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オランダ独立戦争(八十年戦争)

small5
「今回のテーマはオランダ独立戦争(別名:八十年戦争)だ。本編では、フェリペ2世とスペイン全盛期の章に出てくる一事件だったが、ここでは主役として扱うぜ。」
big5
「詳細篇の聞き役はいつもどおり私・big5です。今日もよろしくお願いします。」
small5

さて、まずはいつもどおり年表から見ていこうか。」

年月 オランダ独立戦争のイベント その他のイベント
1556年 スペイン王・フェリペ2世即位
1566年 4月 オラニエ公ウィレムらが、スペイン支配に対する抵抗組織設立
8月 ネーデルラント全体にスペイン支配に対する抵抗運動が広がる
1568年 4月 オラニエ公ウィレムが挙兵(オランダ独立戦争 開戦)
1575年 スペインの暴虐
1576年 11月 ヘントの和約(ヘントの平和) ネーデルラントが一致団結してスペインと一時的に和平
1577年 1月 ブリュッセル同盟結成 ネーデルラントはスペイン王権下の自治連邦に
1579年 パルマ公ファルネーゼ着任。南部(現ベルギー)はアラス同盟、北部(オランダ)はユトレヒト同盟結成
1584年 オラニエ公ウィレムが暗殺される
1585年 8月 フランドル地方のアントワープがスペイン軍に攻略される
1588年 アルマダの海戦でスペイン無敵艦隊がイギリス艦隊に大敗
1590年 (日)豊臣秀吉が天下統一
1598年 フェリペ2世がネーデルラントを娘・イザベラとその夫・アルプレヒトに贈る。
1609年 12年間の停戦協定が結ばれる
1618年 (独)ドイツ三十年戦争 開戦
1624年 第三次ブレダ包囲戦
1637年 第四次ブレダ包囲戦
1648年 ウェストファリア条約により、オランダ独立が正式に承認される。

序盤 オランダ(ネーデルラント)のカルヴァン派とフェリペ2世の弾圧

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「オランダ独立戦争の話をする前に、知っておくべき重要事項が
オランダにカルヴァン派(ゴイセン)が広まった
ということだな。これは本編「カルヴァンの宗教改革」でも説明されているとおりだ。」
big5
「宗教改革の中で成立したカルヴァン派の教えは、ネーデルラントを発展させた毛織物の商工業者に広く受け入れられました。オランダではカルヴァン派の信徒はゴイセンと呼ばれていますね。」
small5
「商売が軽蔑の目で見られていたカトリック世界の商人らにとって、カルヴァン派の教えは救いも同然だっただろうな。商工業が発展していたネーデルラントで、カルヴァン派が広まったのも当然の結果だと言えるぜ。
ところが、ここで次の重要イベントが発生する。1556年、スペイン王フェリペ2世(この年28歳 英語:Philip II of Spain)の即位だ。」

King PhilipII of Spainフェリペ2世 制作者:Antonis Mor 制作年:1560年

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フェリペ2世は「超」が付くほどの熱烈なカトリック信者だったんだ。そんな熱烈なカトリック信者が、当時中南米に広大な植民地を持つ一大強国だったスペイン王になったもんだからたいへんだ。フェリペ2世は「カトリックを守る」という強い信念を持ってスペイン王のk数々の職務に励んだ。そんなフェリペ2世の仕事の中で、今回重要なのがネーデルラントのカルヴァン派(ゴイセン)弾圧だ。」
big5
「フェリペ2世の弾圧とは、具体的には以下になります。
・プロテスタントに対する異端審問所を設置
・法外な金額の新税を課税
・スペイン軍のネーデルラント駐留
などです。どれも、ネーデルラントのゴイセンの力を削るのには十分な威力を持っていました。」
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「これに対抗したのがネーデルラントの貴族達で、その筆頭格はオラニエ公ウィレム(この年33歳)だ。」

WilliamOfOrange1580
オラニエ公ウィレム 制作者:Adriaen Thomasz. Key 制作年:1579年
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「余談ですが、オラニエ公の「オラニエ」はアルファベットで書くと"Orange"です。Orangeは南仏のプロヴァンス地方の地名で、彼は家系の巡りあわせでオランジュ公爵の地位を継承していました。"Orange"を英語読みすると「オレンジ公」となり、フランス語読みでは「オランジュ公」となります。オランダ語では"Oranje"で、カタカナ表記すると「オラニエ公」です。紛らわしいですが、最近の世界史では現地語読みを優先するので、ここでは「オラニエ公」に統一します。
さて、本題に戻ります。1566年、ネーデルラント貴族らがブリュッセルに押しかけ、さらに民衆も加わって暴動となり、カトリック教会や修道院が襲われてしまいます。スペインに対する反乱はネーデルラント全域に広がっていきました。」
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「この事態を受けて、厳格なカトリック信者であるフェリペ2世が黙って見過ごすはずがなく、武力鎮圧のためにスペイン軍を送った。抵抗を続けていたブリュージュやヘントなどの有力都市が陥落し、反乱の首謀者格と見られたネーデルラント貴族らは処罰されたんだ。有名なのは、エフモント伯(エグモント伯、とも書く)のラモラル(1522-1568年)で、彼は斬首刑に処されている。」
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「これも余談ですが、ラモラルの処刑はその後、多くの文化作品の題材となりました。有名どころでは、ドイツの文豪ゲーテは戯曲「エグモント」を書き、この劇中音楽「エグモント序曲」はドイツが誇る音楽家ベートーヴェンが作曲しています。」
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「だが、これでへこたれるネーデルラントのゴイセンたちではなかった。その後も、オラニエ公ウィレムらがスペインに対する反乱を継続。ネーデルラントはしばらくの間戦火に包まれた。そんな中、状況を変える事件が発生する。1575年、スペインの暴虐と呼ばれる事件が起きた。戦続きでフェリペ2世は兵士たちに給与を支払うことができなくなってしまった。不満が爆発したスペイン兵らは、ブランバント州(現在のベルギー)に押し入って略奪を行い、人質を取って身代金を要求するなどした事件だ。これで、ネーデルラント民衆の反スペイン感情は強くなっていったんだ。」
big5
「この事件のポイントは、スペイン兵が狼藉をはたらいたブラバンド州(現在のベルギー)は、ネーデルラントでも南部でカトリックが多い地域だったこと、ですね。元々、オランダ独立戦争の対立の中核は
スペインのフェリペ2世(カトリック) vs ネーデルラント北部のゴイセン
でした。ところが、反乱が進展した結果、対立構図は
スペインのフェリペ2世(カトリック) vs 全ネーデルラント
に広がっていったわけですね。ブラバント州における「スペインの暴虐」は、全ネーデルラントがフェリペ2世に対して反乱している、という対立関係を強調する事件だったわけですね。」
small5
「その結果、翌年の1576年11月、オラニエ公ウィレムらはネーデルラント北部のゴイセン(カルヴァン派)とネーデルラント南部のカトリックらの宗教の違いを乗り越え、一致団結。スペインのネーデルラント総督に
・スペイン軍のネーデルラントからの撤退
・異端根絶令の撤回
・カルヴァン派に対する信仰の自由の保障
などを認めさせることに成功したんだ。これをヘントの和約(ヘントの和平、とも。ヘントを英語読みして「ガンの盟約」とも呼ぶ)というぜ。一時的ではあるが、ネーデルラントとスペインの間で和平が成立したわけだな。
年が明けて1577年1月、ネーデルラント諸州はブリュッセル同盟を結成した。これは、全ネーデルラントはスペイン王権に属する自治連邦である、ということを約束した同盟だ。北はカルヴァン派、南はカトリックと宗教上の違いはあるものの、スペイン軍が駐留して、不満があると民衆を襲撃する、などの事件が起こらないよう、しっかりと自治連邦として対応していくましょう、ということだな。」
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「カルヴァン派とカトリックが一つの国にまとまる、というブリュッセル同盟が長きにわたって存続していたら、西ヨーロッパの歴史は一味違ったものになったんでしょうね。。とはいえ、80年という長きにわたるオランダ独立戦争が、ここでいったんの区切りを迎えました。ですが、それは長続きしませんでした。」

パルマ公ファルネーゼと南部(ベルギー)の分離

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「ブリュッセル同盟によって自治連邦の地位を獲得したかに見えたネーデルラントだったが、内情はかなり厳しいものだったようだぜ。当時はまだまだ宗教改革から時間が経っていない。なので、北部のゴイセン(カルヴァン派信徒)らと南部のカトリックでの間にある溝を埋めることはかなり難しかったようだ。
そんな状況で1579年、スペインからファルネーゼ(1545-1592 この年34歳)がネーデルラント総督として着任した。ファルネーゼは後にイタリアのパルマ公爵の称号を継承したので、日本では「パルマ公」と呼ばれることもあるぜ。」

Alexander Farnese, Duke of Parma
アレッサンドロ・ファルネーゼ肖像画 制作者:Otto van Veen  制作年:1585年

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「ファルネーゼは、母がスペイン・ハプスブルク家の人なので、かなり上流階級の出身です。さらに、軍事面でも優れた才能を持っており、フェリペ2世が起こした戦争に従軍して活躍しています。ファルネーゼの話を始めると長くなるので、ここでは割愛しますしょう。
ネーデルラント総督として着任したファルネーゼは、宗教の違いで揺らぎ始めたブリュッセル同盟に揺さぶりをかけました。具体的には、カトリックが多い南部ネーデルラントに対して
・南部ネーデルラント出身者からなる現地軍の創設
・公職にはカトリック信徒を採用する
・フェリペ2世の子の一人を南部ネーデルラントで養育し、将来は総督に就任させる
などの条件を出して、カルヴァン派が中心の北部ネーデルラントから離脱することを後押ししたんです。この結果、南部ネーデルラントは新たにアラス同盟を結成し、北部ネーデルラントとは袂を分かちました。」
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「ファルネーゼの策略の勝利、ってところだな。外交でネーデルラントを南北に分裂させて力を削いだわけだ。一方、カルヴァン派が多い北部ネーデルラントは、新たにユトレヒト同盟を結成し、あくまでもスペイン支配に対抗する構えを見せたぜ。」
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「この時分かれた北部と南部は、それぞれ別の歴史を歩むことになります。北部はしばらく後に独立してオランダとなりますが、南部はしばらくスペイン・ハプスブルク家の支配下に留まり、いろいろと世間の荒波にもまれたあと、1830年にベルギー王国として独立することになります。」

オランダ独立へ

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「ユトレヒト同盟を結成した北部ネーデルラントは、その後もスペインとの戦いを継続していったんだ。指導者だったウィレム1世が1584年に暗殺される、という事件もあったが、イギリスのエリザベス1世と組んで、引き続きスペインと戦ったんだ。」
big5
「オランダ独立を支援したイギリスを討伐しようとしたのが、1588年のアルマダの海戦だ。本編でも触れているところですね(参考:フェリペ2世とスペイン全盛期。)
アルマダの海戦というと、スペインの無敵艦隊がイギリスに敗れた、という部分が有名なんですが、アルマダの海戦に至った経緯は、スペインを共通の敵としたイギリスとオランダの連携、というところにあるのがポイントです。」
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「この時点で、オランダの独立は事実上確定したものになった、といえるだろうな。その後、12年間の休戦期間を挟んだりしながらも、スペインとの戦いは続いた。だが、この頃になるとスペインの力は日に日に衰えていき、オランダ独立を力で止めることはできなくなっていたんだ。
最終的には、ドイツ三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約で、オランダの独立が正式に認められることになったわけだな。」
big5
「1568年、スペインに対する反乱から始まってちょうど80年。オランダは、実に長い時間を経て独立に至ったわけですね。
世界史には「〇〇独立戦争」という名前の戦争がしばしば登場しますが、80年間という長期間に渡った独立戦争は、オランダ独立戦争だけですね。
と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」

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参考文献・Web site
・物語 ベルギーの歴史 ヨーロッパの十字路 著:松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日刊行