アメリカ独立戦争 開戦


第1回大陸会議 1774年9月5日
1774年にイギリス本国議会は、ボストン茶会事件に対する報復として「耐えがたい諸法(懲罰諸法)」を制定しました。これに対処するため、植民地アメリカは1774年9月5日、フィラデルフィアにてジョージアを除く12植民地の代表によって大陸会議を開催します(「第1回大陸会議」という)。第1回大陸会議では、本国の圧政から植民地の権利と自由を守るための決議、大陸不買同盟の結成などして10月26日に解散されました。この時はまだ、独立戦争に踏み切る、という決議はなされませんでしたが、時代の流れは独立戦争へと向かっていました。

独立戦争開戦 レキシントン・コンコードの戦い 1775年4月18日
そのような空気の中、1775年4月、本国の植民地政策に反抗する愛国派と呼ばれた一派は、マサチューセッツ湾植民地ボストン近郊のコンコードに武器、弾薬を集めていました。4月18日、ボストン駐屯イギリス守備隊司令官T.ゲージは、愛国派指導者の逮捕とコンコードの武器庫破壊のため、F.スミス大佐率いる正規軍分遣隊約700人を派遣。愛国派のP.リビアとW.ドーズの急報により、P.パーカー率いる植民地民兵らが翌19日にイギリス軍先発隊とレキシントンで衝突。さらに、コンコードへ進出したイギリス本隊をノースブリッジで植民地兵約400人が攻撃を開始。イギリス軍は、次々と増援が来る植民地軍に攻撃されながら後退し、救援軍の助けを受けてボストンへ帰還した。この戦いの死傷者は、植民地側で95人、イギリス側で273人となっています。

第2回大陸会議 1775年5月10日
レキシントン・コンコードの戦いが終わった後、1775年5月10日、第2回大陸会議が開催され、13邦の代表が参集しました。これまで、ボストン茶会事件など過激行動に出ていたアダムズ・サムエルも代表の一人として大陸会議に参加しています。会議は、本国との和解を希望しながらも、6月15日にジョージ・ワシントン(43歳:George, Washington後のアメリカ初代大統領)を植民地軍の総司令官に任命します。ワシントンは後に専門的な軍隊編成の面で、フランスのラ・ファイエット侯爵やプロイセンのフォン・シュトイベン男爵の支援を受けました。
アメリカ軍総司令官となったワシントンの、ここまでの略歴は以下のようになります。
1732年2月22日、バージニア北部のウェストモーランドにて、プランター(大農場主)の子として誕生。17歳の時に、カルペッパー郡の公認測量士となる。1753年、インディアンの鎮撫工作にあたり、1754年にはバージニア民兵軍150人を率いてオハイオ川流域地方に進軍し、フランス軍と交戦して敗北。1755年、イギリスのE.ブラドック将軍の指揮下にデュケーヌ要塞に拠るフランス軍攻撃に参加するも敗退。1758年にJ.フォーブス将軍に協力してデュケーヌ要塞攻略に成功した。1759年、バージニアの富裕な未亡人M.カスティスと結婚し、プランテーション経営に精を出していた。1765年の印紙税法以後、反英的立場を強め、1773年の枢密院令、1774年のケベック法により、西方への土地投機の機会を奪われて憤慨し、独立を決意した。

一方、当時のイギリスは海軍はその力が知られていましたが、陸軍はあまり充実していませんでした。そこで、独立鎮圧軍の補充をドイツ諸侯に求めます。具体的には、ドイツから傭兵を多数雇うことで対応したのです。この独立鎮圧軍募集の際に、多くの人民を兵として売り飛ばしたことで有名になった諸侯がいました。ヘッセン・カッセル方伯です。その数はなんと16,992人。領内にこれといった産業もなく、400,000足らずの畑作農民を抱えるに過ぎなかったヘッセン・カッセル方伯にとって、領民の外国傭兵化は家業のようなものであったそうです。彼は今回の商売で、兵士一人につき30クローネン、あるいは7ポンド4シリング、他に補助金も合わせて45万クローネンが方伯の懐に入った計算になるそうです。しかも、この収入を得たので税金が安くなる、ということもなく、多額のお金は方伯の浪費で消えていきました。30年後、ナポレオンがヘッセン・カッセル家を追放した際
「ヘッセン・カッセル方伯家は、長年にわたって領民をイギリスに高く売りつけていた。そしてその莫大な富を得ても強欲さは収まらず、そのことが国家没落の原因となった」
と書いています。ワシントンは、こうして集められたドイツ傭兵に対し、脱走者には500エーカーの土地、40人連れて脱走した中隊長には800エーカーの土地と牡牛4頭、種牛1頭、牝牛2頭、豚4匹を与え、さらに独立軍に加わる義務は無く、加わった場合は階級が上がって、駐屯地勤務で実戦につくことはない、と宣伝して、盛んに投降を促しました。もともと、金で雇われた、あるいは半強制的に傭兵として売り飛ばされたドイツ傭兵達の戦意は低いため、これに乗ったドイツ傭兵らは少なくなかったそうです。

さて、話は変わって、海軍の話題に。ワシントンが陸軍を整備する一方で、アメリカは海軍の整備にも着手していました。1775年秋、ジョン・バリー(30)が最初のアメリカ艦隊となった「レキシントン」「エフィンガム」「ローリー」などのフリゲート艦長として活躍しています。バリーは1745年アイルランドにて誕生。21歳でフィラデルフィアの商船の船長となった。1780年には、「アライアンス」の艦長としてフランスに向かい、洋上でイギリス艦2隻を破るという戦果を挙げています。

バンカーヒルの戦い (Battle of Bunker Hill) 1775年6月17日
独立戦争初期の中でも、激戦となったのが1775年6月17日のバンカーヒルの戦いです。A・ウォード(48歳)将軍率いる1500名のニューイングランド軍は、ボストンの対岸チャールストンにある小高い丘・バンカーヒルに砦を築き、イギリス軍の攻撃を2度にわたって撃退するという、活躍を示していました。弾薬が尽き果てた後も、降伏せずに白兵戦に移行して奮戦し、イギリス軍に多大の損害を与えました。最終的にはバンカーヒルの砦は陥落しますが、この戦いで植民地側の戦意は大いに高揚したそうです。ジョージ・ワシントンが大陸会議で総司令官に任命されたことも加わり、植民地側の組織的な戦闘はさらに強化されることになりました。
A・ウォードはその後ボストン包囲戦の指揮を執り、1776年3月にイギリス軍を撤退させることに成功しています。ワシントンの総司令官就任に伴い、辞任を申し出ましたが、1777年3月までボストン地区司令官を務めました。
一方、独立戦争開戦からイギリス軍総司令官・マサチューセッツ総督を務めていたトーマス・ゲージ将軍(56歳)は、バンカーヒルの戦いの後、総司令官更迭を受けて本国に帰還しました。代って、バンカーヒルの戦いを苦戦しながらも勝利したウィリアム・ハウ将軍(46歳)がイギリス軍総司令官に就任しました。ハウ将軍は、フレンチ・アンド・インディアン戦争(1754-63年)で青年将軍として戦功を立てています。また、バンカーヒルの戦いには、後にハウ将軍から総司令官を引き継ぐことになるヘンリー・クリントン将軍(37歳)も従軍しており、勇名を馳せています。

ケベックの戦い 1775年12月31日
独立戦争開戦となった1775年も暮れる12月31日、1700名の植民地アメリカ軍がケベック占領を目的にカナダに侵攻しました。しかし、堅固な要塞であるケベックを陥落させることはできず、逆に強力な反撃を受けて撃破されてしまいます。アメリカ軍の指揮官であったR.モントゴメリ将軍は戦死し、植民地アメリカ軍は、ケベック占領を諦めて1776年5月に撤退しました。

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