アメリカ独立宣言


アメリカ独立宣言 1776年7月4日
1775年に勃発した独立戦争でしたが、戦況はアメリカにとって芳しくありません。ケベック攻略作戦は多大な損害を出したのみで失敗し、ワシントン率いるアメリカ陸軍も1776年春にボストン駐屯のイギリス軍を撤退させた以降は敗戦続きで、その前途は暗雲立ち込めるものでした。そんな中、植民地アメリカを励ますかのように「アメリカ独立宣言」が1776年7月2日、大陸会議にて採択され、7月4日に公布されました。
アメリカ独立宣言の起草者として有名なのは、後に第3代大統領となるトーマス・ジェファーソン(32歳)ですが、他にも独立宣言の起草委員として、後に第2代大統領となるジョン・アダムズ(41歳)、ベンジャミン・フランクリン(71歳)も名を連ねています。起草委員会によって作成された独立宣言は、大陸会議にて若干の検討、修正が加えられた後、採択、公布されました。その内容は、
1.基本的人権とそれを侵害する政府に対する革命権の主張から成る前文
2.革命権行使の理由としての国王の暴政28カ条の列挙と、本国議会、本国民の背信への非難を述べた本文
3.独立を宣言した後文
の3部分から成っています。特に前文は、アメリカ独立革命の理論的根拠を述べたものとして有名であることに加え、アメリカ政治原理の基礎となったばかりでなく、世界の政治上の古典的文書となりました。

トレントン・プリンストンの戦い 1776年12月25日
ウィリアム・ハウ将軍率いるイギリス軍は南方に進出してニューヨーク、フィラデルフィアを陥落させました。これは、ハウ将軍がワシントン率いる植民地軍の本隊を壊滅させることを狙いとしたものでした。一見、イギリス軍に有利に展開しているかのように見えましたが、ハウ将軍の南進は友軍からの「独走」ともなりました。ハウ将軍の南進により、北部が手薄になったことが、戦況の逆転のきっかけとなったそうです。それが表面に現れたのが、トレントン・プリンストンの戦いです。開戦以来、敗退を続けてきたワシントン軍は、ペンシルバニアに逃れていましたが、1776年12月25日、逆襲を開始します。ワシントン軍は25日夜から夜明けにかけてデラウェア川を渡り、ニュージャージーのトレントンに宿営中のイギリス軍を奇襲し、1400人のうち900人以上を捕虜にすることに成功。さらに、翌1777年1月3日、プリンストンでイギリス軍を破りました。この戦いが、ワシントン軍の最初の勝利となったのです。開戦に至ったものの、苦戦を続けてきたワシントンに対するアメリカ市民の信頼は揺らいできましたが、この戦勝でワシントンはアメリカ市民の信頼を取り戻し、さらには独立戦争勝利への展望が開けてきた、と考えられています。

ベニントンの戦い 1777年8月16日
イギリス軍のジョン・バーゴイン将軍(55歳)は、武器弾薬貯蔵所奪取と、ニューイングランド人威圧を目的として、F・バウム大佐指揮するイギリス軍、ドイツ傭兵、ロイヤリスト、先住民族インディアンら800人で成る混成軍に、ベニントンを襲撃させました。これに対し、植民地アメリカは近隣の民兵1600人が迎撃し、イギリス軍に快勝。700人を捕虜にしました。

サラトガの戦い 1777年10月17日
1777年は、アメリカ軍優勢で展開しました。トレントン・プリンストンの勝利に続き、秋にはサラトガの戦いで勝利しました。1777年7月、カナダから南下したジョン・バーゴイン将軍指揮下の8000人のイギリス軍は、タイコンデロガを襲撃。9月にはハドソン川を渡ってサラトガ地域に進出しました。これに対し、9月19日、H・ゲーツ将軍(49歳?)指揮下の1万2000人のアメリカ軍がバーゴイン軍に勝利。次いで10月7日、バーゴイン軍は攻撃を再開しましたが、撃退されて退却。さらにサラトガで包囲されてしまいます。そして、10月17日、バーゴイン将軍はアメリカ軍に降伏しました。この勝利により、植民地軍勝利の見通しはますます明らかになり、フランスがアメリカと同盟を結ぶきっかけの一つとなりました。
それほどのインパクトある戦いとなったため、バーゴイン将軍は、アメリカに敗れて降伏した将軍として有名になってしまい、G.B.ショーの「悪魔の弟子」にも登場しているそうです。サラトガの敗北のそもそもの原因は、ハウ将軍の南下作戦にあることを考えると、バーゴイン将軍が不名誉な将軍として有名になるのは理不尽な気がしますが、総大将よりも直接的な責任者の方が、良くない結果を負わされがち、というのは古今東西共通の社会原理なのかもしれません。
なお、総司令官を務めていたハウ将軍は、この戦いの敗北の責任を取って辞任。本国に帰還しました。代わって、ヘンリー・クリントン将軍(39歳)がイギリス軍総司令官に就任します。
一方、H・ゲーツ将軍はこの戦功を認められ、この年の大陸会議で軍事委員会議長に選ばれました。しかし、間もなく失脚してしまいます。ワシントンを更迭し、ゲーツを総司令官としようと画策する士官らの「コンウェー陰謀事件」に巻き込まれ、翌1778年春にはニューヨーク司令官に転じ、1780年からは南部で作戦を指揮しました。なお、ゲーツ将軍はもともとイギリス人で、フレンチ・アンド・インディアン戦争でアメリカを訪れ、戦後、1772年にバージニアに移住した、という経歴の持ち主です。1775年から植民地軍の高級副官となり、カナダ遠征軍を指揮していました。

連合規約 1777年11月
戦況が良くなることに伴い、独立国アメリカとしての仕組み作りも進んできました。1777年11月、アメリカ合衆国最初の憲法ともいうべき「連合規約」が大陸会議に承認されました。連合規約は、1781年、メリーランドが批准したことにより、正式に「連合規約」として成立します。この規約は、新国家アメリカを、13邦の国家連合の形態とし、中央政府権限が大幅に制限されているのが特徴です。各邦(State)は、主権・自由・独立を維持し、その邦で構成される中央連合会議の権限は、国防、外交、貨幣鋳造、インディアン対策などに限られていました。大陸会議は「連合会議」に名を変えて、この後10年ほどは継続されます。
新国家アメリカの政治体制については、独立戦争終結後に再び議論され、その結果、連合規約は1789年憲法に取って代わられたため、あくまで一時的なものでした。

米仏同盟 1778年2月6日
サラトガの戦いの敗報を受けたイギリス首相ノースは衝撃を受け、和平工作に乗り出しました。しかし、アメリカ側は完全独立を要求したために交渉は決裂、戦争は継続されます。この和平交渉は、以前から独立を援助してきたフランスを動かす一因となりました。フランス駐在公使ベンジャミン・フランクリンはこの情勢を巧みに利用して、アメリカ使節団とともにフランス外相ベルジェンヌと会談。1778年2月6日、米仏和親通商条約(両国が相互に最恵国待遇を与えあうことを約束)と同盟条約(フランスとイギリスの間で戦争が勃発した際、発効するもので、1778年6月17日発効)の2条約の締結に導いた。米仏同盟の成立です。この条約の第2条で、フランスはアメリカの「自由・主権・独立」を認めました。この条約の効果として、フランスの対米軍経済援助は増大し、フランスの対米借款は635万ドル強(1792〜1795年に償還)、対米軍事援助は約200万ドルに達し、フランス遠征軍の参戦と相まってアメリカの勝利に大きく貢献することになります。また、フランスにとっても、宿敵イギリスの勢力を減殺するという目的を達成することに成功しました。

余談となりますが、1776年、ポーランドのコシチューシコ(30歳)は、パリで自由主義思想を学んだ影響か、アメリカ側で独立戦争に参戦しています。1777年には、フランスの自由主義貴族ラファイエット(20歳)は若くして、アメリカ独立に大義を感じ、義勇軍としてアメリカ側で参戦。これにより、アメリカ、フランス両国から「新世界の英雄」と讃えられました。また、ジョージ・ワシントンの甥であるブシュロッド・ワシントン(Bushrod Washington)(26歳)はこの年(1778年)に植民地軍に加入し、独立戦争終結まで各地を転戦しています。

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