Last update:2015,Aug,15
ペルシア戦争 第2期から第3期に至るまでの期間

ペルシア戦争のクライマックスはマラトンの戦いから10年後に再開される第3期になりますが、そこに至るまでの10年間にいくつかの事件が起きていますので、まずはそこから見ていきましょう。
まず、マラトンの勝利で一躍ヒーローとなったミルティアデス。前489年に、アテネ市民を説得してパロス島(エーゲ海南部、キクラデス諸島中部の島 パロス島は大理石から成っており、産出される石材は「パロス大理石」と呼ばれ貴重だった。)遠征を企画し「私が指揮をとればパロスは落とせる」と自信を持って演説し、アテネ市民を納得させました。しかし、この遠征はろくな成果も挙げられず失敗。アテネ市民らは「ミルティアデスに欺かれた」と激怒し、ミルティアデスは裁判にかけられました。結果は、ミルティアデスの有罪。50タラントの罰金刑が科せられました。ミルティアデスは、その後間もなく死去しました(享年65歳?)。ちなみに、罰金は息子のキモンが支払っています。

<管理人 感想>
ミルティアデスが処罰されてしまうところを見ると、この時期のアテネの民主政はまだまだ「市民の感情」によるところが大きいと思います。詳しい経緯を完全に把握していないので断言できませんが、ミルティアデスの遠征計画をアテネ民会が承認した以上、その結果はアテネ民会が責任を持って受け入れるべきです。「欺かれた」というのは、確かにそのような側面はあったのかもませんが、欺かれてしまった政府(この場合は民会)がまったく無過失無責任というのはありえません。遠征の失敗をミルティアデスに全てなすりつけ、自分の保身を図った有力政治家が多くいたのではないかと思います。これは、古今東西共通の原理なのかもしれません。


地図右下の"Paros"という都市がある島がパロス島。面積は194平方km。パロス大理石と呼ばれる彫像用の白色大理石を輸出して繁栄しました。

一方、ペルシアでも大きな変化がありました。前486年、ダレイオス1世がエジプトで起きた反乱の鎮圧の最中に陣中で死去したのです(享年64歳)。後継者となったのは、息子のクセルクセス1世(Xerxes I 33歳?)です。「大王」とも呼ばれたダレイオス1世に対して、クセルクセス1世の評判はあまり芳しくありません。クセルクセス1世の治世から、アケメネス朝の衰退が始まった、と歴史家たちは記述しています。広大なアケメネス朝の領土には、それぞれ独自の文化や宗教を持った様々な民族が暮らしていました。ダレイオス1世やそれ以前のアケメネス朝の王たちは、異民族に対して寛容的な政策を取っていました。広大なアケメネス朝が、(しばしば反乱が発生していたとはいえ)大帝国として君臨できたのは、領域内の各民族の多様性を受け入れていたから、と考えられています。しかし、クセルクセス1世は寛容的な政策を棄て、異民族に対するペルシア人の支配という構造を強化するようになりました。
さて、クセルクセス1世は、即位後に発生した各地の反乱を鎮圧して落ち着くと、父・ダレイオス1世が失敗したギリシア遠征を再計画しました。その規模は前回を遥かにしのぐ大規模なもので、10万を超える軍隊をギリシアに送りこむ、というものでした。ギリシアは再びアケメネス朝ペルシア帝国の強大な軍事力の脅威にさらされることになったのです。
前483(482とも)年、アテネ領内のラウレイオン(ラウリオン、とも)銀山に新しい鉱脈が発見された、というニュースが舞い込みました。これは、新しい銀山が発見されたというわけではありません。ラウレイオン銀山は以前から銀が採掘されており、ペイシストラトスの時代から銀採掘が奨励されていました。時と共に採鉱技術が進歩した結果、豊富な鉱床が発見されました。これは、銀の採掘量がさらに増大することを意味しており、アテネ市民達は狂喜しました。なぜかというと、採掘によって得られた利益は市民達に配分される、という慣習があったからです。しかし、この慣習に待ったをかけた男がいました。テミストクレス(Themistokles 44歳頃?)です。
テミストクレスは、名門リュコミダイ家の出身でしたが、母親がギリシア人ではなかったらしく、クレイステネスの改革の時に初めてアテネ市民権を得ました。マラトンの英雄・ミルティアデスの政敵であったため、ミルティアデスの死後に権力をふるうようになっていました。ペルシア再襲来を予測していたテミストクレスは、ラウレイオン銀山の新鉱脈による利益は、市民へ配分するのではなく海軍の増強に使うべき、と民会を説得して回りました。これに対し、正直者で信頼度抜群という評判だったアリステイデス(Aristeides 生没年不詳)が反対すると、テミストクレスはオストラシズム制度を使ってアリステイデスを追放処分とし(クレイステネスが僭主防止のために導入したオストラシズム制は、この頃から「政敵を追放する」ための道具として使われるようになっていました。)、民会の説得に成功。アテネは200隻の三段櫂船(「さんだんかいせん」。「櫂」とはオールのこと)を保有する、ギリシア1の海軍国となりました。

※三段櫂船(トリエレス)
三段櫂船は、当時のギリシア世界で主力となる戦艦でした。「三段」とは櫂(オール)が船の両サイドに三段構えで配置されていることに由来しています。三段櫂船はコリント人によって考案され、紀元前7世紀から6世紀にかけて、貿易船を護衛するために発達してきた歴史を持っています。
当時の船のメイン動力は「櫂(オール)」でした。船のスピードを上げるために採用された方法が「オールの数を増やす」ことだったのです。オールを両サイドに三段構えで配置したのは、当時の船の構造と重量バランスを考慮して、最も効率的に配置した結果だと考えられています。古代ギリシアでは海戦も多く、海戦の勝敗を握るカギとなったのは、船の操船技術でした。いかに正確に素早く船を操るかが、とても重要な要素だったのです。一般的な三段櫂船の場合、よく訓練された漕ぎ手が200人乗り込めば最高速度は10kmになったそうです。そうして船を巧みに操り、船首に取りつけられた衝角(ラム)を敵船の横っ腹に激突させて、穴をあけて沈没させるというのが当時の一般的な戦術でした。


前481年の秋、ペルシアの再襲来は不可避となったこと受け、ギリシアのポリス代表者らがスパルタに集結して会合を開きました。これは史上初の「ギリシア会議」でした。ギリシア会議は、対ペルシア戦のために一致団結して立ち向かうことを確認し、未参加のポリスには参加を呼びかけました。さらに、デルフォイの神託を受けて、この戦いの吉兆を占いましたが、結果はギリシアにとって悲観的なものだったそうです。そして、ついにクセルクセス1世が大遠征軍を進発させます。

ペルシア戦争 第3期

前480年、クセルクセス1世は自ら大軍を率いてギリシアへ出陣しました。ヘロドトスの「歴史」によると、ペルシア軍の総兵力はなんと264万人。マラトンの戦いに参加した2万人の132倍という、信じがたい人数です。さらに、大勢の兵士相手に商売する商人らが兵士と同数従軍しており、さらに料理女、売春婦などが加わり、総勢で500万人の人間がギリシアに向かった、と記録しています。しかし、この数字はどう見ても桁が2つくらい増やされているんじゃないか、という数字です。そこで、後世の歴史家達は、この時の遠征軍の実数をいろいろ試算しています。ある説では、陸軍は30万、海軍は1000隻、と推定しています。そうだとしても、マラトンの2万に比べて15倍の兵力であり、途方もない大軍であることは間違いありません。
対するアテネは、テミストクレスが実質的なリーダーとなりました。まず、オストラシズムで追放したアリステイデスに恩赦を出し、アテネに復帰させると、各ポリスの代表者らを集めて軍議を行いました。テミストクレスは、ペルシアの大軍に対して
1.陸では、ペルシア軍をどこか1か所に集めて釘づけにしておく。
2.その間に、アテネが誇る海軍がペルシア海軍を破る。
という作戦を立て、これが承認されました。

テルモピュレーの戦い
テルモピュレーは中部ギリシアに位置する、海と山から成る狭い断崖の地でした。その道はたいへん狭く、車1台が通れるか通れないか、程度の広さしかありまん。ペルシアの大軍を釘づけにするにはうってつけの場所です。ギリシアは、ここに防衛線を張ることにしました。防衛を担当するのは、陸戦では最強を誇るスパルタのレオニダス(Leonidas 生年不詳)王率いるペロポネソス半島軍4000(うち、スパルタ兵3000)を主力とする7000の兵です。また、ギリシア海軍300隻がエウボイア島北端のアルテミシオン沖でペルシア海軍を待ち受けました。ここに、スパルタ兵の伝説的な奮戦が語り継がれるテルモピュレーの戦いが始まりました。
ペルシア軍は、数にモノを言わせてテルモピュレーの隘路に襲いかかりました。スパルタを主力とする防衛軍は、地形を活用して奮戦。ギリシア側の狙い通り、狭いテルモピュレーの断崖では、戦闘が行われているのは最前線の一部だけで、ペルシアの大軍はほとんどが後方で戦況を傍観しているだけでした。ペルシア軍の部隊長は、鞭を振り回して兵士た達にひたすら前進することを強いました。断崖から足を滑らせて海に落ちる者もいましたが、それよりも多くの兵が味方の兵に踏まれて圧死していった、とヘロドトスは記録しています。
ペルシア軍の攻撃開始から6日間、ギリシア軍はペルシア軍の猛攻を耐え抜きました。しかし、裏切り者のギリシア人が、テルモピュレーの背後に回ることができる間道をペルシア軍に教えたために、スパルタ軍は正面と背後から挟撃されるという危機に陥ります。さらに運の悪いことに、この時ギリシア軍は分散して配置されていたため、レオニダスの手許にはスパルタとテスピアの兵1000がいただけでした。他の部隊も少数で散らばっていたために、部隊同士が連携することができなくなると、後は各個撃破されていってしまいました。背後の間道から挟撃されることを知ったレオニダスとスパルタ兵は、死力を振りしぼって奮戦。主武器である槍が折れてしまった後は、剣を用いて奮戦しましたが、ついに力尽きてレオニダス本人も戦死し、防衛部隊は壊滅しました。

テルモピュレー付近の地図。北西方面から進軍してきたペルシア軍と、防衛のギリシア軍の間で激戦が繰り広げられました。

防衛線が突破されたことにより、ペルシアの大軍がギリシア内部に侵入する入口が開き、形勢はギリシア不利に大きく傾きました。しかしレオニダス隊の奮戦ぶりは、残されたギリシア人の戦意を鼓舞することになります。詩人シモニデスはレオニダスとその部隊を称賛する歌を作り、ギリシア人を励ましています。その結果、テルモピュレーの敗戦はギリシア軍の士気をくじくことにはならず、むしろ戦争の勝負はこれからだ!という雰囲気に包まれていました。
テミストクレスは自分たちの街であるアテネを放棄することを決意し、アテネ市民らはほぼすべて避難しました。ペルシア軍はガラ空きになったギリシア内部に侵入しアテネも占領されましたが、避難は完了していたため人的被害はほとんど出なかったそうです。その代わり、都市の多くは破壊されてしまいました。
ギリシア連合軍首脳部は、コリントの地を最終決戦の場としようと考えましたが、テミストクレスは狭いサラミス海道にペルシア海軍を誘いこんで決戦すると主張し、この案が採用されました。追い詰められたギリシアの最終決戦は、サラミスでの海戦となります。

サラミスの海戦
前480年9月下旬。決戦の地となるサラミス海道にギリシア艦隊全軍が終結しました。その数、300余隻。対するペルシアの艦隊はおよそ800余隻。テミストクレスが狭いサラミス海道を選んだ一番の理由は、数的不利を補うためだったと考えられます。そういう意味では、テルモピュレーの時と同じ発想です。問題は、いかにしてペルシア艦隊をサラミス海道におびき寄せるか、でした。テミストクレスは一計を案じます。部下の1人を偽ってペルシア軍に投降させ、その部下に「ギリシアは逃げる準備をしている。いますぐに攻撃すれば、ギリシア軍はすぐに分裂して同志討ちを引き起こすに違いない。」と言わせました。ちょうどこの頃、ペルシア軍も大軍ならではの悩みである「補給」の問題で頭を悩ましていました。大軍を抱えていれば、戦力的には有利になりますが、それだけの多人数を食わせていくための食糧を、毎日欠かさず供給するのはたいへんな苦労が伴いました。もちろん、ペルシア本国から大量輸送されてはいたでしょうが、食糧は日持ちという問題もあるため、長距離輸送だけで大人数の胃袋を満たすのはかなり困難だったと思われます。加えて、アテネは人民が疎開してしまったため、それを占領したペルシア軍は食糧が空っぽの空家を占領したようなものでした。つまり、アテネで食糧を調達することはほとんどできなかったわけです。長距離輸送には限界があり、現地調達も難しくなると、大軍を維持し続けるのは不可能になります。ペルシア軍はこの偽情報を絶好の機会ととらえ、その日の夜半に全艦隊をサラミス海道に出発させました。待ち受けるギリシア艦隊は、一部をペルシア艦隊の側面から攻撃できる位置に配備しておき、ペルシア艦隊を待ち受けました。
翌朝、ペルシア艦隊の大軍を確認したギリシア艦隊は、ラッパの合図をもとに攻撃を開始しました。狭い海道にひしめいていたペルシア艦隊は思うように動くことができず、足の速いギリシア三段櫂船の衝角に船の横っ腹を突かれ、次々に沈没していきました。
この頃の海戦は、船の先頭に取りつけられた「衝角」という、いわば槍のような物で敵船の側面を突き破り、沈没させるというのが一般的な戦法でした。この戦法で活躍したのが、船のオールを漕ぐ「漕ぎ手」です。伝統的なギリシアの重装歩兵とは違い、軍船の漕ぎ手は武器防具を自前で用意する必要はないため、あまり経済力のない人でも、健康でそれなりに体力さえあれば、立派な市民の一人として戦闘に参加できたわけです。このため、それまで「無産市民」と呼ばれていた、自前で武器防具を揃えられない市民も、立派な市民の一人として政治に参加していくようになりました。
もちろん、敵船に乗り込んで戦う、ということもありました。この時はギリシアの重装歩兵が(得意とする密集方陣(ファランクス)を組んで戦ったかは定かではありませんが)、ペルシアの歩兵相手に優勢に戦ったそうです。悲劇作家のアイスキュロス(45歳前後)はサラミスの海戦に参戦していました。彼が書き、前472年に上演された歴史劇「ペルシア人」はこの時の体験に基づいています。
サラミスの海戦は丸一日続き、翌朝にはペルシア艦隊は壊滅。サラミスの海戦はギリシア軍の大勝利で幕を閉じました。この戦いを高所の陸地から見物していたクセルクセス1世は、敗残の艦隊をアテネの古い港ファロンにまとめて、陸軍はマルドニオス将軍に一任し、自らは陸路でペルシア本国へ帰還していきました。

<歴史暗記 ゴロ合わせ>
無産市民も呼ばれ(480)て参加 サラミスの海戦
従来は戦力としてカウントされていなかった無産市民が参加したという、重要ポイントを使った覚え方です。

プラタイアイの戦い (Battle of Plataiai)
残存ペルシア軍を引き受けたマルドニオス将軍は、アテネと講和を試みましたが失敗。翌前479年、アッティカ平野とボイオティア地方のキタイロン山斜面にあった都市・プラタイアイの近郊で両軍は戦いに臨みました。マルドニオス将軍率いるペルシア軍は4万〜5万ほど。当初は30万近かったと推定されている遠征軍でしたが、補給の問題などが響いたのか、この時点で当初の15%ほどまで落ち込んでいます。対するギリシア軍は、正直公正のアリステイデスを最高司令官とし、スパルタなどを中心としたペロポネソス同盟軍を主力とする3万8000、将軍はスパルタのパウサニアス(Pausanias 生年不詳)でした。パウサニアスはスパルタ王クレオンブロトス1世の息子、つまり王族でした。前480年のテルモピュレーの戦いで戦死したレオニダスの息子の摂政となっています。
この戦いでギリシア軍は勝利し、敗北したマルドニオスは戦死。プラタイアイの戦いと同じ頃、海軍もエーゲ海東部のミュカレで事実上の決戦が行われ、ペルシア海軍は敗北。以降、ペルシア軍は敗退を続けることとなり、ペルシア戦争におけるギリシアの勝利が確定しました。

中央やや左の"Plataies"が現在のプラタイアイの街。プラタイアイの戦いは、この付近で行われました。南東にアテネ、北にテーベ"Thiva"があります。

ペルシア戦争 戦後
ペルシア遠征軍が撤退していった後、ギリシア海軍はイオニア地方のギリシア人植民都市の解放するため、エーゲ海を越えて軍を進めました。イオニア海岸のミュカレ岬を占領し、結果的にイオニア植民都市はアケメネス朝の支配から独立することとなりました。
ペルシア戦争に参加した31のポリスは、戦勝を記念して共同で黄金の鼎(かなえ)を3匹の蛇がとぐろをまく円柱の置き台に乗せ、これをデルフォイのアポロン神殿に寄付しました。この鼎は、後の時代になってローマのコンスタンティヌス大帝により、コンスタンティノープルに移され、現在もイスタンブルに残っているそうです。
ペルシア軍に破壊されたアテネは、戦後に復興が進みました。テミストクレスの指揮により、アテネと少し離れたとこりにある港ピレウスを結んでその道を城壁で囲む、という都市+港の都市建設が始まりました。しかし、この工事は他のポリスに脅威を与えます。スパルタは使節を派遣して、工事の中止を要請しましたが、テミストクレスは自身でスパルタに赴き、交渉を遅らせているうちに工事を進めてしまい、城壁建設を既成事実にさせてしまいました。なお、この時のスパルタの懸念は的中し、しばらくするとアテネはギリシア世界を支配する帝王のような振舞をするようになります。
最後に、古代の歴史家や作家による評価について。悲劇作家アイスキュロス、歴史家ヘロドトスともに、ペルシア戦争は「自由の戦い」と評価しています。彼らはギリシア人ですので、至極当然の考え方だと思います。この勝利により、専制君主の奴隷になることから免れ、僭主制の専横もはねのけた、と表現しています。
ギリシア軍の士気向上に一役買った詩人シモニデスは、前476年(80歳? ご長寿!)、シチリア島のギリシア人都市シラクサの僭主ヒエロンに招かれて、宮廷詩人となりました。その後も詩人としての活動を続け、前468年頃(88歳?)、シラクサで亡くなったそうです。

サラミスの海戦 戦場となったエリア。サラミス島はアテネの西側に位置する島で、ピレウス(地図の"Piraeus")の港の目と鼻の先に位置しています。ギリシア海軍は、地図の"Kynosoura"と記載されている突き出ている部分の北側でペルシア海軍を迎撃しました。

歴史の父・ヘロドトス
ペルシア戦争に関する歴史は、主にヘロドトスの名著「ヒストリアイ(歴史、の意)」に拠るところが大きいです。ローマ時代の最高知識人と評されるキケロは、ヘロドトスを「歴史の父」と評しています。いわば、ヘロドトスが「歴史」という概念を産みだした、というわけです。歴史事項の記録に関して言えば、決してヘロドトスが史上初だったわけではありません。単純な事柄の記録という意味では、古代文明には存在していました。しかし、その記録に文学的価値と学術的視点を加えて「作品」として産みだしのは、ヘロドトスが最初でした。私がこのサイトで紹介している「歴史」というジャンルも、その産みの親はヘロドトスといえます。
ヘロドトスは紀元前484年に小アジア南西部の街・ハリカルナッソスで生まれました。つまり、ペルシア戦争後期に誕生し、4歳の頃にサラミスの海戦が繰り広げられ、5歳の時に事実上終結した、ということになります。そのため、ヘロドトス自身のペルシア戦争の経験はごくわずかでした。だからこそ、親や周囲の人から英雄物語として聞いたであろうペルシア戦争の原因を知りたい、と思ったのかもしれません。
ヘロドトスのその生涯のほとんどは、旅に費やされたとそうです。アテネにもメトイコイ(外国人)として数年間滞在したことがあり、自身の作品が公の場で読まれることもあったそうです。その後、南イタリアに新たに建設された植民都市・トゥリオに移住し、そこで著書『歴史』を完成させて前430年より少し後に生涯を閉じました。
ヘロドトスが著書に名付けた「ヒストリアイ」という言葉には、従来は「調査」「探求」といった意味で用いられていました。ヘロドトスは、ペルシア戦争という一大歴史事件がなぜ起きたのかを知りたい、という強い知的欲求に駆られて大量の文献を読み、旅に出て現地の人々から詳しい話を聞いて記録していきました。批判を付けるとしたら、ヘロドトスは現地の人々の話を鵜呑みにしすぎている、という傾向はあります。こうして完成した「歴史」は、アケメネス朝ペルシアとギリシアの初期の歴史が豊富に記録の他に、ヘロドトスが収集した各地の情報が盛り込まれ、ミュカレの戦いまでのペルシア戦争の経緯が載せられました。こうして「ヒストリアイ」という言葉に、今日私たちが使っている「歴史」という意味が加わり、英語でいう"history"という言葉が誕生したわけです。

ペルシア戦争 後世における意義
強大なアケメネス朝ペルシア帝国を破った、という事実はギリシア人たちにこれまでにないほどの誇りと一体感をもたらしました。ギリシアを独立したポリスの連合体ではなく、国家として統一できたのはこの時だけだったのではないか、とも言われています。
また、ペルシア戦争の勝利は、後の世にヨーロッパとアジアを区別が生れるきっかけになった、と後世の歴史家の間で考えられるようになりました。

ペルシア戦争 略年表                            
前500年

ミレトス僭主アリスタゴラスによるイオニア地方ギリシア人都市の反乱勃発。
前498年

アリスタゴラス軍がエフェソス付近でアケメネス朝軍に敗北。
前497年
or前496年

アリスタゴラスがトラキアで戦死。
前494年

アケメネス朝がミレトスを攻略。
前493年

イオニア地方の反乱終息。
前492年

アケメネス朝の第1回ギリシア遠征軍進発(ペルシア戦争第1期)
しかし、海軍がアトス沖で難破してたために中断。
前490年

マラトンの戦いでギリシア軍勝利(ペルシア戦争第2期)
前489年

ミルティアデスがパロス島遠征に失敗 失意のうちに死去
前486年

ダレイオス1世死去 息子のクセルクセス1世が後継者に
前483年
or前482年

ラウレイオン銀山で新たな鉱脈が発見される 海軍増強が始まる
前481年
ペルシア再襲来に備えて「ギリシア会議」開催
前480年
9月下旬サラミスの海戦でギリシア軍勝利(ペルシア戦争第3期)
前479年
9月下旬プラタイアイの戦いでギリシア軍勝利 ペルシア戦争終結
前478年

パウサニアスがギリシア艦隊を率いてビザンチオンを占領

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