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「今回のテーマはベルギー レオポルド2世とコンゴ統治だ。この章は「自由と革命の時代 詳細篇 レオポルド1世の治世の続きにあたるぜ。
本編では「分割されたアフリカで、コンゴがベルギー王の私領として認められた、という話が出ているな。ここでは、レオポルド2世によるコンゴ進出も含めて、レオポルド2世時代のベルギーを見ていくぜ。」
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「詳細篇の聞き役はいつもどおり私・big5です。今日もよろしくお願いします。」
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「さて、まずはいつもどおり年表から見ていこうか。」
年月 | ベルギーのイベント | その他のイベント |
1857年 | フルーレ・オルバンの自由党内閣成立 | |
1865年 | レオポルド2世がベルギー第2代国王として即位 | |
1873年 | フランデレン地方の裁判所でオランダ語の使用が認められる | |
1876年 | レオポルド2世が「国際アフリカ協会」設立 | |
1878年 | フルーレ・オルバン第2次自由党内閣成立 フランデレン地方の行政関連でオランダ語の使用が認められる |
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1879年 | フムベーク法 公布 | |
1882年 | レオポルド2世が「国際コンゴ協会」設立 | |
1883年 | 教育の二言語制導入 | |
1884年 | 8月 カトリック諸団体が選挙で大勝 10月 ベールナールトが首相に就任 |
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1885年 | ベルギー労働党 成立 | 8月1日 ベルリン会議でコンゴ自由国の領有が認められる |
1886年 | 3月 ワロンで労働者らが大暴動 | |
1891年 | 教皇レオ3世が「レールム・ヴァルム」が発せられる | |
1893年 | 男子普通選挙制を実施 | |
1898年 | 平等法成立 | |
1899年 | 比例代表制導入 | |
1901年 | ベールナールトらの尽力でオランダのハーグに常設仲裁裁判所が設置される | |
1908年 | コンゴがベルギー政府植民地となる | |
1909年 | レオポルド2世死去 アルベール1世即位 | |
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「1830年のベルギー音楽革命でオランダから独立したベルギーでは、国王は存在するものの、議会が政治を担っており、わりと早い段階から政党による政治が行われるようになったんだぜ。1857年にはフレール・オルバンが率いる自由党内閣が成立しているぜ。」
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「一方、自由党の対抗派閥がカトリック教会の関連団体でした。この両党の政策争点の中で、特に重要だったのが学校問題でした。
これまで、ベルギーで教育を担っていたのはカトリック教会系の団体でした。カトリック教会が学校を開き、布教活動も兼ねて教育を行っていたわけですね。なので簡単に言うと、ベルギーにおける教育業界はカトリックの独占だった、ということですね。」
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「この状況に異を唱えたのが自由党政権だった。自由党の思想の源流はフランス革命と自由主義だ。フランス革命では、カトリックをはじめとした宗教団体や聖職者は敵視されていたからな。ベルギー自由党も、子供の教育は宗教的に中立であるべきで、国が管理運営すべきもの、と考えた。そこで、公立学校を増やして初等教育を拡充する政策を主張して、1879年の総選挙で自由党が大勝したんだ。この選挙戦勝利を受けて、ウベール・フレール・オルバン(1812〜96年)を首相とする自由党政権が発足。フムベーク法と呼ばれる急進的な反カトリック法を制定したんだぜ。」
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「フムベーク法の主な内容は以下3点になります。
@公立学校の増設
A宗教教育義務の撤廃
B公的教員資格の設置
です。これらのルールは、カトリック教会の教育に関する既得権益を大きく侵害するものでした。」
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「ここまで自由党が食い込んできたことで、カトリック側の抵抗運動に火が付くことになった。選挙で勝つために、教会の組織化を進めていった。教会の教区ホールを本部ととして活動拠点にし、ブルジョワ、中間層、農民に対する慈善活動団体を設置し、支持を集めることに成功する。
さらに、教皇ピウス9世(1792〜1878年)がベルギー自由党の反カトリック教育政策を批判したことを契機に、メヘレン大司教が、カトリック信徒の家の子が公立学校に通わせないように、と指示したんだ。これに対して、ベルギー自由党は教皇庁との関係を断つ、と宣言し、学校問題では徹底的にカトリック教会と争う姿勢を見せたんだぜ。」
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「この結果、1883年にはカトリック系諸団体が統一連合を結成。1884年8月の選挙は自由党 vs カトリック統一連合の対決となりました。カトリック統一連合は教皇庁との関係再構築や教育に関する国家の介入の廃止を綱領に掲げて自由党と争う姿勢を見せました。対する自由党は、タイミングが悪いことに公立学校増設のために増税して支持率を落としており、苦戦は免れませんでした。」
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「1884年選挙は統一カトリック連合が勝利。ジュル・マルー(1810〜1886年)を首相とするベルギー史上初となるカトリック政権が誕生した。この時に、政党「カトリック党」と名乗るようになるぜ。政権を取ったマルーはフムベーク法改正に着手した。フムベーク法の内容も急進的なものであったが、マルーの改正も急進的なものだった。マルーは仕返しするかのように公立学校への助成金を一斉に削減した。その結果、職を失った元公立学校の教師らが反対デモを敢行。国王レオポルド2世はここまでの事態を招いた惟マルーに対する怒りをあらわにし、マルーは3か月で辞職することになったぜ。」
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「マルーの辞任後、首相に就任したベールナールトは、公立学校を解雇された教師らに身分と職、手当てを保障する法案を急いで通して事態を収拾しました。これで、学校問題には一応のケリがついたことになり、ベルギーの政党政治は新たな局面を迎えることになります。」
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「さて、この章ではこの時代のベルギーが歴史の表舞台に立つきっかけとなったのがレオポルド2世によるコンゴ統治を見ていくぞ。」
レオポルド2世 撮影者:不明 撮影日:1881〜1891年
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「レオポルド2世は、即位前から植民地経営に深い興味を持ち、地図を見ては「どこか空いているところは無いか」と考えていたそうです。しかし、時はすでに19世紀半ば。アジア・アフリカのめぼしいところは欧米列強が既に進出していました。」
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「1865年にベルギー国王として即位する際も、演説でアジア・アフリカで植民地を獲得することの重要性を力説している。しかし、議員たちの支持・同意を得ることはほとんどできなかった。
しかし、植民地獲得の夢を忘れることできないレオポルド2世は、当時盛んだったアフリカ探検に興味を持った。1876年には、アフリカのコンゴ川を探検し、金銀鉱山があることを報告したイギリスの探検家・キャメロン(1844〜1894年)を招いて自ら話を聞いている。キャメロンから聞いた話を信じて、レオポルド2世が設立したのが国際アフリカ協会だ。
キャメロンの話を聞き、ますます植民地獲得への情熱を燃やしたレオポルド2世は、」
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「ここから、レオポルド2世によるコンゴの植民地化が本格的になっていきます。1878年にはコンゴ川上流域調査委員会を設立し、イギリス人記者のスタンリーを雇っています。スタンリーは、レオポルド2世の意向を受けてコンゴの植民地化を進めました。」
スタンリーと従者のアフリカ人奴隷 撮影社:London Stereoscopic & Photographic Company 撮影年:1872年
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「スタンリーは、アフリカ探検家で行方不明になったリヴィングストンを発見、救助したことで有名だな(参考:しのぎを削る列強 分割されたアフリカ)。
1882年、国際コンゴ協会を設立する。これは事実上のコンゴ現地政府だな。形式上は、コンゴの先住民族と貿易協定を結び、合法的に進出したかのように見せているが、実際は武力を用いた植民地支配だったんだぜ。」
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「しかし、レオポルド2世によるコンゴ植民地支配は、植民地支配の先輩である欧米列強を警戒させることになります。1884年、鉄血宰相のあだ名で有名なビスマルクがベルリン会議を開催。列強によるアフリカ分割について利害関係調整が行われ、この時にレオポルド2世によるコンゴ支配も話題となりました。」
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「レオポルド2世はアメリカの支持を取り付けることに成功し、自由貿易などを条件として列強から「国際コンゴ協会」の主権を認めさせることに成功したているぜ。こうして、1885年8月1日、レオポルド2世はコンゴ自由国の元首となった。その面積は本国ベルギーの約80倍にもなるぜ。」
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「コンゴで取れる天然ゴムや象牙のおかげで、ベルギー経済はおおいに発展しました。小国でありながら、その経済力は1927年時点でイギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、オランダに次いで第6位となっています。
その一方で、コンゴの植民地としての統治は残虐を極めました。有名なのが、ノルマを果たせなかったコンゴ人の手首を切り落とす、という処罰です。」
Mutilated Congolese from the Congo Free State (today the Democratic Republic of the Congo) 1900-1905 This territory was the personal property of King Leopold II of Belgium and used slave labor on local rubber plantations
(手首を切られたコンゴの人々)
「このような残虐な植民地支配体制は、帝国主義時代でも人道的な立場からの批判が相次いだ。特に、イギリスでは「今後を残虐に支配する欲にまみれた悪の王・レオポルド2世」というかんじで大々的に批判し、数多くの風刺画が描かれた。自分たちは過去に当たり前のように黒人奴隷貿易を行っていたんだがな。
ともあれ、コンゴ自由国がこれほど残虐に統治された要因として挙げられているのは
@コンゴ自由国はレオポルド2世の私領であったため、管理力が圧倒的に不足していた。そのため、レオポルド2世はコンゴの植民地経営を大企業に任せた。しかし、ヨーロッパと同様に当時の企業は利益を出すことのみを優先して労働者を搾取していたため、コンゴでも同様のことが行われた。
Aヨーロッパ人に蔓延している人種差別意識
などが挙げられているぜ。」
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「コンゴの植民地支配で大企業化した企業として、アンパンシュキーデ財閥、フランス系金融機関のソシエテ・ジェネラール・ベルジーク、イギリス資本のベルギー鉱山会社ユニオン・ミニエール(1906年設立)、アングロ・ベルギアン・カンパニーなどがありますね。」
ベールナールト政権
「さて、レオポルド2世のコンゴ植民地支配の話が一段落したところで、当時のベルギー政府の話を始めようか。マルーが辞任した後、1884年10月からベルギー首相として約10年間務めたのがベールナールト(1884年で55歳)だ。」
アウフスト・ベールナールト 制作者:不明 制作年:不明
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「ベールナールトはベルギーの歴史ある名門であるルーヴェン・カトリック大学を卒業した後、弁護士として活躍して1873年に下院議員に当選して政界入りしています。マルーの急進的な政策によって起きた社会争乱を治めて、レオポルド2世の信任を得ました。
この頃のベルギーは産業革命による発展も一段落し、労働者による労働運動が盛んになり始めていた頃でした。ベルギーの南半分ワロン地方には炭鉱が豊富で産業革命を支えていましたが、同時に過酷な労働環境に苦しむ労働者も大勢いました。彼らによって、1885年にはベルギー労働党が成立しています。
1886年3月には、リエージュで開催されたパリ・コミューンの記念式典でワロン地方の労働者らが暴徒化し、商店や工場、貴族の邸宅などが放火・破壊・略奪されるという大事件が発生します。鎮圧にはベルギー軍が動員され、逮捕される者は多数、死傷者もいるという大惨事となっています。当時の新聞は「革命に匹敵する」と表現しているものもありました。」
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「これを受けて、ベールナールトは1887年に二つの法律を通して対応したんだ。一つは労働組合の容認や年金制度などの社会保障の拡充制度、もう一つは治安維持法などの抑圧的な制度だ。この2つの法案を通すにあたって、ベールナールトの粘り強い折衝と調整力が発揮された、と言われているな。」
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「これを契機に、ベルギーでは労働党の政治力が次第に強くなっていきました。1890年に労働党のリーダー・ヴァンデルベルデが制限選挙撤廃と普通選挙導入を力強く求め始めました。ベールナールトは時代の変化に敏感だったみたいですね。労働党の勢力伸長を見て、労働党を潰しに罹るのではなく、労働党を通して労働者らを満足させる方向に進路を取り、普通選挙の導入に前向きになりました。これには、税収増加など実利的な期待もあったようですが、当時としてはかなり柔軟な対応でした。」
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「レオポルド2世は、普通選挙には反対の立場だったようだが、ベールナールトの粘り強い折衝と交渉により、結局ベルギー政府がコンゴ経営資金をレオポルド2世に貸す、という条件で普通選挙制の導入を認めさせているぜ。実際、1890年には2500万ベルギーフランが貸し出されているそうだ。こうして、1893年にはベルギーで普通選挙制が導入された。日本の男子普通選挙は1925年だから、日本よりも30年近く前に普通選挙制を導入していたわけだな。そういう意味では、ベルギーはかなり「民主的」な国だったと言えるだろう。」
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「普通選挙制が導入されたことで、当然のように労働党が議会に進出しました。ヴァンデルヴェルデはレオポルド2世のコンゴ植民地経営を批判し、さらにそれを擁護するベールナールトも批判されるようになり、ベールナールトは1894年に首相を辞任することとなりました。
ちなみに、ベールナールトはその後も政治的な活動を続けており、1901年にオランダのハーグに常設仲裁裁判所(英語名:Permanent Court of Arbitration)が設置されました。常設仲裁裁判所は国家間の揉め事を国際法の立場から審判する場であり、例えば2016年に南シナ海における中国の領有権主張(いわゆる九段線)について、国際法上の法的根拠なく国際法違反、と判決したのが常設仲裁裁判所です。
ベールナールトは常設仲裁裁判所設置の功績により、1909年にノーベル平和賞を受賞しています。」
第一次世界大戦前夜
「20世紀に入り、世界情勢は第一次世界大戦へと向かっていくことになるのだが、この頃、まだレオポルド2世は健在だった。」
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「この頃、ベルギーでは抽選による徴兵制が実施されていたのですが、労働党はこれを不公平だと批判していました。というのも、金持ちは金の力にものを言わせて兵役逃れをすることが罷り通っていたからです。これを受けて、開戦前年の1913年に国民皆兵制が採用されています。また、アントワープの要塞化工事も行われました。永世中立国という扱いでしたが、ベルギーも戦争に対する備えはしていたわけですね。」
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「実際、当時のドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世はレオポルド2世を「真底からの悪玉」と呼び、1904年には「ドイツはフランスを攻撃する。ベルギーは協力するように。見返りにブルゴーニュ公国を再興してやる。だが拒否するならベルギーに攻め込む」と脅しをかけていたくらいだ。実際、第一次大戦でドイツはベルギーに攻め込んでいるしな。」
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「戦争の空気が強まっていく中、1909年にレオポルド2世が死去(この年74歳)。レオポルド2世には嫡出の男子がいなかったので、甥のアルベールがベルギー王を継承することになります。そして、時代は第一次世界大戦となり、ベルギーも戦争に巻き込まれることになるのですが、その話は次回に。
と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」