Last update:2015,Jul,25

哲学と合理的思考の夜明け

古代ギリシアといえば、偉大な哲学者を連想する人も多いと思います。とりわけソクラテスプラトンアリストテレスの三大哲学者は、現代日本人の多くが名前を聞いたことがあると思います。それぐらい、古代ギリシアで生まれた哲学は、人類の歴史上重要な役割を果たしているのです。哲学の始まりが果たした重要性を理解するためには、それ以前の物事の考え方を支配していた「神が支配する世界」と「迷信」について考えてみる必要があります。

神話と現実世界
自然科学が誕生する以前は、自然現象を説明するためによく「神」が登場していました。例えば、多くの古代文明が太陽を偉大な「神」と考え、「太陽神」をいう神を作りだしています。そのため、朝に太陽が昇り、夕方に太陽が沈むという、我々現代人にとってはごく当たり前の自然現象に関して、神話が産み出されることもありました。さらに、日食などの現象は、神の世界の異変とか、神の怒りとか考えることもありました。大雨や洪水、地震や火山の噴火などの自然災害は、天の神や地の神の怒りと考えられました。そして、神々の怒りを鎮めるために雨乞いをしたり、動物や人間を生贄として捧げるという儀式が行われることもあったわけです。もしも仮に、現代のある国が、洪水が起こったり地震が起こったりした時に、その対策として人間を生贄として捧げたとしたら、どうなると思います?おそらく、世界中から非難されることでしょう。なぜでしょうか?それは、現代人にとって洪水や地震は危険な自然現象でり、神の怒りではないからです。生贄をささげたところで何の問題解決にもならないことは明白だからです。しかし、自然科学が存在しない古代では、洪水や地震を「自然現象」と考える人はほぼ存在せず、多くの人々は人間を圧倒する自然現象を「神の怒り」と考えたわけです。なので、生贄を捧げるという方法は、古代人にとっては真剣な対策なのです。これは、現代人が古代人よりも賢い、ということではありません。何が社会常識になっているかによって、人間の取る行動が変化するという法則の一面であるといえます。
このように、古代の世界では神の存在や多種多様な各地の迷信が人々の行動基準となり、それが国家の政策にも影響されることが多々ありました。そして、そのような行動基準を少しずつでも、変化させたのが哲学なのです。

哲学の始り ミレトス学派
ギリシア哲学が産声をあげたのは、それよりももう少し前、前7〜6世紀頃(ペイシストラトスやクレイステネスが活躍した時代)のイオニア地方ギリシア本(土からエーゲ海をはさんで東の対岸となる小アジア方面)のギリシア人植民都市・ミレトスでした。ソクラテスやプラトンといった哲学の巨人が活躍したのは、これよりも100年くらい後のことです。
ミレトスはイオニア地方のギリシア人植民都市の中心として発展していました。ミレトスはエーゲ海に面していたため、ペルシアやエジプトなどとの貿易により繁栄したと考えられています。

現在のミレトスはトルコのバラト(Balat)という田舎町の一部に、遺跡として残っています。海岸線が遠のいたために、海に面してはいませんが、当時は貿易都市として発展していました。なお、他サイトによると、かなり寂れた田舎の遺跡となっているようです。発掘調査や遺跡としての保存事業が進めば、また新たな発見もあるかもしれません。

そのような都市・ミレトスに住むギリシア人の中には、たいへんなお金持ちがいました。お金持ち達は多くの奴隷を所有していることが普通だったので、生活のために自分が労働する必要はありませんでした。そこで、各自思い思いに日々を過ごしていたようなのですが、その中でも特殊なことをしていたのが哲学者達でした。彼らは、手すきの時間にいろいろな思想をめぐらせていました。まず最初に登場したのがタレス(Thales 前624頃〜前548 or 545)です。タレスは多才な人物で、伝説によると哲学のみならず天文学と幾何学を作りだした、とされています。円が直径で2等分されるという基本的な定理を発見したり、霊魂(プシュケ)が宇宙全体を動かしていると考えたなど、と伝えられていますが、事実かどうかは定かではありません。そして、哲学の分野では「世の中に存在するさまざまモノは、何でできているのか?」という画期的な問いを考え出しました。専門的に表現すると「世界のアルケ(根源、の意)は何か」となります。そしてその答えは「水」である、としました。つまり、この世に存在するあらゆるものは、水から生じている、というのです。残念ながら史料不足のために、タレスが何を見てどのように考えて「水が世界の根源」と考えたかは謎に包まれています。しかし、超越した存在である「神」を持ち出すことなく、現実世界に存在するものを説明しようとしたことが、革新的な出来事だったのです。そのため、後の時代の哲学者であるアリストテレスは、タレスを最初の哲学者として位置付ています。
タレスが与えた命題「世界の根源は何か?」には、その後の哲学者たちによって様々な答えが産みだされました。アナクシマンドロス(Anaximandros 前610頃〜前547 or 546)は、タレスの弟子の一人で、万物の根源は「ト・アペイロン(不生不滅で何の限定も持たないもの、の意)」という、水のような特定の元素ではなく、抽象的な概念を作りだしました。アナクシマンドロスの弟子の一人であるアナクシメネス(Anaximenes 前585頃〜前528頃)は、万物の根源は「空気」であると考えています。タレスを始めとした当時の哲学者たちは、その所在地方名から「イオニア学派」とか「ミレトス学派」と呼ばれています。彼らの説は結果的にはハズレでしたが、自然を合理的に説明しようとしたことが、まさに革新的な挑戦だったのです。

原子論
古代ギリシアの哲学史を見ていて興味深いことは、現代科学にも通じる理論が古代ギリシア時代に既に誕生していたことです。レウキッポスとその弟子のデモクリトス(Demokritos 前470 or 前460頃〜前370頃)は

「あらゆる物質はアトム(原子)という、それ以上分割できない微小粒子によってできている」

という「原子論」と呼ばれる説を展開しました。ただし、ここでいう原子とは、現代科学が言う「陽子と中性子と電子から成る原子」ではなくて、「それ以上分割できないモノ(アトム)」という意味です。古代ギリシア時代には、原子を発見するための技術的ノウハウも実験器具も存在しませんでした。
現代人は、彼らの原子論がおおむね正しいことを知っていますが、その当時、原子論はあまり支持を得られず衰退していきました。代わりに、初期のミレトス学派の考えを素にした「物質は空気、水、土、火の四元素から構成され、四元素が異なった割合で混合されることにより、様々な物質が産みだされる」という四元素説が主流となりました。その後、ルネサンスを迎えるまでのおよそ1500年間、ヨーロッパ世界では四元素説で科学の基礎になっていたのです。

エレア学派
上記のように、ミレトス学派は学問的思想の基礎を形成していきましたが、古代ギリシア哲学の主流は別の派に移ります。エレア学派です。エレア学派とは、南イタリアのギリシア人植民都市エレアを発祥の地とした学派です。エレア学派の創始者と言われているのはクセノファネスです。クセノファネスは神を擬人化することを激しく非難しました。クセノファネスが言うには「もしも牛や馬に絵が描けるなら、神々は牛や馬の形をしているだろう。」と、主張していました。その考え方は「知覚によってとらえられる物質世界の現象は単なる虚妄に過ぎず、思考によってとらえられる事実のみが永遠不変のものである。」というものでした。つまり、神を現実世界に存在するもの(この場合は人)に似せて表現することは、単なる虚妄であり、思考によって生まれる神こそが永遠不変の真実である、ということなのでしょう。
このように、エレア学派の考え方は、ミレトス学派の思想に比べてとても難しいです。哲学者というと、小難しい理論を立ち上げて、一般人にはよくわからないことを論じ合っているイメージがありますが、そのイメージはエレア学派が作りだしたのかもしれません。しかし、エレア学派が重視した「思考」と「思考が作りだす世界」は、その後の哲学の発展の基礎となりました。

ピタゴラス
ここから先は、哲学者ではありませんが、この時代に登場した有名な各分野の学者たちを紹介していきます。
日本でも著名なピタゴラス(Pythagoras 前569頃〜前470?)は、紀元前6世紀にサモス島で生まれた哲学者でした。ピタゴラスは有名な数学の定理「三平方の定理」を発見した人物なので、数学者(幾何学者)として覚えている人も多いと思います。ピタゴラスの業績は三平方の定理だけではありません。振動する弦を研究してハーモニックス(倍音)の原理も発見しています。また、天文学の研究も行っていました。ピタゴラスは宇宙を閉ざされた天球が層をなしたもので、太陽や月、惑星は地球を中心として各天球上の決められた軌道を動いている、と考えました。ただ、実際の太陽や月はこの理論どおりには動いていないことは当時既に認識されていたそうです。しかし、これに対しては、理論が違うのではないか、という考えよりも、実際をさらに複雑な理論で正当化する、という手法が取られました。より細かくて緻密な理論を追加していくことで、実際の太陽や月の動きが理論通りに動いているように考えられるようにされたのです。この理論は、後にアレクサンドリアのプトレマイオスによって「天動説」として完成されています。天動説が誤りであることは現代では明らかになっていますが、それを理由にして当時の学者達の業績を貶めることはできないと思います。というのは、プトレマイオスが行った惑星の位置の計算と予測はかなり精度が高かったため、大航海時代の頃まで航海の指針として用いられたという事実があったためです。理論の大元は確かに誤っていましたが、そこから派生していった分野はかなり高精度で確かだったわけです。

サモス島は、ギリシア本土よりも小アジア(現在のトルコ)に近い。面積は476平方kmで、淡路島よりもやや小さいといってほどの広さ。

そして、ピタゴラスの大きな特徴の一つは、神秘主義的傾向が強かったことにあります。前530年頃にピタゴラスはシチリア島のクロトンにピタゴラス教団を設立し、入団した者たちだけに密儀を教えるという、秘密結社のような組織を作りました。現代人には理解しにくいと思いますが、「数」とは人間によって明確に定義された完全な存在であり、永遠不変のものであるといえます。1+1=2という数式は、時代が変わっても厳然たる事実であり、永遠不変の現象と考えることができます。エレア学派が考えた「思考によってとらえられる事実のみが永遠不変」のもの、と考えることができます。そういう意味では、「数」とは「神」なのかもしれません。そのため、アリストテレスは「彼らは「数」を万物の根源として考えていた」と批判しています。ただ、アリストテレスの師匠であるプラトンのイデア論は、ピタゴラス学派の幾何学にありました。イデア論は、人間が現実の生活で経験することは「イデア」の面影(模像)に過ぎない、という考えです。イデアとは、現実世界の事物・現象の原型として、思考によって到達できる永遠不変の実在である、と考えています。
このように、古代ギリシア時代に栄えた哲学は、演繹法に偏っていた、つまり実験を行って事実を検証するのではなく、事実を説明できる理論を構築することに力が注がれていたのです。現代科学の観点から見れば、実験検証を行わない、という点が最大の欠点である、と言えるでしょう。

医学の父・ヒポクラテス
「医学の父」・「医聖」とも讃えられるヒポクラテス(Hippokrates 前460頃〜前377)は、紀元前460年頃、コス島の医者の家に生まれました。

エーゲ海南東部、ドデカネス諸島の一つであるコス島は、サモス島と同じく本土ギリシアよりも小アジアに近い。

ヒポクラテスはたいへんな有名人ですが、その経歴については不明なことが多いです。あちこちを旅行しながら人々に医術を施し、ある時は医術を教えていたそうです。当時、病気の治療は迷信に基づいて行われていましたが、ヒポクラテスは医学を科学として主張し、コス島に医学校を設立しました。医学校の教師たちは、ヒポクラテスの名前で多数の医学書を出版しました。このことが、ヒポクラテスを歴史上の有名人にした原因になっています。紀元前3世紀、エジプトのアレクサンドリアで「ヒポクラテス全集」が編纂されています。この全てがヒポクラテスによって研究されたものとは言えませんが、彼が築いた研究に基づいていることは間違いないでしょう。この全集で扱われているのは、女性と子供の病気、食事療法と薬物療法、外科手術、医学倫理など様々な分野に及んでいます。医師の倫理を説いた「ヒポクラテスの誓い」は、現代でも医学部の卒業式などで宣誓されているなど、現代に与えた影響は測り知れません。

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