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ペロポネソス戦争

戦争前半 アルキダモス戦争
前431年春、スパルタ王アルキダモス2世(Archidamos II 生年不詳)はスパルタ兵を中心とする陸軍を率いてアッティカ方面に侵入し、アテネを挑発するかのように都市の外にある果樹園や畑などを荒らしはじめました。以後、アルキダモス2世は毎年アッティカに侵入して暴れまわったため、ペロポネソス戦争の最初の10年間は「アルキダモス戦争」と呼ばれることもあります。さて、暴れるスパルタ軍を見て激高したアテネ市民らは、出撃して撃退すべし!と主張しましたが、ペリクレス(64歳前後)はこれを断固拒否。籠城して守る戦略を取りました。アルキダモス2世が率いる重装歩兵の兵数は、アテネの2倍ほどであり、ペリクレスはこれを撃破するのは困難と判断したのです。また、当時の古代ギリシアでは有効な攻城兵器がありませんでした。そのため、アテネとその外港ピレウスを守る全長約8kmの二つの城壁内に立て籠もられてしまうと、精強スパルタ軍といえども城壁を突破して中に攻め込むことは不可能でした。

アテネ(地図の"Athens")とその外港ピレウス(地図上の"Piraeus")は、全長約8kmという2つの長い城壁で守られており、(当時は)陸の守りは鉄壁であった。

陸は守りに徹し、代わりにスパルタ側よりも優勢な海軍を使って攻撃に出る、という作戦は、アルキダモス戦争の最中はたいへん有効に作用していました。しかし前430年夏、アテネで疫病(チフスともペストとも言われています)が流行してしまいます。おそらく、オリエント方面からの貿易船が病原菌を持ち込んだのではないかと考えられています。アテネにとって不運なことに、籠城戦をしていたために疫病がアテネ以外の地域にはほとんど伝播せず、アテネだけが疫病で苦しむという、戦争と疫病のダブルパンチを受けることになってしまいました。指導者ペリクレスも、この疫病がもとで前429年に死去(享年66歳前後)しています。この疫病の結果、アテネは4年間で総人口のおよそ3分の1を失うという大打撃を被りました。しかし、それにも関らず、戦況は一進一退、あえて言えばアテネ優勢で進んでいきました。前430年、アテネはエーゲ海北岸カルキディケ半島のポティダイアを攻略しました。ただし、この戦いに2000タラントもの大金を注ぎこんでしまったため、後に財政難に苦しむことになります。一方のスパルタは、アテネに味方するプラタイアイを包囲したものの、目立った戦果を挙げることはできませんでした。
しかし、ペリクレスを失ったアテネは、少しずつ迷走を始めます。ペリクレスの死後、アテネの政治はデマゴゴス(民衆指導者、などと訳されています)と呼ばれる人たちが指導者となりました。が、正直なところ、彼らの政治レベルはペリクレスなどに比べると、格段に劣っていました。デマゴゴスらにはペリクレスのような先見性も洞察力はなく、民衆感情を煽ることで支持を取り付けるような政治家でした。その代表例が、皮なめし業者のクレオン(Kleon 生年不詳)です。クレオンらデマゴゴスらの政策を端的に伝えるこんなエピソードがあります。
前428年(427年とも)、レスボス島のポリス・ミュティレネで反アテネ軍が武装蜂起し、ミュティレネを事実上支配してしまいました。これに怒ったアテネは、苦しい財政の中で臨時財産税を徴収して軍隊を編成し、ミュティレネの反乱を鎮圧しました。反乱の首謀者らはアテネに連行されて処刑されましたが、それ以外のミュティレネ市民らの処遇をどうするかが民会で議論されました。この時民会を支配していたのは、戦略的な意見や法律に基づいた適当な処分は何か、ではなく感情論でした。ミュティレネはアテネの属国(少なくともアテネはそう思っています)にも関わらず、この危急存亡の時に反乱を企てるなど言語道断である。徹底的に滅ぼしてしまえ、という怒りの世論を、デマゴゴスらがそのまま受け入れて処分を決定し、成人男子は全員死刑、女子は全員奴隷として売却することが決議されました。そして、この命令を伝える伝令船がミュティレネに向かったのです。さて、翌日。市民の怒りも冷めてくると、ようやく冷静な判断ができるようになってきました。人々の間に「昨日のミュティレネの決議が酷すぎるのではないか。いまだかつてギリシア人がギリシア人のポリスを根絶やしにするほどの処分を下したことが何回あっただろうか。」などの冷静な意見がぼつぼつ生れはじめました。再び民会が開かれて、昨日の決議を撤回することを改めて決議すると、大慌てで昨日出発した使者を追いかけて新たな使者が飛び出して行きました。新たな悲劇を防ぐためには、先発の使者が後発の使者よりも早くミュティレネに着かなければなりません。携帯電話はもちろん、固定電話もなかった当時、遠隔地に情報を伝えるのは「人」でした。幸い、先発の使者がミュティレネに着いて処刑が実行に移される前に、息も絶え絶えになった後発の使者がミュティレネに到着して、命令の撤回を伝えたために悲劇は生まれずに済みました。しかし、アテネの政治はこのようなレベルまで落ちてしまっていたのです。
ミュティレネでは、ポリス市民の虐殺という悲劇は避けられましたが、別のポリスではそのような悲劇が現実となっています。前427年、ギリシア北西部の島・コルキラで、民主派(アテネ側)と寡頭派(スパルタ側)による内乱が勃発しました。内乱は民主派勝利で決着しましたが、その後敗北した寡頭派には残虐な制裁が行われています。

止められない戦争
前425年、戦いの趨勢がアテネに傾きます。アテネの将軍のデモステネス(Demosthenes 生年不詳)が、海軍を率いてペロポネソス半島西部のピロスを占領し、さらにその対岸のスファクテリア島にスパルタ兵が孤立する、という状況になったのです。スファクテリア島のスパルタ兵を救援するのは非常に困難な状況にあり、スパルタは苦境に陥りました。アテネでは、これを機にスパルタと有利な条件で和平を結ぶのがよい、という声もありましたが、戦争継続を主張する派閥もありました。その代表格がクレオンです。クレオンはこれまでに登場したアテネの政治家とは一風異なり、貴族の家の出ではなく、皮なめし業者の息子です。それが関係しているかどうかは不明ですが、とにかくクレオンは戦争継続を主張しました。この時点で停戦など以ての外。この期に徹底的にスパルタを叩くべし、と主張したのです。スパルタはアテネに和平を提案しましたが、クレオンらはスパルタに無理難題の条件を吹っ掛けたために交渉は決裂しました。
ところが、スファクテリア島のスパルタ兵は頑強に抵抗を続け、なかなか陥落しません。予想外の苦戦に、アテネは焦り始めます。クレオンは、スファクテリア島がなかなか陥落しないのは、将軍が無能だからだ、と批判したうえに「自分が指揮を執れば20日間で陥落させる。」と啖呵を切ります。それならば貴公がやってみよ、ということでアテネ民会はクレオンを指揮官に任命してスファクテリア島へ送り出しました。ところが、クレオンがスファクテリア島に到着する前に、籠城していたスパルタ兵が降伏します。それ見よとばかりに、クレオンはさも自分が指揮を執ってスファクテリア島を陥落させたかのように意気揚々とアテネに凱旋し、アテネ市民もこれをクレオンの軍事能力の結果と勘違いしてクレオンを歓迎しました。どう見ても、スファクテリア島の陥落がクレオンの軍事能力によるものでないことは明白だと思うのですが、結果としてクレオンの発言力はますます高まっていったのです。
その一方で、クレオンを痛烈に批判する人物がいました。喜劇作家として有名なアリストファネス(Aristophanes 前450頃)です。彼の著作で最も有名なのは『女の平和』ですが、それが上演されるのはもう少し後になります。前424年、アリストファネスの『騎士たち(Hippes)』が上演されました。この内容は、クレオンに擬せられた奴隷のパプラゴニア人が主人のデーモス(市民、の意)を思いのままに動かしていましたが、腸詰屋が議論の末にパプラゴニア人を論破し、デーモスを元通りにする、という話でした。これは明らかにクレオン個人を攻撃する内容でしたが、『騎士たち』はこの年の競演会で見事に優勝しています。

アンフィポリスの戦いとニキアスの平和
アテネ優勢に傾いていた戦況を挽回したのが、スパルタの名将と讃えられるブラシダス(Brasidas 生年不詳)でした。前424年秋、ブラシダスは少数の兵を率いてギリシア北部・トラキア方面の都市・アンフィポリスを占領しました。アンフィポリスは、アテネにとって重要な都市でした。なぜかというと、トラキア方面の金山地帯の収入を確保するための拠点だったからです。今も昔も、戦争には莫大な費用がかかりました。強い戦力を確保するために、軍資金は非常に重要な資源です。トラキア地方の金山収入を絶たれたアテネは焦りました。そして、この件で著名人の一人が責任を問われてアテネから追放されました。歴史家・トゥキュディデス(Thukydides 36歳頃)です。トゥキュディデスは、ブラシダス討伐とアンフィポリス防衛のために将軍として派遣されましたが、到着する前にアンフィポリスが陥落してしまったのです。間に合わなかったのはトゥキュディデスの責任だ、とアテネ民会は判断し、結果として20年間の追放処分とされてしまいました。
前423年春、アテネとスパルタで1年間の休戦協定が結ばれました。しかし、ブラシダスは戦闘を継続し、トラキア方面における占領地を拡大させたために、戦争再開。前422年、アテネはクレオンを将軍として派遣。アンフィポリスにて、ブラシダス率いるスパルタ軍との決戦が繰り広げられました。ブラシダス率いるスパルタ軍は強く、クレオン率いるアテネ軍は押しまくられてついに敗走し、クレオンも敗走中にスパルタ兵に斬られて戦死しました。一方、勝利したスパルタ軍も、戦闘中にブラシダスが戦死。スパルタの勝利も、完全なものではありませんでした。
翌年の前421年、アテネのニキアス(Brasidas 生年不詳)ら和平派が主導して、アテネとスパルタ間にようやく和平が成立しました。この和平を「ニキアスの平和」と呼んでいます。両軍の捕虜と、これまでの占領地は相互に返還され、さらに50年間の防衛同盟が交わされたのです。ようやく訪れた平和を、多くの市民らが喜んで迎えました。喜劇作家のアリストファネスは、この年『平和』を上演し、喜ぶ農民たちと悲しむ武器製造業者らを描いています。
しかし、ニキアスの平和は長続きしませんでした。アテネ国内では、クレオンに代わってアルキビアデス(Alkibiades:32歳前後)が戦争推進派のリーダーとして発言力を強め始めていました。ローマ時代の歴史家プルタルコスによると、アルキビアデスはとても端正な顔立ちの美男子で、アテネ政界ではたちまち人気者になったそうです。そして、周囲からちやほやされ過ぎたことが、その後の彼の人生を狂わせた、とも記しています。
前418年、戦争推進派のヒュペルボロスらの意見により、アテネはスパルタと仲の悪いポリス・アルゴスと同盟を結びます。アルゴスはアテネのバックアップを頼りに、スパルタと戦争を起こし、アテネもアルゴスを支援する目的で参戦しますが、アテネ・アルゴス連合軍はスパルタに大敗を喫しました。

<アテネ、アルゴス、スパルタの位置関係図>


なお、主張が失敗に終わったヒュペルボロスは、ニキアスとアルキビアデスによって陶片追放処分とされています。そして、陶片追放はこれが最後になり、以降実施されることはありませんでした。
アルキビアデスはアテネの勢力拡大を狙って、前416年にエーゲ海南方の中立都市・メロスを攻略、占領しました。ここで、成人男子は処刑、婦女子は奴隷として売り払い、空き地同然となったメロスに500人のアテネ人を入植者として送り込むという、帝国主義的な軍事行動を起こしています。これで気をよくしたアルキビアデスは、さらなる勢力拡大を図った遠征を考えました。

<アテネとメロス島(地図の表記は「ミロス島」)の位置関係>



                   
前431年
スパルタ王アルキダモスが軍を率いてアテネを攻撃 (アルキダモス戦争 開戦)
前430年
アテネで疫病流行
前429年

ペリクレス死去
前428年

ミュティレネの反アテネ暴動が鎮圧される
前425年

アテネがメッセニアのピロスを占領
スファクテリア島のスパルタ兵がアテネに降伏
前424年
スパルタのブラシダスがアンフィポリスを占領
前422年

アンフィポリスの戦い
前421年

ニキアスの平和
前418年

ヒュペルボロスらがアルゴスを支援してスパルタと戦うが敗北
前416年

アルキビアデスが中立のメロス島を占領。男は処刑、女は奴隷として売却した後に、アテネ人を入植させる。

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