問7(通し番号:34)
「迫害に関して、世界史上の迫害や抑圧について述べた文として、下線部が誤っているものを選べ。」
@ローマ皇帝ディオクレティアヌスがキリスト教徒の大迫害を行った。
Aルイ14世が、ナントの王令(勅令)を廃止したために、カトリック教徒が亡命した。
Bムガル皇帝アウラングゼーブが非ムスリムを抑圧する政策を採った。
C新バビロニアがヘブライ人をバビロンに連行した。
big5
「宗教に関連した問題です。わりと細かい知識が問われるので、なかなか難しかったかもしれませんね。まずは@から見ていきましょうか。ディオクレティアヌスはキリスト教徒を迫害した、というのは正しいか誤りか?」
高校生A
「なんき聞いたことがあるような・・?「最後の大迫害」とか・・」
big5
「その通りです。ディオクレティアヌスの有名な業績の一つに、キリスト教徒に対する「最後の大迫害」があります。ローマ帝国初期に誕生したキリスト教は、当初はあまり受け入れられず、むしろ弾圧を受ける立場でしたが、ディオクレティアヌスの大迫害が、大規模な弾圧としては最後のものになりました。その後しばらくして、コンスタンティヌス1世がキリスト教を公認し、キリスト教は日蔭の存在から大手を振ってローマ帝国内を歩けるようになった、というのは重要ポイントです。したがって、@は正しいです。」
高校生A
「Aはどうでしょう?」
big5
「ナントの勅令をルイ14世が廃止した、という事実は知っておいてほしい重要イベントですが、仮にそれを知らなかったとしても、ナントの勅令がどういう内容だったかを知っていれば、答えを推測することができます。
宗教改革の後、フランス国内では旧教徒(カトリック教徒)と新教徒(ユグノー。カルヴァン派)の対立が激しくなっていました。その頃に起きた事件として、サン=ヴァルテルミの虐殺があります。ナントの勅令は、フランス王に即位したアンリ4世が、フランス国内でのカトリック vs ユグノーという内部抗争を終結させるために、自身はカルヴァン派からカトリックに改宗すると同時に、カルヴァン派も認めた、という内容でした。」
高校生A
「思い出しました。それで、商売が得意だったユグノーがフランスで仕事をすることで、フランス繁栄の下地になったんですよね。」
big5
「そうです。ところが、ルイ14世は歴代フランス王家は信じるカトリックをフランス全土に強制させるべく、ナントの勅令を廃止してしまいました。そのため、迫害されることを恐れたカルヴァン派商人らはフランスから逃げたりしてしまいました。結果、フランスの国力は大きく減退してしまったそうです。なので、Aが誤りですね。逃げたのはカトリック教徒ではなく、ユグノーです。」
高校生A
「ルイ14世って「太陽王」と呼ばれているから、すごい人だったようなイメージがありますけど、そうでもないんですね。」
big5
「「フランス国家」の発展、という視点では確かにそうかもしれません。「フランス王室のは栄華」という視点では、「太陽王」だったかもしれません。ルイ14世はフランス領を大きく広げたわけでもなく、国内を大いに発展させた、という有名な事実もありません。さて、答えはAとなりましたが、ついでにBとCも見ておきましょう。まずBのアウラングゼーブが非ムスリムを抑圧したのですが、アウラングゼーブは何教だったかわかりますか?」
高校生A
「え!?それは、ムガル帝国はインドの国だから、ヒンドゥー教なんじゃないですか?」
big5
「そう思いがちですよね。答えは、イスラム教です。ムガル帝国は、イスラム教に改宗したモンゴル人の子孫たちが、インドに侵攻して作った国なんですよ。「ムガル」という名前は「モンゴル」が発音の問題で変化した形、だそうです。」
高校生A
「ムガル帝国って、イスラム教の国なんですね。意外です。」
big5
「ムガル帝国初期は、宗教に関してはたいへん寛容な姿勢で、ヒンドゥー教徒が多いインドを支配していました。ところが、アウラングゼーブは先祖たちの寛容政策を「生ぬるい」と感じたようで、イスラム教徒以外にはジズヤ(人頭税)を復活させたりと、弾圧に動き出しました。アウラングゼーブはそれで満足したようですが、この結果ムガル帝国は衰退の道を歩むことになります。
最後はCのヘブライ人ですね。ヘブライ人とはユダヤ人の昔の名前です。紀元前何千年、という世界の呼び名ですね。古代メソポタミアの新バビロニアが、現在のイスラエルにあってヘブライ人のユダ国を征服して、人々をバビロンに連行しておよそ50年もの間、捕虜として苦しい生活を送りました。これは有名な「バビロン捕囚」です。ユダヤ人にとって、とても大事な歴史の一事件ですね。」
問8(通し番号:35)
「第二次大戦中のフランスについて述べた以下の文の、アとイにあてはまる用語を選べ。」
ドイツに降伏したフランスは、北部は占領され、南部は(ア)政府によるドイツ協力政策が採られた。一方、(イ)は降伏を拒否してロンドンに自由フランスを組織し、徹底抗戦を呼びかけた。
@(ア)ヴィシー (イ)ペタン
A(ア)ヴィシー (イ)ド=ゴール
B(ア)アヴィニョン (イ)ペタン
C(ア)アヴィニョン (イ)ド=ゴール
big5
「第二次大戦の基本的な事件に関する穴埋め問題ですね。これは正解してほしい問題です。」
高校生A
「これは解けました。(ア)はヴィシー政権で、徹底抗戦を唱えた(イ)ド=ゴールです。」
big5
「その通りです。なので、正解はAになります。ちなみに、ハズレになったアヴィニョンとペタンは何の事件で登場した場所・人名なのかわかりますか?」
高校生A
「アヴィニョンはフランスの都市の名前です。何かで聞いたような・・・?ペタンはわかりません。」
big5
「アヴィニョンはフランス南部の都市で、中世後半に『教皇のバビロン捕囚』と呼ばれた事件の場所です。1309年に、フランス王フィリップ4世が教皇クレメンス5世に圧力をかけて、強引にクレメンス5世をアヴィニョンに移動させた事件です。クレメンス5世は元々フランス人だったので、イタリアのローマにいるよりも居心地はよかったのかもしれません。その後、教皇はしばらくフランス人が続き、教皇庁もアヴィニョンに残ったままでした。これを古代メソポタミアのヘブライ人の『バビロン捕囚』になぞらえて、『教皇のバビロン捕囚』と呼んだりします。ちなみに、教皇がローマに帰還したのは1377年なので、70年近くアヴィニョンに教皇庁があったことになります。
ペタンは、ド=ゴールに比べると影が薄いのですが、ヴィシー政府の国家主席です。だからといって、元々ドイツ寄りの人間だったわけではなく、れっきとしたフランス軍人でした。第一次世界大戦では、対ドイツ戦の指揮官として活躍しています。ちなみに、この時ド=ゴールはペタンの部下でした。第一次世界大戦の英雄が、第二次大戦ではナチスドイツに媚びる傀儡政府のボスになってしまうとは、なんとも皮肉な話ですね。」
問9(通し番号:36)
「パリ=コミューンの樹立が宣言された時期を選べ。」
a |
1852年 フランス第二帝政 |
b |
1869年 スエズ運河開通 |
c |
1894年 ドレフュス事件 |
d |
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