サラミスの海戦に敗れたペルシア艦隊は、クセルクセスと共に退却する陸軍をアジアに送り届けた後は、イオニア方面の拠点であるキュメで冬を越した後、春になってからサモス島に移動しました。艦隊は、イオニア人の船を加えて合計300隻ほどであり、指揮官としてバガイオスの子・マルドンテスと、アルタカイエスの子・アルタユンテスが着任しました。なお、アルタユンテスの希望で、彼の甥であるイタミトレスが指揮に加わっています。しかし、積極的な行動には一切出ず、サモス島を拠点として、イオニア方面の警備に専念しており、ギリシャに残っているマルドニオスのことは静観しているだけでした。
クセルクセスから陸軍を預けられたマルドニオスは、ペルシアに服属していたテッサリアとマケドニアに軍を分けて冬を越しましたが、その間にアテネと外交交渉を行っています。アテネへの使者となったのは、マケドニア王であるアミュンタスの子・アレクサンドロス1世(有名なマケドニア王・アレクサンドロス大王の祖先)です。アレクサンドロス1世はアテネに着くと、以下の内容を伝えました。
「アテネがペルシアと和睦するのであれば、ペルシアが占領したアテネの国土はすべて返還する他、他に望むところを新たな領土として加え、独立国として認める。ペルシア軍の質と量は帰国も既に知ってのとおりであり、和睦しない場合はさらに強大な軍を送ることができる。今、クセルクセス王が寛大な気持ちでいる間に、和睦することが貴国にとって最良の選択肢である。」
この後、アテネはスパルタから来ていた使節と接見します。実は、アテネにペルシアからの使者が来ていることを事前に知ったスパルタは、アテネがペルシアと単独講和してペルシア側についてしまうことを恐れ、決してペルシアと和睦しないように、と依頼する使節を派遣してきていたのです。アテネは、自分たちの見解をスパルタに見せつけるために、故意にアレクサンドロス1世との接見を引き延ばしていたのです。スパルタの使節は以下の内容を伝えました。
「我々は、貴国がギリシア全体に背く行動を一切取らず、ペルシア王の提案を一切受けないことを依頼しに来ました。そもそもこの戦争は、貴国の安全を守るために始まり、それがいまやギリシア全土を巻き込んでいるのです。もちろん、貴国が戦禍により収穫物や家財を失い、苦しい状況になったことには同情を禁じえません。そこで、スパルタとその同盟諸国はアテネの婦女子を戦争が続く限り扶養し続けることを約束します。どうか、マルドニオスの命を受けたマケドニアのアレクサンドロスの言うことなど聞かないように。所詮、アレクサンドロスは独裁者であり、独裁者が独裁者の片棒を担いでいるに過ぎないのです。」
アテネは、アレクサンドロス1世には以下の内容を答えました。
「ペルシア王の力の大きさは十分知っているが、我々は自由を望む民として、防衛に努めるつもりである。帰ってマルドニオスに伝えるがよい。我々はペルシア王が焼き払った神殿の神々の援助を信じて戦うつもりである。そして、貴公もこのような提案を持ってアテネに来てもらいたくない。貴公がアテネ人の手によって不快なめに遭うことは望まないので。」
そして、スパルタの使節には以下の内容を答えました。
「我が国がペルシアと和睦するのではないか、と心配するのは人の気持ちとして当然である。しかし、貴国がそのような心配をするのは恥ずべき事と思われる。我々にはペルシアと和睦できない理由が2つある。1つは、我らの神体や神殿が焼き払われたこと。このような敵に報復しないではいられず、和睦など到底結べるものではない。2つ目は我々ギリシア人は皆同じ言語を話し、血のつながりを持ち、神々を祀る祭式も同じで生活様式も同じギリシア人である。我々の家族の扶養の申出はたいへんありがたいが、貴国からは十二分に援助をいただいているので、なるべく貴国の迷惑にならないように力の限り耐えるつもりである。そのため、一刻も早く援軍を派遣していただきたい。」
こうして、マルドニオスはアテネとの外交交渉には失敗し、両者の勝負は戦場で決することとなりました。
プラタイアの戦い (Battle of Plataiai)
エリュトライの前哨戦
紀元前479年、テルモピュレーで壮絶な戦死を遂げたレオニダスの甥であるパウサニアス(生年不詳)率いるスパルタ軍とアテネ軍を中心とするギリシア軍は、マルドニオス率いるペルシア軍をギリシアの地から追い払うために出陣。プラタイアに向かいました。ギリシア軍がボイオティア地方のエリュトライまで来た時、ペルシア軍はアソポス川の河畔に駐屯していたため、ギリシア軍はキタイロン山麓に陣を敷きました。マルドニオスは、ギリシア軍が山麓に陣取ったままで平地に下りてこないため、マシスティオス率いるペルシア軍騎兵を突撃させます。ペルシア騎兵は軍団ごとに突撃を繰り返し、ギリシア軍に大損害を与えました。この時、最もペルシア騎兵の攻撃を受けやすいところにいたのがメガラの軍でした。メガラ軍はギリシア軍司令部に伝令を送り、救援を求めます。総司令官であるパウサニアスは、誰か救援に行く者はいないか、と周囲に聞きましたが返事はありません。その中で、救援を引き受けたのはアテネ人でランポンの子オリュンピオドロス率いるアテネ軍の精鋭300人です。アテネの部隊はこの時、重装歩兵だけではなく弓兵を伴っていました。前哨戦は、この弓兵の活躍で決着がつきます。軍団ごとに突撃を繰り返すペルシア軍でしたが、この間に指揮官であるマシスティオスの馬に矢が当たり、棒立ちになった馬からマシスティオスは振り落とされると、たちまちアテネ兵がマシスティオスに襲いかかりました。マシスティオスは、鱗状の黄金の鎧を着てその上に緋色の服を着ていたために、アテネ兵がいくら斬りつけてもすぐには倒れませんでした。しかし、やがて鎧を下に着ていることに気づいたアテネ兵はマシスティオスの目を刺し、ここにマシスティオスは討死にします。当初、ペルシア騎兵はマシスティオスが戦死していることに気づきませんでしたが、突撃の指令を出す指揮官がいないことに気づくと、彼らはマシスティオスの遺体を取り返そうと、各軍団が一つになって全軍で突撃を行いました。これに対し、アテネ軍は他部隊に救援を要請します。救援が到着するまでは苦戦を強いられ、一時はマシスティオスの死体を遺棄して敗走しかけるところでしたが、救援部隊がかけつけると態勢を立て直すことに成功。ペルシア騎兵は、マシスティオスの遺体を回収することができずに後退。2スタディオン離れたところで協議し、これ以上の攻撃を諦めてマルドニオスのもとへ引き上げていきました。
信頼していたマシスティオスの戦死の報告を受けたマルドニオスは深く悲しみ、その哀哭の声はボイオティア地方全土に響き渡った、とヘロドトスは『歴史』に記述しています。一方、前哨戦に勝利したギリシア軍の士気は上がりました。遺体を荷車に載せて各陣を引き回すと、マシスティオスの遺体は体格立派で容姿も優れていたため、わざわざ持ち場を離れて見に来る者が絶えませんでした。勢いに乗るギリシア軍は、さらに前進します。エリュトライ地区よりも、プラタイア地区の方が野営するのに便利だった、特に水の補給に便利だったことが理由の一つです。プラタイア地区のガルガピアの泉付近に陣を張ることに決定し、キタイロン山麓を下りてヒュシアイを過ぎてプラタイア地区に入りました。
プラタイアの戦い 戦闘前
プラタイアに入ったギリシア軍はポリス別に陣を配置しました。最右翼には総司令官パウサニアス率いるスパルタ軍1万。このうち、スパルタ市民の重装歩兵が5000、(おそらく)ペリオイコイの歩兵が5000でした。ただ、スパルタ市民重装歩兵には1人に7人の割合でヘロット(奴隷)の軽装兵が従ったため、合計3万5000の軽装兵がいたことになります。つまり、スパルタの総兵力は4万5000となります。その隣には、スパルタがテゲアの重装歩兵1500を配置しました。スパルタはテゲア兵の武勇を評価していたためです。その隣にはコリントの兵5000が陣取り、その隣にはパレネ地方のポテイダイアの兵300が置かれました。これは、コリントがパウサニアスに願い出て、ポテイダイア兵を自軍の隣に置かせたそうです。その隣にはアルカディア地方のオルコメノス兵600、シキュオン兵3000、エピダウロス兵800、トロイゼン兵1000、レプレオン200、ミュケナイとティリュンス連合軍400、プレイウス兵1000、ヘルミオネ兵300、エレトリアとステュラ兵合わせて600、カルキス兵400、アンブラキア500、レウカスとアナクトリオン兵合わせて800、ケパレニア島のパレ兵200、アイギナ兵500、メガラ兵3000、プラタイア兵600、そして最左翼はアテネ兵8000となりました。まとめると、ギリシア軍重装歩兵は3万8700、軽装兵はスパルタが3万5000、その他のポリスの重装歩兵に従う軽装兵が3万4500、そしてテスピアイ兵1800が軽装で従軍していたため、総合計11万です。これに対し、ペルシア軍の配置はスパルタ軍の正面にペルシア人部隊を置きました。ペルシア人部隊は数でスパルタを凌駕していたので、スパルタだけでなくその隣のテゲア人部隊も受け持ちました。ペルシア人部隊の隣はメディア人部隊で、相対するのはコリント、ボテイダイア、オルコメノス、シキュオンです。メディア人の隣はバクトリア人、その隣にインド人、サカイ人を置き、右翼にはボイオティア、ロクリス、マリス、テッサリア、ポキスのギリシア人部隊を置いて、アテネ軍に当たらせました。その総数はペルシア軍約30万に加えてギリシア人部隊が約5万、さらに騎兵部隊はこの数に含まれていないので、歩兵約35万と騎兵部隊、というのがペルシア軍の総兵力であった、とヘロドトスは『歴史』で記述しています。なお、ヘロドトスのこの記述については、後世の歴史家からは「過大過ぎる」と言われており、実際には15万ぐらいではないか、、20万ぐらいではないか、といろいろ推測されています。ちなみに、ギリシア軍の配置については、決まるまでに一悶着ありました。アテネ軍とテゲア軍のどちらが左翼を担当するかで大ゲンカしてたのです。双方ともに過去の栄光の歴史を引き合いに出し、自軍こそが左翼を担うのに相応しい、と一歩も引かなかったのですが、この論争はアテネに軍配が上がり、アテネが左翼を担当することとなりました。なお、アテネ軍を率いていたのは「正直者」のリュシマコスの子アリステイデスです。
さて、布陣を終えた両軍ですが、しばらくは睨み合いが続きました。というのも、戦闘前に行う生贄の儀式の結果、両軍ともに「守勢が吉、攻勢が凶」と出たため、とヘロドトスは記述しています。確かに、両軍の間にはアソポス川が流れているため、敵を攻撃するためには川を渡らなければならない、ということです。古今東西共通の戦術論として、川を渡ってすぐ敵と交戦するのは不利、とされています。川を渡ると装備品や衣服が水に濡れて重くなったり、川を渡るために船を使う場合は、川を渡っている最中は敵の弓矢や鉄砲などで一方的に撃たれるなど、あまりいいことはありませんでした。占いをしなくとも、この状況では攻撃に出た方が不利、というのは事実だったと思います。ちなみに、ギリシア軍の占い師はテイサメノスというスパルタ市民権を持っているエリス人、という極めて異例な経歴を持つ人物で、ペルシア軍の占い師は、同じくエリス人のヘゲシストラトスという、スパルタに恨みを持っていた人物をマルドニオスが高額の報酬金で雇った「反スパルタ占い師」でした。二人の占い師が共に「守勢が吉、攻勢は凶」としたのも何かの因果を感じさせます。
そうこうしているうちに、ギリシア軍には少しずつ援軍が到着していることが、マルドニオスにも見えました。それを知ったテーベ人でヘルピュスの子・ティマゲニダスは、マルドニオスにキタイロンの入り口に騎兵を置いて、やって来るギリシアの援軍を攻撃すべき、と提案。マルドニオスはそれを容れ、騎兵部隊をキタイロン付近に進めました。ちょうど、ギリシア方面から食料などを運んできた500両もの輜重を率いる輸送隊と遭遇したため、ペルシア騎兵隊は不意をついて輸送隊を襲撃。突然の敵に急襲された輸送体は完敗し、生き残った家畜は戦利品として、人員は捕虜としてペルシア陣地へ連行されました。こんなかんじで、ペルシア軍はたびたび騎兵を使ってギリシア軍を攻撃しましたが、小競り合いばかりが続き、戦局に動きがないまま10日が過ぎました。11日目、少しずつやってくる援軍を加え、ギリシア軍が日に日に増強されていることを見たペルシア軍では、総司令官であるマルドニオスとクセルクセスの厚い信頼を得ている臣下の一人・アルタバゾスが打ち合わせをします。アルタバゾスはテーベ人と同じ意見で、ペルシア軍をテーベの街に引き上げさせ、ペルシア軍が豊富に持っている金銀を使ってギリシアの諸ポリスに揺さぶりをかける策を提案したのですが、マルドニオスはこれを拒否。戦闘で決着をつけるのだ、と主張します。総司令官はマルドニオスなので、最終的にはマルドニオスの「決戦案」に決まりました。占いの吉凶などは気にしないで、翌朝、こちらからギリシア軍を攻撃すべきである、としてマルドニオスはペルシア軍に攻撃の準備をさせました。
その夜、一人の人物が密かにペルシア軍陣地を抜け出し、馬に乗ってアテネ軍の陣地へ向かった者がいました。マケドニア王のアレクサンドロス1世です。プラタイアの戦いが始まる前に、マルドニオスの使者としてアテネに単独講和を勧めた人物です。アレクサンドロス1世は、アテネの指揮官らに「翌朝、ペルシア軍が攻撃を仕掛けてくる。私もギリシア人の一人。このような危険を冒してやってきた理由は、ひとえに同胞が敗れて、奴隷にされるのを見るのが心苦しいのだ。」と告げると、自分の陣地に引き返していきました。アテネの指揮官らは、この話を総司令官のパウサニアスに伝えます。パウサニアスは、ここで意外な頼みをアテネにします。
「スパルタとアテネの陣地を交換してほしい」
その理由は、アテネ軍は10年前にマラトンでペルシア軍と戦った経験があるが、スパルタは今回が初めてである、ということです。アテネの指揮官らも、口には出さなかったものの、その方がいいと考えていたそうで、パウサニアスの申出を受けて陣地を交換することとなりました。夜明けとともに、アテネ、スパルタ両軍は陣地交換のために移動を始めたのですが、ペルシア軍のボイオティア人部隊がこれに気づきます。陣替えを知ったマルドニオスは、自軍もペルシア人部隊をスパルタの正面に当てるべく、部隊の移動を始めました。パウサニアスもこれに気づくと、陣替えを中止して元いた場所に戻ると、ペルシア人部隊も元居た場所に戻り、結局最初の布陣と同じ位置に戻りました。これに気をよくしたマルドニオスは、騎兵を伝令としてギリシア軍に送り、スパルタの臆病を罵らせますが、スパルタはまったく無言で反応しませんでした。
中央やや左の"Plataies"が現在のプラタイアイの街。プラタイアイの戦いは、この付近で行われました。南東にアテネ、北にテーベ"Thiva"があります。 |
プラタイアの戦い 戦闘経過
戦闘は、ペルシア騎兵の攻撃で始まりました。ペルシア騎兵や投げ槍や弓矢などの投射武器でギリシア軍を攻撃。重装歩兵を主力とするギリシア軍は防戦一方になります。ペルシア騎兵隊は勢いに乗り、ギリシア軍が水の補給場としていたガルガピアの泉を破壊。このため、ギリシア軍は水不足に陥ってしまいます。困った各ポリスの指揮官たちが、パウサニアスの元に集って対策を協議した結果、彼らが出した結論は「後退」です。この戦場からおよそ10スタディオン(約1.8km)離れたプラタイアの町の前にオエロエという川が流れており、オエロエ川は途中で2つに分かれて流れて再び合流しているため、大きな中州ができていました。この中州まで後退すれば、ペルシア騎兵の攻撃も凌ぎやすいことが期待されます。また、実はこの時ギリシア軍の食料は底を尽きかけていた、という問題もありました。食料を調達するためにペロポネソスへ送った兵たちが、キタイロン付近でペルシア騎兵の妨害に遭い、進むも引くもできなくなってしまっていたのです。
こうしてギリシア軍は、その日の夜の第2夜警時(おそらく夜9時〜12時。『歴史』の訳者:松平千秋氏の注によると、参考ですが、古代ローマでは夜を4つの時間帯に分けていたそうです。18時〜翌朝6時の12時間を4つに分けると、第1夜警時は18時〜21時、第2夜警時は21時〜24時、第3夜警時は0時〜3時、第4夜警時は3時〜6時になります)にオエロエ川の中州まで後退する、と決定。時刻通りに、スパルタとテゲア、アテネを除く中央のギリシア軍は後退を開始しました。ところが、この部隊は中州に後退するのではなく、プラタイアの街に向かって撤退し、ガルガピアの泉から約20スタディオン(約3.6km)離れたヘラの神殿の前まで後退してしまいました。想定外の事態はこれだけではありません。スパルタ軍内で、後退に反対する者が出てきたのです。後退することに強硬に反対したのはピタネ軍団指揮していたポリアデスの子・アモンパレトスでした。彼は、先ほどの指揮官協議に出席していなかったため、パウサニアスに後退を指示されると「異国の軍に背を向けることはできない。スパルタの名を辱めることはしたくない。」と総司令官のパウサニアスの命令を頑として聞きませんでした。パウサニアスとその腹心のエウリュアナクスは、アモンパレトスを説得しましたが、アモンパレトスは全く聞き入れません。だからと言って、ピタネ軍団を置いて後退すれば全滅してしまいます。パウサニアスは、なんとかしてアモンパレトスを説得しようとしたため、スパルタ軍は予定の時刻になっても、自陣にとどまっていました。一方、左翼のアテネ軍も後退せずにとどまっていました。ヘロドトス曰く「考えていることと口にすることが裏腹になるスパルタ人の心情をよく理解しているため」、スパルタの動きを確認してから後退を開始しようと考えていました。案の定、スパルタ軍が動かないのを見ると、スパルタの陣に使者を送ります。アテネ軍の使者がスパルタの陣に着いた時、パウサニアスとアモンパレトスは口論の真っ最中でした。アモンパレトスは大きな石を抱えてパウサニアスの足元に置き、「これを投票石として、異国人から背を向けることに反対票を入れる」と主張し、パウサニアスはアモンパレトスを「気違い」と罵っています。そして、アテネの使者には「見たままを伝えてくれて構わない。ただ、アテネ軍はスパルタ軍の近くに移り、後退する時は時を同じくして後退してほしい。」と告げて、アテネの使者は引き返しました。
結局、パウサニアスは頑固に反対するアモンパレトスのピタネ軍団を置き去りにすることを決めて、夜明けと共に他のスパルタの部隊とテゲア軍を率いて後退を始めました。また、これを見たアテネ軍も後退を始めます。驚いたのはアモンパレトスです。まさか、自軍を置き去りにすることは無い、と考えていたアモンパレトスは、本当に置き去りにされたことに気づくと慌てて後退の指示を出し、並足で後退を開始しました。先に後退したスパルタ本隊とテゲア軍は、10スタディオン(約1.8km)離れたモロエイス川のほとりのアルギオピオスというところで、ここにはデメテルの神殿がありました。アモンパレトス率いるピタネ軍団が本隊に追いつくのとほど同時に、ペルシア軍騎兵の全軍が現れました。ペルシア軍騎兵は、空になったアモンパレトスの陣に入ると、敵が後退したことを悟ります。マルドニオスは、ギリシア軍が完全に撤退していると考え、ペルシア人部隊に追撃を命じました。これを見た他のペルシア軍部隊も続々と進撃を命じますが、足並みはそろわず、崩れた隊形のままギリシア軍に襲いかかってきました。ここに、プラタイアの戦い本戦の火蓋が切って落とされました。
パウサニアスはアテネ軍に使者を送り「我らスパルタ軍とアテネ軍は友軍の裏切りに遭い、我々だけでペルシア軍と戦うことになってしまった。こうなってしまった以上、お互いを助け合いながら戦い抜くほかない。敵騎兵隊に対処するにあたって、弓兵隊を援軍に送ってほしい。貴軍が敵騎兵隊に襲われた時は、我が軍が支援する。」と伝えさせました。アテネ軍は弓兵隊を援軍に送ろうとしたのですが、テーベ軍などペルシアに降伏したギリシア人の軍団がアテネ軍に襲いかかったため、」援軍を送るどころではなくなってしまいました。こうして、主戦場は2か所になりました。「スパルタ軍5万(軽装兵含む)とテゲア軍3000」対「ペルシア人部隊」と、「アテネ軍」隊「テーベ等ペルシア側ギリシア人部隊」の2つです。スパルタ側では、ペルシア軍の弓兵の攻撃に苦戦しました。ペルシア軍は盾を並べて防壁とし、その後ろから弓兵らが矢の雨を浴びせてきたのです。パウサニアスは生贄の儀式を行わせますが、なかなか吉が出ません。パウサニアスは、ヘラの女神に祈りをささげて助けを求めた所、テゲア軍が飛び出してペルシア軍に白兵戦を挑みました。この時、ようやくスパルタの生贄も吉を示したので、スパルタ軍もテゲア軍に続いてペルシア軍に突進。これに対し、ペルシア軍も弓を捨てて応戦し激しい白兵戦が繰り広げられました。最初はペルシアの盾の防壁付近が戦場でしたが、やがて盾の防壁は崩れ、デメテル神殿の付近が白兵戦の戦場となりました。この時、スパルタ兵の巧みな戦闘技術が光りました。ペルシア軍も、ギリシア兵の長槍をつかんで折る、という対策をしてきたのですが、それだけでは戦闘技術の差を埋めることはできず、ペルシア兵らは屈強なスパルタ兵に一人また一人と討ち取られていきました。マルドニオスは白馬に乗って奮戦し、その護衛のペルシア兵も奮戦して屈強なスパルタ兵を討ち取っていたのですが、マルドニオスが戦死し、護衛のペルシア兵も討ち取られると、残りのペルシア軍は敗走をはじめました。ヘロドトスは、この戦闘におけるスパルタ勝利の原因を「ペルシア軍の敗因は、武装を欠いている軽装にあった。重装歩兵を相手に軽装歩兵が戦ったからである。」と分析しています。
敗残のペルシア軍は、テーベの町とアソポス川に築いた木造の砦に逃げ込みました。この中で、開戦にあまり乗り気でなかったアルタバゾスが率いていた約4万のペルシア軍は、戦いの趨勢が見えた時点で退却を始め、テーベにも木造の砦にも戻らずにポキス方面へ向かい、ヘレスポントス海峡を渡ってアジアへ撤退していきました。アテネ軍と戦っていたテーベ軍は奮戦しています。テーベ軍は主だった勇士300人を失う被害を被り、テーベに退却していきました。また、テーベ騎兵隊は武功も立てています。スパルタ軍がペルシア軍に勝利した、という報を聞いたメガラ軍とプレイウス軍は、追撃に参加しようと隊列も整えずに急いでいたところを、テーベ騎兵隊が発見してこれを攻撃。600人を倒し、生き残った者はキタイロン山に逃げ込んでいきました。このテーベ騎兵隊の指揮官はティマンドロスの子・アソポドロスでした。
テーベ軍の奮戦はあったものの、結局敗れて砦に立てこもったペルシア軍は、追撃してきたスパルタ軍から砦を守り抜こうと必死に防戦します。スパルタ軍も、野戦は得意ですが攻城戦は苦手だったため、一進一退の攻防が続きました。しかし、この戦いにアテネ軍らが増援として駆けつけると、形勢は少しずつギリシア軍に傾き、ついにテゲア人が城壁に一番乗りを果たすと、ギリシア軍は砦になだれこみました。こうなると、ペルシア軍は完全に戦意を喪失。ギリシア軍による殺戮が行われ、砦に逃げ込んだペルシア軍は全滅しました。
プラタイアの戦い 結果
こうしてプラタイアの戦いはギリシア軍の勝利で終わりました。ヘロドトスは、この時の損害をペルシア軍約25万7000(約30万のうち、アルタバゾスが率いていた4万を差し引き、生き残りが約3000なので)、ギリシア軍はスパルタが91名、テゲアが16名、アテネが52名で合計162名であった、と『歴史』に記述しています。ただ、この数字にはテーベ騎兵に敗れたメガラ軍とプレイウス軍600が入っていませんし、そもそもペルシア軍の損害に対し、ギリシア軍の損害があまりに低すぎるので、古代からこの数字には疑問が持たれています。
・武功者の話
プラタイアの戦いにおいて、ペルシア軍で敢闘したのは、歩兵はペルシア人、騎兵はサカイ人で、個人ではマルドニオス、とされています。ギリシア軍では、テゲア軍とアテネ軍の奮戦が目立ちましたが、抜群の武勇を示したのはスパルタ軍である、とヘロドトスは評価しています。中でも最も武勲を上げたのは、テルモピュレーの戦いの生き残りとして壮絶な村八分を受けていたアリストダモスとしています。次点として、ポセイドニオス、ピロキュオン、アモンパレトスの名が挙げられましたが、当時のスパルタ人の評価では「アリストダモスは汚名を雪ぐべく、自ら死を望んで戦列を飛び出して大功を立てた。一方、ポセイドニオスは死を望んでいたわけでもないのに大功を立てたのだから、ポセイドニオスの方が優れている」として、アリストダモスの活躍は顕彰には当たらない、としました。
ヘロドトスは『歴史』の中で、余談としてギリシア一の美男・カリクラテスについて記述しています。カリクラテスはスパルタ人で、スパルタ内はもちろん、全ギリシアで一番の美男とされていました。カリクラテスはプラタイアの戦いに従軍していたのですが、ちょうどパウサニアスが生贄の儀式をしている最中、腰を下ろしている時に脇腹に矢を受けてしまいます。そして戦闘が始まり戦友が戦っている間、後方に運ばれたカリクラテスは、アリムネストスというプラタイア人に「自分はギリシアのために戦って死ぬことに悔いはないが、実際に戦えなかった。また、手柄を立てたかったのに、自分らしい働きができなかったことが口惜しい」と言って死にました。
アテネ人では、デケレイア区の出身でエウテュキデスの子・ソパネスが軍功第一とされました。ソパネスにゆ武勇伝が2つあります。1つは、ソパネスは常に鉄製の碇を青銅の鎖で鎧の帯に結び付けており、いざ戦闘となると、その碇を地面に放り投げて、自分の立ち位置を変えられないようにして戦う、というものです。敵が敗走したときは、碇を拾い上げて追いかけるそうです。もう1つはやや異なる内容で、碇はソパネスが使った大盾の紋章だった、という話です。ヘロドトスは『歴史』の中でこのエピソードを紹介しているのですが、ソパネスがプラタイアの戦いでどのような武功を立てたのか、については書いていません。
・パウサニアスに関する話
プラタイアの戦いで勝利の栄光を手にしたスパルタのパウサニアスの価値観を示すエピソードが、ヘロドトスの『歴史』に記述されています。アイギナ軍の中にピュテアスの子・ランポンという者がいました。ランポンはパウサニアスに追従するつもりで「クレオンブロトスの御子よ(注:クレオンブロトスはパウサニアスの父)、あなたは偉大な事業を成し遂げ、ギリシアを救った英雄です。しかし、もう一つの行いを加えれば、あなたの名声はさらに高まることでしょう。テルモピュレーで叔父君レオニダスは磔にされました。その仇を討つために、マルドニオスの遺体を磔にしましょう。」と言いました。ところが、パウサニアスはそのような話を聞いて不愉快になり「アイギナの人よ、そなたには正しい思慮が欠けている。最初に私を褒め称えておきながら、死骸に辱めを与えよう、とペルシア人のようなことを勧めるからだ。レオニダスの仇は、既に無数の敵を倒したことで取っている。今後、二度とそのようなことを勧めるな。」とランポンの追従を一蹴しました。ちなみに、マルドニオスの遺体は翌日から行方不明となりました。「自分がマルドニオスを葬った」と主張する人物が何人も現れ、中にはマルドニオスの遺族から報酬を貰った、という者もいたのですが、ヘロドトスも『歴史』の中で「真相はわからない」と記述しています。
・戦利品の話
ペルシア軍が築いた木造砦にはおびただしい数の戦利品があった、とヘロドトスは『歴史』で記述しています。金銀製の調度品、寝台、盃、鍋、ペルシア兵が身に付けていた黄金の腕輪、首輪、ペルシア風短剣などです。これらを収集するのは、パウサニアスに命令されたヘイローテス(国家奴隷)たちでした。ただ、奴隷たちの中には、監視官の目を盗んで戦利品を自分の懐に入れたりもしました。そして、それらの金銀をアイギナ人に青銅のような値段で売り、アイギナ人はその金銀を売り払って巨万の富を築いたのである、とヘロドトスは『歴史』で記述しています。なお、訳者の松平千秋氏の注によると、ヘロドトスはアイギナ人が嫌いなので、この話の真偽は疑わしい、と書いています。
さて、こうしてギリシア軍が得た戦利品のうち、10分の1をデルフォイへ奉納する黄金の鼎を作る費用に充てました。この鼎は、青銅で作られた三つ頭の蛇の上に掲げられる形で作られて、デルフォイに奉納されました。なお、この鼎は後の時代になってローマ帝国のコンスタンティヌス大帝がコンスタンティノープルに移し、現在もイスタンブルに残っているそうです。また、オリンピアの神には10ペキュスの高さの青銅のゼウス像を作って奉納し、イスミア地峡のポセイドン神には6ペキュスのポセイドンの青銅像を奉納しました。それらの残り(ペルシア人の妾の女、金、銀、貴重品など)は戦闘に参加した兵士達の勲功に応じて分配されました。
戦利品については、もう一つのエピソードをヘロドトスは『歴史』で紹介しています。マルドニアオスが使っていた部屋を見たパウサニアスは、その豪華さに驚きます。というのも、クセルクセスが退却するにあたり、自分が使っていた調度品をマルドニオスに残していったからです。そしてパウサニアスは、料理人らに普段マルドニオスが食べていたものと同じ料理を作るように命じました。同時に、自分の下僕にいつものスパルタ料理を作らせました。できあがった2つの料理を並べて、その雲泥の差に苦笑したパウサニアスは(もちろん、ペルシア料理の方が上)、ギリシアの指揮官らを集めて、2つの料理を並べてこう言いました。「ペルシア軍の指揮官らは、このように十分な物を持っているにも関わらず、貧しい我らから物を奪いにやって来たわけだ。それを諸君らに見せたかった」。
・プラタイアの戦いに参加しなかったポリスの話
プラタイアの戦いが終わった後に、マンティネア軍とエリス軍が到着したのですが、既に戦闘が終わったことを知ると、それぞれ自国に帰っていきました。その後、その軍の指揮官は追放処分とされました。
似たような話が、戦死者の埋葬にも出ています。ペルシア軍と戦ったスパルタ、テゲア、アテネ、そしてテーベ騎兵隊の襲撃を受けたメガラとプレイウスは戦死者を埋葬し、墓を建てたのですが、戦闘に参加しなかったポリスは墓を建てることはできまんでした(そもそも戦死者が出ていないので)。しかし、後になってこのことを恥じるようになり、わざわざ空っぽの墓を作るポリスが出てきました。実際、アイギナ人の墓と称される墓がプラタイアにあるのですが、これなどは戦闘から10年ほどたった後に、アイギナ人から頼まれて建設されたものだ、とヘロドトスは聞いたそうです。
・テーベの降伏
プラタイアの戦いが終わってから11日が過ぎ、戦後処理が片付くと、ギリシア軍はテーベへ向かいました。ペルシアに味方したテーベ、中でも首班であるティマゲニダスとアッタギノスの身柄引き渡しを要求し、テーベを包囲しました。ギリシア軍がテーベを包囲し、周囲を略奪してから20日目になると、ティマゲニダスはテーベの民衆に「テーベ人諸君、ギリシア軍は我々の身柄を確保できなければ、テーベを陥落させるつもりである。これ以上、我々のためにボイオティア全土に被害を及ばすわけにはいかない。そこで、こうしてはどうか。ギリシア軍は本当に望んでいるのは金であり、我々の身柄引き渡しはその口実に過ぎないのであれば、国庫から支出して応じようではないか。ペルシアに味方したのは国の総意であったのだから。そうではなく、ギリシア軍の目的は本当に我々の身柄引き渡しにあるのであれば、それに身を委ねようと思う。」と語り、テーベ人もまさにそのとおりであると考え、テーベとパウサニアスの間で該当者らの身柄引き渡しの約束が結ばれました。ところが、ここで事件が起きます。該当者の一人であるアッタギノスが逃亡したので。代わりに、アッタギノスの子どもたちがパウサニアスの前に引き出されましたが、パウサニアスは子どもたちには罪は無い、として釈放。その他の者たちについては、弁解の機会、あるいは金で許されると考えていたのですが、パウサニアスは諸ポリスの軍を全部帰した後、彼らをコリントに連行して処刑しました。こうして、ペルシアに味方したテーベの問題は片付きました。
<管理人の覚書>
ヘロドトスはプラタイアの戦いを大勝利としています。ヘロドトスの記述が概ね正しいとなると、ギリシア軍の勝因はひとえに「ギリシア兵の戦闘力はペルシア兵を凌駕していた」になるのではないか、と思います。とういうのも、プラタイアの戦いでは、戦略面でも戦術面でも、分があったのはペルシア軍に思えてならないからです。戦略面では、マルドニオスが騎兵を活用することによって、ギリシア軍の補給にダメージを与えていました。エリュトライの前哨戦では、ペルシア騎兵は敗北していますが、その後も別のペルシア騎兵がギリシア軍の後方を攪乱した結果、ギリシア軍を食料不足に陥れているため、戦略面ではペルシア軍が優れていたと思います。戦術面でも、ペルシア騎兵がガルガピアの泉を破壊することで、水の補給を断つなどの活躍を見せる一方で、ギリシア軍はイマイチです。スパルタ軍は一部の頑固者が総司令官の命令に従わず、全軍の統率が取れず、スパルタ、テゲア、アテネ以外のギリシア軍は後退し過ぎて戦闘に参加できず、と、よくこんな状態で勝てたな、と思うばかりです。攻撃に出たペルシア軍も、戦列が乱れたり、アルタバゾスの軍は逃げたりなどしていますが、ギリシア軍の体たらくに比べればだいぶマシなのではないでしょうか。こんな状態で始まったプラタイアの戦いにも関わらず、ギリシア軍が圧勝できるのは、個々の兵士の戦闘力が格段に違う、ということぐらいしか思いつきません。例えていうなら、ギリシア軍は暴れん坊将軍で、ペルシア軍は斬られ役、といったかんじでしょうか。それくらいの戦闘力の差がなければ、これだけの兵数差、戦術差、戦略差をひっくり返すことなどできないのではないでしょうか。
ミュカレの戦い (Battle of mykale)
ヘロドトスがペルシア戦争最後の戦いとして記述したのが、ミュカレの戦いで、奇しくもプラタイアの戦いと同じ日に起きた、と記録しています。プラタイアの戦いよりも影が薄いミュカレの戦いですが、ヘロドトスの『歴史』に基づいて、ミュカレの戦いについて紹介していきます。
ミュカレの戦い 戦闘前
サラミスの海戦の翌年、紀元前479年。ギリシア海軍は、スパルタのレオテュキデスを司令官として、エーゲ海のギリシア側とペルシア側のちょうど中間地点にあるデロス島に停泊していました。ここに、残存のペルシア海軍が拠点としていたサモス島(サモス島はエーゲ海の西側、つまりペルシア側に位置している島)から、3人のギリシア人がやってきました。3人の代表格であるアリスタゴラスの子・ヘゲシストラトスは「サモスの人々はギリシア海軍が姿を見せたらすぐに離反するでしょう。サモス島に停泊しているペルシア軍などは恐るに足りません。ペルシアに隷属しているサモス島をどうか解放してください。もし、私たちの言うことが嘘だと思うなら、人質としてもかまいません。」と、海軍の指揮官たちにサモス島攻撃を促しました。総司令官のレオテュキデスは、3人のうちの一人の名が「ヘゲシストラトス(軍を案内する者、という意味)」であることを縁起が良いと考え、ヘゲシストラトスを手元に置き、他の2人は返して出航の準備を始めました。翌朝、出港前にエウエニオスの子・デイポノスが生贄の儀式で吉凶を占ったところ、結果は「吉」。ギリシア海軍はデロス島を出航して、西のサモス島に向かいました。サモス島に到着したギリシア海軍は、カラモイという場所にあるヘラの神殿の前に停泊して海戦の準備を始めましたが、サモス島のペルシア海軍はこれを見ると、サモス島を放棄してイオニアのミュカレに撤退していきました。ミュカレには、容姿も体格もペルシア人の中でも抜群と謳われているティグラネス率いる6万のペルシア陸軍が防衛にあたっていたからです。ペルシア海軍は彼らと合流しようと考えたわけです。ミュカレに上陸したペルシア軍は、木材や石材を使って防壁を構築し、さらに防壁の周囲に杭を打ち込んで防衛体制を整えました。一方、ペルシア海軍が既に逃走していることを知ったギリシア海軍は「敵を取り逃がした」と悔しがり、今後どうしたものかと悩んでいましたが、結局はペルシア軍を追ってミュカレを攻撃することに決定。ミュカレに着き、ペルシア海軍は上陸して防衛体制を整えているのを見ると、できるだけ船を陸に近づけて、触れ役にこのように言わせました。「イオニア人諸君、これから私の言うことを胸に留めてくれ。ペルシア人どもには全くわからないからな。戦いが始まったら、我々は「自由」を第一に考えなければならない。合言葉は「ヘラ」である。この話を聞かなかった者たちには、諸君らから伝えてほしい。」ヘロドトスは、この狙いはアルテミシオン海戦後にテミストクレスが行ったのと全く同じ作戦である、と評価しています。つまり、これがペルシア人に知られなければイオニア人はギリシア軍に上手く加担できますし、ペルシア人に知られたら、ペルシア人はイオニア人部隊を信用しなくなるだろう、というのが狙いです。
ミュカレの戦い 戦闘経過
こうして、ギリシア軍は上陸を開始します。一方、ペルシア人らは、ギリシア軍の呼びかけかを目の当たりにして、まずサモス人が怪しいと疑い、彼らを武装解除させました。そう思った背景には、昨年、アテネがペルシア軍によって陥落した時のアテネ人捕虜500人がサモス島で送られてきた時、サモス人らは彼らの身代金を払って解放してやり、アテネまで返していた、という話がつい最近あったためです。アテネと気脈を通じている、と考えたのでしょう。そして、次にイオニア地方の都市・ミレトスの部隊も怪しいと考え、本陣から離してミュカレ山頂に通じる道の警備を命じました。
一方、ギリシア軍にはある風説が流れます。波打ち際に、伝令の杖が置かれているのが発見されたのです。これは、ギリシアの神々の中で伝令役であるヘルメスの介入であり、その風説は「ギリシア軍がマルドニオス率いるペルシア軍をボイオティアで打ち破った」という内容でした(実際、プラタイアの戦いがそれ)。これでギリシア軍の士気は大いに上がりました。
ギリシア軍は、海岸線と平坦な道をアテネ軍を主力とするコリント、シキュオン、トロイゼンの軍が進み、スパルタ軍は峡谷や丘陵地帯を進んでいきました。最初に戦端が開かれたのは、海岸線の方でした。戦闘序盤、ペルシア軍が並べた盾がまだ倒されないうちは、両軍ともに奮戦していたのですが、スパルタ軍に手柄を取られまいとアテネ軍らが激しく攻め立てるとペルシア軍の盾は倒され、ギリシア軍はペルシアの陣になだれこんでいきました。ペルシア軍は長時間にわたって防戦したのですが破られ、防壁内に撤退。ギリシア軍も防壁内に突入していきます。こうなると、ペルシア人以外の部隊は戦意を失って我先にと敗走していきましたが、ペルシア人部隊は少数ずつの集団となって防戦。しかし、次から次へと侵入してくるギリシア軍が侵入してきます。スパルタ軍が迂回路から侵入したうえに、戦闘前に武装解除されていたサモス人部隊は、ギリシア軍を援助するためにあらゆる努力をしました。これを見ていたその他のイオニア人部隊は、ペルシア人以外の外国人部隊を攻撃しはじめ、ペルシア軍はついに敗北。ペルシア人指揮官のうち、ティグラネスとマルドンテスは戦死、海軍指揮官のアルタユンテスとイタミトレスは逃亡しました。ギリシア軍側も被害は少なくなく、特にシキュオン兵の被害が大きく、指揮官のぺりラオスが戦死しています。なお、ミュカレ山頂に通じる道の防衛を任されたミレトス人部隊も、ギリシア軍に寝返りました。ミレトス人部隊は、敗走してきたペルシア軍部隊に、わざとギリシア軍がいる方面への道を教えて騙し、最後にはミレトス人部隊もペルシア軍を攻撃しました。イオニアのギリシア人は、ここに再び反乱を起こしたわけです。
ミュカレの戦い 結果
・武功者の話
ミュカレの戦いで優れた武功を立てたのはアテネ軍でした。中でも、エウトイノスの子・ヘルモリュコスでした。なお、ヘルモリュコスはパンクラティオン(相撲と拳闘を合わせたような格闘技)の名人として知られています。アテネ軍に続いて、コリント、トロイゼン、シキュオンの働きが目覚ましかった、とされました。
・戦後処理
残されたペルシアの軍船や防壁はことごとく焼き払われ、ギリシア軍は船に乗って帰国しました。この時、ギリシア軍に寝返ったイオニア人らをどうすべきか、で議論が起こりました。ペロポネソス半島の軍は「イオニア人らをこの地に残しても、再びペルシアの支配を受けることになるだろうし、自分たちがここに残って守ってやる、というのも負担である。そこで、ペルシアに加担したポリスの住民どもを立ち退かせて、そこにイオニア人を住まわせるとよい」と主張しましたが、これにアテネが断固反対。結局、サモス島、キオス島、レスボス島の住民には忠誠を誓わせたうえで、ギリシア同盟に組み入れる、ということになりました。
ペルシア戦争 戦後
ペルシア軍に破壊されたアテネは、戦後に復興が進みました。テミストクレスの指揮により、アテネと少し離れたとこりにある港ピレウスを結んでその道を城壁で囲む、という都市+港の都市建設が始まりました。しかし、この工事は他のポリスに脅威を与えます。スパルタは使節を派遣して、工事の中止を要請しましたが、テミストクレスは自身でスパルタに赴き、交渉を遅らせているうちに工事を進めてしまい、城壁建設を既成事実にさせてしまいました。なお、この時のスパルタの懸念は的中し、しばらくするとアテネはギリシア世界を支配する帝王のような振舞をするようになります。
最後に、古代の歴史家や作家による評価について。悲劇作家アイスキュロス、歴史家ヘロドトスともに、ペルシア戦争は「自由の戦い」と評価しています。彼らはギリシア人ですので、至極当然の考え方だと思います。この勝利により、専制君主の奴隷になることから免れ、僭主制の専横もはねのけた、と表現しています。
ギリシア軍の士気向上に一役買った詩人シモニデスは、前476年(80歳? ご長寿!)、シチリア島のギリシア人都市シラクサの僭主ヒエロンに招かれて、宮廷詩人となりました。その後も詩人としての活動を続け、前468年頃(88歳?)、シラクサで亡くなったそうです。
歴史の父・ヘロドトス
ペルシア戦争に関する歴史は、主にヘロドトスの名著「ヒストリアイ(歴史、の意)」に拠るところが大きいです。ローマ時代の最高知識人と評されるキケロは、ヘロドトスを「歴史の父」と評しています。いわば、ヘロドトスが「歴史」という概念を産みだした、というわけです。歴史事項の記録に関して言えば、決してヘロドトスが史上初だったわけではありません。単純な事柄の記録という意味では、古代文明には存在していました。しかし、その記録に文学的価値と学術的視点を加えて「作品」として産みだしのは、ヘロドトスが最初でした。私がこのサイトで紹介している「歴史」というジャンルも、その産みの親はヘロドトスといえます。
ヘロドトスは紀元前484年に小アジア南西部の街・ハリカルナッソスで生まれました。つまり、ペルシア戦争後期に誕生し、4歳の頃にサラミスの海戦が繰り広げられ、5歳の時に事実上終結した、ということになります。そのため、ヘロドトス自身のペルシア戦争の経験はごくわずかでした。だからこそ、親や周囲の人から英雄物語として聞いたであろうペルシア戦争の原因を知りたい、と思ったのかもしれません。
ヘロドトスのその生涯のほとんどは、旅に費やされたとそうです。アテネにもメトイコイ(外国人)として数年間滞在したことがあり、自身の作品が公の場で読まれることもあったそうです。その後、南イタリアに新たに建設された植民都市・トゥリオに移住し、そこで著書『歴史』を完成させて前430年より少し後に生涯を閉じました。
ヘロドトスが著書に名付けた「ヒストリアイ」という言葉には、従来は「調査」「探求」といった意味で用いられていました。ヘロドトスは、ペルシア戦争という一大歴史事件がなぜ起きたのかを知りたい、という強い知的欲求に駆られて大量の文献を読み、旅に出て現地の人々から詳しい話を聞いて記録していきました。批判を付けるとしたら、ヘロドトスは現地の人々の話を鵜呑みにしすぎている、という傾向はあります。こうして完成した「歴史」は、アケメネス朝ペルシアとギリシアの初期の歴史が豊富に記録の他に、ヘロドトスが収集した各地の情報が盛り込まれ、ミュカレの戦いまでのペルシア戦争の経緯が載せられました。こうして「ヒストリアイ」という言葉に、今日私たちが使っている「歴史」という意味が加わり、英語でいう"history"という言葉が誕生したわけです。
ペルシア戦争 後世における意義
強大なアケメネス朝ペルシア帝国を破った、という事実はギリシア人たちにこれまでにないほどの誇りと一体感をもたらしました。ギリシアを独立したポリスの連合体ではなく、国家として統一できたのはこの時だけだったのではないか、とも言われています。
また、ペルシア戦争の勝利は、後の世にヨーロッパとアジアを区別が生れるきっかけになった、と後世の歴史家の間で考えられるようになりました。
ペルシア戦争 略年表
前500年 | |
ミレトス僭主アリスタゴラスによるイオニア地方ギリシア人都市の反乱勃発。 | |
前498年 | |
アリスタゴラス軍がエフェソス付近でアケメネス朝軍に敗北。 | |
前497年 or前496年 | |
アリスタゴラスがトラキアで戦死。 | |
前494年 | |
アケメネス朝がミレトスを攻略。 | |
前493年 | |
イオニア地方の反乱終息。 | |
前492年 | |
アケメネス朝の第1回ギリシア遠征軍進発(ペルシア戦争第1期) しかし、海軍がアトス沖で難破してたために中断。 | |
前490年 | |
マラトンの戦いでギリシア軍勝利(ペルシア戦争第2期) | |
前489年 | |
ミルティアデスがパロス島遠征に失敗 失意のうちに死去 | |
前486年 | |
ダレイオス1世死去 息子のクセルクセス1世が後継者に | |
前483年 or前482年 | |
ラウレイオン銀山で新たな鉱脈が発見される 海軍増強が始まる | |
前481年 | |
秋 | ペルシア再襲来に備えて「ギリシア会議」開催 |
前480年 | |
9月下旬 | サラミスの海戦でギリシア軍勝利(ペルシア戦争第3期) |
前479年 | |
9月下旬 | プラタイアの戦いでギリシア軍勝利 ペルシア戦争終結 |
前478年 | |
パウサニアスがギリシア艦隊を率いてビザンチオンを占領 | |
このページ作成に使用した基礎資料