big5
「今回のテーマは共和政ローマです。ローマの登場で、古代史も終盤になります。」
名もなきOL
「すみません、共和政ローマって、ローマ帝国とは違うんですか?」
big5
「いえ、同じ国です。世界史初心者はよく勘違いしやすいポイントですね。「ローマ帝国」という言葉は一般にも知られているので、歴史初心者でも「昔強かった国」くらいのイメージは持っているでしょう。ただ、ローマの歴史はたいへん長く、ローマ帝国と呼ばれていのは後半の時代なんです。建国当初は決して帝国ではなく、ローマとその周辺のみを治める、古代ギリシアに例えていうなら数あるポリスの一つに過ぎなかったんです。しかし、ローマは少しずつ力を強めていき、最後は地中海の周辺をすべて支配する大国家となりました。後にも先にも、地中海の全域を支配したのはローマのみ、です。もちろん、モンゴル帝国など、面積の観点でローマを上回った国はありますが、地中海全域を支配することはできませんでした。そういう意味で、ローマが地中海世界に与えた影響は計り知れません。」
名もなきOL
「なるほど。千里の道も一歩から、ということなんでしょうね。」
big5
「ローマの歴史は史料も多く、かなり多くの人が研究していますので、細かいところまで説明していくと、ローマだけで一つの歴史サイトが作れるくらい、奥が深いです。ここでは、まずは高校世界史で取り扱う範囲の概要を見ていくことにします。
さて、それではいつもどおり、まずは年表から見ていきましょう。」
年月 | ローマのイベント | 他地方のイベント |
前753年? | ロムルスがローマを建国 | |
前7世紀末 | エトルリア人の王がローマを支配 | |
前509年 | 共和政が樹立される | |
前508年 | (ギリシア)クレイステネスの改革 | |
前498年 | ラテン都市同盟との戦争が始まる | |
前494年 | 聖山事件(モンス=サケル) 平民会と護民官の設置 | (ギリシア)イオニア反乱が鎮圧される |
前490年 | (ギリシア)マラトンの戦い | |
前450年頃 | 十二表法 慣習法が成文化される | |
前404年 | (ギリシア)ペロポネソス戦争 終結 | |
前387年 | ガリア人によるローマ劫略 | |
前371年 | (ギリシア)レウクトラの戦い | |
前367年 | リキニウス=セクスティウス法 | |
前334年 | (ギリシア)アレクサンドロス大王が東方遠征に出発 | |
前287年 | ホルテンシウス法成立し、平民会決議が全市民を拘束することに | |
前264年 | 第一次ポエニ戦争 開戦 | |
前218年 | 第二次ポエニ戦争(ハンニバル戦争) 開戦 | |
前146年 | 第三次ポエニ戦争でカルタゴ滅亡 マケドニアを属州とする |
|
前121年 | グラックス兄弟の改革 失敗 | |
big5
「さて、まずはローマの建国の話から始めましょう。ローマ建国は前753年とされているのですが、これが事実かどうかはハッキリしていません。ローマの建国神話に基づく年代になりますので。ただ、だいたいこれくらいの時期に都市国家・ローマが始まったのではないか、と思います。
ローマを建国したのはロムルスとレムスという双子の兄弟となっています。ロムルスとレムスは王の息子だったのですが、王位を奪った叔父によって捨てられ、メス狼に乳をもらってなんとか生き延び、叔父へ復讐を果たしたあとにローマの街を建設しました。しかし、町の名前を何にするか、どちらを建設者とするかで兄弟喧嘩となり、ロムルスが勝ってレムスは死にました。ロムルスは王となって街を40年間統治し、その後雲の中に消えていった、というお話になっています。」
狼の父を吸うロムルスとレムス 制作者:Jean-Pol GRANDMONT
名もなきOL
big5
「共和政ローマが成立してから15年経った前494年、貴族 vs 平民の最初の闘争イベントと言える聖山事件という事件が発生しました。聖山とは、ローマから東北に約5kmほどの所にある丘のことです。ローマの平民らは不満に満ち溢れていました。戦争に勝利して奪った土地はパトリキが独占して富を増やす一方で、平民は戦争に参加しても負担があるだけで何の見返りも得られず、中には経済的に困窮して自分の土地を売り払ったり、借金が返せずに奴隷にされた(債務奴隷)者もいたりするなど、ひどい状況だったそうです。平民たちはローマを捨ててこの聖山に立てこもり、パトリキらに借金の帳消し、土地の再分配、そして平民も政治に参加させることを要求しました。」
名もなきOL
「これにはパトリキらも困ったでしょうね。軍の主力である重装歩兵がいなくなったら、ローマの存亡に関わります。」
big5
「はい、そのとおりです。パトリキらはやむを得ず平民らの要求を認め、借金の帳消しを行い、債務奴隷は解放し、さらに平民が集まって物事を決める平民会を設置し、さらに平民を守る役職として護民官の設置を決めました。」
名もなきOL
「護民官って面白い名前ですね。名前でお仕事の内容がだいたい想像できます。」
big5
「護民官はその名の通り、ローマの平民を政治的に守ることが仕事でした。当初は定員2名でしたが、前449年には10名に増員され、ローマの重要な役職の一つになりました。
こうして、聖山事件の結果、平民会と護民官が設置されて、貴族 vs 平民の身分闘争は平民が一歩前進したわけですね。」
big5
「さて、次のお題は十二表法(Twelve Tables)です。古代ギリシアでも前620年くらいにドラコン立法があったように(古代ギリシア前編 参照)、古代ローマでも
法律の内容は貴族(パトリキ)しか把握していない
という問題点がありました。ローマの平民たちは「法を独占している」パトリキらに不満を訴え、元老院もついに折れてローマの慣習法を成文化してできたのが十二表法です。名前の由来は、12枚の板に記録されたから十二表法と呼ばれているそうです。」
名もなきOL
「このあたりの流れは古代ギリシアと同じなんですね。歴史の流れを覚えるにはちょうどいいですけど、特に受験生などは歴史用語はきちんと区別して覚えておく必要がありますね。」
big5
「ローマ国内で身分闘争が続く中、対外的には周辺の都市の攻略を進め、ローマの領土は広がっていました。ところが、前387年に北方のガリア人が襲って来てローマを占領。街を略奪されたうえに、賠償金として多額の金品を巻き上げられる、という辛酸をなめます。「ガリア人のローマ劫略(ごうりゃく)」と呼ばれる事件ですね。」
名もなきOL
「意外。ローマにもそんなことがあったんですね。」
big5
「それもあったのか。身分闘争は次の段階に入ります。前367年に成立したリキニウス=セクスティウス法ですね。名前が長いですが、これは護民官であったリキニウスさんとセクスティウスさんが中心となって成立させた法律なので、この名前がついています。リキニウス・セクスティウス法は3つの法律から成るのですが、特に重要なのが
@2人のコンスルのうち、一人は平民(プレブス)から選出すること。
A公有地の占有は1人500ユゲラ(約125ヘクタール)までに制限すること。
の2つです。」
名もなきOL
「コンスルの一人を平民から選ぶって、かなり画期的ですね。それなら、平民も納得するんじゃないでしょうか。パトリキは大反対しそうですけど。」
big5
「そうですね。聖山事件に十二表法と、パトリキ vs プレブスの身分闘争はプレブス側が勝利を続けていましたが、このリキニウス=セクスティウス法で平民(プレブス)の政治的な力は大きく強化されました。リキニウス・セクスティウス法により、貴族のモノだった共和政体制から、ローマ市民による共和政へと変貌していくことになりました。」
big5
「リキニウス・セクスティウス法の制定以後、ローマの勢力拡大は本格的にっていきました。周辺のラテン人の都市と戦って支配下に置き、イタリア中部のサムニウム人との3度にわたったサムニウム戦争に勝ち抜いていきました。しかし、切り取った領地の配分で再びパトリキとプレブスの間で揉め事となり、プレブスらが再び聖山に立てこもる、という事件が発生します。この事件を解決したのがホルテンシウス法です。ホルテンシウス法の内容はシンプルです。それは・・・
平民会の決議は、ローマの法律となる
というものです。」
名もなきOL
「これはかなり画期的な法律ですね。もう、パトリキの意向は関係なく、平民会で決めたことがそのまま法律として適用されてしまうんですね。平民らにとっては、かなり有利な法律ですよね。」
big5
「その通りです。教科書などでは、ホルテンシウス法の制定によって、パトリキ vs プレブスという身分闘争は終結し、ローマ市民による共和政が完成した、と説明されることが多いです。さて、身分闘争の話が一段落したところで、次はローマのイタリア半島統治方法を見ていきましょう。」
big5
「身分闘争が長きにわたって続く一方で、ローマはイタリア半島の諸勢力との戦いに勝利し、イタリア半島をほぼ統一することに成功しました。ローマがイタリア半島の統治に用いた手法は分割統治と呼ばれ、人間心理を上手く利用した優れた統治方法として知られているので、この話もしておきましょう。」
名もなきOL
「その話、聞いたことあります。確か、支配される側にも上下関係をつけて、連携できないようにした、とか。」
big5
「そうですね。まず、ローマ支配下にあるイタリア半島の都市は、大きく分けて以下の3種類になりました。
@植民市:土地を持たないローマ兵士らを入植させて新しく築いた都市。植民市の市民はローマ市民権を持っている。つまり、ローマとほぼ同格。戦略上の重要地点に多く、またイタリア半島以外にもいくつか作られた。
A自治市:都市に自治権があるものの、参政権がない(不完全なローマ市民権)。軍役・納税の義務は負う。
B同盟市:ローマと同盟を結んでいる都市。当然ながらローマ市民権は無い。兵士の拠出などの軍役は負う。
です。イタリア半島統一の過程で「同盟市戦争」と呼ばれる戦争があるのですが、それは上のBの都市が連帯してローマに反抗した戦いです。また、分割統治の要点はこれに加えて、ローマはそれぞれの都市と個別に条約を結んで、その内容はすべて同じではなく違った内容にしたことも重要です。支配下の都市同士が連携してローマに反抗しにくいようにしたんですね。
分割統治は占領した外国の地を安定させるために優れた方法とされ、後の時代、例えばイギリスによるインド統治などでも「分割統治」によって長期に渡るイギリス支配を実現させました。」
big5
「ローマ vs カルタゴの最初の戦争は、シチリア島のギリシア人植民都市・シラクサがカルタゴと対立し、ローマに援軍を求めたことから始まりました。前264年、第一次ポエニ戦争です。きっかけがシラクサからの救援依頼だったので、主戦場はシチリアとその周囲の海になりました。そう、海戦です。」
名もなきOL
「そういえば、ローマってイタリア半島だけで勢力を広げていたから、海はこれまでほとんど出てこなかったですよね?」
big5
「はい、これまでのローマ軍は陸軍ばかりで、海軍はほぼゼロでした。対するカルタゴは地中海貿易が重要事業ですから、当然のように造船技術も高く、海戦にも慣れていました。陸戦では強かったローマ軍も、海戦はほぼ素人なのでかなり苦戦します。しかし、鹵獲したカルタゴの軍船をマネして軍船を作ることから始めて、ついにはローマ自前の艦隊を作るにまで至りました。第一次ポエニ戦争は約20年も続きましたが、前241年にローマが勝利して終結します。第一次ポエニ戦争の勝利で、ローマはコルシカ島とサルデーニャ島を獲得し、シチリア島は
名もなきOL
「そういえば、分割統治のイタリア半島では、自治市や同盟市でも軍役がありましたよね。属州は軍役が無いのが特徴ですね。」
big5
「一方、カルタゴは敗北してシチリアを失いましたが、これで終わりではありません。戦後のカルタゴで活躍したのが、のちに名将と名高いハンニバル(Hannibal)です。前247年生まれのハンニバルは、父のハミルカルと共にイベリア半島へ進出して新たな勢力圏を広げていきました。第一次ポエニ戦争が終結してから約20年後の前218年、この年29歳になるハンニバルはローマへの反撃を開始します。第二次ポエニ戦争、開戦です。第二次ポエニ戦争は別名:ハンニバル戦争とも呼ばれており、ローマはハンニバルの天才的な軍事指揮によって滅亡寸前にまで追い込まれることになりました。」
名もなきOL
「ローマが滅亡寸前って、相当ですね。ハンニバルさんはどんな活躍をしたんですか?」
big5
「前218年、ハンニバルは約4万の兵を率いてイベリア半島を北上しました。この時のハンニバルの軍勢には、象38頭(37頭という説も)が含まれていたことも有名ですね。ハンニバル軍は現在のフランス南部を経由して、冬のアルプス山脈を超えるという難事業を経てイタリア半島に侵攻していきました。驚いたローマ軍は迎撃に向かいますが、ハンニバルの巧みな戦術によってローマ軍は大敗。新しく軍を編成して向かわせるものの、これまた壊滅的な被害を受けて大敗し、さすがのローマ人も焦り始めます。」
名もなきOL
「強くて有名なローマ軍を壊滅させるって、ハンニバルさんって凄い指揮官だったんですね。アレクサンドロス大王みたい。」
big5
「そうですね。古代史における天才的な将軍の一人に数えられますね、ハンニバルは。そのハンニバルを特に有名にしたのが、前216年のカンネーの戦い(カンナエの戦い、とも。"Battle of Cannae")です。各地でローマ軍を破り、ハンニバル軍はイタリア中部まで侵攻してきました。ローマも近いです。ローマ軍は約8万の軍を編成してハンニバル軍攻撃に向かいました。対するハンニバル軍は約5万。数の上ではローマ軍が優勢でした。しかし、ハンニバルは巧みな戦術でローマ軍を包囲してしまい、ローマ軍はわずかな生き残りを除いて全滅する、という史上まれにみる大敗北を喫してしまいました。指揮官や幹部として参戦していた元老院議員らも80人ほどが戦死しており、ローマはかつてないほどの衝撃を受けました。このため、ハンニバルの戦術は現代でも軍事学校の教材となり、研究の対象にもなっているほどです。」
名もなきOL
「それは確かに凄いですね。「ハンニバル戦争」と呼ばれるのもわかります。ローマはどうやってこの危機を乗り越えたんですか?」
big5
「カンネーの戦いの後、ハンニバルの家来らは「この勢いに乗って、次はローマ本国を攻め落とすべき」という声が多かったのですが、ハンニバルはローマ本国を攻めませんでした。なぜローマ本国を攻めなかったのかはいくつかの説がありますが、その中の一つハンニバルの狙いはイタリア半島の諸都市がローマに見切りをつけさせて、ローマという国家自体を事実上解体することにあったのではないか、という説ですね。実際、いくつかのイタリアの都市はローマからハンニバルに寝返っています。しかし、その数は決して多くは無く、ハンニバル軍がイタリアに居座り続けてもなお、多くの都市はローマに従いつづけたんです。その間に、ローマにも英雄が誕生しました。スキピオです。前236年生まれのスキピオは、カンネーの戦いの時は20歳になる年でした。スキピオもカンネーの戦いに参加しており、数少ない生き残りの一人です。スキピオは前210年(この年26歳)に、ローマ軍の指揮官となってカルタゴの新拠点であるイベリア半島に侵攻しました。スキピオもまた、若さに似合わない巧みな戦術でイベリア半島のカルタゴ勢力を駆逐していきます。」
big5
「一方、カルタゴも外交でシラクサとアンティゴノス朝マケドニアを味方に付けることに成功し、ローマはカルタゴだけではなく、シラクサとマケドニアも敵に回すことになりました。前212年にローマ軍はシラクサを攻略しますが、有名な科学者であるアルキメデスが、アルキメデスとは知らなかったローマ兵に殺されたのもこの時です(ヘレニズム文化 参照)。ローマは、ハンニバルとの直接対決は徹底的に避け、ハンニバル以外のカルタゴ軍と戦って勝利を重ねていく、という作戦でハンニバルの攻撃を巧みにかわすようになりました。野球で例えるなら、ハンニバルがバッターに立った時は徹底的に敬遠して勝負しなかった、というかんじですね。」
名もなきOL
「状況は混沌としてきましたね。第二次ポエニ戦争の決着はどのようになったんですか?」
big5
「最終決戦となったのは前202年のザマの戦いでした。イベリア半島を攻略したスキピオ(この年34歳)は、カルタゴ本国攻略を狙って北アフリカに上陸。ハンニバル(この年45歳)もイタリア半島を退去してカルタゴ本国に戻り、スキピオの軍を迎え撃ちました。ハンニバル vs スキピオという、2人の英雄が戦ったザマの戦いは、スキピオの勝利となり、前201年に第二次ポエニ戦争はローマの勝利でようやく終結しました。カルタゴ本国は存続されましたが、イベリア半島などのカルタゴ領はすべてローマの属州となり、カルタゴはチュニジア周辺のみを治める小国に転落したんです。
それから約50年が経った前149年、ローマの度重なる挑発に耐えかねたカルタゴが反乱を起こし、ローマはこれを大義名分にカルタゴを包囲しました。第三次ポエニ戦争です。約3年に渡る包囲戦の末にカルタゴは敗北し、カルタゴの街は徹底的に破壊されて滅びました。第三次は、もう結果が分かり切っている戦いなので、第一次や第二次と比べると重要性は小さいです。
ポエニ戦争の勝利により、ローマの勢力圏はイタリア半島から西地中海という広い範囲に広がりました。ローマは強大化したのですが、共和政ローマの中身は大きく変容してしまったんです。次は、変容したローマの内容を見ていきましょう。」
名もなきOL
「勝った方のローマも、タダでは済まなかったんですね。」
big5
「共和政ローマは、パトリキと平民(プレブス)の身分闘争の結果、平民が政治的な力を身に付けていくことで発展してきました。ところが、ポエニ戦争に勝利し、西地中海の覇者となったローマでは意外なことに、これまでローマ軍の中核を担っていた平民階級の没落が顕著になっていきました。」
名もなきOL
「ローマは戦争に勝って領土も増えたんだから、みんな裕福になっていそうな気がするのですが、そうではなかったんですね。意外。なんで平民は没落していったんですか?」
big5
「このような仕組みで没落していったのだろう、と考えられています。原因は属州の拡大です。
シチリア島やイベリア半島、そしてアフリカは属州としてローマ領に編入されました。属州を統治するために、ローマは総督を派遣しました。総督の仕事の一つは、属州から決められた税を徴収することなのですが、その方法に特徴がありました。日本のように、税務署を作ってそこの役人が税の徴収を行うのではなく、徴税請負人という徴税業務を委託された民間の業者でした。この徴税請負人の仕事で、経済的な力をつけていったのが騎士(エクイテス)と呼ばれる階級です。騎士といっても、中世の騎士のように重装備の鎧を着て馬に乗って戦い主君に忠誠を誓う、というような中世の騎士とは違います。なので、ここでは「騎士」ではなく「エクイテス」と書きます。エクイテスは元老院議員になれるほどではないが、戦場では馬に乗れる(つまり自分で馬を用意できる)くらいの富裕な平民、という位置づけです。エクイテスは商売をしている人も多かったので、騎士と言うよりも「商人」をイメージした方がいいかもしれませんね。総督も徴税請負人も、当然のように規定よりも多い税を属州民から徴収して私腹を肥やしました。強欲な地方総督というのは、日本史における国司とほぼ同じですね。経済力をつけたエクイテスらは政治的な力もそれなりに持つようになり、ローマの新たな支配階級になっていたきました。
属州ではパトリキや平民(プレブス)でも実力があったり富裕な人々は私有地を持ち、属州民や奴隷を働かせて農園を経営しました。このような農園をラティフンディアと言います。日本語では「奴隷制大農場」と言ったりしますね。要するに、労働力としてタダ同然の奴隷をこき使って小麦やオリーブ、ワインなどを作らせて、儲けていたわけですね。ラティフンディアを経営する平民らは政治的にも経済的にも力を持つようになりました。こうして力をつけていった平民らをノビレス(新貴族 or 平民貴族 "nobiles" 貴族"Noble"の語源)と呼びます。
このようにしてラティフンディアでは安く大量に農作物が作られました。これらはローマに運ばれて売りに出されます。こうなると困るのが、ローマで地道に農業をしていた普通の平民(プレブス)でした。戦争に動員されるうえに、属州からの安い農作物のせいで、経済的に困窮する平民が続出していったんです。平民が経済的に困窮すると、ローマ軍の中核となる重装歩兵の担い手が減ることになります。ローマ共和政の政治体制は、足元から揺らぎ始めました。」
名もなきOL
「なるほど、領土拡大がこのような結果として返ってきたんですね。政治経済って、単純じゃないから難しいですね。」
big5
「前146年、ローマはアンティゴノス朝マケドニアを滅ぼしてギリシアを属州としました。ローマの拡大は止まりません。そして、平民階級の没落も深刻になってきました。これを是正しようとしたのがグラックス兄弟です。」
big5
「グラックス兄弟は兄はティベリウス、弟はガイウスといいます。グラックス兄弟の母は、第二次ポエニ戦争の英雄・スキピオの娘なので、グラックス兄弟はスキピオの孫にあたりますね。名門と言っていいでしょう。名門出身のグラックス兄弟でしたが、兄のティベリウスは前133年に護民官に就任し、経済的に困窮する平民を救うべく、大土地所有の制限と土地の再分配を提案しました。まさに、困窮する平民を救済する案を提出したわけですね。グラックスの提案は平民会で賛成されたのですが、ラティフンディア経営や総督稼業で儲けている元老院議員などの富裕層には当然反対されました。この案は揉めに揉めた結果、前133年に反対派によってティベリウスが殺される、という結果になりました。」
名もなきOL
「ティベリウスの提案は、ローマ市民による共和政ローマを守るためには必要な改革だったんでしょうね。でも、富の味を占めた富裕層にはそれが伝わらなかったんでしょうね。可哀想。。でも、グラックス兄弟の改革ということは、弟も改革に取り組んだんですか?」
big5
「はい。弟のガイウスはティベリウスよりも9歳下で、ティベリウスが殺された時にはまだ幼少でした。前123年、ガイウスも兄と同じく護民官に就任すると、ガイウスは兄より広い範囲に渡る改革を提案しました。しかし、ガイウスの提案には反対も多く、前121年には反対派によってガイウスも殺害されてしまったんです。」
名もなきOL
「グラックス兄弟の改革は、反対派による兄弟の殺害、という形で失敗してしまったんですね。2人の改革が実行されなかったことで、共和政ローマはローマ市民による共和政から、かけ離れた姿になってしまったんですね。」
big5
「そのとおりです。そして、共和政ローマは新しい時代を迎えることになります。
と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」
big5
「大学入試共通テストでは、共和政ローマのネタはよく出題されています。試験前に復習しておけば、運よく出題されるかもしれません。」
平成30年度 世界史B 問題12 選択肢@
・ハンニバルはイッソスの戦いで敗れた。〇か×か?
(答)×。上記の通り、ハンニバルが敗れたのはイッソスの戦いではなくザマの戦いです。イッソスの戦いは、アレクサンドロス大王がアケメネス朝のダレイオス3世を破った戦いです。
平成31年度 世界史B 問題18 選択肢A
・古代ローマの貴族は、プレブスと呼ばれた。〇か×か?
(答)×。上記の通り、古代ローマの貴族はパトリキです。プレブスは平民です。
令和4年度 世界史B 問題27 論点2選択肢Y
・共和政ローマでは、騎士身分(騎士階層)が属州の徴税を請け負って、富を蓄積した。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、騎士身分(エクイテス)が属州で徴税請負人を引き受け、私腹を肥やしていました。
令和4年度追試 世界史B 問題25
・王政期ローマについて述べた文として正しいものを選べ。
@十二表法が公開された。
Aコンスルが、政治を主導した。
Bコロッセウムが建設された。
C最後の王はエトルリア人であった。
(答)C。上記の通り、前509年にエトルリア人の王が追放され、共和政ローマの歴史が始まりました。@、A、Bは共和政時代のローマで行われたことです。
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