茶税法とボストン茶会事件


1773年4月27日、イギリス下院(庶民院)を茶税法が通過しました。時の内閣、ノース内閣は、植民地商人による茶の密貿易を禁じ、当時1700万ポンドに上る茶の滞貨により破産寸前にあったイギリス東インド会社を救うため、北アメリカ植民地に輸出される茶への税を免除し、植民地における同社の代理店に茶の独占販売権を認めました。この茶税法の特徴は、本国議会の一存で独占販売権を一会社に与えて植民地の茶商人を脅かした点でにあります。当然、強い反感が植民地アメリカ人の間に広がりました。

茶税法に反対する植民地人は、茶の荷揚げ阻止や茶販売人の辞退強制などの抵抗運動に出たましが、ボストンではアダムズ・サムエル(51)が指導的役割を担った急進派団体が、インディアンに変装し、12月16日、ボストン港に停泊中の3隻の東インド会社船に乗り込み、342箱(1万5,000ポンド)の茶を海に投げ捨てるという実力行使に出ました。イギリス政府はこれに激高し、翌1774年にボストン港閉鎖法など「強圧諸法」を制定したうえで損害賠償を求めましたが、ボストン市民はこれを拒否。マサチューセッツ住民や他の植民地住民もこれに同調し、大陸会議の結成へとつながりました。アメリカ独立革命が、イギリス帝国内での言論による改革運動から、帝国からの分離、独立を目指す革命運動へと転化する契機となった事件として、重要な意義があると考えられています。

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