Last update:2023,Oct,7

広がる世界・変わる世界

インディアスの破壊と経済の変化

big5
「今回のテーマはインディアスの破壊(A Short Account of the Destruction of the Indies)と題しまして、コロンブスによって発見された新大陸・アメリカ方面(インディアス)がスペインによって征服されていく歴史を見ていきます。」
名もなきOL
「大航海時代がもたらした、負の歴史ですよね。。イヤな話が多そうなので、覚悟して聞きたいと思います。」
big5
「そうですね。このあたりから、ヨーロッパ勢力によるアジア・アフリカ・アメリカ方面の侵略が始まっていきます。OLさんが言うように、まさに人類の闇の部分の歴史ですね。「インディアスの破壊」におけるポイントは以下になります。
・スペインはインディオらを軍事力で打ち負かし、植民地化を進めた。軍事力でインディオを倒した人々は「コンキスタドール」と呼ばれた。
・1521年、コルテスがアステカ帝国を滅ぼした。
・1531年、ピサロがインカ帝国を滅ぼした。
・カトリック神父のラス・カサスは「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を著し、暴力で支配するスペインのやり方を明るみに出して批判した。
・新大陸・アメリカからもたらされた品々により、物価が上がり商業の流れが大きく変化して、価格革命・商業革命と呼ばれた
と、なります。まずは主要論点から見ていきますね。さて、まずはいつも通り年表から見ていきましょう。」

年月 インディアス破壊のイベント その他のイベント
1492年 コロンブスがサン・サルバドル島に到達し、インディアスを発見
1511年 キューバ島征服始まる。ラス・カサス、コルテスらが参加
1513年 バルボアがパナマ地峡を横断し太平洋岸に到達
1517年 ルターが宗教改革を開始
1519年 コルテスがアステカ帝国に侵攻開始 マゼランが世界周航へ出発
1521年 コルテスがアステカ帝国を征服
1531年 ピサロがインカ帝国を征服
1552年 ラス・カサスが『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著す

コンキスタドールとエンコミエンダ

big5
大航海時代のページでも説明したように、コロンブスらは単なる探検家ではありませんでした。その目的は、インドへ向かう航路の発見でした。そして、さらにその先の目的は、香辛料貿易などを行って利益を上げることにありました。なので、インディアスを発見した後、スペインからはこぞって探検を兼ねた軍事遠征が行われたんです。これらの軍事遠征をおこなった人々をコンキスタドール(スペイン語で「征服者」の意味)と呼びます。ちなみに、英語でコンクエスト(conquest)は「征服」を意味します。ノルマン・コンクエストとかは有名な歴史用語ですね。両方とも同じ言語から派生して生まれた言葉ですね。」
名もなきOL
「インディアスの先住民たちは、コンキスタドールらにはかなわなかったんですよね?」
big5
「はい、インディアスの先住民らの文明はあまり発展しておらず、原始的な生活をしている部族がほとんどでした。生き残りのために数々の戦争を戦い、戦争に慣れてきたヨーロッパ勢力の敵にはならなかったわけですね。
さて、コンキスタドールが征服した土地は、主にスペイン人が入植してきます。そして、入植者らには労働力として先住民のインディオらが割り当てられ、入植者らはインディオらを働かせることを認められました。その代わり、インディオらをカトリック信徒に改宗させて保護する義務も課しました。このように、入植者にインディオらを割り当てて植民地経営させた制度をエンコミエンダ制(単に「エンコミエンダ」とも)といいます。」
名もなきOL
「エンコエミンダ?なんか言いにくくて覚えにくい・・・」
big5
「スペイン語でエンコメンダール(委託する)から派生してエンコミエンダ、となっているのですが、日本人には覚えにくい名称ですね。私は「円弧、見えんだ」と覚えました。他にも覚え方があったら、教えてほしいです。
<エンコミエンダ:「円弧、見えんだ」>

名もなきOL
「スペインはインディオの使役を認めながら、同時に保護も義務付けたのであれば、そこまで酷い扱いにはならなかったのではないでしょうか?あ、それは・・・」
big5
「はい、入植者のほとんどは、インディオを奴隷として酷使するばかりで、保護は行わなかったんです。インディを奴隷として扱えば、人件費ゼロで農園経営ができますので、経営者の利益を最大化できます。場所もスペイン本国から遠く離れた新大陸・アメリカですし、本国の監視の目などほとんど届きません。スペイン人入植者らのやりたい放題だったわけです。
奴隷として過酷な労働をさせられたうえに、スペイン人入植者らによって天然痘などの伝染病も持ち込まれました。インディオの多くは、これらの伝染病に免疫を持っていなかったようで、伝染病によって亡くなる人も大勢いました。そのため、スペイン人の入植がはじまって数十年後にはインディオ人口は約90%激減するというとんでもない事態になります。
そんな実態を見て、コンキスタドールたちの残忍さ、スペイン人入植者らの圧政の実態を明るみに出し、批判したのがラス・カサス(1484~1566年)です。」

Fray Bartolome de las Casasラス・カサス 制作者:不明 制作年:16世紀

big5
「ラス・カサスの代表作が、1552年(当時68歳)に「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を著しました。この書物には、極悪非道なコンキスタドールの行いが記されており、コンキスタドールは人類の敵が、とまで言われています。」
名もなきOL
「ラス・カサスさん、いい人ですね。こういうヒドイ実態を世界の目にさらすことは、とても大事なことですよね。」
big5
「そうですね。ラス・カサスの報告書の内容はには伝聞も含まれているので、誇張されている部分があるのは事実だと思いますが、それを割り引いたとしても、インディオたちが酷使されていたことは紛れもない事実でしょうね。
余談ですが、ラス・カサスはインディオを奴隷として使役する代わりに、アフリカから黒人奴隷を連れてくることを代替案として提案しました。しかし、それでは被害者がインディオから黒人に変わるだけです。ラス・カサスに反発する人々にこの点を攻撃され、ラス・カサスは反省し、黒人奴隷の代替案を撤回しています。
とはいえ、ラス・カサスの報告は、この時代を研究する上で重要な史料となっていますので、その価値は大きいですね。」

コルテスのアステカ帝国征服 1521年

big5
「さて、それではコンキスタドールの代表格であるコルテスによるアステカ帝国の征服について見ていきましょう。
まず、よく混同されがちなのが、「コルテスがアステカ帝国を征服した」と後述する「ピサロがインカ帝国を征服した」という2つの事実です。大学入試センター試験でも、これを入れ替えた正誤問題が出題されています。この覚え方は
<歴史暗記テクニック>
コルテス:アステカ 両方とも4文字 ピサロ:インカ 両方とも3文字

と覚えましょう。」

Retrato de Hernan Cortesエルナン・コルテス 制作者:不明 制作年代:18世紀

big5
「コルテスはスペインの貧乏貴族の出身です。立身出世のためにインディアスの探検・征服活動に一員として参加し、キューバ島に駐留していました。1519年、現在のメキシコに上陸して、中米最初の植民都市であるベラクルスを建設しました。その後、現地の案内人を得て内陸部に進出。当時、この辺りを支配していたのがアステカ帝国(王国、とも)で、首都はテノチティトラン(現在のメキシコシティ)です。↓の絵は、1945年に書かれた想像図ですが、テノチティトランの街の様子です。」

Murales Rivera - Markt in Tlatelolco 3テノチティトラン 制作者:Diego Rivera 制作年:1945年

名もなきOL
「区画整理されていて、かなり発展しているように見えますね。水色になっているのは、池ですか?」
big5
「いえ、これはテスココ湖という湖です。テノチティトランは、テスココ湖に浮かぶ島を拠点とした街でした。コルテスらが初めてテノチティトランに入った時、まるで街が湖に浮いているかのように見えてたいへん驚いたそうですよ。
このように、アステカ帝国の文明・技術は決して低いものではありませんでした。ただ、ヨーロッパと比べると、以下の点が決定的に違いました。
・鉄器は存在しない
・火器は存在しない
・馬が存在しない
そのため、コルテスらコンキスタドール一行を見たアステカの人々は、彼らを「神が遣わした使者」と考え、まったく抵抗せずにテノチティトランに入らせました。当時の皇帝・モクテスマ2世も自ら莫大な金銀財宝を差し出したのですが、その量に驚いたコルテスらは、むしろ皇帝を殺してこの地を略奪した方がいい、と考えました。コルテスは金銀財宝を略奪し、モクテスマ2世を捕えて処刑するという暴挙に出ます。」
名もなきOL
「神の使者ではなく、「死神の使者」だったわけですね。」
big5
「コルテスらの本性を知ったアステカの人々は反撃を開始します。不意を討たれたコルテスらの軍勢は100人近くを討ち取られ、命からがらテノチティトランを脱出しました。コルテスは、逆襲のために、アステカ帝国と敵対していた周辺部族(トラスカラ人など)を味方につけ、総勢10万にも及ぶ大軍勢となります。この大軍勢でテノチティトランに侵攻。アステカは籠城して対抗しますが、約3か月間の包囲の後、陥落しました。強大だったアステカ帝国は、コルテスの侵入から2年もたたずに滅亡してしまいました。」
名もなきOL
「総勢10万にも及ぶ軍、っていうのが凄いですね。あと、コルテスらコンキスタドールたちだけの力でアステカ帝国が滅ぼされたわけではないんですね。」
big5
「そのとおりです。アステカ帝国が短期間で滅ぼされた理由の一つとして、軍事技術の違いが挙げられることが多いです。それは確かにそうなのですが、それだけではありません。アステカ帝国は、周辺部族を軍事力で服属させ、重税を課して苦しめていました。それらの部族が、コルテス登場を機に一斉に反旗を翻したことが、一番の直接的な原因だ、と私は思いますね。
こうして、アステカ帝国は滅亡しました。この辺りはヌエバ・エスパーニャ(新しいスペイン、の意)と呼ばれるようになり、コルテスはその手柄を認められて、ヌエバ・エスパーニャの総督に任命され、スペインの植民地としての歴史が始まるわけですね。」

ピサロのインカ帝国征服 1531年

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「さて、次に登場するコンキスタドールはピサロです。ピサロは1531年に南米のインカ帝国(現在のペルーとその周辺国のあたり)を滅ぼしました。」

Portrait of Francisco Pizarroピサロ 制作者:Amable-Paul Coutan 制作年:1835年

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「ピサロはパナマ地峡を発見したバルボアの探検隊に加わっていました。さらに南を探検し、インカ帝国に属する都市に到達すると、莫大な宝のにおいを嗅ぎつけました。ピサロはスペイン王から征服の許可と支援を受け、1532年に200名弱の兵を率いて上陸しました。当時のインカ帝国皇帝はアタワルパと言います。この時点でのインカ帝国はかなり弱体化していた、と考えられています。というのも、ピサロが上陸する少し前まで、皇帝位をめぐって数年にわたる内戦が続いており、それがようやく終結したところだったからです。
1533年、ピサロはアタワルパに会見を申し込みましたが、これは罠でした。現れたアタワルパは捕えられてしまいます。身代金として金銀財宝を要求しましたが、それを受け取っても身柄引き渡しを拒否。さらに、様々な罪をかぶせて処刑しました。」
名もなきOL
「やり方が卑怯ですね。」
big5
「卑怯でしたが効果は抜群でした。皇帝の死により、インカ側はまとまりを失ったんです。ピサロ一行は簡単に首都・クスコに入城すると、たちまち宮殿や神殿を破壊して金銀財宝を略奪し、インカ帝国は滅亡。新たなスペインの植民地となりました。
しかし、インカ側もこれで終わりではありません。皇帝の親族を新たなインカ皇帝とし、1536年には大反乱が勃発します。しかし、これらの反乱は鎮圧されました。その後も、インカ側の抵抗は続いたのですが、時の経過とともに弱くなり、やがて消滅しました。」

価格革命と商業革命

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「スペインによる新大陸アメリカの征服・植民活動によって、金や銀といった貴金属の採掘活動がおおいに促進されました。中でも特に有名なのがポトシ銀山です。1545年、あるインディオがボリビア南西端に位置するポトシで銀鉱を発見しました。しかし、こんな発見はしなかった方が良かったかもしれません。なぜなら、このポトシの鉱山労働で多くのインディオが酷使されることになったからです。翌年には鉱山都市ポトシ(Potosi)が建設され、採掘が始りました。その後、水銀製錬法が導入されて精製効率が上がり、銀の産出量は大きく上がりました。1574年以降は、ミタ制度(インディオの成人男子を7年おきに1年間鉱山労働させる制度)を実施し、労働力を確保したことも、産出量を増加させました。」
名もなきOL
「まさにインディオの犠牲の上に成り立っていた銀、ということですね。」
big5
「はい。この結果、ヨーロッパに多量に新大陸産の金銀が流入することになり、物価が著しく上昇しました。これを価格革命(Price Revolution)と言います。いわゆるインフレですね。価格革命の影響はいろいろありますが、要点をまとめると以下のようになります。
1.農産物、家畜価格の物価上昇を引き起こし、農業の資本主義化を促した。
2.実質賃金の低下により、工業・商業などで経営規模が拡大させた。
3.フッガー家など従来の商業資本が衰退し、代わりにイギリス産業資本(羊毛工業)を発展させた。
このように、既に中世は終わりを迎えていたのですが、経済分野でも新しい時代、近代資本主義時代への道が開かれる一因となりました。」
名もなきOL
「インディオが酷使されるとか、人道上の問題はありますが、こういう経済的な面での変革もあったわけですね。歴史は奥が深いな。。」
big5
「次は商業革命ですね。大航海時代が始まる前、ヨーロッパの国際貿易の概要は以下のようなものでした。

1.アジア産の香辛料や絹などを、イスラム商人(主にオスマン=トルコ在住)が仕入れる。
2.イタリア半島・南ドイツなどの商人がイスラム商人からアジア産香辛料・絹を仕入れる。
3.イタリア商人・南ドイツ商人らが、アジア産香辛料・絹をヨーロッパで販売する。

図で示すと下のようになります。」


名もなきOL
「イスラム商人やイタリア商人らの仲介を経ていたわけですね。」
big5
「そのとおりです。しかし、ポルトガルがインドへの航路を発見したことにより、ヨーロッパ諸国はイスラム商人らの仲介を経ずとも、自身で直接アジアと取引することができるようになったわけです。この結果、貿易の仲介で栄えたイタリア半島や南ドイツの商業都市は少しずつ衰えていきました。モノのルートはイスラムから地中海を通るコースに代わって、大西洋・インド洋を通ってヨーロッパまで運ばれるルートが主流になってきました。また、アフリカからは金や象牙も貴重品として輸入されるようになりました。
さらに大きな変化をもたらしたのは、アメリカ大陸です。ヨーロッパ諸国のアメリカ植民地経営で労働力となったのは、アフリカからさらわれてくる黒人奴隷でした。また、アメリカ大陸からは、価格革命で説明したように大量の金・銀がヨーロッパに流入していきました。これらの商流を加えると、ヨーロッパを中心とした貿易の流れは以下のようになります。

1.ヨーロッパはアジアから香辛料や銀を仕入れ、銀をアジアに支払う。
2.ヨーロッパはアフリカから金・象牙を仕入れ、日用品などをアフリカに売る。また、アフリカから黒人奴隷をアメリカに運ぶ。
3.アメリカはアフリカから奴隷を受け入れる。また、ヨーロッパから毛織物を仕入れ、銀をヨーロッパに支払う。

図に示すと、下のようになります。」


big5
「このように、大航海時代がもたらした貿易の流れの変化を「商業革命」と呼んでいます。大西洋を物流の中心とするヨーロッパ、アフリカ、アメリカ間の貿易は大西洋三角貿易などと呼ばれ、ヨーロッパ諸国(初期はポルトガル・スペイン、その後オランダ、最後はフランス・イギリス)にとって大きな利益の源泉となり、それと同時に利権をめぐって戦争の一因となっていきました。

と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」


大学入試 共通テスト 過去問

big5
「大学入試共通テストでは、インディアスの破壊のネタは平成の終わりごろは頻出、その後もわりと出題されています。試験前に復習しておけば、運よく出題されるかもしれません。」

平成30年度 世界史B 問題6 選択肢@
・インカ帝国で、記録・伝達手段として、キープ(結縄)が用いられた。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、キープはインカ帝国の代表的な文化です。

平成30年度 世界史B 問題23 選択肢B
・アステカ王国は、テノチティトランを首都とした。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、アステカ帝国の首都はテノチティトランです。

平成30年度 世界史B 問題28
以下の2つの文の正誤を判定せよ。
a)アメリカ大陸に進出したスペイン人は、植民地にエンコミエンダ制を導入した。
b)ヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘(伝染病)は、アメリカ大陸の先住民人口が激減する一因となった。
(答)(a),(b)ともに正。上記の通りです。

平成31年度 世界史B 問題35 選択肢@
・ピサロが、アステカ王国を征服した。〇か×か?
(答)×。上記の通り、ピサロが征服したのはインカ帝国です。アステカ帝国を征服したのはコルテスです。

平成31年度 世界史B 問題35 選択肢A
・ラス=カサスが、先住民の救済に努めた。〇か×か?
(答)〇。上記の通りです。

平成31年度 世界史B 問題35 選択肢B
・ポトシで、ダイヤモンド鉱山が開発された。〇か×か?
(答)×。ダイヤモンドではなく銀です。

令和2年度 世界史B 問題20 選択肢B
・アステカ王国で、記録・伝達手段としてキープ(結縄)が用いられた。〇か×か?
(答)×。キープが用いられたのはアステカではなくインカです。平成30年度の問題とほぼ同じ。センター試験の世界史はインカ帝国のキープが好きみたいですね。

令和2年度追試 世界史B 問題24 選択肢A
・インカ帝国で、灌漑設備が整備された。〇か×か?
(答)〇。上記の通りです。

令和4年度追試 世界史B 問題8 選択肢@
・インカ帝国の王は、太陽の子(太陽の化身)として崇められた。〇か×か?
(答)〇。上記の通りです。

令和4年度追試 世界史B 問題9
(問題文)メキシコやペルーでは、(ア)が導入され、先住民が過酷な労働を強いられました。
(ア)に入る用語はエンコミエンダか、それともラティフンディアか?
(答)エンコミエンダ。上記の通りです。ラティフンディアは、共和政ローマ後期に主流となった奴隷制大農場のことです。(参照 共和政ローマ

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参考文献・Web site