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正統カリフの時代

ムハンマドの後継者 「カリフ」

big5
「さて、ムハンマド亡き後、クルアーンとハディースがたいへん重要になった、という話をしましたが、もちろん書物だけでは人々をまとめることはできません。やはりリーダーとなる人物が必要です。ムハンマドの後継者であるイスラム教徒のリーダーのことをカリフ(Caliph)と言います。」
高校生A
「教科書でも太字で出てくる用語ですね。ちゃんと覚えておかなきゃ。」
big5
「その通りです。センター試験でも、知ってることが前提の歴史用語ですね。さて、ムハンマド亡き後、最初にカリフとなったのがアブー・バクル(Abu Bakr)でした。アブー・バクルが生まれたのは573年頃と考えられているので、この時(632年)では59歳前後ということになります。ムハンマドよりも3歳だけ年下なので、ほとんどムハンマドと同世代ということになります。」
名もなきOL
「アブー・バクルって、第1回の時にも登場してましたよね。なぜアブー・バクルがカリフになったのですか?信者の中でも古株だったからですか?」
big5
「それも一つの要因でしょうね。ムハンマドがまだメッカで弾圧されていた時から、ムハンマドの信者として布教活動を支えていたので、イスラム教徒歴はかなり長い方です。もう一つ重要なことは、アブー・バクルの娘のアーイシャ(Aisha)がムハンマドの3番目の妻だった、ということです。つまり、ムハンマドから見るとほぼ同年代でありながらも、義理の父ということになります。」
日本史好きおじさん
「ん?ということは、アーイシャはいつ頃、何歳の時にムハンマドの妻となったのですか?」
big5
「アーイシャが生まれたのは614年頃と考えられています。ムハンマドの妻となったのはハディージャが亡くなった後なので、その頃はまだ10歳になる前、ということになります。ムハンマドが亡くなった632年時点では18歳前後、ということになります。」
日本史好きおじさん
「ウチの娘よりも幼い子が妻だなんて・・・現代人にはなかなか理解できない世界ですな。」
big5
「おそらく、いろいろな事情があったのだと思います。さて、アーイシャの話に戻りますが、晩年のムハンマドは複数の妻の中でも、たいへんアーイシャを寵愛していたそうです。なので、それに伴って父親であるアブー・バクルのポジションも、たいへん高いものであったそうです。ムハンマドの死後、アブー・バクルの死後にカリフとなるウマル(46歳前後)ら、主だった幹部たちが集まって議論した結果、アブー・バクルがリーダーにふさわしいということで決まったそうですよ。」
名もなきOL
「あれ?そういえば、もう一人ムハンマドの親戚で重要な人がいませんでしたっけ?」
big5
「はい、それはアリーですね。ムハンマドの叔父で育ての親であるアブー・ターリブの息子です。ムハンマドから見ると従弟にあたります。さらに、アリーの妻はムハンマドの娘・ファーティマなので、娘婿でもあるわけです。この時、アリーは32歳。経験も積んで、まさに働き盛りの頃ですね。ファーティマは26歳前後なので、まさに将来を嘱望された若夫婦だったのではないか、と思います。」
日本史好きおじさん
「なのに、この時はムハンマドの後継者にならなかった。ということは・・?」
big5
「表向きの理由は、アリーはまだ若いから、ということだったそうです。ですが、32歳であれば若くはあっても幼くはありません。理由はそれだけではないのでは、と個人的には思います。。ただスミマセン、そこは私もまだ調べがついていないので、今は詳しくは触れません。
ただ一つ明らかなのは、ファーティマとアブー・バクルの間で、土地の相続に関する揉め事があった、ということです。
この事件をより深く理解すするためには、当時の相続の習慣を知る必要があります。アラブ族のこれまでの相続の習慣は男子相続のみであって、女子は相続から外されていました。これを改めたのがムハンマドです。ムハンマドは女子にも男子だった場合の半分を相続できると改め、法律上の女性の地位を向上させていました。
さて、ムハンマドが亡くなったことにより、彼が所有していた土地などの財産の相続が起こります。これまでのアラブ族の習慣でしたら、男子相続のみが認められていたため、男子がいなかったムハンマドの遺産は誰も相続できない、ということになります。しかし、ムハンマドが女子の相続も認めたため、娘のファーティマにも相続権が存在するはずです。それに基づいてファーティマは、父・ムハンマドが征服した土地の相続をアブー・バクルに要求していました。新しい法律に基づいた当然の行為だと言えるでしょう。しかし、アブー・バクルはこれを拒否しています。理由はいくつか考えられます。良い方向に考えれば、ムハンマドの征服地すべてをファーティマという一人の女性の所有物とすると、今後のイスラム教団の運営に支障をきたす、と考えたのかもしれません。
悪い方向に考えると、ムハンマドの征服地がすべてファーティマの財産となったら、それはつまりアリーがその財産を継承したこととほぼ同義になるので、カリフである自分の立場が危うくなる、と感じたのかもしれません。このあたりの詳細については、私も確たることは言えませんので、ここまでにしておきたいと思います。
そして、それから間もない翌年の633年にファーティマは亡くなっています。」
日本史好きおじさん
「う〜〜ん、謎が多いですね。」
big5
「そのような背景もあって、ファーティマは特にシーア派の人々から理想の女性として神聖視されています。ファーティマという名前はイスラム圏の女性に今も多く名づけられている名前だそうです。キリスト教で例えるなら、聖母マリアのような存在でしょうか。一方、アブー・バクルはシーア派の人々から見れば悪人です。ファーティマの敵ですからね。
このような話もありましたが、全体的な流れとしては、初代カリフとなったアブー・バクルが、イスラム教団の新たな指導者として指揮を執ることになりました。」

初代カリフ アブー・バクルの治世

big5
「いろいろありましたが、初代カリフにはアブー・バクルが就任しました。アブー・バクル以降、4代のカリフを正統カリフと呼んでいます。「正統」というと、逆に正式ではない「異端」のカリフがいるのか、と思いがちですが、「異端カリフ」と呼ばれるカリフはいません。この場合は「正統:神に正しく導かれている」という意味合いで作られた歴史用語です。
アブー・バクルがカリフに就任して最初に対処した問題が、反乱を起こした近隣のアラブ部族の武力鎮圧でした。」
日本史好きおじさん
「偉大なカリスマ指導者が亡くなった途端に、これまで抑圧されてきた勢力が反乱を起こす、というのは古今東西共通なんですね。」
big5
「アブー・バクルの場合、反乱勢力には外交交渉ではなく武力を用いて解決にあたりました。この時、イスラム軍を率いて鎮圧にあたったのが、ハーリド・イブン・アルワリード(Khalid ibn al-Walid))(生年不詳)です。名前が長いので、ここでは「ハーリド」で統一したいと思います。
ハーリドはたいへん優秀な将軍だったそうで、数々の戦いで勝利を収めていました。そのため、「神の剣」という異名が付けられていました。アブー・バクルは「神の剣」ハーリドに反乱部族を鎮圧させると、さらなる征服領域拡大に動きます。最初の標的となったのは、ラフム朝(Lakhm)という王国でした。
ラフム朝について簡単に紹介しておきましょう。現在のイラク中部あたりにラフム朝はアラブ族のタヌーフ族が築いた国で、首都はヒーラという場所でした。建国は3世紀の中頃と考えられています。ラフム朝は完全な独立国ではなく、当時このあたりで隆盛を誇っていたササン朝ペルシアの数ある属国の中の一つ、という位置づけだったようです。南方の遊牧アラブ民族の侵略や、西方の大国・ビザンツ帝国との戦いで、ササン朝の一翼を担っていたそうです。宗教的な特徴としては、ネストリウス派のキリスト教徒が多く、王家も5世紀に改宗したそうです。ペルシア文化圏の中で、キリスト教を信仰しているというのは稀な例ではないかと思います。」
名もなきOL
「すみません、ネストリウス派キリスト教って何ですか?」
高校生A
「確か、異端とされたキリスト教の一派ですよね?キリスト教の分裂の歴史で聞いたことがあるような・・」
big5
「A君の言う通り、キリスト教の一派です。ただ、イエス・キリストの解釈違いで論争になり、異端として退けられたために、主流からは外れています。ここでは、まぁ「キリスト教徒」という理解でも十分だと思います。ちなみに、現在でもイラクやシリア、イランなどに17万人ほど信者がいるそうですよ。」
日本史好きおじさん
「ラフム朝に攻め込むということは、宗主国であるササン朝ペルシアに宣戦布告するのと同じことになるような気がするのですが、大丈夫だったのですか?」
big5
「結果的には大丈夫でした。後で出てきますが、イスラム教はササン朝ペルシアと正面から激突することになります。ちなみに、ハーリド率いるイスラム軍がラフム朝に攻め込んだ頃は、ラフム朝は属国どころか実質的にはササン朝の一部のようなものだったそうですよ。
ハーリド率いるイスラム軍は、633年5月ラフム朝の首都ヒーラを陥落させました。ここにラフム朝は滅亡しました。
こうして、アブー・バクルはアラビア半島のみならず、半島の外へも勢力を伸ばすことに着手しました。アブー・バクル自身は634年8月23日、メディナにて死去(享年61歳前後)しますが、イスラム教の征服領域はどんどん拡張していくことになります。」

第2代カリフ ウマルの治世

1.征服領域の拡大 ― ヤルムークの戦いとカーディシーヤの戦い
big5
「アブー・バクルの後継者となったウマル・イブン・アルハッターブ(Umar ibn al-Khattab)について、簡単に見ていきましょう。まず名前ですが、教科書などには「ウマル1世」と表記されることもありますが、このコーナーでは、単純にウマルとだけ表記します。なぜかというと、ウマル2世とか3世はほとんどえ出てこないからなんですね。さて、ウマルは586年頃メッカで誕生しました。なので、継承時点では48歳くらいだったことになります。アブー・バクルとは13歳差、ムハンマドとは16歳差になりますので、一回り下の世代ということになります。アブー・バクルと同様に、娘のハウサがムハンマドの妻なので、ムハンマドの義理の父にあたります。ただ、アブー・バクルと異なる点は、ウマルは最初、ムハンマドを弾圧する側に立っていたことですね。しかし、後にイスラム教に改宗し、622年のヒジュラの際には、ムハンマドに同行していました。ムハンマド没後の後継者問題ではアブー・バクルを推薦し、そしてアブー・バクルから後継者として指名されて第2代カリフに就任しました。」
名もなきOL
「自分を後継者として推してくれた人を、自分の後継者に指名したんですね。この時は揉めなかったんですか?」
big5
「あまり揉めずに決まったようですよ。
さて、ウマルはアブー・バクルが着手したアラビア半島外への進出作戦を受け継いで進めました。この時活躍したのが「神の剣」こと、ハーリドとアブー・ウバイダ(583年メッカ生まれ Abu Ubayda)です。イスラム軍は635年9月にビザンツ帝国領であるシリアのダマスカスを占領し、さらに北に進んでバールバック、ヒムス、ハマーといった都市を陥落させています。これに対しビザンツ帝国は、皇帝ヘラクリウス1世の弟・テオドルスを総司令官とする大軍を編成し、イスラム軍の撃退に向かわせました。
636年8月、両軍はヨルダン川支流のヤルムーク河畔で激突したため、この戦いはヤルムークの戦いと呼ばれています。ハーリドとアブー・ウバイダ率いるイスラム軍は、ヤルムークの戦いでビザンツ帝国軍に大勝利を収めました。ビザンツ帝国は、総司令官のテオドルスも戦死するほどの大損害を受けて敗退しています。この勝利により、シリアにおけるビザンツ帝国との戦いはイスラムの勝利が確定し、シリアは完全にイスラム勢力の支配下に入ることになりました。」
日本史好きおじさん
「ササン朝との戦いはどうなったのですか?」
big5
「ササン朝との戦いも同時並行的に進められていました。時のササン朝の王ヤスデギルド3世(生年不詳)は、かつての敵であったビザンツ帝国と和解し、共同して新興のイスラム勢力を撃退しようとしていたんです。本当は、ヤルムークの戦いにもヤスデギルド3世は参加したかったそうですよ。諸事情によりできませんでしたが。。
ヤルムークの戦いから約3か月後の636年11月、大軍を揃えたヤスデギルド3世は、イラクからイスラム軍を駆逐すべく進軍を開始しました。この軍には、インド北部から招集してきた戦象部隊も含まれていました。33頭の象がこの戦いに参戦したそうです。ヒーラの南西に位置するカーディシーヤで、ササン朝の大軍とイスラム軍が戦闘に突入しました。この戦いは地名をとって「カーディシーヤの戦い」と呼ばれています。
兵力では劣っていたイスラム軍でしたが、ヤルムークの戦いを終えたシリア派遣軍の一部が援軍として合流したことにより、イスラム軍が勝利を収めています。敗れたヤスデギルド3世は何とか戦場から落ち延びて命拾いしていますが、この戦いでササン朝が被った被害はかなり大きかったそうです。
勢いに乗ったイスラム軍はササン朝の首都であるクテシフォンを包囲。およそ2カ月にわたる籠城戦の末、637年3月にクテシフォンも陥落させています。ヤスデギルド3世はクテシフォン陥落の前に逃亡しており、ササン朝の命脈はまだ続きますが、クテシフォン陥落はササン朝がイラクを失ったことを意味していました。
翌年の638年には、イラク南部と中部にミスル(訳語は「軍営都市」)と呼ばれる都市を建設しました。南部の都市が現代イラク南部の大都市バスラ(Basra)、中部はクーファ(al-Kufa)です。バスラは現在でも大都市ですし、クーファは後にカリフとなるムハンマドの従弟・娘婿であるアリーの拠点となった場所です。」
高校生A
「ミスルって、資料集にも出てくるんですけど、どんな都市なんですか?」
big5
「一言で言うと、アラブ人戦士の植民都市、といったところでしょうか。ウマルは征服した領地を防衛するために、地の利を得たところにアラブ人戦士とその家族などを引っ越しさせて、そこに住まわせたんです。征服地で、被征服民らが反乱を起こさないように、あるいは起こしたとしてもすぐに鎮圧できるように、アラブ人戦士を配置しておいたわけです。ミスルの設置が、広大な領土を持つイスラム教国家の維持に貢献した、と考えられています。」


イラク南部の都市・バスラの位置


2.聖地エルサレムの征服と岩のドーム
big5
「638年にはもう一つ重要な事件が起きました。イスラム勢力によるエルサレムの占領です。それまでエルサレムを領有していたのはビザンツ帝国でしたが、ヤルムークの戦いで敗北して以降、ビザンツ帝国はこの方面の支配力を失っていました。この時エルサレムなどの一部の都市はまだイスラム軍に征服されていなかったのですが、例えていうなら、敵地の中に取り残された孤島のようなものです。イスラム軍に攻略されるのも時間の問題でした。
この時、キリスト教のエルサレム総主教の地位にあったソフロニオス(560年生まれ、この時78歳)は、降伏を決意します。ウマルは、降伏したシリア方面の各都市には、ジズヤハラージュを支払えば庇護される、という条件で降伏を認めていました。」
高校生A
「ジズヤとハラージュって何でしたっけ?学校の授業でも出てきた気がするのですが、イスラム関連の用語が複数出てくるので、こんがらかってしまいます。」
big5
「ジズヤは「人頭税」と訳されることが多いですが、人にかかる税金です。現代日本で例えるなら、住民税みたいなものですね。「ジズヤのジは人頭税のじ」と、私は覚えていました。あまり上手い覚え方ではありませんが。。
ハラージュとは「地租」とか「土地税」とか訳されますが、これは土地にかかる税金です。現代日本で例えるなら、固定資産税でしょうかね。
簡単に言うと「金を払えば俺たち(イスラム)が守ってやるよ」という内容だということです。」
日本史好きおじさん
「それは要するに「安全保障条約」みたいなものですな。金を支払う代わりに守ってやる、ということは。」
big5
「現代風に表現すると、そうなりますね。こうして、エルサレムはイスラム教徒の庇護下に入ることになりました。ちなみに、ソフロニオスはこの条約を結ぶにあたって、ウマル自身がエルサレムに足を運んで直に締結することを要求し、ウマルはそれに応えてエルサレムを訪問しました。そして、エルサレム神殿の丘で「奇跡の岩」を発見します。「奇跡の岩」とは、こんな話です。かつて預言者ムハンマドは一夜にしてメッカからエルサレムへ移動し、天へ昇ったという体験をしました。天へ昇る時、ある岩の上へ登り、そこから天へと上がっていったそうです。ウマルは、その出発点となった岩を発見したわけです。ウマルはその傍らで礼拝を行いました。それ以来、イスラム教徒の間では奇跡の岩の傍らで礼拝を行うことが慣例となりました。しばらくした後、ウマイヤ朝の時代には、その岩を覆うようにしてドームが作られました。このドームを「岩のドーム」と呼んでいます。これが、有名な現在のエルサレムの「岩のドーム」なんです。イスラム教徒にとっては聖地の一つなんですね。」


3.ニハーヴァンドの戦いとササン朝の滅亡
big5
「続いてはセンター試験でも問われる可能性が高いニハーヴァンドの戦いです。ヤルムークの戦い、カーディシーヤの戦いで勝利を収めたイスラム軍は、ササン朝の根拠地であるイラン征服に乗り出しました。ササン朝は首都・クテシフォンを失ったといっても、王であるヤスデギルド3世はまだ健在であり、イラン方面で挽回の機会をうかがっていました。642年、イスラム軍はイランを北西から南東にかけて走っているザグロス山脈を越え、イラン高原に進軍しました。ヤスデギルド3世はイランの貴族や地方領主らの軍勢をかき集めて、イスラム軍を迎撃します。両軍が激突したのは、テヘランの南方に位置する「ニハーヴァンド」だったので、この戦いは「ニハーヴァンドの戦い」と呼ばれています。」


ザグロス山脈(地図ではザーグロス山脈)とニハーヴァンド付近の地図
高校生A
「センター試験対策上、重要なのは何ですか?」
big5
「一番大事なのは、ササン朝の滅亡を事実上決定づけた戦い、ということですね。ヤスデギルド3世は、ニハーヴァンドの敗戦以降も、各地を巡って挽回の機会をうかがい続けました。遠く中国の唐王朝に息子のペーローズを派遣して、救援を依頼したりしたそうです。しかし、既に情勢はイスラム側に傾いており、9年後の651年、ヤスデギルド3世は地方総督に殺害されました。息子のぺーローズも、唐の支援を取り付けることはできず、現地で亡くなったそうです。ヤスデギルド3世の後継者となってササン朝を継ぐ者がいなくなったので、この時点でササン朝は完全に滅亡しました。」
高校生A
「イスラムはニハーヴァンドの戦いでササン朝を滅ぼした、ということですね。わかりました。」
big5
「さて、話をニハーヴァンドの戦いに戻しましょう。この戦いも、兵士数の上ではササン朝軍がイスラム軍を圧倒していたそうです。正確な数字ははっきり出せないのですが、イスラム軍は約3万、ササン朝軍は約10万にものぼった、と考えられています。しかし、イスラム軍は兵力劣勢をものともせず、あまり統率の取れていないササン朝軍を自分たちに有利な場所までおびき出して、大勝利を収めたそうです。」
日本史好きおじさん
「今度は3倍以上の敵を相手にして勝ったんですな。それにしても、イスラム軍は主要な戦いを相手よりも少ない兵数で勝ち抜いてきているんですね。イスラム軍がそんなに強かった理由は何なのでしょう?」
big5
「私もその点が気になったので、調べてみたんですが、わからずじまいです。大局的な見方になりますが、理由の一つは
「敵対勢力が弱体化している時期だった。」
という点にあると思います。ビザンツ帝国とササン朝は、ムハンマドが誕生してイスラム教を布教している頃、領土をめぐって激しく戦っていたんですね。この戦いは最終的に、ビザンツ帝国のヘラクリウス1世の優勢勝ちのような形で幕を閉じたのですが、イスラム軍が進撃を開始したとき、両国はまだ戦争の傷から回復していなかった、というものです。」
名もなきOL
「でも、それぞれの戦いでは、両国ともにイスラム軍を上回る兵士を動員してますよね?両国とも過去の戦争で疲弊していたから負けた、とは言い切れないと思います。」
big5
「その通りですね。過去の戦争で疲弊していたために、兵士を集めることができずに敗北した、ということなら、確かにそれが理由にはなりますが、不思議なことに主要な戦いでは両国ともイスラム軍を上回る兵士を投入しているんですよね。もちろん、数だけが重要ではありません。質の方もだいぶ違ったのかもしれません。
質という面では、アラブ人兵士の士気を支える一つの特徴として、イスラム教徒は「異教徒との戦いで死んだ者は天国に行ける」と教えられていた、というのがあります。多くのアラブ人戦士が、死を恐れない勇猛果敢な兵士だったのかもしれません。」
日本史好きおじさん
「日本史でも同じような話はありますな。戦国時代にかなりの力を誇った一向一揆の門徒達も、一向宗の指導者らから「逃げる者は地獄に落ちて永遠に苦しむ」と教えられました。死を恐れない狂信的な兵士となった門徒らは、戦国大名が率いた武士の軍よりも高い士気で相手を圧倒していますしな。
それにそもそも、ビザンツ帝国やササン朝が戦場に投入したという大軍の数が本当に信用できるのか、という問題もあるのでは?歴史は勝者が残した史料で描かれることが多いので、イスラム側が自分たちの栄光をより大きく見せるために、わざと「敵の大軍を少数で打ち破った」という歴史に作り変えた、ということも考えられるでしょう。」
big5
「もちろん、そういう考え方もできます。ただ、現時点では確たることは言えません。当研究室でも参考書に上げさせていただいている『図説世界の歴史』シリーズの著者、J.M.ロバーツ氏はその著書で、宗教的な情熱による高揚感ではないか、と記しています。イスラム教以前のアラブ人は、厳しい自然環境で生き抜くいわばあまり文明化されていない民族でした。それが、ムハンマドの登場により世界も価値観も一変したわけです。自分たちは神の意志に基づいて「信者の共同体(ウンマ)」を創造しているんだ、という使命感が、アラブ人の基本的な価値観として根付いていたのではないか、という話です。」


4.アムルのエジプト遠征
big5
「領土拡張の話もこれが最後。エジプト遠征です。時はやや戻って638年、ウマルがエルサレムを降伏させた後に戻ります。イスラム軍の武将の一人・アムル・イブン・アルアース(Amr ibn al-As:55歳前後)は、エルサレムにて、ウマルにエジプト遠征を進言しました。」
名もなきOL
「アムル・イブン・アルアースって、初めて聞いたような・・?前の話に出てきましたっけ?」
big5
「このコーナーでは初出ですね。アムル・イブン・アルアース(長いのでここでは「アムル」と表記します。)は、クライシ族の出身で、当初はムハンマドの弾圧する側に回っていましたが、メッカ降伏の前くらいにイスラムに改宗したそうです。その後、イスラム軍を支える武将の一人として活躍したそうですよ。例えば、アブー・バクル治下で反乱を起こしたアラブ部族討伐戦や、「神の剣」ハーリド率いる軍に加わってヤルムークの戦いにも参戦しています。その後は、アブー・ウバイダの指揮下で引き続きシリア方面遠征軍に加わり、638年のエルサレム降伏にも加わっていました。」
名もなきOL
「これまでにイスラム教団の中で実績を積んできた人なんですね。なぜアムルはエジプト遠征を進言したんですか?」
big5
「アムルは若かった頃、隊商貿易でよくエジプトに行っていたそうです。なので、土地勘もあれば民衆の情勢などにも詳しかったようですね。当時エジプトを統治していたのはビザンツ帝国でした。しかし、これまで見てきたように、ビザンツ帝国はイスラムとの戦いに敗れてシリアを失っています。そのため、エジプトはビザンツ帝国領から切り離された形になって孤立してしまったわけです。このエジプトに援軍を送るとしたら、船を使って地中海を渡る必要が出てくるため、そんなに簡単に援軍を送ることもできないわけです。
しかし、ウマルをはじめとした幹部たちはエジプト遠征をすぐには許可しませんでした。理由としては、エジプトはイスラムの本拠地・メディナからかなり遠かったこと、シリア遠征やイラク遠征など大規模な軍事行動が続いていたこと、などがあげられています。そこで、ウマルは
『遠征軍を出してもよいが、中止命令が届いた場合は帰還するように。ただし、既にエジプトに侵入していた場合は、遠征を続けなさい。』
という条件付きで、エジプト遠征を認めたそうです。」
日本史好きおじさん
「それって、承認しているのと同じではないですか?提案した本人が遠征軍を率いるなら、さっさとエジプトに侵入してしまえばOKということになります。ウマルが退却命令を出したとしても、無視して遠征を継続できるわけですよね。」
big5
「私もそう思います。実際、ウマルは本拠地・メディナに帰った後、幹部らと相談して『やはりエジプト遠征は止めた方が良い』と考え、退却命令書を書いて使者を送りました。アムルはエジプト国境付近で使者から命令書を受け取ったのですが、その場ですぐに開封せず、軍をエジプト領内に入れてから命令書を開封したそうです。これで、遠征を継続させる口実を得たわけですね。」
日本史好きおじさん
「やはり。」
big5
「こうして、アムルのエジプト遠征は始まりました。アムルが率いていた軍は4000ほどで、シリア遠征やイラク・イラン遠征軍に比べるとかなり小規模でした。しかし、エジプト情勢に詳しいアムルは、ビザンツ帝国の支配体制に反感を抱いている勢力を味方に引き入れて軍を増強し、数度の戦いでビザンツ帝国軍を破りました。アレキサンドリアなどの主要都市を陥落させ、642年にはビザンツ帝国領エジプトをほぼ制圧しました。」
名もなきOL
「これが、エジプトのイスラム化の始まりになったんですね。」
big5
「そのとおりです。エジプトに限らず、現在のシリア、イラク、イランはいずれもイスラム教国家ですが、その始まりはウマル時代の遠征なんです。現在のイスラム教圏の基本は、ウマル時代に整えられた、と考えて問題ないと思います。
ちなみに、エジプトにも軍営都市・ミスルが建設されました。この都市はフスタートと名づけられましたが、これが現在のエジプトの首都・カイロの基になりました。フスタートはカイロ旧市街の一部分なのですが、後の時代にすっかり荒廃してゴミ捨て場となりました。そのため、発掘調査の対象となり、今でも様々な発見があるそうですよ。」


5.アラブ帝国の完成とウマルの死
big5
「さて、長かったウマルの治世もそろそろ終わりです。その前に、大征服によって成し遂げられたアラブ帝国について見てみましょう。これまで見てきたように、ウマル時代にイスラム教の征服領域は大幅に拡大しました。後世の歴史家は、この国家を「アラブ帝国」と呼んでいます。その理由は、征服者であるアラブ人が、被征服者であるその他の人々を支配する、という構造だったためです。特に重要なのが、ジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)の扱いです。「アラブ帝国」時代では、ジズヤは被征服民に課せられており、それは被征服民がイスラム教に改宗したとしても、徴収され続けました。その一方で、征服者であるアラブ人にジズヤは課せられませんでした。被征服地にはミスルが建設され、アラブ人戦士がそこの住人になりましたが、アラブ人戦士らは免税という特権があったんですね。ウマルの時代に「ディーワーン」というアラブ人戦士の名前を記した帳面が作られました。アラブ人戦士らはディーワーンに名前を登録することにより、戦争になったら参戦する義務を負う代わりに、給料である「アター(「俸給」という訳語が使われる)」を貰えたり、免税などの各種特権を与えられてきたそうです。このように、この時のイスラム勢力の国は、征服者・アラブ人と被征服者・その他の国の人々という二層構造になっていたため、「アラブ帝国」と呼ばれるわけです。似たような用語に「イスラム帝国」という言葉があります。「アラブ帝国」も「イスラム帝国」も、日本人には同じようなものに聞こえますが、これはだいぶ実態が異なるんですね。「イスラム帝国」とは、正統カリフの時代よりももう少し後、アッバース朝の時代のイスラム教国家を指しています。この時代になると、ジズヤを支払うのは非イスラム教徒、と改定されました。つまり、被征服民であってもイスラム教に改宗すればジズヤを支払わなくてもよい、ということになったので、かなり大きな変革であることを意味しています。」
高校生A
「アラブ帝国とイスラム帝国にはそういう違いがあったんですね。時代によって呼び名が変わるのか、と思っていました。」
big5
「ジズヤを支払っていたのは誰っだのか、という話はセンター試験などでも問われる可能性が高いので、覚えておきましょう。
さて、後に「アラブ帝国」と呼ばれる大国家を築いたウマルですが、その死は突然訪れました。644年、メディナのモスクで礼拝をしていた最中に、ユダヤ人奴隷(ペルシア人奴隷、とも)に突然刺されるという事件が起こりました。犯人はその場で取り押さえられ、殺害されましたがウマルは瀕死の重傷を負いました。」
日本史好きおじさん
「その奴隷は何故ウマルを殺そうとしたのでしょうか?」
big5
「ウマルがハラージュの制度を定めた時、その奴隷の主人も課税されることが決まったため、それを恨んだから、ということだそうです。
自分の死を悟ったウマルは、すぐに幹部を集めて次期カリフの選び方を決めさせました。ムハンマドの従兄弟であり娘婿であるアリー(44歳)、同じく娘婿であるウスマーン(Uthman:70歳前後)など、何人かの有力者らがお互いに選び合って決めるように、と指示を出したそうです。」
名もなきOL
「ウマルって、確か前任カリフのアブー・バクルから指名されて第2代カリフになったんですよね?自分は指名されてカリフになったけど、自分の後継者は指名しなかったんですね。」
big5
「そうです。私もそこが興味深い点だと思います。後継者が誰なのかを指名するのではなく、後継者を選ぶ方法を指示する、というのはあまり聞いたことがありません。こうして第2代カリフ、ウマル・イブン・アルハッターブはその生涯を閉じました。享年68歳前後、カリフ就任期間は10年間でした。10年は短いようですが、この10年はイスラム教が世界規模の宗教に成長するうえで、飛躍的に成長を遂げた10年だったと言えます。地図で示すと、ウマル死去時のアラブ帝国の領土はおおよそこのようなかんじです。」


(白地図提供元:白地図専門店

正統カリフの時代 略年表                    
632年

アブー・バクルがムハンマドの後継者となり、「カリフ」を名乗る
633年5月

ハーリドがラフム朝を滅ぼし、ヒーラを占領する
634年8月23日

アブー・バクル死去 ウマルが第2代カリフに就任
635年9月

ハーリドがダマスカスを占領
636年8月

ヤルムークの戦いでイスラム軍がビザンツ帝国軍に大勝利
636年11月

カーディシーヤの戦いでイスラム軍がササン朝軍に大勝利
637年3月

イスラム軍がクテシフォンを占領
638年

イラクにミスル(軍営都市)バスラを建設
ウマルがエルサレムを占領
642年

ニハーヴァンドの戦いでササン朝軍を破る。 ササン朝は事実上滅亡
アムルがエジプトを征服
644年

ウマルが殺される

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