Last update:2019,Jan,12

ポリス

古代のギリシアは一つの国家としてまとまっていたわけではありません。ギリシアの地域には数多くの都市(ポリスという)が建設され、各都市は基本的に独立して運営されていました。現代日本で例えるなら、各市町村がそれぞれ独自の「国家(ポリス)」であり、それぞれに政治が行われている、となります。それぞれのポリスの住人達は、民族的には同じ「ギリシア人」であり、言葉も通じれば文化も似ていました。そして、ポリス間で時には戦争が起り、時には同盟を組んで外国勢力と戦ったりと、「ギリシア」というコミュニティーに所属しながらも、それぞれは基本的に独立している、という状態だったのが特徴です。
これらポリスの中でも、特に有名なのがアテネ(「アテナイ」と表記されることもありますが、ここでは「アテネ」と書きます。)とスパルタでした。アテネは現ギリシアの首都であり、パルテノン神殿跡などの世界遺産が多くの観光客を惹きつけています。スパルタも、厳しい教育「スパルタ教育」の語源となったように、支配階級である貴族の子弟に過酷とも言えるほどの教育を行い、少数精鋭の戦士が国家を支えるという、当時のポリスの中でも極めて特徴的なポリスでした。古代ギリシアの歴史は、アテネとスパルタがツートップとして歴史を牽引していきました。

ポリスを構成する人々
ポリスを運営していたのは「市民」と呼ばれる成年男子でした。つまり、ポリスの住民全員が「市民」であったわけではありません。「市民」にあたらない住民としては、例えば外国人(非ギリシア人だけではなく、別のポリスから来た人も)、女性、奴隷などです。古代ギリシアのポリスというと、民主的で平等というイメージがありますが、民主的な扱いをされていたのは「市民」だけでした。「市民」となる資格は、それぞれのポリスによって異なっていたようですが、アテネでは両親がそのポリスの人でなければならない、など比較的厳しいものが多かったようです。有名なアリストテレスの著作「政治学」には、
『国の審議と裁判に参加する能力を有する者を、我々はその国の市民であると認める。そして、一般的に言えば、国とは生活の諸目的を達するのに十分な数の市民の集合体である』
と述べられています。
外国人(メトイコイ)は、主に商業の担い手になったそうです。というのも、古代ギリシアの伝統では、商売は品の無い仕事だと考えられていたからです。ポリスの主役である市民が、商売などという下品な仕事はできない、ということで、市民に該当しないメトイコイが商業を担っていました。
なお、紀元前432年(ペロポネソス戦争勃発直前)頃のアテネの人口構成のデータはこのようになっています(やや幅がありますが、信頼性はあるといわれている数値です)。


市民
(その家族含む)
35,000〜45,000
(110,000〜180,000)
外国人
(その家族含む)
10,000〜15,000
(25,000〜40,000)
奴隷80,000〜110,000
総人口215,000〜300,000

古代ギリシアの軍隊
多数のポリスで構成されていた古代ギリシア世界では、ポリス間抗争も激しかったそうです。ペロポネソス戦争のように、世界史に名を残すほどの大戦になったものもありますが、世界史では取り上げられないような、小規模な戦い、紛争は日常茶飯事的に発生する戦国時代的な様相を呈していました。そんな時代に兵士となったのは、ポリスの市民達自身です。ポリスの運営と、他ポリスとの戦争は切っても切り離せない関係でしたので「政治に参加する=戦争に参加する」という考え方が普通になりました。また、戦争に参加するにあたって必要な武器や鎧なども、すべて自前で用意することが求められました。自前で用意できない人は「戦争に参加できない⇒政治に参加する資格はない」となっていたわけです。
こうして、自前で武器鎧を揃えた市民達は、重装歩兵として戦力の中核になりました。古代ギリシアを象徴する戦術となったのが「ファランクス」よ呼ばれる隊形です。ファランクスは、数十人の重装歩兵が四角い方陣を形成し、長槍と盾を並べてハリネズミのような形になり、敵に接近して長槍で敵を討取っていく、という戦術でした。歩兵が密集して長槍と盾を並べるため、剣、槍、斧を持った相手は容易には近づけません。単独行動でファランクスに斬り込んでいっても、まずは長槍をかわさねばならず、長槍をかわして相手に肉薄したとしても、次は並んでいる盾の壁を突破しなければ、相手に斬りつけることはできませんでした。ファランクス戦術は、外国との戦いでもその効果を発揮し、戦術に長けたギリシア人の中には、東の大国ペルシアなどに、傭兵として出稼ぎに行く人たちも多かったそうです。


世界遺産に登録されているアテネのパルテノン神殿。前447年〜438年に、当時の技術の粋を集めて建設された。

画像提供元:写真素材-フォトライブラリー

政治体制
直接民主制は古代ギリシアの特徴の一つです。が、最初から民主政だったわけではありません。ポリス草創期は王政でした。しかし、王政はあまり長続きせず、その後は強い経済力(≒軍事力)を持った貴族らが政治を担う貴族政に移行しました。貴族政の下で、貴族と平民の階級間抗争が激しくなってくると、その中で頭角を現した英雄が、その実力や人望を背景に独裁的にポリスの実権を握るようになりました。これらの独裁者は、非合法的に国政を担っていたため、「王」とは呼ばれず「僭主(せんしゅ)」という歴史用語で呼ばれています。僭主政は、全盛期にはポリスを発展させましたが、多くの場合長続きはしませんでした。もともと僭主の権力体制は非合法的なものであり、権力の後ろ盾となっていたのは僭主自身の能力と名声であったため、有能だった僭主が亡くなり、息子の世代になると維持は難しかったそうです。民主政が始まるのは、僭主政の次でした。
民主政ポリスでは、市民が集まって開催される「民会」がとても重要な意思決定機関でした。民会は定期的に開かれ、普段の政治を行う議会の議員を選んだりしていました。市民には、ポリスという国家共同体を構成する一員という意識が非常に高かったのです。そんなポリスの市民から見れば、東方の大国アケメネス朝ペルシアの民衆は、絶対的な権力を持ったペルシア王に支配されている半奴隷のようなものでした。
なお、数あるポリスの中には例外もあります。その代表例は次に紹介するスパルタです。

軍事国家スパルタ


日本語で厳しい教育を意味する「スパルタ教育」ですが、その語源は古代ギリシアの軍事国家・スパルタです。スパルタは、古代ギリシア世界でも珍しい、異常なくらい厳しい軍事教育を施す国家として有名でした。
まず、スパルタ教育の背景から見ていきましょう。古代スパルタに住んでいた人々は、3階層のピラミッド形式になっていました。一番上が「スパルタ市民」。スパルタ教育で戦士として養成されるのは、この階層の人々です。戦争では、主力であるスパルタ重装歩兵として従軍します。2番目が「ペリオイコイ」。この層はスパルタ市民扱いはされなかったため、参政権などはありませんでしたが、一番下の階層「ヘロット」に比べれば、人間的な権利はある程度認められていたそうです。仕事は、商業や軽工業だったそうです。戦争になると、主力の重装歩兵ではなく、補助戦力として従軍することもあったそうです。そして、一番下が「ヘロット」。この層は、奴隷ではないのですが、中世の「農奴」みたいなもので、指定された畑で農作業が仕事でした。当然、スパルタ市民扱いはされず、参政権などもってのほかです。戦争になると、スパルタ重装歩兵のお付の従者として従軍しなければなりません。なお、1人のスパルタ重装歩兵に付き従うヘロットは7人だったそうです。
この3階層の人数比は、研究者たちによると1:7:16だった、ということです。つまり、全体の24分の1程度のスパルタ市民が、残り全部を支配するという、かなりいびつな構成になっていた、ということになります。スパルタ市民に異常なほどの軍事教育が施されるのは、ペリオイコイやヘロットの反乱を抑えることが一因だったと考えられます。
さて、このような背景で採用されたスパルタ軍事教育を見ていきましょう。まず、スパルタ市民に子どもが生まれると、5人の「エフォロス(日本語訳は「監督官」)」という役人がやって来ます。エフォロスは、事実上、スパルタの政治を行う役職だったので、役人というよりは大臣に近いかもしれません。エフォロスらは、赤ちゃんを見て「この子は立派なスパルタ戦士に育つ!」と判定すれば合格。赤ちゃんは母親に返されます。そうではない、と判定された場合、なんとペリオイコイやヘロットの階層に降格させられてしまいます。ひどい場合には、崖から落として殺されてしまいました。この時点で、現代社会では到底受け入れられない制度ですね。さて、母親に返された赤ちゃんは、7歳までは母親のもとで育てられますが、7歳から軍の寄宿舎で生活するようになります。寄宿舎の教育メニューは、ほぼ体育です。国語に該当する、文字の読み書き程度は教育メニューにあったそうですが、とにかく教育内容は体育、そして軍事訓練です。当然、そんな寄宿舎生活が優雅に過ごせるはずもなく、ベッドは自分で乾草を詰めた簡易マット。食事は、固い肉の塊と野菜を煮たスープなのですが、これは当時のギリシア世界でも「最高にマズイ」と有名になるくらい、ひどい味のスープでした。スープが黒く濁っていたので「黒スープ」と書かれたりしたそうです。ちなみに、この黒スープを配るのは最下層民ヘロットのお仕事です。20歳になると、試験が行われました。試験の内容は
野山で7日間生存し、ヘロットの首を持って寄宿舎に帰ること

です。未来のスパルタ戦士には、剣、槍、盾、弓矢が持たされますが、鎧はなく、半裸で外に放り出されました。7日間、武器を使って動物を狩るか、ヘロットの家から食料を盗み取ることで、食料を確保するそうです。そして、最後にヘロットを襲って首を上げ、それを持って寄宿舎に持ち帰るという、恐ろしい試験が行われました。30歳になってようやく寄宿舎の外に自分の家を持つことができ、結婚して子供を作ることが許されます。それでも、夜には寄宿舎に戻らなければなりませんでした。この生活は現役を引退する60歳まで続けなければなりませんでした。ちなみに、スパルタ市民の女性については、このような教育制度は無かったようですが、頑丈な子どもを産むためには母親も強くなければならない、ということで、かなり鍛えられていたそうです。

そして、そんなスパルタ重装歩兵を指揮するのが世襲制の「王」の役割でした。スパルタの王は、一般的な王とは違い、その仕事は「軍の指揮官」でした。政治や外交などの国家の機能は5人のエフォロスらが行っていました。なので、内容で考えると「王」というよりは「将軍」なのですが、多くの本が「王」と書いていますので、ここでも「王」と表現します。なお、スパルタ王は常時2人いるのが基本でした。実際の役割は「将軍」なので、例えば1人が出陣している時は、もう1人がスパルタを守る、といった役割分担が行われていたようです。

このように特徴的なスパルタの仕組みを作ったのはリクルゴス(生没年不詳)と伝えられています。そのため、この制度は「リクルゴスの国制」と呼ばれたりもします。なお、リクルゴスは実在の人物ではなく、スパルタの伝説に登場する架空の人物、という説もあります。

ポリスにおける奴隷
ポリス時代の「奴隷」とは、大航海時代以降のインディオ奴隷や黒人奴隷のように、劣悪な環境でひたすら酷使される、というものとはだいぶ異なる扱いでした。奴隷となったのは、ギリシア人が都市を建設した場所に前から住んでいた先住民や、戦争で捕えられた捕虜、年季奉公人でした。彼らの仕事は肉体労働でしたが、大航海時代の奴隷のように、酷使されて非人間的な扱いを受けるというほど劣悪なものではなかったそうです。中には、高度な教育を受けている人々もいたため、そのような人々は主人の館で家庭教師や秘書として働いてる人もいました。顕著な例としては、前4世紀に自由な身分になった奴隷(解放奴隷という)が銀行家として成功し、一般的な市民よりもはるかにお金持ちになった、という例があります。
また、多くの日本人が知っている「イソップ物語」の作者と言われているイソップ(Aesop ギリシア名は「アイソポス」。「イソップ」は英語読み)。彼は前620年頃〜前564年頃の人物ですが、ヘロドトスの記録によると、サモス島の奴隷でした。
紀元前5世紀頃には、一般的なポリスの市民はたいてい1人か2人の奴隷を所有していました。古代ギリシア世界では、奴隷制は当たり前のことと考えられていたようで、奴隷制を社会の悪として糾弾するような事例は見つかっていません。有名な哲学者アリストテレスも、奴隷について
「人間には奴隷に生れついた者がいて、彼らは自分よりも能力の高い優れた人間に仕えるのにちょうどいい能力しか持ち合わせていない。」
と説明しています。
こう書くと、古代ギリシアの評価を下げる人もいるかもしれませんが、それは誤った判断になると思います。なぜかというと、人類の歴史では奴隷制は長期間にわたってあちこちで行われているものであるからです。古代ギリシア世界だけが奴隷制を堅持し、しかもそれを正当化していたわけでありません。

海外植民活動
古代ギリシアの特徴のもう一つが、地中海沿岸部への植民都市建設です。ギリシアの国土の7割〜8割は山地であり、耕作に適した平地は少ないという事情がありました。エーゲ海沿岸部の平地はほとんどが狭いです。紀元前8世紀頃には農地不足を原因として、農民たちが各地で暴動を起こすという社会問題も発生しました。また、それらの狭い平地は、川に削られてできた谷や山で隔てられていました。そのため、ギリシア人が他のポリスに行こうとか、商品を運んで交易をしようと思った時、たくさんの荷物を抱えて険しい陸の道を行くよりも、船に荷物を積み込んで、海を通って移動した方がずっと効率が良い、という経済的な要素もあり、古代ギリシア人にとって海はとても身近なものだったのです。これらの要素が、海外への植民活動を可能とする下地になり、そして実際に増えすぎた人口を外部に移すことで問題解決を図った、と考えられています。
ギリシア人の植民都市として特に有名なものは、現在でも都市として発展しているイタリアのネアポリス(現ナポリ)、フランスのマッシリア(「マッサリア」とも。現マルセイユ)、同じくフランスのニースとスペインのバルセロナ(母市はアテネ)、ビザンチオン(現イスタンブル)があります。その他にはピテクサ(母市はカルキス)、シラクサ、コルキュラ(母市はコリント)、タラス(「タレンツム」とも。母市はスパルタ)があります。
植民活動は前750年頃から前500年頃に活発に行われました。前753年頃にはシチリア島のエトナ山の麓にナクソスが建設され、次いでシラクサが建設されました。前650年以降はトラキア海岸、マルマラ海(エーゲ海と黒海の間にある小さな内海)、黒海、小アジア方面と展開し、前550〜500年頃には、イオニア方面(小アジアのエーゲ海、マルマラ海沿岸部の地方)がサルデーニャ島、コルシカ島を占拠しています。



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