プロテスタントの誕生
農民戦争が終結した翌年の1526年。ドイツ西部の都市シュパイアー(シュパイヤーとも)で神聖ローマ帝国議会が開催されました。シュパイアーには帝国最高裁判所が設置されており、16世紀〜17世紀にかけて50回ほど帝国議会が開かれていました。1526年に開催された帝国議会は、ドイツに一つの大きな変化をもたらします。ルターを異端者として処罰することを命じた1521年のヴォルムス国会の決議を実行するかどうかは、諸侯の自由裁量に任せる、と決定されました。これは、ルターをはじめとした宗教改革推進派にとっては大きな前進であり、神聖ローマ皇帝カール5世(26歳)にとっては大きな譲歩でした。カール5世が譲歩した原因の一つとして、東の大国・オスマン帝国の脅威が迫っていたことがあげられます。当時のオスマン帝国は小アジアから中東、エジプト方面にまで支配領域を拡大しており、その勢いはカール5世の(ハプスブルク家の)本拠地であるオーストリアにまで迫っていました。カール5世がオスマン帝国と戦うためには、ドイツの諸侯を味方につけておくことがとても重要でした。そのためには、気に入らないルター派の人々であっても、味方につけておく必要があったのです。
そんな背景があったにせよ、ルター派は公式に認められることとなりました。ルターとルターを支持する諸侯は、それぞれに教会の革新に着手していきます。中でも、改革に熱心に取り組んだのはヘッセン伯ヘッセン・フォン・フィリップ(22歳 以下、ヘッセン伯フィリップと書きます)でした。ヘッセン伯フィリップは、1504年11月13日にマールブルクで生まれました。当時としては先進的な思想の持ち主で、従来の封建体制からの脱却を図り、政治顧問として封建貴族ではなく市民階級の人々を起用し、一種の啓蒙専制政治を行っています。そんなヘッセン伯フィリップは"der Grossmutige(度量侯)"という異名があります。当初からルターを支持しており、1527年にはマールブルクに最初のプロテスタントの大学を設立しています。ルターの支持者といえば、破門されたルターをかくまったザクセン選帝侯フリードリヒ3世がいましたが、農民戦争が終結する直前の1525年5月5日に逝去(享年62歳)しており、弟のヨハン堅忍公(「毅然公」とも訳される)がザクセン選帝侯の地位を継承していました。1468年6月30日にマイセンで誕生したヨハン堅忍公は兄の治世をよく補佐し、選帝侯を継承した後もメランヒトンらの協力を得て、自領にルター主義の領邦教会体制を確立させています。
それからわずか3年後の1529年2月、シュパイアー国会でカール5世は再び態度を変えました。1526年のシュパイアー国会の決議は破棄し、教会改革を行っている者はすぐに中止することを義務付けたのです。この決定には、カール5世自身の思惑に加えて、カトリック派の諸侯らからの圧力があったため、と考えられています。この決定に対し、6人の諸侯と14の自由都市が良心の自由と少数派の権利擁護を求めて公式に抗議書(Protest)を提出しました。これが「プロテスタント」の語源となり、旧教:カトリックに対して、新教:カトリック以外の宗派、という分類ができるようになりました。

マールブルク会談
これに対し、新教派諸侯のリーダー格であるヘッセン伯フィリップは、新教派の連合を結成することを目的とし、同年10月1日〜4日にかけてマールブルク(現マールブルクアンデアラーン)にてスイスで宗教改革を進めるツウィングリ達との会談の場を設けました。ドイツ側の代表としてルター(46歳)とメランヒトン(32歳)、スイス側の代表としてツウィングリ(45歳)、エコランパディウス(47歳)、ブーツァー(38歳)が出席し、他に諸侯や諸邦領代表、60名の来賓が参加しています。
ルターとツウィングリの考えは、おおむね一致していました。しかし、5年前と同様に、聖餐式の考え方の違いは解消されませんでした。実在説を主張するルターに対し、ツウィングリは象徴説を唱え、両者は互いに譲りませんでした。会談の成果として、ルターが15ヵ条の協定を作成しましたが、実在説を唱えた第15条はツウィングリが拒否したため、協定書は修正されます。その後、神学者らが署名し、新教の信仰表明としてヘッセン伯フィリップが受け取る という形でマールブルク会談は終了しました。
マールブルク会談は「新教連合を結成する」という目的を完全ではありませんが、ある程度達成できたようです。この協定の内容は、後に登場するルター派教会のアウクスブルク信仰告白に、部分的に取り入れられることになりました。

アウクスブルク信仰告白 (Augsburg Confession)
新教派の動きは翌年も続きました。1530年6月25日、アウクスブルクで開催された帝国議会にて、ルター派の信条書が読み上げられて、カール5世に捧げられました。この信条書は、メランヒトンが起草し、ルターが承認したものであり、ルター派の教義を簡潔、適切に表現したものとして、現在に至るまでルター派の教義書とされています。全部で28章から成り、第1〜21章は信仰と教義について、22〜28章はローマ教会の悪弊について述べられていました。しかし、カール5世やカトリック派諸侯はこれを棄却し、ルター派は認められませんでした。ルター派が公式に認められるのは、もう少し後になります。
なお、メランヒトンは1531年に弁明書"Apologia Confessionis Augstanae"を出しており、こちらも信条書自体と同格に重んじられています。

シュマルカルデン同盟の結成
1530年のアウクスブルク国会で、ルター派の教義書が棄却された後、新教派諸侯はカール5世やカトリック派諸侯から身を守るために、1531年1月27日にドイツ中部のシュマルカルデン(Schmalkalden)に集まり、シュマルカルデン同盟を結成しました。同盟の中心になったのは、ヘッセン伯フィリップとザクセン選帝侯ヨハン堅忍公です。これに、新教派諸侯とマクデブルク、ブレーメン、南ドイツの自由都市が参加しました。ルターは、武力による革命は好みませんでしたが、神聖ローマ皇帝やカトリック派諸侯が、宗教上の理由で攻撃を仕掛けてきた場合、自分たちにも武力で対抗する権利がある、と考えていたので、シュマルカルデン同盟はその考えに基づいた自衛連合、ということになります。
こうして、神聖ローマ帝国内は旧教派と(非公式ながらも)新教派が混在する状況になりました。旧教か新教か、という問題は紛争の主要因の一つとなり、新たな戦争の火種となりました。

プロテスタントの誕生 略年表      
1526年

シュパイアー国会にて、ルター派諸侯に宗教改革中止が命じられる
1529年
10月マールブルク会談
1530年
6月25日アウクスブルク信仰告白
1531年
1月27日シュマルカルデン同盟結成



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