ペロポネソス戦争 後篇

アテネのシラクサ遠征
アテネの戦争推進派が目を付けたのは、シチリア島のギリシア人植民都市・シラクサでした。シラクサはギリシア人植民都市の中でもたいへんな発展を遂げており、当時は農地に恵まれないギリシアの諸ポリスへの食糧供給基地となっていました。

アテネとシラクサ(地図の表記は「シラクーザ」)の位置関係。シラクサはイタリア半島の南端に位置するシチリア島の中心都市の一つで、古代ギリシア時代から栄えていました。アテネからシラクサを攻撃するには、艦隊を用意しなければなりませんが、それも海軍力に優れていたアテネにとっては大した問題ではありませんでした。

しかも、シラクサはペロポネソス戦争でアテネの敵となったコリントの重要な貿易相手でした。シラクサを落とすことができれば、蓄えられているであろう莫大な富で戦力を増強できるうえに、コリントをはじめとした敵ポリスに大打撃を与えることができます。さらには、西地中海方面の貿易利益も得られるなど、景気のいい話がアテネ世論を支配するようになりました。ニキアスら反戦派は、これ以上の戦争拡大に反対していましたが、メロス島での勝利で気を良くしているアテネ民衆には届かなかったようです。
そんな折、シチリア島のアテネの同盟ポリスであるセゲスタが、南方のポリス・セリヌスと争いになったために、アテネに援軍を求めてきました。これは絶好の機会、ということでアルキビアデスは民会でシチリア島の富を獲得する絶好のチャンスだと演説して民衆の支持を得て、シチリア遠征軍の派遣が決議されました。遠征軍の内容は、三段櫂船134隻、輸送船130隻、ホプリテス(重装歩兵)5000人以上、軽装歩兵1300、他水夫などを含めて25,000人という、かなり大規模な軍団が組織され、指揮官にはアルキビアデスと、遠征に反対していたニキアスが任命されました。前415年のことでした。ところが、ここで事件が起こります。遠征軍の出発前夜、アテネでヘルメス神の像が何者かによって破壊される、という事件が起りました。そしてその犯人はアルキビアデスだ、となったのです。真相は不明ですが、これは反戦派が仕組んだアルキビアデス失脚を狙った策謀だと思われます。アルキビアデスは涜神罪に問われ、死刑が宣告されました。この事件をシチリアに到着してから知ったアルキビアデスは、スパルタに逃亡します。そして、自分を陥れたアテネに復讐することを考え、スパルタ王・アギス2世(Agis II 生年不詳)にシラクサへ援軍を送ることを提案する他、アテネ近郊北部の丘陵地帯であるデケレイアを占領して前線基地とすることも提案しました。アルキビアデスが提案した、シチリア島への援軍派遣も、デケレイア攻略も、しばらく後に現実のものとなります。
前414年、アテネ軍はシチリア島最大の都市・シラクサを攻撃しましたが、成功しませんでした。それどころか、前413年7月にはスパルタが送った援軍がシチリア島に上陸し、アテネ軍のシラクサ包囲網を突破してシラクサに入城することに成功しています。8月27日、アテネ軍は撤退を決意しますが、この日月食が起こりました。これを不吉な前兆と判断し、撤退は1か月後に延期されたのです。これが、その後のアテネ軍の悲惨な運命を決めました。反撃に出たシラクサ軍とスパルタ軍に敗れたアテネ軍は島を逃げ回り、ついに逃げ切れなくなって降伏。指揮官のニキアスとデモステネスは処刑され、7,000人ほどが捕虜となり、石切り場に幽閉されました。彼らは、飢餓と病気で全滅するという悲惨な最期を遂げました。
結局、アテネは陸軍の半分を失い、海軍に至っては壊滅という、致命的な打撃をうけてシラクサ遠征は失敗に終わったのです。それと同時に、ペロポネソス戦争でアテネが敗北するきっかけとなりました。
前413年はアテネにとって厄年だったと言っていいでしょう。シチリア島で遠征軍が壊滅したこの年、ギリシア本土でもアテネは危機に追い込まれました。アルキビアデスの献策に従ったスパルタが、アテネ北部の丘陵地帯であるデケレイアを占拠し、ここを要塞化して立てこもったのです。アテネのすぐ近くにスパルタ軍がにらみを利かせる形になったことに加え、ラウレイオン銀山からの収入も途絶えてしまったのが大きな損失でした。デケレイアの正確な位置は特定できていませんが、トュキディデスの『戦史』の記述などから、この辺りではないかと推定されています。度重なるアテネにとっての不幸なニュースにより、デロス同盟からは離脱するポリスが続出しました。かつてのアテネであれば、離脱したポリスには制裁を加えて強制的に引き戻すという手段も取れましたが、この時はそのような手段も取れなくなっていたのです。そして、アテネが誇る精強海軍も、拠点のデロス島などに引きこもりがちにならざるを得なくなっていきました。
一方、スパルタに亡命したアルキビアデスですが、彼はスパルタでもたちまち人気者になったそうです。それどころか、アギス2世の妃を籠絡して不倫関係になり、アギス2世が出陣して不在の時に逢瀬を重ね、ついに妃はアルキビアデスの息子を産んだ、と伝えられています。事の真相は不明ですが、間もなくアルキビアデスはスパルタ国内で非難されるようになり、ついに裁判で死刑を宣告されるという事態になりました。アルキビアデスは再び逃亡し、今度はアケメネス朝ペルシアに亡命しました。

アケメネス朝の介入とアルキビアデスの復帰
スパルタ王・アギス2世は、なんとしてでもアテネに勝ちたいがために、かつての敵国であるアケメネス朝ペルシアと裏取引を行いました。スパルタは、イオニア地方のギリシア人植民都市をアケメネス朝が支配することを認め、その見返りとしてスパルタ海軍の増強をアケメネス朝が支援する(例えば、スパルタ海軍の乗組員の給料をアケメネス朝が支払う、など)、という内容でした。これにより海軍をも整えたスパルタは、海軍を使ってアテネ支配下の都市(例えば、エウボイア島など)を解放することに成功しました。一方のアケメネス朝では、前412年に小アジアのサトラップ(総督、の意)であるチサフェルネス(Tissaphernes 生年不詳)がこの密約を基に、軍を率いて小アジアのギリシア人植民都市を占領していきました。スパルタがイオニアのギリシア人植民都市を事実上ペルシアに売り渡したという事実は、後にスパルタの評判を失墜させることになりました。
一方のアテネでは、アルキビアデスの活動によって政変が起きています。アケメネス朝ペルシアに亡命したアルキビアデスは、再び故郷であるアテネに復帰することを考え、そのためにアテネの民主政に反対する寡頭政支持派を利用することを考えました。まず、サモス島に残っているアテネ海軍に対し、反アルキビアデス派を抑えてくれるなら、ペルシア艦隊が攻め込むことのないように努力する、と伝えました。形勢不利に追い込まれていたサモス島海軍の大多数は、アルキビアデスの提案に感謝したそうです。続いてアケメネス朝のチサフェルネスに対してはスパルタとの同盟はほどほどで留めておき、代わりにアテネを少々支援してアテネ vs スパルタの戦いを続けさせ、ギリシア全体の力を削ぐべし、と提案しました。チサフェルネスも、対ギリシア政策はそのような方針が良いと考えていたので、アルキビアデスの目論見通り、ペルシア艦隊がギリシア世界の争いに介入してくることはありませんでした。そして、アテネの寡頭政支持派に対し、アルキビアデスのアテネ復帰を認めれば、アケメネス朝ペルシアの支援が取りつけられるように仲介する、と話を持ちかけました。二重スパイ、とは少々違いますが、このようにアテネ、スパルタ、ペルシアの3勢力の間に立って、それぞれのパワーバランスをコントロールするかのような策謀をめぐらし、そしてそのほとんどは目論見通りに成功しているかのようでした。寡頭政支持派はアルキビアデスの提案を却下しますが、事態は思わぬ方向へ動いていきます。前411年、ペイサンドロスらが民主政指導者をテロで殺害。財力に恵まれた5000名の市民に参政権を与え、400人の議員で構成される会議がアテネの政治を担当することになったのです。この寡頭政権には、ペロポネソス戦争後にアテネ政権を担うテラメネス(Theramenes 生年不詳)も加わっていました。これに対し、サモス島に駐留していたアテネ海軍の兵士らが寡頭政に反旗を翻しました。そして、彼らはアルキビアデスを将軍としてアテネに攻め込み、寡頭政派から政権を奪い返そう!と言うようになったのです。しかし、アルキビアデスの政治感覚はやはり優れていました。アルキビアデスは、亡命者から将軍に突然返り咲いてアテネを奪還したとしても、その後は自分が海軍の言いなりにならざるを得なくなる、と考えました。そこで、サモス島のアテネ海軍の兵士ら一人一人に、「今サモス島を捨てたら、イオニア地方はもちろん、ヘレスポントス(エーゲ海北部の、ギリシアと小アジアを繋ぐ海峡の辺り))までもペルシアに奪われることになる。」と説いて回り、サモス島海軍は挙兵を中止し、様子を見ることとなりました。これには、サモス島の指揮官であるトラシュブロス(Thrasyboulos 生年不詳)の協力がありました。
アルキビアデスの読みは当たり、その後わずか4か月後にアテネ寡頭派政権は倒れました。民主政が復活したアテネ政界は、アルキビアデスに復帰を求めましたが、アルキビアデスはすぐには応えませんでした。アテネ復帰後にサモス島海軍以外からも支持を得るためには、他に手土産が必要だと考えたのです。折りよく、アテネ艦隊とスパルタ艦隊がアビュドスで間もなく交戦しようとしていると聞き、サモス島海軍を率いて出陣してスパルタ海軍を破ります。さらに翌年の前410年にはキュジコスの海戦でスパルタ艦隊を撃破しました。勢いに乗るアルキビアデスは、スパルタ勢力が優勢であったギリシア北部・トラキア方面に軍を進め、カルケドン、ビザンティオンといった有力ポリスを攻撃して降伏させ、再びアテネ側に引きこむことに成功しました。
これだけの手土産を作ったうえで、前407年、アルキビアデスはアテネに復帰しました。アテネでは、音楽隊と役者の演劇でアルキビアデスを大歓迎した、と伝えられています。その一方で、アルキビアデスはアテネの港に入り、家族や友人達が迎えに来るまでは、不安でたまらずびくびくしていたとも伝えられています。いずれにしても、アルキビアデスは故郷を救った英雄としてアテネに迎えられたのです。

ノティウムの海戦とアルキビアデス失脚
アテネの指導者として返り咲いたアルキビアデスでしたが、それも短期間で終わってしまいました。前406年、ノティウムの海戦で、スパルタの将軍リュサンドロス(Lysandros 生年不詳)率いるスパルタ艦隊に敗北したのです。
この敗北の原因は、副官がアルキビアデス(この時44歳前後)の指示に従わなかったことだったそうですが、アテネ民会はアルキビアデスの責任を追及しました。期待が大きかった分、結果が伴わなかった時の追及の手は厳しくなりました。アルキビアデスは再びアテネを捨てて、トラキア方面に逃亡していきました。
一方、スパルタのリュサンドロスについてですが、彼は前407年にスパルタ海軍提督となり、スパルタ艦隊の立て直しやアケメネス朝との折衝を担当していました。そして、最終的にスパルタに勝利をもたらす立役者となります。

アイゴスポタモイの海戦 戦争終結
ノティウムの海戦で敗れて以降、アテネ内部はガタガタ状態となりました。アテネは海軍力を回復させるため、三段櫂船150隻を新たに建造しました。新艦隊の指揮官としてコノン(生年不詳)が就任し、コノンはアルギュヌッサイの海戦(小アジアとレスボス島の間)でスパルタ海軍を破っています。ところが、その後発生した暴風雨のために25隻を失ってしまいました。指揮官の一人であったテラメネスは、遭難者の救助を怠ったとして責任を追及されそうになりましたが、逆に将軍6人の責任を追及。アテネ民会がテラメネスの言い分を認めて、将軍6人を処刑するという事件が起きています。
前405年の夏、ヘレスポントス海峡近くのアイゴスポタモイ(エゴスポタミ、とも表記する)で、リュサンドロス率いるスパルタ艦隊200隻と、アテネ艦隊180隻が激突しました。ペロポネソス戦争中、事実上の最終決戦となったアイゴスポタモイの海戦は、アテネ艦隊が120隻を失い、3000〜4000人が捕虜となるという、スパルタの大勝で幕を閉じました。これまで、海軍力で何とか戦況を支えていたアテネでしたが、アイゴスポタモイの敗戦により、最後の頼みの綱とも言える海軍が壊滅してしまうと、リュサンドロス率いるスパルタ艦隊によって港を封鎖されてしまいました。陸からの封鎖には強いアテネでしたが、海を封鎖されてしまうとなす術がありませんでした。前404年、ついにアテネは降伏を決意し、全権大使としてテラメネスがリュサンドロスと講和交渉に臨み、講和がまとまりました。長かったペロポネソス戦争は、スパルタ側の勝利でようやく幕を閉じたのです。

戦後、スパルタを中心とする戦勝国の中で、アテネをどう処分するかが検討されました。コリントやテーベはアテネの街を徹底的に破壊することを主張しましたが、勝利の決勝点を決めたリュサンドロスは、アテネを滅ぼすことを良しとしませんでした。アテネと外港ピレウスをつなぐ城壁を破壊し、残存艦隊の多くはスパルタが接収し、アテネが保有する軍艦は12隻のみとすることで、アテネは存続させる、という結論になりました。そして、アテネ民主政は解体され、代わって30人による寡頭政権(三十人僭主)を成立させています。
アテネから逃亡していたアルキビアデスは、アテネ敗北後に小アジア西部のフリュギアの隠れ家にいましたが、何者かによって火をつけられ、死去しました(享年46歳前後)。

ペロポネソス戦争の歴史史料
ペロポネソス戦争の記録の多くは、ヘロドトスの次に登場した歴史家・トゥキュディデスが著した『戦史』に拠るところが大きいです。トゥキュディデス自身は『戦史』の中で「私の記録からは伝説的な要素が除かれているので、読んで面白いと思う人は少ないかもしれない」と書いています。確かに、トゥキュディデスはヘロドトスよりもかなり客観的な視点をとり、学術的な記載に力を注いでいますが、歴史読み物としてはヘロドトスの『歴史』の方が面白いかもしれません。ただ、学問としての歴史を考えた時には、『戦史』の信頼性は『歴史』を超えているでしょう。(『歴史』は、とうてい信じがたい内容も事実として記録されている部分もあります。)
トゥキュディデスはアテネの名門の家に生まれ、ペロポネソス戦争で実際に指揮官として参加していました。ところが、前422年のアンフィポリスの戦いで指揮を誤ったとして、20年間もの追放処分とされてしまいます。おそらく、トゥキュディデスは、自身が経験したペロポネソス戦争の原因や、戦争がもたらす人間世界の変化を記録として残したくなったのでしょう。『戦史』は、事実の記述に「分析」という視点を加えました。そのため、歴史分析という点では史上初の傑作であり、このことからトゥキュディデスを「歴史学の父」(ヘロドトスは「歴史の父」)と呼ぶこともあります。その分析は、アテネ人という彼の属性を離れて客観的な視点と判断に貫かれており、その姿勢はあらゆる歴史学者が手本とすべき、と言われています。例えば
「私見では、アテネの勢力拡大とスパルタの不安が、両者を戦いへと突き動かした原因である」とか
「(ペリクレス時代のアテネは)見た目は民主政だが、実際はひとりの人間によって統治されていた国だった」
など、現代の歴史家が指摘するような内容が記述されいるのです。
なお、『戦史』は前411年で終わってしまっています。その理由は謎です。前422年にアテネを追放されたトゥキュディデスは、前404年にアテネに帰国し、前400年頃に死去(享年60歳前後)と考えられていますが、それが『戦史』が未完成で終わっている理由とは考えにくいです。
というわけで、前411年以降のペロポネソス戦争の記録は、クセノフォン(Xenophon 前430年頃 アテネ生まれ)の『ギリシア史』が、『戦史』を継承するような形で記録しています。

ペロポネソス戦争 略年表                    
前415年

アルキビアデスらの主張により、シチリア島遠征軍の派遣が決議される。
前413年

シチリア遠征軍が壊滅

スパルタがアテネ北方のデケレイアを占領。
前411年
アテネで政変が発生。4か月間、寡頭政が敷かれる。

アビュドスの海戦で、アルキビアデスがスパルタ艦隊を撃破。
前410年

キュジコスの海戦で、アルキビアデスがスパルタ艦隊を撃破。
前407年

アルキビアデスがアテネに復帰する。
前406年

ノティウムの海戦でアテネ敗北。アルキビアデスは再び逃亡。
前405年
アイゴスポタモイの海戦でアテネ敗北。
前404年

テラメネスが全権大使としてスパルタと講和を交渉。アテネが降伏し、ぺロポネソス戦争終結

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