Last update:2015,Jul,4

ペイシストラトスの僭主政治

民主政治で繁栄した古代アテネですが、その歴史には民主政治が嫌う「僭主(せんしゅ)政治」が行われた時期がありました。「僭主」という、日常的には使わない歴史用語が出てくると難しく感じるかもしれません。漢字も難しいですし。簡単に言うと僭主は「独裁者」です。「国王」と似たようなものですが、「僭主」には正統性があまり感じられないので「独裁者」というのが、言葉のイメージとしてぴったりだと思います。「独裁者」というと、強大な軍事力を背景に、国を我が物顔で支配いているイメージがありますが、まさにそんな感じです。ちょっと違うのは、そういうあからさまな独裁体制ではなく、形式上はあくまで共和政や民主政の形を保っているところです。

ソロンはポリスを構成する全階級のバランスを取ることで、政治を安定させようとしました。しかし、新たな体制は貴族にも平民にもあまりなじめなかったようで、貴族vs平民の階級間闘争はしばしば発生していたようです。そんな時、登場したのがペイシストラトスでした。ペイシストラトスはソロンの血縁であり、前565年頃にポレマルコス(軍事指揮官)として対メガラ(メガラはアテネから西に約20Kmほどの所にあったポリス)戦で活躍していました。ペイシストラトスは、出身地であるアッティカ北東部を中心とした中小農民や貧民などを集めて「山地党」を結成し、自身の支持基盤としました。前561年(前560年とも)、山地党を率いてアテネを占拠し、僭主となりました。当初は僭主政に反対する貴族らと揉めて、アテネを追放されること2回。しかし、トラキアのパンガイオン銀山で資金を獲得し、テーベやアルゴスといった有力ポリスと同盟して味方とし、前556年、ペイシストラトス(44歳)はアテネの支配権を握り、僭主政治を確立させています。さらに、前546年にマラトン近くのパルレニスの戦いで反対派貴族を倒し、ペイシストラトスの僭主としての地位は確立されました。
上述のように、僭主というと悪いイメージがありますが、ペイシストラトスはたいへん優秀な指導者であり、私腹を肥やすだけの無能者とは全く異なりました。経済発展に向けた基盤作りを進め、法制度のさらなる改革を進め、ゼウス神殿などの大規模公共工事を行いました。重要な役職には自分の一族を就任させたり、民衆から武器を取り上げたりしていましたが、ペイシストラトスの時代に、アテネはその影響力をエーゲ海周辺に拡大していくようになりました。ペイシストラトスの治世は、後に「クロノスの時代(黄金の時代という意味)」と評されるほど、アテネは繁栄を謳歌していました。
ペイシストラトスの場合、「僭主」という悪者のイメージはなく、むしろ有能な「名君」であるかのように、歴史書は書き記しています。国家が繁栄するために大事なことは、政治体制が何であるかというよりも、為政者の政策が的を射ているか、ということのほうが重要なのかもしれません。

さて、ペイシストラトスは、その優れた指導力でアテネの指導者としての地位を保っていましたが、彼も人間です。やがて寿命がやってきます。前527頃にペイシストラトスが死んだ後(享年73歳?)、二人の息子が後継者となりました。兄はヒッピアス(33歳?)といい、弟はヒッパルコス(生年不詳)といいます。この2人は初めは穏健な支配者で通しており、アテネ繁栄時代を象徴するかのように、詩人や建築技術者のパトロンとなっていました。この2人に招かれた著名人としては、軽快な詩で有名なアナクレオンや合唱歌や墓碑銘などを多く作ったシモニデスがいます。
しかし、前514年に僭主政治反対派のハルモディオスアリストゲインは、ヒッピアスとヒッパルコス兄弟をパンアテナイアの祭りの時に暗殺する計画を立てました。結果、ヒッパルコスが暗殺されたものの、ヒッピアスは取り逃がしてしまいます。ハルモディオスは直ちに殺され、アリストゲインは捕えられその後処刑されました。
この事件を機に、ヒッピアスは反対派を徹底的に弾圧する圧政を行うようになります。庇護者であったヒッパルコスの死が影響しているのか、シモニデス(42歳?)もこの年にいアテネを離れてテッサリア方面に移住しています。。それからしばらくした前510年、クレイステネス(Kleisthenes:60歳?)をはじめとする亡命していたアテネの貴族らが、スパルタの協力を得ることに成功し、精強無比で有名なスパルタ軍がアテネを攻撃。ヒッピアスは、アテネから追放されました。こうして、僭主政反対派とスパルタという他のポリスの力によって、アテネの僭主政治は終わりを告げました。

なお、ヒッピアスはアケメネス朝ペルシアに亡命し、後のペルシア戦争では、ペルシア軍とともにギリシア侵攻に加わっています。

クレイステネスの改革

クレイステネスの改革は、高校世界史でも古代ギリシャにおける重要ポイントの一つに挙げられています。まずはクレイステネスの人となりから見ていきましょう。
クレイステネスの経歴
父はアテネの名門貴族であるアルクメオン家のメガクレスで、母はアガリステ(ポリスの一つであるシキュオンの僭主・クレイステネス(祖父と同じ名前)の娘)であり、貴族の中の貴族でした。アルクメオン家はペイシストラトスと長い間敵対関係にあったので、ペイシストラトスが僭主として君臨していた頃は、アテネ国外に亡命していました。ペイシストラトスの死後、アテネに帰国し、前525年(45歳?)にはアルコンに選出されましたが、その後再び亡命を余儀なくされています。
僭主体制を嫌ったクレイステネスは、外部の力を利用することを考えました。アルクメオン家は、神託で有名なデルフォイのアポロ神殿との繋がりを強く持っていました、そこで、デルフォイの神託の力を借りて、スパルタを味方につけることに成功しています。前510年のヒッピアス追放に、スパルタが軍を出したのは、クレイステネスによるところが大きいです。


世界遺産に登録されているデルフォイのアポロン神殿跡

画像提供元:写真素材-フォトライブラリー

改革への道程
ヒッピアスが追放された後、アテネをどのように統治するかをめぐって争いが起きました。クレイステネスは、かつてのような民主政アテネの復活を考えていたようですが、少数の有力者による統治体制(寡頭制)樹立を企てていたイサゴラスの一派は、スパルタ王クレオメネス1世を味方につけてクレイステネスの一派と対立します。前508年、クレイステネスは民主的な改革案を掲げて民衆の支持を得ましたが、この年アルコンに選出されたイサゴラスは、仲間を集めてクレイステネスを追放処分としました。クレイステネスは再びアテネ国外へ亡命することになりましたが、情勢はイサゴラス派の思い通りにはなりませんでした。まず、クレイステネスの改革案を支持する民衆が、イサゴラス派に抵抗するようになり、続いてもう一人のスパルタ王(スパルタは伝統的に国王を2人置く体制をとっていました)とクレオメネス1世が、対アテネ政策をめぐって対立を始めるなど、情勢は混乱を極めます。最終的に、クレイステネスは追放処分を解かれ、すぐにアテネに復帰して改革案を断行していきました。

<歴史暗記 ゴロ合わせ>
ゴーヤ(508)で断行 クレイステネスの改革
ゴーヤとクレイステネスには(おそらく)何の関係もないと思いますが、あくまでゴロ合わせなので。



以下、クレイステネスの改革の中身を見ていきましょう。

1.僭主はもういらない! 陶片追放(オストラシズム)の制度

クレイステネスの改革の中でも、最も有名なものが「陶片追放(Ostracism:オストラシズム あるいは オストラキスモス)」です。これは、僭主の出現を防止するための制度でした。クレイステネス本人は、有能な僭主であったペイシストラトスに辛酸をなめさせられてきた人物ですので、僭主政の弊害(個人的な損害)を無くそうとするのも、自然な流れと言えるでしょう。では、どのように防止するのかというと

国家にとって有害となりそうな(僭主になりそうな)政治家を、市民による秘密投票を行って追放する

というものでした。この制度の適用が決まると
1.市民は陶片(陶器の破片)に追放処分とすべき人物の名前を刻む。
2.市場(アゴラ)で投票する。
3.6000票に達すると、10年間追放。
追放されるといっても10年という期限付きなので、期限が過ぎればアテネに復帰することも可能なわけです。そのためか、アテネ市民権や財産はそのまま保護されました。ただ、この陶片追放には謎も多く残されています。例えば、6000票といのは個人の票なのか、あるいはあるグループの票なのかは不明となっています。陶片追放の詳細を発見することができたら、歴史学の1ページに名前を残すことができるかもしれません。

なお、この制度は政治抗争の道具に成り下がってしまいました。本来の目的は僭主の出現を防ぐことでしたが、実際には自分達の政敵をアテネから合法的に追放できる手段として使われるようになりました。「あいつがアテネにいると、俺達の思い通りにならない」というような低レベルな発想でも、それで6000票という基準を達成すれば、邪魔な「あいつ」を10年間アテネから追放できるわけです。そのためか、陶片追放は前417年を最後に行われなくなりました。

2.貴族の権力基盤を解体する! クレイステネスの政治体制

もう一つの特徴は、貴族による政治権力の独占を終わらせる、という民主的なものでした。およそ100年前、ソロンも貴族権力を制限することを目的に、財産別階級制度を実施しましたが、クレイステネスはこれを廃止します。これまでアテネでは、財産別階級の他に4部族制と呼ばれる、血縁に基づいた4つの部族(フュレ)が存在しました。クレイステネスは、貴族の権力基盤は血縁由来の4部族制にあると考え、これを10部族に分けました。分け方も血縁に基づくのではなく、地域に基づいて決める、というものでした。まず、アテネの勢力圏であるアッティカ地方を30の地域(「デモス」という)に分割しました。30のデモスは偏りが出ないように、アテネ中心とその周辺で10デモス、沿岸部で10デモス、内陸部で10デモスとなっていました。そして、旧4部族がこのデモスに分散するように、くじ引きで決められました。こうして、血縁ではなく地域に基づく新しい「部族」ができあがると、新たな重要政治機関として四百人評議会を改めた「五百人評議会」を設置しました。そしてこの五百人評議会には、10部族からそれぞれ選ばれた30歳以上の市民50人ずつを送り込むこととし、重要な政治機関から古い貴族権力基盤を一掃したわけです。五百人評議会も、議員の任期は1年とされ、再任も2回までとされました。終身議員などは皆無です。こうすることで、特定の人物が長期にわたって権力を握り続ける環境を排除したわけです。この五百人評議会の仕事は、最高決議機関である民会に提出する議案の原案作成と予備審議など、行政や司法面に幅広く守備範囲を持ったため、アテネ民主主義の重要機関の一つとなりました。
また軍事面でも、10部族から1人ずつ将軍(ストラテゴス)を選出することで、軍事力も偏りが出ないような仕組みに改められました。

また、さらなる改革として、人の名前の名乗り方も変えました。以前は、人の名前は「○○(父の名前)の子、△△(本人の名前)」という具合に、父の名を言ってから本人の名を言う、という言い方でした。つまり、個人の名前には常に父親が誰であるのか、がつきまとっていたわけです。これも貴族の権力基盤である「家柄」に影響すると考えたクレイステネスは、これも廃止。代わりに、新たな部族の由来である地名を使って「◎◎地区の△△(本人の名前)」と呼ばれるようになりました。

民主化改革を断行したクレイステネスは、それから間もなく息を引き取りました(享年62?歳)

僭主政と民主政 略年表            
前561(560?)年

ペイシストラトスが一時的にアテネの僭主となる
前556年

ペイシストラトスが僭主政治を確立する
前527年頃年

ペイシストラトス死去
息子のヒッピアスとヒッパルコスが後継者に
前514年

ヒッパルコスが暗殺される
前510年

クレイステネス達がヒッピアスを追放する
前508年

クレイステネスが民主化改革を断行

前へ戻る(2.ドラコンの法とソロンの改革)

次へ進む(4.哲学と合理的思考の夜明け)


古代ギリシア 目次へ戻る


マクロミルへ登録   ライフメディアへ登録