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世界大戦と平和への試み 詳細篇

アルベール1世とベルギー

small5
「今回のテーマはアルベール1世とベルギーだ。この章では、ベルギー王アルベール1世の治世を見ていくぜ。アルベール1世時代のベルギーで一番の大事件と言えば、なんといっても第一次世界大戦だ。中立国という扱いにも関わらず、ドイツ帝国はベルギーに侵攻。ベルギーはドイツに降伏せず、戦う道を選んだんだ。つまり、連合国側で第一次世界大戦を戦ったんだ。本編では「第一次世界大戦 (World War I) 前編」でも少し触れているが、ここではベルギー視点でより詳細を見ていくぜ。」
big5
「詳細篇の聞き役はいつもどおり私・big5です。今日もよろしくお願いします。」
small5
「さて、まずはいつもどおり年表から見ていこうか。」

年月 ベルギーのイベント その他のイベント
1909年 アルベール1世 即位
1912年 ジュル・デストレがアルベール1世をフランス語軽視と批判の公開質問状を出す
1914年 8月 ドイツがベルギーに侵攻開始 6月 サラエボ事件
1918年 フランデレン評議会がフランデレン地方の独立を宣言
11月11日 連合国軍がベルギーを解放
3月 ドイツとソ連が単独講和(ブレスト=リトフスク条約)
1919年 1月 パリ講和会議始まる
1920年 アルベール1世が家名を「ザクセン・コ―ブルグ・ゴータ」から「ハウス・オブ・ベルギウム(House of Belgium)」に変更
1934年 アルベール1世 趣味の登山で遭難し死亡

庶民的な王 アルベール1世の即位

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「さて、まずは本編の主人公ともいえるアルベール1世(Albert I)から見ていこう。前回の「ベルギー レオポルド2世とコンゴ統治」の最後でも言及したように、アルベール1世はレオポルド2世の甥だ。レオポルド2世には息子がいたのだが、水難事故で亡くしてしまっていたんだ。愛人との間には2人の男子がいたのだが、当然、愛人との間の子には王位継承権は認められない。レオポルド2世が亡くなった時、王位継承者となりえたのがレオポルド2世の弟の次男であったアルベール1世だったんだ。」
big5
「アルベール1世には兄・ボードウァンがいたため、将来的なベルギー王はボードゥアンだと思われていましたた。そのためか、比較的自由な環境で育ったようで「庶民の王」というあだ名で呼ばれていた時期もあるんです。ちなみに、趣味は「登山」です。ところが、兄のボードゥアンは1891年(この年アルベール1世は16歳)におそらくインフルエンザで死去。それ以来、将来のベルギー王として期待されていました。人生はどうなるか、わからないですね。」

Albert I of Belgium 1910

アルベール1世 撮影日:1910年4月12日 権利者:Bain News Service, publisher small5
「アルベール1世の奥さんはドイツのバイエルン公の娘のエリザベート・ド・バヴィエールだ。二人が結婚したのは1900年だ。なので、将来のベルギー王妃となったわけだな。」

ElisabethofBelgium
アルベール1世王妃 エリザベート 撮影日:1920年 撮影者:不明

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「庶民的な王、アルベール1世はフランス語話者だったが、オランダ語も学んだので、それなりにはオランダ語を話すことができた。1909年12月23日の即位の式典で、国王の誓約をフランス語とオランダ語の両方で行っている(ただし、オランダ語はカンペを見ながらだった)。自分の子供たちにもオランダ語を学ばせることを約束したりと、当初からオランダ語を受容する立場を表明していたんだぜ。」
big5
「これに対して、フランデレン地方の協会の代表者が、オランダ語で国王誓約を行ったことに対する謝辞の手紙が送られてきました。アルベール1世はこの返礼状で「フランデレンの人々が他のベルギー人と切り離されてはならない」という旨を記載したようです。
このように、オランダ語話者に対する配慮を表明していたアルベール1世でしたが、フランス語圏のワロン地方では、アルベール1世の態度を苦々しく思う人々もいました。1912年、作家であり政治家でもあるジュル・デストレ(1863〜1936年)が「王への手紙」と題した公開質問状を出しています。内容は、フランス語を軽視していると批判したものでした。」
small5
「2言語体制の国の難しいところだよな。どちらかを立てると、どちらが不平不満を言う、という。国王も難しい立場だと思うぜ。だが、アルベール1世はどちらかに肩入れするのではなく、両方をなんとか融和させようとしたんだ。それが、後に起こる第一次世界大戦というたいへんな時代の中で、なんとかベルギーが持ちこたえた要因の一つになっているんじゃないか、と俺は思うぜ。」

ベルギーの第一次世界大戦

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「1914年6月、サラエボ事件を直接の引き金として第一次世界大戦が始まると、その火の粉はベルギーにも降りかかることになった。だが、ベルギーはそもそもヨーロッパにおける緩衝地域・永世中立国として独立していたんだ。だが、戦争という非常事態においては、そのような取り決めは何の役にも立たない、ということのいい証左だな。まずは、ベルギーがドイツによる侵攻を受けることになった経緯を見てみようか。」
big5
「第一次世界大戦が始まると、ヨーロッパではドイツとフランスが戦火を交えることになりました。その付近に位置する小国ベルギーは、本当に中立が保てるのかどうか、非常に不安定な時期でした。1914年7月31日、様々な情報源からドイツがベルギー侵攻を企てていることを知ったアルベール1世は、召集令状を出して万一に備える一方で、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に嘆願書を送り「血の繋がりと友情の絆でベルギーの中立を尊重してほしい」と伝えていました。
1914年8月1日の正午、外務次官のアルベール・ド・バッソンピエール(1873〜1956年)が、駐ベルギードイツ大使のベローを訪問しています。この時、ベローはドイツ本国の考えを全く知らされていなかったようで、「何も心配ありません」と答えていました。ところが、翌日の8月2日早朝に、ドイツが隣国のルクセンブルクに侵攻します。ルクセンブルクも中立を宣言していた緩衝国の一つです。そのルクセンブルクが攻撃されたとあっては、ベルギーが危機を感じるのが当然でしょう。そこで、外相のジュリアン・ダヴィニョン(1854〜1916年)がベローを訪問。この時、ベローは
「隣の家の屋根が燃えても、あなたの家は大丈夫だ。」
と回答しました。このセリフは同日のベルギーの新聞で掲載されたために有名になりました。」
small5
「だが、そのセリフは完全に間違いだったわけだな。隣の家が燃えているのに、自分の家に燃え広がらない、なんて甘い考えは通じないぜ。この時既に、ドイツ本国はベルギー侵攻を決定していたんだ。今でも「ドイツ大使のベローは本当に、本国がベルギー侵攻を決めている、という事実を知らなかったのか?」と議論の的になるそうだぜ。というのも、ベローは7月29日にドイツ本国から封書を受け取っていたんだ。しかし、「指示があるまで開けてはならない」とあったため、この時点では封書の内容は知らなかった、と言われているんだ。外書のダヴィニョンとの会談の後、指示を受けて封書を開いたベローはビックリ仰天したそうだ。というのも、その内容は
ドイツ軍のベルギー通過を許可せよ。拒否すればベルギーを敵国とみなす。回答は12時間以内。
とあったからだ。
午後9時、アルベール1世は緊急閣議でドイツの最後通牒にNoと答えることを主張した。この時のセリフとして、後に有名になるのが
ベルギーは国だ。道ではない。
だ。」
big5
「ベルギーとドイツの軍事力は、比較するまでもなくドイツが圧倒的に上です。1対1で戦えば間違いなく負けるでしょう。ドイツ公使のベローもベルギーが抵抗するとは思っていなかったようで、ベルギーの回答を見てすぐにアーヘンに向かいました。アーヘンには、ドイツ軍が駐留していたためです。一方、ベルギーはリエージュにあるムース川の橋梁とルクセンブルク国境周辺の鉄道を爆破し、ドイツ軍の襲来に備えました。」
small5
「開戦当初は圧倒的な戦力差にも関わらずベルギー軍は果敢に戦ったが、それも序盤だけだ。この後、質も量も勝るドイツ軍は着実に占領地を拡げ、10月には首都のブリュッセル、歴史ある大都市アントワープも占領されてしまったんだ。ただ、この頃になって英仏軍の援軍が参戦し、戦線は膠着状態となったんだぜ。
この時、一つ面白い話があるので紹介しておくぜ。ベルギー政府はフランスに亡命して亡命政府として活動を続けたんだが、国王のアルベール1世は残ったベルギー軍と共に戦線に残ったんだ。そのため、アルベール1世には「兵隊の王」というあだ名がつけられ、戦後は英雄としてベルギーに凱旋しているぜ。一方、亡命政府はひっそりとベルギーに帰国したそうだ。」

ドイツ占領地域の状況

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「さて、詳細篇なので、ドイツに占領されたベルギーの状況についても見ていこうか。一言でいえば、ドイツに占領されたベルギーの諸都市はたいへんな被害に遭っている。強制連行や殺害などで命を失った人はおよそ5,000人になるそうだ。損害は人だけではんく経済にも及んでいる。ベルギーの基幹産業はほとんどがドイツ軍のために徴用されてしまい、略奪された物資は数えきれない。」
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「これを受けて、ヨーロッパの世論はベルギー支援が望まれるようになりました。結果、ソシエテ・ジェネラールなどの大企業が中心となって「ベルギー救済委員会」が組織されています。」
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「このような状況の中、ベルギー政界では大きな新たな2つの派閥が登場することになったんだ。まず一つ目はベルギー愛国主義だ。これは名前の通り、ドイツと戦ってベルギーを守ろう、という考え方だな。この愛国主義運動を積極的に推進したのだ、労働党のヴァンデルヴェルデだ。ヴァンデルヴェルデは、存続の危機にさらされているベルギーを救うためには、党派のイデオロギー対立はいったんやめて、一致団結してドイツに当たろう、とベルギーの結束を提唱した。この動きに与党であるカトリック党も同調しているんだ。後に、カトリック党は労働党と連立与党を組むことになる。」
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「また、学問の面からもベルギー愛国主義がうたわれていますね。ヘント大学で教授を務めていたアンリ・ピレンヌ(1862〜1935年)は、ベルギー統一の歴史を講義し、愛国心を鼓舞しています。北のフランデレンと南のワロンで言語が違い、これまでも何度も言語問題で揺れていたベルギーでしたが、ピレンヌ教授は「言語境界線」の起源についても触れ、両民族の交流の歴史を説いていますね。
この講義は『ベルギー史』としてまとめられ、アルベール1世の愛読書にもなっています。」
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「もう一つ、強力になった派閥がフランデレン主義だ。フランデレンはドイツ民族と同系統の民族だ、ということでドイツと組んでフランデレン地方は独立すべき、という考え方だな。この思想の活動家たちは「アクティヴィスト」と呼ばれ、ドイツのベルギー総督フォン・ビッシングの支援を受けて活発になったんだぜ。」
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「ドイツから見れば、ベルギーに一致団結して抵抗されるよりも、フランデレンとワロンで分離してもらった方が支配しやすいですからね。アクティヴィストらを支援するのも当然でしょう。1916年10月には、閉鎖されていたヘントの大学がオランダ語の大学として再開することが認められました。」
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「その後、1917年7月にはアクティヴィストらが「フランデレン評議会」を設立し、1918年にはフランデレン評議会が完全独立を宣言しているぜ。ドイツの支援があってこその動きだな。もちろん、アルベール1世の亡命政府はこの独立宣言は無効だ、と宣言し返しているぜ。」
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「亡命政府も、手をこまねいているわけではありませんでした。大ベルギー構想を持ち出してきています。大ベルギーとは、オランダ領となっているベルギーの東隣、リンブルフ州とルクセンブルクをベルギーとして併合しよう、という考え方です。この考え方は決して新しいものではありません。ベルギーが独立するロンドン会議の時から、民族・文化的にベルギーとほぼ同じリンブルフ州とルクセンブルクはベルギーとして統合される道を望んでいたのですが、列強の思惑と利害関係調整により、リンブルフ州は分割されてベルギー領(州都:ハッセルト)とオランダ領(州都:マーストリヒト)に分かれることになりました。
第一次世界大戦が勃発し、ドイツがベルギーの大半を占領する中で亡命政府が主張した一つの政治思想ですね。」
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「勢いづくフランデレン評議会だったが、それも一時的なものに過ぎなかった。1918年10月、連合国軍がオーステンデ、ブリュージュ、コルトレイクなどのベルギー主要都市を解放することに成功。11月11日はベルギーの解放記念日となっているぜ。」

戦後のベルギーとアルベール1世

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「ベルギーの大半を占領していたドイツは第一次大戦で敗北し、ベルギーは戦勝国となった。それと同時に、ドイツから実に多くの損失を受けた被害国であることから、ヴェルサイユ体制ではドイツの賠償金を元手に戦後復興を進めているぜ。ちなみに、英語版Wikiを見ると、アルベール1世はドイツに厳し過ぎる講和条件に対しては反対を表明していたそうだ。理由は「新たなる戦争の火種となる」ことを恐れたからだとか。実際、この後ヒトラーとナチスが現れて第二次世界大戦へと繋がっていくので、アルベール1世の読みは正しかったわけだ。だが、アルベール1世の意見は講和会議ではほとんど支持されなかったそうだ。」
big5
「1920年には、ベルギー王家の家名である「ザクセンーコ―ブルグーゴータ」を「ハウス オブ ベルギー(House of Belgium)」に変更しています。これは、ドイツ諸侯を感じさせる名称を廃止することで、ドイツとの決別を示した、とよく言われています。」
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「その後、1934年2月17日、アルベール1世は趣味の登山でナミュール付近の山に登っている最中、事故に遭って亡くなってしまったんだ。この年、59歳になる年だった。アルベール1世の死に、ヨーロッパ諸国のリーダーたちの多くがその死wを悼んだそうだぜ。
アルベール1世の後継者となったのは、長男のレオポルド3世だ。そして、時代は間もなく第二次世界大戦に突入し、再び戦禍がベルギーを襲うことになる。」
big5
「と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」

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参考文献・Web site
・物語 ベルギーの歴史 ヨーロッパの十字路 著:松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日刊行