この章は、厳密な意味での「大航海時代」には該当しないかもしれません。登場するのは、航海者ではなく「コンキスタドール(Conquistador スペイン語「征服者」の意味)」達です。しかし、世界史の中でも太字の人物として登場するコルテスピサロが征服した「新世界」アメリカ大陸の文明は、いわば大航海時代のスペインの成果物であり、その後のスペインと(特に)南アメリカの歴史に大きな影響を与えました。

<歴史暗記 ゴロ合わせ>
「コルテス⇒アステカ」は、両方とも4文字。「ピサロ⇒インカ」は両方とも3文字。
ちなみに、コルテスが征服したのはアステカ帝国、ピサロが征服したのはインカ帝国なのですが、歴史のテストで、「コルテス⇒アステカ」と「ピサロ⇒インカ」の組み合わせをネタにする問題がしばしば出題されます。例えば「16世紀、ピサロはアステカ帝国を征服した。○か×か?」という感じです。これには実は覚え方があります。日本語表記した時にたまたまそうなっただけなのですが、ちょうどいい覚え方だと思います。

コルテスのアステカ帝国征服


エルナン・コルテス(Cortes Herrnan(Herrnando))は、1485年、メデリンのエストレマドラにて、スペイン下級貴族の子として生まれました。サマランカ大学で法律を学んだ後、1504年(当時19歳)で、ヒスパニオラ島へ渡り、1511年(当時26歳)にはD・ベラスケス・デ・ケリャルのキューバ遠征に参加。その後、当時の首都であったサンチャゴの市長に任命されていました。
コルテスの人生が大きく変わったのは1518年末(当時33歳)のことでした。ベラスケスは、コルテスにユカタン半島に渡って探検と征服を行う命令を出しましたが、後になってから心配になってきました。コルテスが手柄を一人占めするのではないか、と思ったようです。コルテスは優秀な人物でしたが、それと同時に野心溢れる人物でもありました。ベラスケスは、コルテスに出した命令を撤回しますが、既に人員に武器・弾薬・食糧など、遠征に必要な物資を集めていたコルテスは、中止命令を無視してキューバを出港しました。その兵力は、500人ほどだったそうです1519年2月、コルテスはユカタン半島のベラ・クルスに上陸すると、後戻りできないように船を焼き払い、進軍を開始しました。
当時、この辺りを支配していたのがアステカ帝国でした。アステカ帝国はたいへん戦闘的な文化を持つ民族で、この地方で長い間続いていた騒乱を武力で平定し、他部族を隷属させて君臨していました。このアステカ帝国領内を進軍中、コルテスらは様々な点で仰天していました。現地人が持っている豊かな黄金、宝石はもちろん、故郷であるカスティリャとよく似た農業が営まれていることに驚いたそうです。これらは、コルテス一行の欲望に火を付け、この国を征服することで、莫大な利益が手に入ることを確信させました。さらに、コルテスらに有利に働いた要素の一つが、アステカ帝国に支配されている民族の援護でした。トラスカラ族などは、アステカ帝国に力で屈服させられた民族でしたので、アステカ帝国に対する忠誠心などはかけらも持ち合わせていませんでした。トラスカラ族は、コルテス一行を少数ながらも、見慣れない兵器(火縄銃)や、見たこともない動物(馬。この地方に馬は存在しなかった)に乗り、軍事力に優れている「敵(アステカ族)の敵」と認識し、コルテスに協力してアステカ帝国相手に反乱蜂起する道を選びました。これに加えて、さらにコルテスに有利に働いた因子が、この地方に古くから伝わる「ケツァルコアトル神伝説」でした。
その内容は、ケツァルコアトル神という征服の神が、いつの日か東方からこの地にやってきて、強大な力の下にこの地を支配する、というものでした。コルテスらはユカタン半島東部に上陸し、西に向かっていましたので、彼らから見ればまさに「東方からやってきた者達」になります。また、馬に乗る兵や、火縄銃などは「征服の神」にふさわしい兵器として認識されたのかもしれません。そんなわけで、当時のアステカ帝国の皇帝・モンテスマ2世は、コルテスらを撃退するのではなく、丁重に迎え入れるという奇想天外な事態になります。アステカ帝国の貴族の中には、コルテス一行を武力で追払うべき、と主張する者もいましたが、絶対的な権力を持ったアステカ帝国皇帝の意思は変わらず、コルテス一行はまんまと首都・テノチティトラン(現在のメキシコ・シティー)に入城することに成功しました。
テノチティトランは、14世紀半ばにテスココ湖に浮かぶ島に築かれた町で、堤道で湖岸と結ばれていました。中央広場には大ピラミッドがそびえ、人口は20万〜30万にも上ったそうです。アステカ族は独自の宗教・文化を持っていました。そのうちの一つに、サーカスのような「綱渡り」がありました。偶像の前でいろいろな競争や格闘技が競われた他、バランス棒を用いない綱渡りが行われていたそうです。

アステカ帝国の滅亡
コルテスが、アステカ帝国の首都・テノチティトランに入城したというニュースを聞いた、キューバ総督ベラスケスは大いに焦りました。このままでは、コルテスは自分をもしのぐ強大な力を持ってしまいかねない。ベラスケスはコルテスを命令違反の罪で糾弾し、討伐軍を差し向けました。これに対し、コルテスは1520年6月、一部の留守部隊を残して、ベラスケスが派遣した討伐軍を迎撃するために出陣します。しかし、間もなくテノチティトランで大騒動が巻き起こりました。コルテスらを快く思わない武闘派のアステカ貴族らが、これまでのコルテス一行の暴虐に対してついに反乱。これに対し、留守居部隊が彼らを虐殺して鎮圧するという事件が起きました。この報を聞いたコルテスはすぐに軍を引き返しましたが、暴動は民衆反乱にまで発展していました。コルテスはモンテスマ2世に暴れる民衆の説得を命じました。モンテスマ2世は城壁の上から、荒ぶる民衆に対して矛を収めるように呼びかけましたが、コルテスらに腰を低くして接待しているモンテスマ2世の弱腰ぶりは、アステカ民衆の怒りに油を注ぐことになり、民衆は城壁に石を投げ始めました。モンテスマ2世は石にあたって重傷を負います。防ぎきれないと判断したコルテスは、6月30日の夜、闇にまぎれて密かにテノチティトランを脱出しようとしましたが途中で発見され、アステカ族の攻撃を受け、コルテス軍は大損害を出して逃げていきました。これは「悲しき夜(Noche Triste)」と呼ばれていますが、もちろんコルテス側(スペイン側)から見た表現であり、アステカ族にとっては、暴虐な外国人部隊を追払った記念日となるものでしょう。なお、モンテスマ2世はこの時の傷がもとで、それから間もなく死去しています。
脱出したコルテスらは、協力部族の支援を受けて態勢を立て直し、まずはベラスケスが派遣した討伐軍を撃破。続いてアステカ族の軍と死闘を繰り広げました。人数では圧倒しているアステカ軍でしたが、彼らの文明に「鉄」は存在しませんでした。そのため、彼らの武器は弓矢にしろ剣などの近接武器にしろ、多くが石でできていたため、金属製の武具で装備を固めているスペイン軍とは、戦闘技能や士気だけではどうにもならない差がありました。また、コルテスの指揮官としての能力もあり、コルテス軍はアステカ軍をついに撃破。1521年8月、コルテス(この時36歳)はテノチティトランを占領。アステカ帝国は滅びました。
世界遺産に登録されているテオティワカン遺跡。テオティワカンはメキシコシティの北東約50kmに位置するテオティワカン文明の遺跡。12世紀頃、アステカ族が廃墟となっていたテオティワカンを発見し、「テオティワカン」と命名され、崇拝の対象とされていた。
画像提供元:写真素材-フォトライブラリー

その後のコルテス
広大な土地と多数の現地人(インディオという)を支配下に置いたコルテスは、スペインの英雄となりました。ベラスケスの命令に違反したことなどは、その覇業の前には何の問題にもならなかったようです。アステカ帝国の首都であったテノチティトランは徹底的に破壊され、その上に新たな都市(現在のメキシコシティ)が築かれ、スペインが支配する新国家「ヌエバ・エスパーニャ(「新スペイン」という意味)」の首都となりました。1523年、コルテスはヌエバ・エスパーニャの総督に任命されました。コルテスは、新大陸において最大のエンコミエンダ(※)を持ち、強大な富を手に入れました。また、コルテスにはマリンチェというインディオの愛人がいました。マリンチェは、1519年にコルテスがタバスコ州のマヤ族と戦って勝利した時に、戦利品として手に入れた女奴隷の一人でした。マリンチェはアステカの言葉(ナワトル語)を話すことができたので、アステカ族との対話で通訳も勤めていました。マリンチェはコルテスの子を一人生み、1527年に死去しています。マリンチェは、メキシコでは裏切り者と評価されるのが一般的なようですが、ウーマン・リブ運動が盛んな頃には、女性たちによって再評価されていた時もあったそうです。

コルテスはアステカ文明を徹底的に排除し、キリスト教を中心としたスペインの文化を植え付けていきました。アステカ族固有の神殿は破壊されるか放置され、代わりにキリスト教の教会や聖堂が建設されました。多くの宣教師たちが、被支配民族となったインディオ達にキリスト教(カトリック)を広めていきました。このため、当時のヨーロッパ世界におけるコルテスの評価は「邪悪で忌まわしい慣習を排除し、正しい神の教えにより彼ら(インディオ)の魂を救った」英雄として称えられました。しかし、コルテスの政策はインディオの固有文化を完全に破壊するものであり、現代ではむしろ「残虐な文化の破壊者」とする説も多いです。
(※)エンコミエンダ:16〜17世紀、スペイン領アメリカ建設期に機能していた制度。植民者が国王から先住民の保護とキリスト教化を条件に、土地と住民の統治を委託され、自己のために先住民を使用する権利を与えられる制度です。エンコミエンダは、世襲することも認められていたため、植民地に渡る野心溢れた者たちは、エンコミエンダを手に入れることで一族末裔の繁栄を手に入れることが期待できる制度でした。

コルテスの征服により、旧アステカ帝国とその周辺はスペイン植民地としての基礎がしっかりと築かれました。その一方で、あまりにも巨大な富と権力を手中に入れたコルテスは、スペイン宮廷から危険視されました。コルテスは、1525年にグアテマラ高地を征服する他、カリフォルニア半島へ遠征隊を送り、支配領域を拡張していきましたが、1526年(当時コルテス41歳)、コルテスは統治権を剥奪されます。情勢はコルテスにとってますます危険な状態となり、1528年、コルテスはスペインに帰国し、当時のスペイン国王カルロス1世に直訴を行いました。この直訴にはそれなりの効果があったようで、1529年にメキシコ南部のオアハカ盆地の侯爵に叙せられています。スペイン宮廷中には、コルテスを危険視する意見は根強く、1535年に副王設置体制が確立したことにより、コルテスの政治権力は完全に失われてしまいました。失意のコルテスは1540年(この時55歳)、スペインに帰国しますが、国王や宮廷貴族からは完全に冷遇され、晩年はかつての栄光とは比べ物にならない寂しい生活を送り、1547年12月2日、スペインのセビリア付近のカスティリェハデラクエスタにてこの世を去りました。62歳でした。

コルテス関連史料
・「ヌエバ・エスパーニャ征服の真実の歴史」:著者のディアス・デル・カスティリョ(1492?−1583頃)は、1514年インディアスに渡り、コルテスのアステカ帝国征服に参加していました。この書は、その時の詳細な記録を、コルテスの個人業績とせず、一兵士の立場から真実を正確に書いている、と評価され、当時を知る貴重な史料の一つとなっています。

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