Last update:2023,Oct,14

広がる世界・変わる世界

フェリペ2世とスペイン全盛期

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「今回のテーマはフェリペ2世とスペイン全盛期とスペイン全盛時代を築いたフェリペ2世の時代のスペインの歴史について見ていきたいと思います。まずは、フェリペ2世の肖像画がこちら↓」

King PhilipII of Spainフェリペ2世 制作者:Antonis Mor 制作年:1560年

名もなきOL
「なんかちょっと怖そうなかんじ。厳格で厳しそうな印象ですね。」
big5
「だいたいそんなイメージでいいと思います。フェリペ2世は熱烈なカトリック信徒で、異教徒や異端を征伐することに情熱を持って取り組みました。教皇やカトリック教会から見れば、まさに「カトリックの守護者」と言っていいでしょう。そんなフェリペ2世の治世の重要ポイントは以下になります。
・1568年、ネーデルラントでカルヴァン派を弾圧し、オランダ独立戦争を誘発。
・1571年、レパントの海戦でオスマン帝国海軍を撃破。
・1580年、ポルトガルを併合。
・1588年、アルマダ海戦でイギリスに敗北。

と、なります。まずは主要論点から見ていきますね。さて、まずはいつも通り年表から見ていきましょう。」

年月 スペインのイベント その他のイベント
1556年 フェリペ2世即位
1559年 カトー・カンブレジの和約 イタリア戦争終結 (英)エリザベス1世が統一法を発布
1561年 宮廷をマドリードに移す エル・エスコリアル建設開始
1562年 (仏)ユグノー戦争 開戦
1565年 フィリピン征服を開始
1567年 ネーデルラント総督アルバ公がプロテスタントを弾圧開始
1568年 オランダ独立戦争 開戦
1571年 レパントの海戦 オスマン帝国海軍を撃破
1572年 (仏)サン・バルテルミの虐殺
1580年 ポルトガルを併合(同君連合) ポルトガル王フィリペ1世として即位
1581年 オランダ(ネーデルラント連邦共和国)が独立を宣言
1582年 (教皇庁)グレゴリウス暦を制定
(日)本能寺の変 織田信長死去
1588年 アルマダ海戦 無敵艦隊がイギリスに敗北
1590年 (日)豊臣秀吉が天下統一
1598年 フェリペ2世 死去 (仏)ナントの勅令 ユグノー戦争終結

カトー・カンブレジの和約とイタリア戦争終結

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「今回の主役・フェリペ2世がスペイン王として即位したのは1556年(この年29歳)。父はカルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)です。宗教改革やオスマン帝国への対抗、長引くイタリア戦争などで多忙を極めたカール5世は引退を決めました。スペイン王位を息子であるフェリペ2世に譲り、神聖ローマ皇帝位を弟のマクシミリアン2世に譲りました。スペイン・ハプスブルクとオーストリア・ハプスブルクの分裂ですね。
フェリペ2世は王子だった時代に、イギリス女王となったメアリ1世と結婚しています(参照:イギリスの宗教改革)。この間、スペイン王として即位するまでの間、イギリスに滞在していました。
スペイン王として即位すると、ひっ迫する財政を立て直すために、まずは長期間に渡って続いていたハプスブルク家とフランス王家の戦争(広い意味での「イタリア戦争」)をいったん幕引きとします。これが1559年のカトー・カンブレジの和約です。」
名もなきOL
「即位早々、財政問題に向き合わなければならないなんて、フェリペさんもたいへんでしたね。」
big5
「ちなみに、フェリペ2世のあだ名の一つが「借金王」です。なぜかというと、その約42年の治世の中で、破産宣告を4,5回しているから、です。最初の破産宣告については、フェリペ2世の政策の結果ではなく、先代のカール5世の責任による部分が多いと思いますが、それ以降の破産宣告はフェリペ2世の政策の結果です。」
名もなきOL
「スペインって、広大なアメリカ植民地も持っているし、財政はかなり潤っているかと思っていたんですけど、出費も相当だったんでしょうね。」
big5
「はい。熱烈なカトリック信徒であったフェリペ2世は、カトリック世界の守護者として、異教徒や異端者らと徹底して戦う人生を歩みましたが、拡大させ過ぎた戦争が後のスペイン没落の一因だろう、と考える意見は多いですね。
さて、それではフェリペ2世の時代の大イベントを見ていきましょう。」

オランダ(ネーデルラント)独立戦争の始まり 1568年

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「1568年、現在のオランダ・ベルギーにあたるネーデルラントで、スペイン支配に対抗して大規模な反乱が勃発しました。これは単なる「反乱」の枠に収まらず、結果としてオランダが独立することになったのでオランダ独立戦争(1568~1609,1621~1648年)と言います。別名は「八十年戦争です。オランダの独立が正式に認められるのが1648年のウェストファリア条約なので、反乱勃発からちょうど80年後、というのが名前の由来ですね。」
名もなきOL
「80年って、ものすごい長さですね。あれ、でもオランダってスペインと隣接してないですよね?なんでスペインがオランダを支配していたんですか?」
big5
「これまでの歴史の中で、ネーデルラントはハプスブルク家の領地になっていたんです。カール5世の死後、ネーデルラントはスペイン・ハプスブルクが継承したから、フェリペ2世が支配していたんです。ネーデルラントはとくに毛織物工業が発展しており、中世ヨーロッパでは一大経済拠点でした。なので、商人が数多く住んでおり、彼らはカルヴァン派を信仰していました。カルヴァン派を信仰する人々は「ゴイセン」と呼ばれています。(参照:カルヴァンの宗教改革)ここがポイントです。」
名もなきOL
「あ、そっか。フェリペ2世は熱烈なカトリック信徒。ということは、カルヴァン派を信仰するゴイセンは敵なんですね。」
big5
「そのとおりです。ネーデルラント総督に任命されたアルバ公は、ゴイセンらを徹底的に弾圧しました。ゴイセンの中でも急進派は黙っておらず、アルバ公に対抗します。この対立の結果、外国に亡命していたオラニエ公ウィレムが旗頭となって、長期にわたる独立戦争が始まったんです。
1579年にはゴイセンが多いネーデルラント北部7州がユトレヒト同盟を結成し、1581年にはユトレヒト同盟が独立を宣言。初代総統としてオラニエ公ウィレムが擁立されています。しかし、フェリペ2世は独立を認めなかったので、その後も戦争は継続されました。」
名もなきOL
「オランダ独立戦争は、名前の通りオランダが独立を目指しただけでなく、カトリックとカルヴァン派(ゴイセン)という宗教戦争の一面もあったわけですね。」

レパントの海戦 1571年

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「次は1571年のレパントの海戦ですね。レパントの海戦については
スペインをはじめとしたカトリック連合軍がオスマン帝国海軍を破った
これが重要ポイントですね。とりあえずは、これだけ知っておけば大学入試センター試験対策はOKです。
ですが、せっかくなのでレパントの海戦について、もう少しだけ説明しますね。」

Battle of Lepanto 1571レパントの海戦 制作者:不明 制作年:16世紀

名もなきOL
「レパントってそもそもどの辺なんですか?」
big5
「ギリシアのペロポネソス半島の北側にある海(湾)の入り口あたりです。当時、ギリシア半島全体はオスマン帝国の領土でした。巨大なイスラム教帝国の脅威は、アドリア海の対岸にまで迫っていたわけですね。
レパントの海戦のきっかけは、1570年にオスマン帝国が地中海東部のキプロス島をヴェネツィア共和国から奪って占領したことです。拡大するオスマン帝国に対し、教皇がカトリック諸国に連携して対抗することを呼びかけました。熱烈なカトリックであるフェリペ2世も、これに応じたわけですね。カトリック側はスペイン、ヴェネツィア共和国、教皇領などが中心となって艦隊を結成しました。オスマン帝国艦隊がこれを迎撃して、大規模な海戦になりました。
結果は、オスマン帝国艦隊の敗北です。16世紀の時点で、オスマン帝国に対してキリスト教勢力が大規模戦で勝利した戦いは少ないので、レパントの海戦は「強大なオスマン帝国を倒したカトリック世界の希望の象徴」のような位置づけになりました。ただ、敗れたといってもオスマン帝国は約半年で艦隊を再建させていますし、勝ったといってもカトリック側はお互いの利権を主張して対立したために、それ以上の戦果を挙げることができませんでした。以前として、オスマン帝国は恐るべき脅威のままだったんです。オスマン帝国が凋落し始めるのは、これからおよそ100年後、大トルコ戦争(参照:大トルコ戦争 前編)に敗北した頃からなので、まだまだ先の話です。」

ポルトガル併合 1580年

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「さて、次は1580年(この年フェリペ2世53歳)のポルトガル併合です。フェリペ2世はポルトガル王も兼任することなりました。スペインとポルトガルは同一人物を王として頂く「同君連合」と言った方が正しいかもしれませんが、実態としてポルトガルはスペインに従属することになったので、「ポルトガル併合」と言われることが多いですね。」
名もなきOL
「大航海時代を切り開いた2国が一緒になるなんて、一大強国の誕生ですね!でも、どうしてフェリペ2世がポルトガル王も兼ねることになったんですか?」
big5
「1580年(この年フェリペ2世53歳)、ポルトガル王が戦死やら病死やらで相次いで亡くなるという事件が起こり、一時的に後継者がハッキリと決まっていない「政治的な空白」が生じたんです。フェリペ2世は、母がポルトガル王・マヌエル1世の娘だったことから、自分にも継承権があると主張し、軍と共に攻め込んで勝ち取ったんです。」
名もなきOL
「母親が王女だったことを理由にって、なんだか中世みたいな理由ですね。」
big5
「16世紀はまだ中世の名残りを引きずっていたので、そんなに変な理由でもないですよ。
いずれにしろ、ポルトガルを併合したことで、スペインの国力は大幅に上がりました。この辺りがスペインの全盛期だったことでしょう。」

アルマダの海戦 1588年

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「さて、最期はスペイン全盛期の終わりを告げるかのようなイベント、1588年(この年フェリペ2世61歳)アルマダの海戦について説明しましょう。アルマダの海戦については、
1588年、スペインの無敵艦隊は、アルマダの海戦でイギリスに敗北した。
という点さえ押さえておけば、大学入試センター試験は大丈夫でしょう。フェリペ2世の治世では、レパントの海戦とアルマダの海戦という、2つの有名な海戦があり、スペインはレパントでオスマン帝国には勝ちましたが、アルマダではイギリスに敗れています。この辺の知識がこんがらかりやすいので、気を付けてくださいね。
でも、せっかくなのでアルマダの海戦についても、もう少し説明しましょう。」

The demise of the Spanish Armada - Classis Hispanica celeberrima quae anno celeberrimo MDLXXXVIII inter Galliam Britaniamq venit & perytアルマダの海戦 制作者:不明 制作年:1593~1645年

名もなきOL
「アルマダの海戦でスペインを破ったのは、イギリスなんですね。どうしてイギリスとスペインが戦ったんですか?」
big5
「そこはとても重要なポイントですね。原因は、オランダ独立戦争でイギリスがオランダ支援に回ったから、です。エリザベス1世が治めるイギリスは、いろいろありましたが、最終的にはイギリス国教会というプロテスタントがイギリスの主流な宗教になりました(参照:イギリスの宗教改革)。カトリックとプロテスタント、という区分なら、イギリスとオランダは同じプロテスタントなんですね。そして、フェリペ2世は熱烈なカトリック信徒です。プロテスタントとなったイギリスが、オランダの独立を支援するなんて、許すことはできないわけですね。」
名もなきOL
「なるほど。ここでもカトリック vs プロテスタントの対立構図があったわけですね。」
big5
「ポルトガルを併合したスペインは、まさに日の沈むことがない大帝国。この頃のイギリスは、大英帝国のような世界を股にかける大国ではありません。ヨーロッパの西にある田舎の島国でした。フェリペ2世は、「アルマダ(日本語訳は「無敵艦隊」)」と名付けた、スペイン・ポルトガル、および周辺国から動員した大艦隊を率いて、イギリス上陸を試みました。スペイン無敵艦隊の構成は、大型船130隻、大砲2500門、兵員23,000人となっています。」
名もなきOL
「対するイギリス艦隊はどんな構成だったんですか?」
big5
「大国スペインと異なり、イギリスにはスペインのような大艦隊を自前で用意できる経済力はありませんでした。そこで、海賊らを利用する作戦に出ました。エリザベス1世は一部の海賊に「スペインの船だったら好き勝手襲っていいし、罪に問わないよ。
という免許を与えました。このような免許をもらった海賊を私掠船(しりゃくせん)とか、私拿捕船(しだほせん)と呼ばれました。イギリスの私掠船は、新大陸アメリカから財宝や商品を運んでいるスペインの商船を襲撃して積み荷を奪う、という嫌がらせを行い始めます。この中で特に戦果を挙げて有名になったのがドレークです。当然、フェリペ2世は怒り、海賊の取り締まりを行うようにエリザベス1世に要求しますが、エリザベス1世はドレークをsir(サー 貴族の称号)を与えるなど、完全に無視します。ならば、とフェリペ2世はイギリス討伐に乗り出すことになりました。
長くなりましたが、イギリス艦隊はドレークらが率いる小型船で、装備する大砲は射程距離が長めの軽砲が大多数でした。」
名もなきOL
「両軍の戦力に特徴があったんですね。大きな船と大砲で武装したスペイン無敵艦隊と、小型船と長距離軽砲で武装した海賊戦術のイギリス艦隊、という。」
big5
「はい。そして、この勝負はイギリス艦隊の快勝となりました。両艦隊はドーヴァー海峡で激戦となったのですが、ドレークは火をつけた無人の船をスペイン船にぶつけて燃やすなど、およそスペイン無敵艦隊の提督らでは思いつかない、海賊らしい戦術で翻弄。スペイン無敵艦隊はまさかの大敗北を喫しました。さらに、帰還する途中で嵐に遭うなど災難が重なり、スペインまで帰還できたのは50隻余りに過ぎなかったそうです。」
名もなきOL
「フェリペ2世にとっては、まさかの大敗戦だったんでしょうね。しかも、プロテスタントに敗れたとあっては、悔しさ倍増だったことでしょう。」
big5
「そうですね。アルマダの海戦の大敗は、スペインの今後の運命を暗示しているかのようでした。ただ、フェリペ2世はこれから間もなく無敵艦隊を再建させています。スペインが没落し始めるのは、もう少し後の時代になります。
とはいえ、イギリスに痛打を与えられなかったことはオランダ独立戦争にも大きな影響を与え、結局はオランダ独立を認めざるを得なくなります。そういう意味では、アルマダの海戦はヨーロッパのリーダー格が、スペイン、ポルトガルからフランス・イギリス・ドイツ・イタリアに本格的に移っていくきっかけになった戦いの一つ、とも見ることができますね。」

フェリペ2世の死 1598年

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「アルマダの海戦から10年後の1598年、この年71歳になるフェリペ2世が死去しました。16世紀の人としては、けっこうなご長寿ですね。在位およそ40年の間に、スペインの全盛期を築いたフェリペ2世でしたが、治世の後半には、アルマダの敗戦のような手痛い敗北を喫しました。以後、スペインは少しずつ衰退していき、ヨーロッパ世界のメインプレーヤーはイギリス・フランスに移っていくことになります。

と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」


大学入試 共通テスト 過去問

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「大学入試共通テストでは、フェリペ2世時代のネタはたまにしか出題されません。試験前に復習しておけば、運よく出題されるかもしれません。」

令和2年度追試 世界史B 問題11 選択肢C
・「15世紀イングランド」について述べた文として〇か×か?
Cスペインの無敵艦隊を破った。
(答)×。上記の通り、スペインの無敵艦隊を破ったのは1588年なので16世紀です。

令和2年度追試 世界史B 問題25 選択肢@
・スペインは、レパントの海戦で敗れた。〇か×か?
(答)×。上記の通り、レパントの海戦でスペインは勝利しています。

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