エンリケ航海王子

大航海時代の口火を切った国は、ヨーロッパの西端、イベリア半島のこれまた西端にあるポルトガルでした。世界地図を見てみると、ポルトガルは周囲をスペインと海に囲まれていることがわかります。このポルトガルが、勢力を拡大しようとした場合、スペインを攻略するか、船で海外に進出するしかない、ということが地形的な面からも明らかです。
そんな環境にあったポルトガルで、実際に海外進出を進める政策を執ったのが、エンリケ航海王子(Henrique o Navegador)でした。日本語では、「ヘンリー航海王」とも呼ばれることがありますが、この呼び方はやや語弊があります。エンリケ航海王子は、あくまで「王子」であって、ポルトガル王として即位したことはありません。また、「ヘンリー」というのは英語読みから来ているので、ポルトガル人の彼にはそぐわないと思います。このサイトでは、「エンリケ航海王子」で統一します。

さて、エンリケ航海王子は、ポルトガル王ジョアン1世とその妃ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘フィリッパの三男として、1394年3月4日、ポルトガル北部の都市オポルトで生まれました。エンリケ航海王子が海外進出策を執った理由の一つとして、父王ジョアン1世が国王として即位する際にオポルトの海商ブルジョワジーの支援を得て即位した、という背景があります。また、エンリケ航海王子自身が海外進出政策に興味を示したのが、1415年のセウタ(ジブラルタル海峡に面した、アフリカ側岬北端の要塞都市)攻略、と言われています。セウタ攻略に従軍したエンリケ航海王子は、これを機に海外進出を積極的に進めるようになりました。1418年にサグレス城に研究施設を設置し、1419年、ポルトガル南部のアルガルベ総督(アルガルベは現在のファロ県)に任命されてラゴスに居を定めると、外国の著名な天文学者、海図作成者、航海者を招いて航海術の発展に努めました。

ポルトガルが、海外進出策を推進した原因としては、他にも以下の2つが挙げられています。
1.香辛料貿易への参入
当時、ヨーロッパでは香辛料がたいへんな高値で取引されていました。ヨーロッパ人の食文化において、動物の肉は欠かせないものなのですが、そのお肉にを香辛料で味付けすると、とても美味しくなるんだそうです。当時、お肉といえば保存用に塩漬けされたものが多かったそうなので、香辛料で味付けしたお肉は、王族や貴族、金持ちの商人などしか食べられない美食であったそうです。その香辛料は、インドや東南アジア産のもので、イスラム商人らが仲介して、地中海貿易ルートを通ってヨーロッパに入ってきていました。この香辛料貿易に参入する一つの方法は、現地(インド)に直接行って、香辛料を仕入れることです。そのため、インド航路を発見する、ということは香辛料貿易の利益を得ることができることを意味していました。

2.プレステ・ジョアン(Prester John)伝説
もう一つの原因が、プレステ・ジョアン(プレスター・ジョン、とも)の伝説です。この伝説では、イスラム諸国よりもはるか東方に、ヨーロッパ人と同じキリスト教徒の国があり、彼らと協同してイスラム教徒と戦うことができる、という話が流布していました。当初は、この国はアジア方面にいると考えられていましたが、大航海時代が始まる15世紀頃には、アフリカにこの国がある、という説が有力となっていたそうです。これが、アフリカ探検の動機の一つになっている、とか。実際、当時のエチオピアは原始的なキリスト教を信じる王国が支配していましたので、この伝説はあながちデタラメではなかったのです。

エンリケ航海王子の政策により、実に多くの探検隊が、ポルトガル南部の都市ファロの港から出航していきました。1418年には、モロッコから西に700kmの位置にある大西洋に浮かぶ島、マデイラ島に到達しました。ただし、マデイラ島自体は未知の島ではなく、1351年のイタリアの地図には既に記載されていたため、この頃にはその存在は知られていたようです。マデイラ島は、この時からポルトガルの植民地として開発が始まりました。日本人にはあまりなじみがありませんが、保養地、観光地としてヨーロッパ方面では有名であるそうです。
ただし、エンリケ航海王子自身が探検隊に加わることはなかったそうです。なんでも、彼は船酔いがひどい体質らしく、長期間にわたる航海にはとても耐えられなかったそうです。名前からすると、自ら探検隊を率いて航海していそうな印象がありますが、あくまで彼は「航海推進本部」に腰を据えていたわけですね。
1427年には、ポルトガルの西方約1,200kmの大西洋に浮かぶアゾレス諸島に到達し、その後植民活動が始まりました。島の大部分は山がちで断崖絶壁が多かったものの、当初は捕鯨の拠点となったり、温暖な気候を利用してブドウの栽培が行われました。島に広がるブドウ畑の景色は、2004年に世界文化遺産に登録されており、現在でも保養地となっています。

Yahoo!地図より ポルトガルとマデイラ島、アゾレス諸島の位置関係

その後、探検隊の進路はアフリカ大陸西岸に沿って南下するコースをたどり、1434年には前人未踏であったボジャドル岬を通過し、1441年にはブランコ岬、1445年にはヴェルデ岬、1456年にはギニア湾まで到達し、エンリケ航海王子が亡くなった1460年にはシエラレオネまで到達しました。
エンリケ航海王子の推進により、ポルトガルは当時のヨーロッパ人にとって未知のエリアだったアフリカ大陸西岸部をどんどん南下し、彼らの地図を更新していったわけです。後に、歴史の教科書に残る大発見も、エンリケ航海王子が切り開いた航路の延長線上に存在していることを考えると、その業績には大きな意味があったと考えられます。
ポルトガルでは、エンリケ航海王子が亡くなった後も、探検航海は推進されました。1482年8月には、カン・ディエゴ(Cao, Diogo)がコンゴ川を発見しています。カンは生没年不詳で謎が多い人物ですが、ポルトガル王アフォンソ5世に仕え、セントカサリーン岬(南緯1度52)からクロス岬(南緯21度50)までのアフリカ西海岸を探検しました。この探検が、後の喜望峰発見の地ならしになっています。

喜望峰到達


1487年、ジョアン2世(完全王)の命により、カンの探検を引き継いだディアス(37? Dias de Novais, Bartolomeu)は、南西アフリカ沿岸の航海に出発しました。そして翌1488年、ついにアフリカ大陸最南端である喜望峰「英語名:Cape of Good Hope」アフリカーンスでは「Kaap de Goede Hoop」(現在の南アフリカ共和国ケープタウンの南約50km、ケープ半島の南端に位置)に到達します。
古代ギリシャの歴史家・ヘロドトスによると、はるか以前にフェニキア人がアフリカ周航をした、とする記述がありますが、これを除けばディアスがヨーロッパ人として初めて喜望峰に到達したことになります。ちなみに、喜望峰は最初、ディアスによって「嵐の岬」と名付けられました。というのも、彼らは夜喜望峰付近での猛烈な嵐に巻き込まれ、あやうく沈没しそうになるのを必死に耐え忍んでいる間に、知らない間に喜望峰を回って北上していることに気づき、そこから引き返して喜望峰を発見した、という背景があるからです。ディアスは喜望峰発見に興奮し、ここから北上すればインドまで行けると考えましたが、部下たちの支持が得られなかったため、ここで引き返すこととなりました。この報告を受けたジョアン2世は、ヨーロッパの宿願であったインド航路が開かれたことにより「喜望峰(Caboda Boa Esperanca)」と改名し、現在に至ります。

現在の喜望峰
喜望峰はフォールス湾の西側に突出した半島の先端(東経18°29、南緯34°21)位置します。1652年、オランダ東インド会社から派遣されたJ・リーベークにより、半島北西部テーブル湾岸にインド航路の船舶のための補給用の農牧生産地と砲台が創設され、中継基地として発展しました。その後、ここを拠点としてオランダ人農業移住者を中心に白人の南アフリカ移住が進み、次第に内陸に及んだそうです。美しい景観に恵まれ、動物保護区があり、周囲は観光地となっており、最先端部まで自動車道路が通じています。

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