ブラジル発見


インドのカリカットへの航路を発見したポルトガルが次に目指したものは、香辛料貿易ルートの確立でした。ポルトガル王マヌエル1世(幸運王)は、喜望峰発見者であるディアス(50歳?)にカリカット国王との外交関係樹立を命じました。ディアスはカブラル(33歳?)を連れて1500年3月8日にリスボンを出航しましたが、彼らはどういうわけか大西洋航路を南西に取ります。その結果、4月22日に現在のブラジルに到着しました。カブラルは、トルデシリャス条約に基づいて、この地をポルトガル領と宣言。これが南米の大国・ブラジルの始まりです。ブラジルは、ポルトガル領としてその歴史をスタートさせました。このため、カブラルは「ブラジルの発見者」として教科書に記載されています。ブラジルの公用語がポルトガル語であるのは、このような歴史に由来しているわけです。

<歴史暗記 ゴロ合わせ>
カブラルのブラは、ブラジルのブラ
…大航海時代に関するテスト問題では、誰がどこに到達したとか、どこを発見したか、の組み合わせが答えの鍵になることが多いです。よほどの歴史好きでないと、時間が経つと忘れてしまうので、強引でもなんでも関連付けて覚えるといいと思います。

 さて、彼らは航海を継続しますが、ディアスは喜望峰沖で暴風雨に襲われて遭難。そのまま行方不明となってしまいました。喜望峰発見者・ディアスは、その喜望峰の沖合で遭難死するという、劇的な人生の幕引きを遂げました。
一方、カブラルは無事にインドに到達。カリカットでは、香辛料貿易の侵害を恐れたイスラム商人らの妨害にあって失敗しましたが、コーチンで香辛料の買い付けに成功。貿易ルートを確立し、ポルトガルの首都リスボンに多大な富をもたらすこととなりました。そんな大功を上げたカブラルですが、その後、国王の不興を買ってしまったために宮廷を去ることとなり、不遇のうちに死去しました。1520年、サンタレンにて、と伝えられていますが定かではありません。
さて、香辛料貿易。ポルトガルが貿易で扱った香辛料(スパイス)は、インドの胡椒の他、モルッカの丁子(クローヴ)にくずく(ナツメグ)でした。しかし、香辛料貿易はアラブ人、インド人、中国人らも生業としていたため、、ポルトガル人の独占ではありませんでした。また上等のスパイスは依然としてレヴァント貿易が扱っていました。

アメリゴ・ベスプッチの探検


一方、コロンブスによって扉が開かれたアメリカ大陸では、主にスペインが探検を進めていました。その中でも、歴史に名を残したのがアメリゴ・ベスプッチ (Amerigo Vespucci)です。ベスプッチは1454年にフィレンツェで生まれ、当初はメディチ家の銀行員として働いていました。1491年、メディチ家と取引のあるセビリアに赴き、船舶の出航準備を生業としていたG・ベラルディという人物のもとで働く間に、コロンブスの出航準備に立会い知り合いとなった、という経歴を持っています。ベスプッチは1499年(当時45歳)にスペインの探検隊に加わり、原罪のギアナからブラジルにかけての南アメリカ沿岸を探検し、1500年に帰国。1501年にはポルトガルの探検隊を率いてグアナバラ湾(リオデジャネイロ湾)からリオデラプラタにまで達し、南アメリカがアジア大陸とは別の新大陸であることを確信しました。1507年、ドイツの地理学者マルティン・ワルトゼーミュラーは「世界誌序論」のなかで、ベスプッチの業績をたたえるためにその名をとって新大陸を「アメリカ」と名付けることを提唱。最初は南アメリカ大陸のみの名称でしたが、後に南北アメリカ大陸の名称になりました。1505年、スペインに招かれて西インド諸島商社に席を与えられ、さらに1508年最高航海士の称号を贈られています。晩年にスペイン市民権を得て、自身の探検に基づく航海図の作成を準備したが、半ばで1512年死亡。享年58歳。

ポルトガルのインド・アジア進出


香辛料貿易を確立したポルトガルは、その利益をさらに上げるため、商売敵となるイスラム商人の排斥とインド進出を推し進めました。まずは1502年に、バスコ・ダ・ガマをインドに再び送り、カリカット、コーチンに対して報復攻撃を実行しました。1503年には、後にインド総に就任するアルブルケ(当時50歳)が、コーチンの王から、ポルトガルの基地を設立する許可を得ることに成功しています。1505年には、アルメイダ(当時55歳?)がインド副王に任命され、貿易のさらなる拡大を推進させました。アルメイダは1450年頃リスボンに生まれた軍人です。インド副王に任命されると、艦隊を率いてキロアに上陸。アルブルケが1503年に設置したコーチンに本拠を置きました。ポルトガル主権を確立するために、アンゲディバ島、カナノールに要塞を作る反面、マラッカと通商条約を結ぶなどしています。1505年のインド遠征には、後に世界一周を成し遂げたとされる航海者マゼランも従軍していました。
その一方で、貿易の邪魔になるイスラム商人を排斥することを主目的とし、アルブルケは1506年にアフリカ東岸のアラブ人を攻撃しました。1508年には、インド総督に任命されたアルブルケを、先任のアルメイダが捕えて牢獄に入れる、という仲間割れも起こしています。この年、アルメイダの息子であるロレンソが、ショールでエジプト海軍の奇襲を受けて殺害されたため、その報復として、1509年にゴア、ダブールなどの港を焼き払って破壊しました。1509年11月、アルメイダは交替を決意し、アルブルケがインド総督に就任。アルメイダは12月にヨーロッパに向けて出航しましたが、1510年3月1日、テーブル湾で水補給のため上陸した際、コイサン人の攻撃を受けて殺されました。
アルブルケは1510年にゴアを、1511年にマラッカを、1513年にホルムズと、貿易ルートの拠点を着実に増やしていきました。アルブルケはその後、政敵であるロポ・ソアレスに総督の地位を奪われ、1515年12月15日にゴアで死去しますが、ポルトガルはさらに足を伸ばし、1517年には中国の広東に到達。まさに、インド・アジアとの貿易を直接担うヨーロッパの先進国としての地位を確立していきました。1527年にはマカオへの寄港が許され、1557年には無期限の居留権が与えられました。この頃、カール5世が領有権を主張していた(かつてスペインが探検を行ったことが理由)モルッカ諸島をポルトガル人に譲り、フィリピンだけを残してインド洋におけるあらゆる利権を放棄しています。こうしてポルトガルはその後半世紀にわたり、アジアの海上貿易を独占することになりました。また、アジア諸国間の貿易においても、海運業者として様々な品物を運びました。ペルシア絨毯をインドへ、マラッカ諸島産の丁子(香料の一種)を中国へ運び、日本からは銅や銀を中国に送り、インドの服をシャム(タイ)へと運びました。こうした仕事は、アジアとの貿易で支払った銀を取り戻すための貴重な収入源と考えられていました。長いあいだ、アジアは銀以外のものをヨーロッパから買おうとしなかったのです。海上貿易における最も手ごわい競争相手はアラブ人でしたが、ポルトガル艦隊は彼らを軍事力で圧倒していました。東アフリカの基地、1507年に建設した紅海入口のソコトラ、ペルシア湾の入り口にあたるマスカット、インド西岸のゴアから出撃することが可能でした。ポルトガルの貿易網は、現地の支配者と協定を結ぶための外交上の努力と、海上における軍事的優位によって支えられていたのです。しかし、ポルトガルの軍事上の優位は海上のみに限られていました。その理由は、ポルトガル人口そのものは非常に少なかったためです。

バルボアの太平洋発見


ポルトガルが着々と香辛料貿易の足場固めを進めている中、スペインは新世界の探検に努めていました。その中で、節目となる発見がありました。1513年9月、バルボアによる太平洋の発見です。
バルボアは1475?年にレデロスカバレロスにて誕生。1501年に出航してヒスパニオラ島に定住。1510年(バルボア35?歳)パナマに渡り、ダリエン地方を探検した際、アメリカ大陸では初となる、安定した集落サンタマリア・デ・ラ・アンティグアを発見しました。同年、スペイン王フェルナンド2世(カトリック王)により、ダリエンの総督に任命されています。1513年9月、パナマ地峡を横断し、サンミゲル湾近くの丘から太平洋を発見。ヨーロッパ人としては最初の太平洋発見者となりました。ちなみにこの時、後にインカ帝国の征服者となるフランシスコ・ピサロ(当時38?歳)も同行しています。
その後、バルボアはフェルナンド2世により南洋、パナマ、コイバの総督に任命されたが、1519年1月、偽の反逆罪を宣告されてパナマにて処刑されました。また、この辺りの植民活動も行われましたが、当時はなかなかうまくいかずに結局失敗に終わっています。パナマが再び世界の注目を集めるのは、アメリカがパナマ運河を開通させる時のことで、それまで歴史の表舞台に立つことはありませんでした。

マゼランの探検航海


大航海時代の最期を締めくくるのは、地球周航(世界をぐるっと一回りすること)に成功したマゼランです。
マゼランは1480年?オポルトにて、ポルトガルの下級貴族の子として誕生。マヌエル1世(幸運王)に軍人として仕え、1505年アルメイダのインド遠征に参加。1513年、モロッコ遠征隊に加わり、この時重傷を負っています。やがてマヌエル1世と不和になり、スペインに赴いてカルロス1世に仕えたという経歴の持ち主です。ちなみに「マゼラン」は、英語読みの慣用で、ポルトガル語の発音では「マガリャンイス」となるそうです。が、このサイトでは「マゼラン」で表記します。
1519年9月20日、マゼラン(当時39?歳)は、スペイン国王カルロス1世の承認を得て、5隻から成る船隊を編制。搭乗メンバーは総勢265人、出身国は9カ国に及ぶという、国際的な船隊でした。マゼラン自身は司令船「トリニダード」に乗り、サンルカルデバラメダを出発。マゼランの航海の目的は、ポルトガルが独占しているアフリカ南端回りを避けて、東洋に到達する新航路を探し当てることであったそうです。具体的には、大西洋を西に行くことで、モルッカ諸島に行く航路を探すことでした。大西洋を南西に下り、南アメリカ沿岸を南下してマゼラン海峡を発見します。ここを通り抜ければ、太平洋に出ることができます。この辺りで、マゼラン船隊の内部でもめ事があったせいで、実際に太平洋に出たのは11月28日のことでした。仲間割れのせいで、既に船隊は3隻になっていました。食糧、水の欠乏、壊血病に苦しみながら続いた99日の航海の後、1521年3月6日、マリアナ諸島のラドロネス島(グアム島)にやっとの思いで到着します。次いで3月9日にサマール群島(現フィリピン諸島)の南端に到着しました。マゼランは現地住民と交わりながら、足を止めます。その間、マゼランたと原住民の間で紛争が起り、4月27日、マクタン島で先住民に殺されてしまいました(享年41?歳)。生き残った人々は、J・エルカノ(生年不詳)を指揮官として航海を続行。マルク諸島に至って「ビクトリア号」ただ1隻となりましたが、1522年9月7日、マゼラン船隊出発からほぼ丸3年。マゼラン船隊は、ついにスペインに帰国しました。帰り着いたのは、わずか17人の生き残りヨーロッパ人乗組員と4人のマレー人でした。マゼランの航海は世界最初の地球周航となり、地球球体説が実際に証明されたことも意味しています。
エルカノは数々の褒章を受けました。その中の一つに、地球を表した紋章に「なんじこそわれを初めて回れり」(Primus circumdidisti me)という銘が刻まれていました。その後、エルカノはスペイン帰国から4年後の1526年に死去しています。

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