Last update:2017,Feb,4

メッカとの戦い

メディナへの移住

高校生A
「早速質問なんですけど、ムハンマドが他の都市ではなくメディナに引っ越したのは何か理由があるんですか?」
big5
「するどい着眼点ですね。メディナへ移住した理由の一つは、当時メディナで起きていた内戦の調停者として、ムハンマド(当時52歳前後)が招かれたことだそうです。ムハンマドも、メッカでの活動に限界を感じていたので、これがいい機会だと考えたのでしょうね。
メディナ(Medina)は、水が豊富な土地で農業が盛んに行われていた他、交易の要地としても繁栄していたそうです。いわば、この地方の第二の都市くらいの規模だったのかもしれません。ただし、メディナはメッカの北方約350kmの地点に位置しているため、気軽に行けるような距離ではありませんでした。しかし、ムハンマドと彼に従う信徒ら約70名はメディナへ移ることを決めました。地図で示すと、このような位置関係になります。」


Google mapより

日本史好きおじさん
「北へ350kmというと、日本で言うなら東京から仙台くらいですな。決して近くはない。」
big5
「そうですね。平均移動速度を時速4kmとして、1日に8時間移動すると仮定すれば、1日の移動距離は32km。おそらく、寄り道しないで進んで2週間くらいの道のりだったのではないかと思います。」
名もなきOL
「荷物もあったでしょうしね。きっと大変な移動だったんだと思います。」
big5
「メディナに到着したムハンマドは、無事に内戦を調停できたそうです。それを示す一つの資料として「メディナ憲章」とか「ヤスリブ聖約」と呼ばれる史料が残されています。それには以下の3点が記載されているそうです。
@メッカからの移住者(ムハージルーン)とメディナの信者(アンサール)、および彼らと共に生活している者は、内戦での血の債権、債務を清算し、今後は互いに助け合っていくこと。
Aメディナに住むユダヤ教徒は、ムハンマドの支持者として助け合っていくこと。
Bムハンマドの支持者とユダヤ教徒はメディナを神聖な土地として外部の敵から守り、内部で調整のつかない問題が起きた時は、裁決は神の使徒ムハンマドに委ねること。」
日本史好きおじさん
「メディナにはユダヤ教徒もいたんですね。それで、ムハンマドはメディナに住む人々の揉め事を仲裁する役割を担ったんですね。もっと言えば、メディナの裁判権を得た、というところでしょうか。」
big5
「ちなみに、メディナとは「預言者の町」という意味で後からつけられた名前です。元々の名前は「ヤスリブ」といい、ユダヤ教徒の町でした。5世紀の終わりごろにアラブ人が定住するようになったそうです。
ムハンマドの位置づけについては、その解釈で概ね合っていると思います。メディナ憲章の記載は、後世の創作ではないか、という研究者もいるので、この史料だけでは確たることは言えません。ただ、メディナ移住後のムハンマドは、事実上メディナの指導者としてメッカと戦うことになります。メディナが、ムハンマドの最初の根拠地になったわけです。
そのため、後世のイスラム学者らは、当時のメディナのような形態こそが、血縁にとらわれない理想的なウンマ(Umma)(イスラム教徒の共同体)だ、と主張するようになりました。」

バドルの戦い (Battle of Badr)

big5
「さて、事実上のメディナの支配者となったムハンマド。ここから彼らの反撃が始まります。一番最初のメッカとの戦いが、624年3月15日のバドルの戦いです。」
高校生A
「バドルの戦い・・・僕の教科書や資料集には載ってないですね。センター試験で出ますか?」
big5
「高校世界史ではおそらく範囲外になっていると思います。なので、センター試験にも出てこないんじゃないかと思いますね。ただ、イスラムの歴史ではバドルの戦いはかなり特別視されています。」
名もなきOL
「どういう戦いだったんですか?」
big5
「メッカ繁栄を支えている支柱の一つは隊商貿易です。ムハンマドは、メッカの隊商がシリアから帰ってくるところを襲撃しようとしたんです。」
名もなきOL
「え!?隊商を襲撃するって、盗賊と同じじゃないですか。いいんですか?そんなことして?」
日本史好きおじさん
「まぁ、大事の前の小事、なんでしょうね。ほら、日本でも『勝てば官軍』って言うじゃないですか。勝利者は正当化されるものなんですよ。」
big5
「名もなきOLさんのお気持ちはわかります。大義名分が何であるにせよ、隊商を襲うという行為は盗賊と同じ、というのはそのとおりだと思います。ただ、日本史好きおじさんも言うように、隊商襲撃はムハンマドがメッカとの戦いに勝つためには、たいへん有効な方法だったことは事実だと思います。メッカが隊商貿易できなくなったとしたら、大打撃を受けることは間違いなかったでしょう。メッカの力が弱くなれば、ムハンマドにも勝ち目が見えてきます。」
名もなきOL
「戦法としては有効だった、というのは理解できますが、なんだかなぁ。。」
big5
「さて、ムハンマド(この時54歳前後)はメッカの隊商を襲撃すべく、300名ほどの戦士たちを率いて出陣します。しかし、ムハンマドの動きはメッカにも伝わり、メッカはムハンマド軍の3倍以上にもなる1000名の戦士を率いて、迎撃に向かいました。メッカの隊商は、ムハンマド軍を避けてメッカまで逃げ切ることに成功したのですが、メッカ軍はこれを機にムハンマド軍を攻撃しようということになり、さらに軍をすすめました。両軍が激突したのがバドルという場所だったので、この戦いはバドルの戦いと呼ばれています。
兵力ではだいぶ劣るムハンマド軍でしたが、この地方の戦いの慣例である一騎打ちで勝利し、その後の集団戦でもメッカ軍を圧倒。奇跡的な大勝利を収めたそうです。」
日本史好きおじさん
「3倍もの兵力差を覆すなんて、奇襲作戦とかがあったんでしょうか?」
big5
「奇襲などではなく、普通に正面からぶつかったみたいですよ。古代ギリシアでも、マラトンの戦いでは兵力で劣っているギリシア軍がペルシア軍を破ったりしていますので、そんなにありえない話でもないと思います。
バドルの戦いの勝利は、ムハンマドにとってたいへん重要な意味を持っていました。まず一つは、メディナの指導者としての地位がさらに安定したことです。やはり、当時の(今も?)指導者には強さが求められます。もう一つは、記念すべき最初の勝利であることです。バドルの戦いで特徴的なことは、ムハンマド軍に従軍した戦士たちには最高の栄誉が与えられ、戦士たち一人一人の伝記が作られたことです。しかも、その伝記は現在も残っているそうですよ。」
日本史好きおじさん
「本当ですか?日本史ではそんな話聞いたことないですね。参戦した兵士全員の伝記が作られるなんて。」
big5
「それだけ、イスラム国家にとってはバドルの戦いの勝利は大きな意味を持っている、ということなんですね。」
高校生A
「メッカは、このままムハンマドに負けてしまったのですか?」
big5
「いやいや、一度の敗戦で没落するほどメッカの底力は弱くありません。ムハンマドに仕返しするために、さらに強力な軍を編成して反撃に移ります。次はウフドの戦いです。」

ウフドの戦い (Battle of Uhud)

big5
「バドルの戦いで大敗したメッカは、アブー・スフヤーンらが中心となって反撃のための軍を準備しました。その数は約3000だったそうで、バドルの戦いの3倍になります。そして、その軍をメディナに向かわせました。」
日本史好きおじさん
「相当悔しかったんでしょうね。」
big5
「メッカから大軍が押し寄せてきていることを知ったムハンマドらは、対策を協議します。兵力で劣勢なのは明らかなので、こういう場合はメディナに籠城するのが一般的な作戦でしょう。しかし、ムハンマドらは街の外に出て迎撃することを選びました。」
高校生A
「なぜ籠城せずに迎撃したんですか?」
big5
「理由はいろいろあったそうですが、メディナに籠城した場合、メディナに住むユダヤ教徒らがメッカと手を結んで、ムハンマドらを襲うのではないか、という心配があったそうです。」
名もなきOL
「メディナの実質的な支配者であっても、そんな心配があったんですね。」
big5
「そうですね。同じ街の住人といってもほとんど外国人ですから、なかなかコミュニケーションは難しかったんでしょうね。
さて、ムハンマドらがメッカ軍を迎え撃ったのはメディナ郊外のウフドというところだったため、この戦いはウフドの戦いと呼ばれています。バドルの戦いからほぼ1年経った625年3月23日のことだったそうです。
兵力の差は歴然としていましたが、なんと序盤はムハンマド軍が優勢だったそうです。奮戦するムハンマド軍に対し、数で勝るはずのメッカ軍は押され、後退し始めた時でした。ムハンマド軍のわずかなスキをついて、メッカ軍の騎馬隊がムハンマド本陣に突入し、ムハンマド本人が負傷するという事件が起きました。このためムハンマド軍は大混乱。結局、両軍ともに痛み分けのような形で終わりました。ムハンマドらはなんとかメディナに逃げ帰りましたが、ムハンマドの傷は決して軽いものではなかったため、信者らは不安でいっぱいでした。しかし、メッカ軍は(ほぼ)負け戦だったことで士気が落ちたのか、それ以上攻撃せずにメッカに引き上げてしまいました。
結果論ですが、メッカ軍は千載一遇の機会を逃したことになります。この時、撤退せずになんとかふんばってメディナを攻撃すれば、ユダヤ教徒らがメッカ軍に味方し、おそらくメディナは陥落したでしょう。歴史は変わっていたかもしれません。」
日本史好きおじさん
「そうですな。ただ、歴史にifはありませんから。」
big5
「はい、これはあくまで私の推測です。と、そういうことで、ウフドの戦いはムハンマドにとっては辛い戦いでした。しかし、何とかメディナを守り切ることには成功しているので、まさに「辛勝」というところだったのではないでしょうか。」

メッカ降伏

big5
「ウフドの戦いの後、ムハンマド vs メッカの争いは、次第にムハンマドに有利になっていきました。ウフドの戦いの後も幾度かの戦闘がありましたが、メッカは敗北を続けました。一方、ムハンマドに反抗的な一部のメディナ在住ユダヤ教徒らが、ムハンマドに叛旗を翻すという事件もありましたが、ムハンマドはこれを鎮圧し、成人男子が虐殺されるという事件がありました。この辺の話は手元に詳細を記した資料がないので、概略にとどめておきます。
そして630年、ムハンマドは大軍を率いてメッカに侵攻します。この時、メッカにムハンマドの大軍を防ぎきる力はありませんでした。反ムハンマドの代表格であったアブー・スフヤーンは、ムハンマドと交渉に臨みました。交渉の結果、メッカを無血開城させることが決まり、ムハンマドは征服者としてメッカに復帰することとなりました。ムハンマド、60歳前後で掴んだ勝利の栄光の瞬間ですね。」
名もなきOL
「何だか、イスラム教って、その成立の段階でかなり「好戦的」だったんですね。」
日本史好きおじさん
「宗教上の指導者が軍事的指導者となって1国に君臨する、というのは日本史ではあまりありませんな。戦国時代は、一向宗がある地方を事実上支配していたりもしましたが。」
big5
「このあたりの歴史が『イスラム教は好戦的』というイメージの原因になっているのでは、と私個人は考えています。実際、ムハンマドが築いたイスラム教勢力は、メッカ征服後も軍事力で征服地域を拡大していきます。
余談になりますが、アブー・スフヤーンはメッカ開城後、イスラム教に改宗してムハンマドから厚遇されました。彼には2人の息子がいまして、弟の方の名はムアーウィヤ(この時28歳前後)と言います。後にウマイヤ朝の創始者となる人物です。」
高校生A
「ウマイヤ朝は、センター試験では基礎となる知識ですね。そうか、ムアーウィヤは最初はムハンマドと敵対していたんですね。ちなみに、メッカ征服後のムハンマドはどうなったのですか?」
big5
「ムハンマドは、メッカに対しては比較的寛容に扱ったそうです。一部の人々は処刑されましたが、敵対していたアブー・スフヤーンも改宗することで許されています。なお、多神教の神殿だったカーバ神殿は、ムハンマド自らの手によって祀られていた偶像が破壊されました。自らイスラム教の教義を実践した行動だと言えるでしょう。
その後、ムハンマドはメッカに留まるのではなく、メディナに帰りました。そして、メッカ周辺部族の町に軍を送り征服領域を拡大していきました。632年、ムハンマドはメッカに巡礼に向かいました。これは「大巡礼」と呼ばれています。この時、ムハンマドがメッカで行った巡礼のやり方が、そのままイスラム教徒達のメッカ巡礼の方法となったそうです。
大巡礼の後、ムハンマドはメディナに帰りますが、間もなく体調が急激に悪化し、6月8日にメディナにて死去しました(享年62歳前後)。メディナには、ムハンマドのお墓と自宅跡が「預言者のモスク」として今も残っており、観光名所にもなっています。(参考サイト)」

クルアーンとハディースの重要性

big5
「さて、クイズです。預言者ムハンマドが亡くなったことで、ムハンマドが築いたイスラム勢力は大きな問題を抱えることになります。いろいろな問題があったとは思いますが、いったいどのような問題が起こったでしょうか?」
高校生A
「リーダーがいなくなって、後継者争いが起きたんじゃなかったでしたっけ?」
名もなきOL
「今まで、みんなを引っ張ってきたカリスマリーダーがいなくなると、みんな分裂してしまう、という問題があると思います。」
日本史好きおじさん
「預言者とは、言い換えれば神の代理人です。神の代理人がいなくなると、何が正しいのか、判断の基準に困るのではないでしょうか。」
big5
「ありがとうございます。みなさんの答えはそれぞれ正しい部分があると思います。高校生A君と名もなきOLさんの答えは、ムハンマドの死の直後ではありませんが、もう少し後の時代に起こりました。今回のクイズの正解は、日本史好きおじさんが一番近いです。
ムハンマドが生きていた時は、イスラム教の信者らは何か困りごとや揉め事があると、ムハンマドの意見を聞くことができました。ムハンマドは預言者なので、神の声を聴くことができるわけです。なので、ムハンマドを通して、人々は神が下した判断を知ることができるわけです。ところが、ムハンマドが亡くなると、神の声を聴くことができなくなります。どうすればいいのでしょうか?そこで登場するのがクルアーンハディースです。」
日本史好きおじさん
「すみません、クルアーンというのはひょっとして、コーランのことですか?」
big5
「そうです。昔は「コーラン」と表記されていましたが、今はよりアラビア語の原音に近い「クルアーン」が使われることも増えてきました。このコーナーでは、「クルアーン」で統一しますね。「クルアーン」は、言わずと知れたイスラム教の聖典です。ムハンマドが神から授かった言葉・教えがまとめられたもので、例えていえばイスラム教の公式基本テキスト、といったものですね、。ハディース(Hadith)とは、ムハンマドの言行(これを「スンナ」と言います。)を記録した伝承のことです。こちらは例えていうなら公式資料集、といったところでしょうか。
ムハンマド亡き後、人々が判断に困った際に、判断の基準となるべきとされたのが、このクルアーンとハディースでした。預言者の言葉を聞けない代わりに、預言者がこれまでに授かってきた神の言葉や、預言者の言行の記録に基づいて、判断をしていくわけですね。こうして、クルアーンとハディースはイスラム教にとっての重要書物となり、後の時代には学者がクルアーンとハディースを読み解いて意味を解釈し、「イスラム法(シャリーア)」の基となったわけです。
ちなみに、クルアーンの内容はムハンマドの置かれた環境の変化と共に内容が変わっているそうです。」
名もなきOL
「どんな風に変わったんですか?」
big5
「当初は、精神面の問題を考える教えが主体でした。神と人間についての内容です。ところが、メディナに移住した後は、食事や飲酒、結婚など、現代のイスラム教の特徴ともいえる部分の生活面に関する内容が増えてているそうです。
クルアーンは「経典」という目的のために編纂されたというよりは、預言者ムハンマドが受けた神の言葉の記録、という要素が強いものです。そのため、ムハンマドの環境が影響していると考えられます。メッカ在住の時は、神の教えを布教するためにも、宗教としての芯の部分が多かったわけです。しかし、メディナの支配者となってからは、実際の政治に対する教え(考え方)も必要になってきた、というわけです。」

メッカとの戦い 略年表          
622年

ムハンマドらがメッカからメディナに移住 (聖遷(ヒジュラ))
624年3月15日

バドルの戦い ムハンマド軍がメッカの軍を破る
625年3月23日

ウフドの戦い ムハンマド負傷するもメディナの防衛に成功
630年

メッカがムハンマドに降伏して開城
632年6月8日

ムハンマドがメディナにて死去

前へ戻る(1.預言者ムハンマド)
次へ進む(3.正統カリフの時代)

イスラムの誕生 目次へ戻る

この解説は、管理人の趣味で作成しております。解説が役に立ったと思っていただければ、下記広告をクリックしていただくと、さらなる発展の励みになります。