていた。ニュートンが独身だった一番の理由は、大学生活が長かったから、だと俺は思っている。」
名もなきOL
「ニュートンさんは、どんな学生だったんですか?やっぱり、賢い学生だったんですか?」
small5
「ああ、やはりすごい賢い学生だったようだぜ。当時の大学では、身分制度がまだ残っていた。一番上は、貴族の子弟などの「特待生」。これらは、能力というよりは家柄で入ってきた連中だから、中身が伴っていない奴も多かったようだ。だが、身分は一番上なので、他の学生に幅を利かせていたようだぜ。次に「自費生」。これがいわゆる一般的な学生で、学費を払って学んでいる人たちだ。そして一番下が「給費生(サブサイザー "sub-sizar")」で、これがニュートンの待遇だった。給費生は、学費を払わなくても入学できる代わりに、寮の仕事のお手伝いや、「特待生」の雑用をこなさなければならなかった。それでも学びたい、という意思を持った人達が多かったので、能力的には「給費生」の方が高かったようだな。」
名もなきOL
「なるほど、それはわかるな。でも、給費生ってどんな仕事をさせられたんですか?」
small5
「まずはお使いだ。教授に「ニュートン君、酒を買ってきてくれ」と頼まれたら、街まで行って酒を買ってこなければならなかった。」
名もなきOL
「パシリですね。」
small5
「あぁ、パシリだ。それから、食事の給仕。食堂でごはんを食べるときに、フェローにお茶をついで回るとか、食事のお世話をしなければならなかった。ちなみに、ニュートン入学時のトリニティ・カレッジの構成はこうなっていた。
まず、学寮長は1660年の王政復古でチャールズ2世から任命されたファーン。その下にフェローが60人。司祭は4人で、一般教授が3人。学生は、約190人で、ニュートンと同じ「給費生」は13人だったそうだ。13人で、60人いるフェローのお世話をするので、けっこうたいへんな仕事だったらしい。そうそう、給費生がご飯を食べられるのは、給仕の仕事が終わってから。つまり、残り物を食べるしかなかった。」
名もなきOL
「学費を払ってないから、ある程度は仕方ないと思いますけど、けっこうたいへんですね。あんまり楽しくはないかも。」
small5
「そうだな。ニュートン自身も、あまりの扱いの差に憤りを覚えたようだ。ニュートンが雑用をやらされる一方で、貴族や金持ちの子弟は勉強はそこそこに、酒、博打、女と遊び呆けていたそうだ。興味深いことに、当時のニュートンはお金の使い道を記録しており、それが残っていることだ。」
名もなきOL
「武士の家計簿ならぬ、ニュートンの家計簿ですね。どんなことが書いてあるんですか?」
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「靴下をいくらで買った、靴紐をいくらで買った、とけっこう細かく記録されているそうだ。中には、だれだれにいくら貸した、とか、酒場に2回行って少しだけお金を払った、とか、トランプの賭けに負けて15シリング払った、とかだ。」
名もなきOL
「細かい性格っぽいですもんね。しっかりしていたんだろうな〜」
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「ニュートンの当時の生活がうかがえる貴重な史料だぜ。そして、勉強についてもノートが残っている。一つは、神学で学んだことを記したノートだ。もう一つが、科学者ニュートンの神髄ともいえるノートで、『わずかな哲学的な疑問(クエスチオーネ=クァエダム=フィロソフィエ)』という題名がついている。このノートには、本から得た知識や自分の考え、さらには実験の結果などを45項目分けて記している。例えば、「物質について」「原子について」「量について」「運動について」「水と塩について」「時間について」「太陽・星・惑星・彗星について」「鉱物について」「色について」「夢について」「記憶について」「想像について」など、かなり多岐にわたっている。」
名もなきOL
「すっごい幅が広いですね!物理も化学も生物も地学も、全部やってたかんじですね!」
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当時の学問は、今のように系統だって細分化されていなかったから、な。こういう学問も、当時は「哲学」という言葉でひとくくりにされていたんだ。これも、時代だな。
さて、そんなかんじでニュートンは一生懸命勉強していたんだが、この頃に数学への興味が湧きはじめ、たちまち当時の最先端の数学にまでたどり着いた、というのがニュートンの天才ぶりを示しているぜ。」
名もなきOL
「あたし数学苦手。。でも、ニュートンさんは何がきっかけで数学に興味を持ち始めたんですか?」
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「これは、ニュートンが後に自身で語った話なんだが、こういうことだったそうだ。1663年の夏、ケンブリッジ大学の隣町で開かれていた定期市に行って、興味本位で星占いの本を買った。帰って読んでみたが、数学で使われる三角関数の話が分からなかったので、天体の形がよくわからなかった。そこで、今度は三角関数の本を買って読んでみたが、難しくてわからない。」
名もなきOL
「あたしだったら、最初の本の時点で挫折してますね。。」
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「それで挫折しなかったから、ニュートンはやっぱり凄いんだよな。ニュートンは次にエウクレイデスの幾何学を買って読んでみた。そしたら、これはわかるし面白い。どんどん本を読み進めて、ピタゴラスの定理(三平方の定理)で有名な『直角三角形の斜辺の平方は、他の2つの辺の平方の和に等しい』というくだりを読んで、数学への興味が一気に湧いてきた、とのことだ。ニュートンの数学能力を開花させたのは、三平方の定理だったんだな。」
名もなきOL
「へ〜、おもしろい。確かに、三平方の定理って不思議で面白いですよね。」
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「あと、個人的に面白いな、って思ったのは、ニュートンといえども、最初からなんでも理解できるわけではない、ということだな。天才だから、常に1を聞いて10を知る、というわけではない。ただ、知ろうとする学問的探究心は並ではなかった、ということだ。
こうして、数学への興味を持ったニュートンは、数学にのめりこんだ。星占いの本を買った1年後の1664年には、幾何学と微分法についての論文を書き始め、1664年9月に法線影決定法の論文を書いた。冬には二項定理を発見し、1666年には無限級数から流数論を発見している。これらは、高校数学で学ぶ微分積分につながっていくんだぜ。
もう一つ重要なのは、当時、イギリスで最高の数学者と称えられていたアイザック・バロー(Isaac Barrow)教授の教えを受けたことだな。」

Isaac Barrow.jpg
パブリック・ドメイン, リンク

名もなきOL
「アイザック・バロー教授?聞いたことないですね。あれ、アイザックって、ニュートンと同じ名前?」
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「そうだな、名前は同じアイザックだ。アイザック・バローは1630年生まれだから、ニュートンよりも12歳上になる。一回り上、といったところだな。微分積分など、当時の数学の最先端を研究していた数学者だったんだ。1663年、ヘンリー・ルーカスという議員によって、ケンブリッジ大学における数学教授のポストを新しく新設された。その初代教授に選ばれたのがアイザック・バローだ。以後、このポストは創設者の名前をとって「ルーカス教授」と呼ばれるようになり、とても権威の高い役職なんだ。今でも、ケンブリッジ大学ではルーカス教授のポストは続いている。有名な人では、宇宙物理学者のホーキング博士だな。ホーキング博士は17代目のルーカス教授だ。」

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, パブリック・ドメイン, リンクによる

名もなきOL
「宇宙物理学って、なんだかとても難しそう。でも、とにかくすごいんだ、ということはわかりました。」
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「ニュートンは、そのすごい数学者から直々に教えを受けることができたんだ。これが、その後のニュートンの成果に大いに役立ったことは間違いないだろうな。こんなかんじで、ニュートンはケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジでその名を馳せていくことになるんだ。」
名もなきOL
「人との出会いって、本当に大事ですよね。」

創造的休暇と驚異の年

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「そんな折、ロンドンでペストが大流行する、という事件が発生した。このペスト大流行の被害は酷いもので、1年半もの間流行し続け、なんとロンドンの人口の2割がペストで死んだそうだ。この話は、ダニエル・デフォーが著した『ペストの記憶』に詳しい話が載っている。俺が解説しているので、ぜひこちらも読んでほしいぜ。
ケンブリッジ大学は、ロンドンから100kmほど離れていたが、間もなくケンブリッジ大学もしばらくの間閉鎖されることになった。やむを得ず、ニュートンは実家のウールスソープ村に戻ることになった。」
名もなきOL
「あらら、たいへんだったんですね。でも、ニュートンは実家で何をしていたんですか?農作業とか?いや、するわけないか。」
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「ニュートンにとっては、この長い休みはむしろプラスに働いたようだ。何かとせわしい大学生活の庶務から離れて、研究に没頭することができたようだ。なにしろ、ニュートンの3大業績とされる「万有引力の法則」、「流率(微分積分)」「分光の実験(光学)」の研究成果は、この時期にほぼ完成したんだ。」
名もなきOL
「へ〜、この時期にニュートンさんは万有引力の法則を発見したんですね。リンゴが木から落ちるのを見て、思いついたんですよね。」
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「とても有名なエピソードだな。せっかくだから、そのエピソードについても触れておこう。ニュートンとリンゴの話は世界中に知られているエピソードの一つだ。ところが、ニュートンを研究した人々には「この話は作り話だ」という説も多い。」
名もなきOL
「え〜、作り話なんですか?なんか残念だなぁ。。面白い話なのに。。」
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「まず、ニュートンとリンゴの話が一番最初に記録しているのは、ニュートンの友人で医師であり小説家でもあるウィリアム・ステュークリが著した『アイザック・ニュートンの人生回顧録(Memoirs of Sir Isaac Newton's life)』だ。出版は1752年なので、ニュートンの死後25年後に出ている。この中で、1726年4月15日、当時83歳のニュートンがステュークリが、たまたまリンゴの木の陰で食後のティータイムを楽しんでいた時に、ニュートンが突然「この状況は重力について考えた時と同じだ」と言い出し、ステュークリが慌ててメモを取った、とのことだ。その翌年、ニュートンが亡くなった後、偉大な業績を残したニュートンの経歴をまとめようと、という動きが起こり、ステュークリもそれに協力した。おそらく、その時にリンゴのエピソードが広まったのだろう。実際、フランスの啓蒙思想家として有名なヴォルテールが、ニュートンが亡くなった1727年にエッセイの中で「ニュートンは庭仕事をしている時に、リンゴが木から落ちるのを見て、重力の着想を得た。」と記している。この頃には、知識階級の中では有名なエピソードとして知られていたことがわかる。」
名もなきOL
「でも、ニュートンが自分でそう言ってるんでしょ?それなら本当の話なんじゃない?」
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「フフフ、甘いな。ある有名な刑事は「老人の自慢話は信じてはいけない」と言っている。これは、一般的にも当てはまる話だぜ。リンゴの話を作り話、と考える理由の一つはここだ。それまで、誰にも話したことがない話を、ある日突然ステュークリに話してるわけだ。しかも、およそ60年も前のことだ。それより前には、今のところリンゴのエピソードをニュートンが語っている史料は見つかっていない。」
名もなきOL
「うーん、それを聞くと、もしかしたら事実とは違うのかな、という気もしますが。。リンゴの話を信じたいな。」
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「ちなみに、前にも登場した『大人が読みたいニュートンの話』の著者・石川憲二氏は、その著書で彼が考えた面白い説を紹介している。気になる人は、是非読んでみてくれ。私も、彼の説が一番事実に近いのではないか、と思っている。
さて、もう一つ、この時期にニュートンが行った光の実験についても解説しておこう。まずその前に、プリズムって知ってるか?」
名もなきOL
「はい。こういう、光を分けて虹を作ったりするガラスみたいなのですよね。」
プリズムの写真 small5
「プリズム自体は、水晶製のものはかなり昔からあって、貴重品として扱われていた。13世紀後半になって、イタリアのヴェネツィアで透明度が高いガラス、いわゆるヴェネツィアン・グラスだな、これが作られるようになると、プリズムとかレンズは一般の人も目にするようになっていた。当時は、プリズムといえば「光に色をつけて虹を作るおもちゃ」と思われていた。」
名もなきOL
「あれ?光に色をつける?はは、まさか(笑)」
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「現代人は、光には複数の色の光が混ざっている、ということを知っているが、当時の人々にとっては、まだまだ「光」は謎が多いものだったんだ。だから、プリズムを使うと虹ができる理由は「プリズムが色を付けている」と考えるのは、むしろ自然な発想だったんだぜ。それについて、ニュートンは光の正体に近づく大事な実験を行ったんだ。1666年1月、ニュートンはこのような実験を行った。」
ニュートンのプリズムの実験 small5
「こうすることで、プリズムは光に色をつけているのではなく、光を色によって分けている、つまり「分光」装置として働いている、ということを示したわけだ。こういう発想は、まさに近代科学の考え方だ。この時代ではかなり斬新な考え方だな。」
名もなきOL
「ニュートンが天才、って言われるのがわかった気がします。」
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「そうだな。何からヒントを得たのかはわからないが、この光の実験は、リンゴのエピソードよりも、ニュートンの学者としての能力をよく表しているんじゃないか、と俺は思うぜ。
ちなみに、現在のウールスソープは、偉人の出生地として整備されており、ちょっとした観光地になっているそうだ。旅行した人のブログがあるから、紹介しておくぜ。
と〜げのブログ」 」

ニュートン式望遠鏡の発明

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「さて、ペストが終息し、ニュートンはケンブリッジ大学に戻った。まず最初に紹介したいのは、ニュートン式望遠鏡の製作だ。」
名もなきOL
「製作って、作ったんですか?」
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「そうだ。手先が器用で、水時計も作ったニュートンらしい話だ、と思うぜ。まず、当時の望遠鏡について解説しておこう。ニュートンが生まれる約40年前、1608年にオランダのメガネ職人であるハンス・リッペルスハイが発明した。それを、大幅に改良したのが、かの有名なガリレオだ。ガリレオは倍率3倍の望遠鏡を自分で作って、天体観測を行ったんだ。ガリレオの望遠鏡は、上下左右が逆にならない、そのままで見れるので、遠くの風景を見るには問題なかったが、天体観測のために倍率を高めようとすると、視野が狭くなりすぎて不便、という欠点があった。これを解決したのが、ドイツの天文学者であるヨハネス・ケプラーだ。ケプラーは、1611年に接眼側(観測者が目を当てるところだな)のレンズを凸レンズにした望遠鏡を発明し、それ以降はケプラー式が天体観測に使われる標準的な望遠鏡になっていた。」
名もなきOL
「ガリレオにケプラー。2人も有名人ですね。」
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「ただ、ケプラー式望遠鏡にもまだ問題が残っていた。難しいことは省いて簡単に言うと、レンズを使うとプリズムが分光するように光を分散させてしまう色収差という現象が起きてしまい、望遠鏡の大型化や高倍率化には限界があったんだ。ニュートンは、分光しない凹レンズを使った望遠鏡を作ろうと考え、自分で設計して自分で作ってしまったんだ。」 名もなきOL
「すごい!自分で望遠鏡まで作れちゃうなんて・・・本当に器用なんですね。職人さんみたい。」
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「普通の学者だったら、設計は自分でしても、製作は職人に任せるだろな。学者で、製作技術まで持ち合わせている人は少ない。だが、ニュートンは製作技術も持ち合わせていた。レンズの材料の研究からスタートし、凹レンズの研磨も寸法が寸分たがわぬように自分で研磨して作ってしまったんだぜ。
ちなみに、凹レンズを使って色収差をなくした望遠鏡を作ろう、と思ったのは、ニュートン以外にもいた。スコットランドの数学者であるジェームズ・グレゴリーだ。ただ、グレゴリーの方はニュートン式よりも複雑かつ繊細な構造になっており、当時の技術では作れなかったんだ。その構造の違いを見てみよう。まずは、グレゴリー式望遠鏡。」

Gregorian telescope.svg
CC 表示-継承 4.0, リンクによる

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「左から光が入ってくる光を、右にある主鏡で反射し、それをさらに左側にある副鏡で反射して、右側から見ている観測者に映像を映す、という仕組みだ。特徴は、1.凹面鏡を2枚使う(主鏡と副鏡) 2.主鏡(右側)に穴が開いてあり、観測者はその穴から見る 3.凹面鏡2枚で反射した像を見るので、ガリレオ式と同じわかりやすい正立像を見ることができる というところだろう。」
名もなきOL
「鏡を2枚使って反射した映像を見る、っていうところが難しそうですね。ちょっとでもズレたら、変な風に見えたりするんじゃないかしら。」
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「そのとおりだ。グレゴリー式の場合、2つの凹面鏡の精度と位置合わせがとても重要だ。さらにもう一つ難しいのでは、主鏡に穴を開ける、というところだ。せっかく、精密に作った凹面鏡が、歪んだりしないように、正確に穴を開ける、というのはかなり難しいんだ。先に穴を開ける、という対策もあるが、そうすると今度は精密な研磨が難しくなる、という別の問題が発生する。当時の技術では製作不可能だった、というのもうなずける話だ。
対して、ニュートン式はこうだ。」

Newton-Teleskop.svg
I, ArtMechanic, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

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「これも左から光が入ってきているが、観測者は右側ではなく、上(望遠鏡は筒なので、横と言ってもいい)についている穴から映像を見るんだ。左から入ってきた光は、右側の凹面鏡で反射され、その光を副鏡で反射して観測者に映像を見せている、という仕組みだ。特徴は、1.凹面鏡は1枚。 2.凹面鏡が反射した映像を、副鏡で90度曲げて、観測者に映し出す。というところだ。グレゴリー式と比べると、凹面鏡は1枚で済み、主鏡に穴を開ける、ということも必要ない。観測者が筒の横から見るというのは、斬新なアイディアだな。」
名もなきOL
「なんだか難しいですけど、横から見るようにする、っていうのは簡単そうで、なかなか思いつかないアイディアかもしれませんね。」
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「こうして完成した望遠鏡は、従来型よりもはるかに鮮明に見えたので、たちまち評判になった。1671年、トリニティ・カレッジの学寮長になっていたアイザック・バローから「これほどの望遠鏡を作ったのだから、王立協会で発表しよう。」ということになった。王立協会というのは、いわゆる学者の公式会合だな。この王立協会で、バローがニュートンの望遠鏡を紹介。この功績が認められ、翌年の1672年に、ニュートンは王立協会の会員に選出された。ちなみに、ニュートンが作った望遠鏡は、時のイギリス国王チャールズ2世が使って夜空で天体観測を行った、という栄誉もあったんだぜ。」
名もなきOL
「ニュートンさん、どんどん成功していきますね。」
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「そうだな。王立協会は、当時のイギリスの学会のようなものだ。学者としての地位や活躍は、まずは王立協会の会員になることが必須だったようだ。ちなみに、王立協会が設立されたのは1660年なので、ニュートンが会員になる12年前に設立されたばかりの、まだ若い組織だった。そのためか、会員は学者だけではなく、様々な人がいた。多くの人は、ニュートンの才能を認めたのだが、ことごとくニュートンに対抗し続けた男が現れた。男の名は、ロバート・フック。1635年生まれなので、ニュートンよりも7歳年上だ。」
名もなきOL
「強力なライバル登場!といったところかしら。」
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「ある意味ではライバル、かもな。あまりにもニュートンに難題を吹っ掛けたために、ニュートンのライバルとしている本もあるが、俺の意見では、コイツはたいした男じゃないな。
そんな中、1679年(ニュートン37歳になる年)に母のハナが死去した。56歳だった。当時、ハナはスタンフォードに住んでいたんだが、熱病にかかってしまった。それを知ったニュートンは母のもとに飛んでいき、自ら薬を調合したりして母の看病をしたが、その甲斐なく母のハナは亡くなった。母の死に衝撃を受けたニュートンは、ウールスソープに帰り、半年間ほど引きこもっていたそうだ。」

万有引力の法則発表とハレー

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「さて、ウールスソープに疎開している時に着想に至った万有引力の法則だが、世間にそれが発表されたのは、1687年に刊行された『プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理』だ。ニュートン45歳になる年だ。だから、ウールスソープで着想を得てから約22年かかったことになる。」
名もなきOL
「ずいぶんと時間がかかったんですね。その間、何をしていたんですか?」
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「科学はそんなに単純じゃないからな。自分の発想が正しいことを証明するための理論を考えたり、実際に実験して試したり、やらなければならないことはけっこう多い。それだけの説得材料を集めないとな。ただ、ニュートンの場合、彼の性格もかなり影響していると思う。ニュートンは、自分が考えていることを他人に知られるのがあまり好きではないようで、せっかくの発見や実験も、論文にまとめて発表するのを渋ることが何度もあった。プリンキピアの刊行についても、こんな経緯になっている。
1684年8月、オックスフォード大学の天文学者のエドモンド・ハレー(当時28歳)が、ニュートン(当時42歳)を訪問して、惑星の運動について議論を行った。当時、イギリスの天文学者の間では、惑星や彗星など、天体の動きをどうやって科学的に説明するか、という議論が盛んだった。しかし、難しい話なので、なかなか答えが見いだせない。ニュートンは天文学を専門にしているわけではないが、ルーカス教授なら数学には当然強いので、惑星の運動は数学的に説明できるのではないか、と考えたそうだ。」
名もなきOL
「ハレー、って、もしかしてハレー彗星のハレー?」
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「そうだ。ハレー彗星の発見者だ。日本でも有名だよな。と、話をニュートンに戻そう。ハレーがその話をニュートンにした時、ニュートンは「私は10年前からそれについて考えていて、論文も書いているところだ」と答えた。それならば、その論文を是非読ませてほしい、と頼んだハレーに対し、なんとニュートンは「見当たらない」と言って嫌がる。」
名もなきOL
「あたしだったら、そんな答えする人信じないけどな・・」
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「そんなこんなで、3か月くらい経ってから、ニュートンは『回転している物体の運動について』という、9ページという短い論文をハレーに送った。それを読んだハレーは、その内容の素晴らしさに感動した。惑星の円運動のみならず、楕円軌道を描く時の数学的説明もなされており、当時の天文学者達が驚く内容だった。ハレーは、ニュートンにこの研究成果を発表することを勧めるが、ニュートンは渋る。」
名もなきOL
「ニュートンにとっては、単に面倒くさいだけのことだったかもしれませんね。」
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「しかし、ニュートンの能力を理解したハレーは、根気よくニュートンに執筆を勧め、最後にはニュートンが折れて、1686年(ニュートン44歳になる年)から執筆を始め、翌1687年に『プリンキピア』が刊行されたんだ。運動に関する3法則(「慣性の法則」「運動の法則」「作用・反作用の法則」を体系的にまとめ、万有引力の法則も世の中に知られることになった。
ハレーは、執筆を勧めただけでなく、出版費用の支援もしたそうだ。ハレーは、ニュートンを有名たらしめた、最後の立役者となったわけだな。その後も、ハレーはニュートンとの交流を続けた。ニュートンに教えられた数学知識を駆使して、ついにハレー彗星の軌道を突き止めたわけだ。ニュートンもまた、ハレー彗星の発見を支援した立役者、と言ってもいいだろう。」
名もなきOL
「へ〜、そんな繋がりがあったなんて、意外。数学と天文学が関係しているなんて、ちょっとビックリです。」

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CC 表示-継承 2.0, リンク  ケンブリッジ大学のニュートン像

錬金術とニュートン

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「さて、ここまでニュートンの三大業績について紹介してきたが、次は天才科学者という賛辞には似つかわしくない、ニュートンの別の顔、「錬金術」について話していくぜ。まず、錬金術ってどんなのか知ってるか?」
名もなきOL
「あるモノを金に変える、っていう魔術ですよね。」
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「そうだな。当時は、大真面目に行われていたのだが、現代科学では当然、錬金術は「あり得ない」こととされている。錬金術など、オカルト宗教と同じ、とまで言われたりするくらいだ。ところが、偉大な科学者であるニュートンが、一方では錬金術にハマっていた、なんて話になると、ニュートンの価値が下がってしまうわけだ。そのため、昔は「ニュートン=偉大な科学者」という図式を守るために、ニュートンの伝記に錬金術なんか記載されてこなかったのだが、現代になって、人間としてのニュートンの研究が進んで、ニュートンが錬金術にハマっていた、ということは事実として確認されている。ニュートン研究者の一人であり、ノーベル経済学賞の受賞者でもあるケインズは、ニュートンのことを
『ニュートンは理性の時代の最初の人ではなく、最後の魔術師だ。"Newton was not the first of the age of reason, he was the last of the magicians."』
と評している。まずは、ニュートンが生きた時代の錬金術について見ていこうか。
ニュートンの時代は、既に錬金術は廃れ始めていた。約1000年にもわたって多くの錬金術師が挑戦してきたにもかかわらず、誰も成功しなかったしな。さらに、イギリスでは錬金術は禁止されていた。」
名もなきOL
「あら、国が禁止していることを、ケンブリッジ大学のルーカス教授がやっていたら、大問題ですね。でも、どうして禁止されていたんですか?」
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「もしも錬金術が実現されたら、経済を支える貨幣制度が根っこから崩れて、国家崩壊の危機に瀕するからだ。当時のイギリスでは、貨幣自体に金を含めていた。いわゆる「金貨」だ。金がお金になる理由は、簡単に言うと希少価値があるからだ。ところが、錬金術が可能になって、あちこちで金が作られるようになったら、どうなると思う?」
名もなきOL
「最初は、大騒ぎになるでしょうけど。。慣れたら、石ころと同じような「ありふれたもの」になるんじゃないかしら。」
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「そうだな。経済は大混乱だ。国家の近代化を進めていたイギリスにとって、経済は必要不可欠の土台だ。だから、錬金術は禁止していたわけだ。」
名もなきOL
「それなのに、なんでニュートンは錬金術をしていたんですか?」
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「そこは謎だ。そもそも、ニュートンが錬金術をしていた、という話は、当然ニュートン本人はしていない。ニュートンの死後、遺髪から水銀が多量に検出したことから、ニュートンが錬金術にハマっていた、と考えられている。」
名もなきOL
「水銀の検出と錬金術って、何か関係があるんですか?」
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「水銀は自然界にあるものだが、日常生活を送っている分には、人体に触れることはほとんどない。しかし、錬金術を行っている者は、水銀に触れる機会がしょっちゅうあるんだ。
水銀は、なかなか珍しい性質を持っている物質だ。まず、金属なのに常温では液体だ。「水銀」と呼ばれる所以だな。また、金を吸い込んで合金(アマルガム)となる。これは、昔の金メッキの方法にも使われていた。そのため、水銀は金に近い物質と考えられ、水銀をどうにかしてやれば、金になるのではないか、ということで、錬金術師はよく使っていたんだ。
今では、水銀には毒性があることが知られているが、ニュートンの時代には水銀の毒性は知られていなかった。ニュートンはおそらく、水銀を触るのはもちろん、なめてみたり、あるいは水銀を加熱して、気体となった水銀を大量に吸い込んでいたのだろう。なので、水銀が遺髪から検出されたのは、錬金術を行っていたからだ、と言われるわけだ。」
名もなきOL
「そうなんですね。それなら、やっぱり錬金術をやっていたのかな、と思います。でも、どうしてニュートンは錬金術をやっていたんでしょうね?」
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「これは推測だが、ニュートンにとって「遊び」なのではないか、と俺は思っている。ニュートンはグランサムのキングススクールに通っていたさい、薬剤師のクラーク家に寄宿していた。この時、薬剤の調合も楽しんで手伝っていた。手先が器用で工作が得意なニュートンは、おそらく大学の研究の合間に、「遊び」として化学実験を行っていたのではないか、と思う。ニュートンは、後述する南海株式会社に投資して大損しており、けっこうスリルを楽しむところがあったのではないか、と俺は思っている。
おそらく、錬金術の副作用が出たのであろう、ニュートンが51歳になる1693年には、体調も言動もおかしくなり、とても大学の仕事はできない状態になってしまった。」

造幣局勤務

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「さて、体調を崩したニュートンに転機が訪れた。1696年、ニュートン54歳になる年に、突如ケンブリッジ大学を辞めて、造幣局に監事として勤務することになった。住まいも、ロンドンに引っ越した。これは、教え子で政治家となっていたチャールズ・モンタギューの口利きをしたためだ、おそらくモンタギューは、体調を崩した師匠に、あまり忙しくない名誉職に就いてもらい、余生を過ごしてもらおうとした、と言われることが多い。」
名もなきOL
「なんで突然大学を辞めちゃったんでしょうね?もしかして、錬金術のことがバレた、とか?」
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「そうかもしれない。他の説は「50代に入り、体力的にも衰えを感じたので、学者として第1線から退いた」という勇退説がある。ただ、大学は辞めたが王立協会の仕事は続けていたので、学者を辞めたというのは、矛盾していると思うな。他には「大学の官僚的な体制に嫌気が差した」というケンカ別れ説がある。ただ、これも根拠はない。
ただ、造幣局勤務を始めたニュートンは、体力も精神力も回復し、監事として熱心に働き始めた。数学の力を活用し、造幣局の財務面の改革を進めて、無駄な経費の削減や職員の待遇向上に取り組んだそうだ。その甲斐あってか、3年後の1699年には、長官に昇格した。」
名もなきOL
「元気ですね、ニュートンさん。」
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「ニュートンは、さらに偽金作りの犯人検挙にも熱心に取り組んだ。当時、ウィリアム・チャロナーという詐欺師がイギリス上流社会でうまく立ち回り、えらく羽振りのよい生活を送っていたそうだ。チャロナーは、裏で偽金作りを大規模に行っていたのだが、嫌疑がかかっても、貴族たちとのコネを活用して、なんだかんだで切り抜けていた男だった。ニュートンは、部下を変装させて調査させるなど、チャロナーが偽金づくりを行っていることを証明する証拠を収集し、裁判ではそれらの証拠を使ってチャロナーの偽金作りを証明して、チャロナーを死刑に追い込んだ。」

Sir Isaac Newton by Sir Godfrey Kneller, Bt.jpg
リンクによる

↑1702年の肖像画

名もなきOL
「そんな、名探偵みたいなこともしたんですね。なんか、学者のイメージとはだいぶ違うキャラになってません?。」
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「そうなんだ。第2の人生をエンジョイしてる感じがするんだよな。ニュートンが摘発した、牢獄に入れられた偽金作り犯は100人におよび、絞首刑にされた者は30人になったそうだ。ついでだが、造幣局勤務により、給料や手当でニュートンはかなり裕福になったようだ。自分の部屋を真紅の家具で飾ったりして、羽振りの良い所を見せるようになってきたらしい。晩年には、余剰資金を使って投機もやっている。有名どころでは、「南海会社」にも投機して利益を上げたが、最終的に南海会社は破綻した「南海泡沫事件」により、大損を出したそうだ。このあたりの話は、偉大な科学者のエピソードとしてふさわしくない、ということで、語られない時代もあったようだぜ。」

晩年

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「1703年に王立協会の会長に就任。1705年、ニュートンが61歳になる年、これまでの学者としての業績が認められ、時のイギリス女王・アンから「ナイト」の称号が与えられた。貴族出身ではない、学者が「ナイト」として叙勲されるのは、ニュートンが初めてだ。その後、1710年にはグリニッジ天文台の監察委員長にも就任している。」
名もなきOL
「もう60代後半なのに、まだまだ元気ですね。」
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「体調を崩していた50代とはえらい違いだよな。それから約10年経った1725年、ロンドン郊外のケンジントンに引っ越した。ステュークリがリンゴの木のエピソードをニュートンから聞いた、というのはこの頃のことだ。そして1727年3月20日(新暦では3月31日)、ニュートンは約84年にわたる人生を終え、永遠の眠りについた。ニュートンはウェストミンスター寺院に埋葬された。ウェストミンスター寺院は、イギリス王家の者も埋葬されている、たいへん格調高い寺院だ。そこに、貴族でもない階級の人間が埋葬されるのは極めて異例だ。その業績が評価されていたことがうかがえるな。その墓石にはこう書かれている。『神は言われた。「ニュートン出でよ」。すると、すべてが明るくなった。"God said "Let Newton be", and all was light."』」

Isaac Newton grave in Westminster Abbey.jpg
リンクによる



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