ツウィングリの宗教改革
1529年のマールブルク会談は、ドイツ(ルター、メランヒトン)とスイスの宗教改革代表者で行われました。このページでは、マールブルク会談から少し時を戻して、スイスで起った宗教改革を見ていきます。
スイスで宗教改革を最初に指導したのは、
フルトライヒ・ツウィングリ
(Huldrych Zwingli 日本語訳は「ツヴィングリ」とも。ここでは「ツウィングリ」と記載します。)でした。ツウィングリは1484年1月1日にスイス北東部の街・ウィルトハウスで生まれました。生涯のほとんどを故郷ウィッテンベルクで過ごしたルターとは異なり、学生時代はウェルフリン、ウィーン、バーゼルと渡り歩いて人文学、哲学、神学を学んでいました。1518年(34歳 1519年とする説も)、チューリヒ教会の司祭に就任します。この頃から、スイス傭兵問題(当時、スイスを支える主要産業の一つが傭兵派遣業でした。しかし、戦場から帰ってきた傭兵達が国内で問題を起こすことが多発し、スイスの重要な社会問題になっていました。)など、社会問題に積極的に参画するようになりました。また、エラスムスをはじめとした人文主義者と盛んに交流するようになり、人文主義の影響を強く受けてきました。ツウィングリが宗教改革に乗り出すきっかけとなったのは、ペストに罹って死の淵をさまよった経験から来ている、と言われています。ツウィングリは聖書中心の考えに立って礼拝様式を簡素化し、十分の一税は廃止するなど、教会改革を進めていきました。ドイツで騎士戦争が勃発する1523年には、チューリヒ市と教会を新教化することに成功し、次第に新教に改宗する都市は増えていきました。1528年にはチューリヒ、バーゼルなどの新教都市の同盟を結成しています。
ツウィングリに協調して宗教改革に取り組んだ人物に、
ヨハネス・エコランパディウス
(Johann, Oecolampadius ドイツ名はHussegen)がいます。エコランパディウスは1482年にドイツのワインスベルクで誕生。1506年(24歳)からプファルツ選帝侯の家庭教師を務め、1515年(33歳)にロッテルダムにいたエラスムスの同僚となり、人文主義に賛同して新約聖書ギリシア語原典出版に協力しています。1518年(36歳)にはアウクスブルク大聖堂付きの説教司祭に就任しました。これがきっかけとなり、エコランパディウスがルターの宗教改革に共鳴するようになります。一時は修道院に入ったこともありますが、修道院を脱走して宗教改革を指導し、1520年(38歳)にはスイス北部、フランス・ドイツの国境間近の都市バーゼルに活動拠点を移しました。円満な人柄だったエコランパディウスはバーゼルの改革運動のリーダー格となり、バーゼル大学教授、聖マルチン教会の司祭を務めました。1522年(40歳)にバーゼルの教区司祭、説教師、牧師としてツウィングリの盟友となり、ツウィングリの支援活動をバーゼルで、さらにスイス中部の町ベルンでも展開し、1527年(45歳)にはバーゼル大聖堂付き牧師に就任しました。エコランパディウスは数多くの神学論争で主要な役割を果たし、ツウィングリと並ぶ宗教改革の指導者でした。
しかし、カトリック派の都市はツウィングリと対抗するようになりました。1529年5月、カトリック派の都市と新教派都市の軍がカッペルでぶつかりました(第1次カッペルの戦い (Kappelerkriege;Kappel Wars))。第1次カッペルの戦いは新教派優勢で終わり、信仰の自由を認める和議を結んで終結しました。戦いに勝利したもの、ツウィングリは同じ新教を奉じる者として、ドイツのルター派と連合する必要性を感じます。同年10月、ヘッセン伯フィリップから招かれたマールブルク会談は、ドイツのルター派と連合するいい機会でした。しかし、前ページ記載のとおり、聖餐式に対する考え方の違いにより、完全に協調することには失敗。チューリヒは、カトリックと敵対するがルター派とも完全に協調できない、というやや孤立した状態に陥りました。
そして、1531年10月、旧教側が新教側の不意を突く形では第2次カッペルの戦いが始まりました。不意を突かれた新教側は敗れ、ツウィングリは10月11日に戦死しました(享年47)。また、ツウィングリ戦死の報を受けたエコランパディウスの衝撃は計り知れないものだったようで、翌月11月23日にバーゼルにて死去しました(享年49)。
ツウィングリ、エコランパディウスの死により、スイスにおける宗教改革は一時頓挫することになります。
カルヴァンの宗教改革
スイスにおける宗教改革は、別の人物によって再開されました。
ジャン・カルヴァン
(Jean Calvin 日本語訳は「カルバン」あるいは「カルビン」とも。ここでは「カルヴァン」と書きます。)です。カルヴァンは1509年7月10日ピカルディのノアイヨンで生まれ、パリ、オルレアン、ブールジュの大学で神学、法律、人文学を学んで人文学者としての道を歩んでいました。宗教改革に乗り出したのは、1532年頃だと考えられています。バーゼルで活動を始めたカルヴァンは1536年(27歳)に「キリスト教綱要」(ラテン語)の初版を出版し、ファレルの要請でジュネーブでの宗教改革に参加しました。しかし、カルヴァンの姿勢はあまりに厳格であったため、1538年には追放されてしまい、シュトラスブルクに移ります。この頃から、1539年にかけて「ローマ人への手紙」をはじめとした旧約聖書・新約聖書のほぼ全体の注解を行っています。1541年(32歳)に再びジュネーブに迎え入れられると、厳格な改革を断行し、神権政治(あるいは神政政治)と呼ばれるような厳格な政治を行いました。神を冒涜する者と魔術を行う者は死刑、とされました。不義密通については従来よりもはるかに厳しい死刑(男は斬首、女は水死)とされました。異端と判断された者は、最も厳しい死刑である火刑とされました。例えば、
セルベトゥス
という医学者兼神学者がいました。彼は血液の肺循環を発見しており、医学発展の礎を築いた人物の一人です。神学者でありながら、医者でもあったセルべトゥスの思想は、カルヴァンのように神を絶対的な存在とはせず、極めて人間中心的な信仰を説いていました。この説は、カトリックからもプロテスタントからも「異端」と考えられ、さらにカルヴァンの目をつけられるところとなり、1553年、ジュネーブにて火刑に処されています(享年42歳)。
カルヴァンの教義は、その代表作である「キリスト教綱要」にまとめられています。キリスト教綱要は、プロテスタント史上最初の組織的神学書と評価されており、その内容は、創造者にして至上の支配者である神の権威と、聖書こそ唯一の真理の啓示であることを主張しています。1536年にラテン語初版が出ましたが、1541年にフランス語版が、そして1559年に決定版(ラテン語)、1560年に決定版(フランス語)が出ています。
カルヴァンの教義の中でも特徴的なのは、「預定説(predestination 日本語訳は「予定説」とも)」と呼ばれるものでした。預定説とは、人間が救済されるか否かは神によってあらかじめ決められている、というものでした。救済されない人には、破滅が待っているそうです。カトリックでは、罪を改悛し善行を行うことで人は救われます。ルター派は、信仰によって救われるとしています。カルヴァンの教義は、これらとはまったく異なるものでした。
預定説のようなカルヴァン派の教義は、あまり広く受け入れられないようにも思えるのですが、事実は全く逆で、カルヴァン派はツウィングリの教義やルターはよりも、より広範囲に広がっていきました。カルヴァンの教義には、共和主義や人権思想なども指標として語られることが多かったため、カルヴァンの考え方(カルビニズムという)は、かなりのスピードでヨーロッパ社会に広まっていきました。カルヴァン派は特に商人階級などに広く受け入れられて広まり、スイスのみならず、フランスやドイツにも広まっていきました。カルビニズムは、その後のオランダ独立戦争、ピューリタン革命、アメリカ独立宣言などの思想的基礎となった他、やがては資本主義成立の礎となった、という学説(M・ウェーバー)もあります。
カルヴァンは、1564年5月27日、ジュネーブにて生涯を閉じました(享年55歳)。
スイスの宗教改革 略年表
1518年
ツウィングリがチューリヒの司祭に就任
1528年
チューリヒを中心とした新教同盟が結成される
1529年
5月
第1次カッペルの戦い
10月
マールブルク会談
1531年
10月
第2次カッペルの戦い
1536年
10月
カルヴァンがジュネーブ宗教改革に参加
1538年
10月
カルヴァン、厳格すぎるために一時ジュネーブを追われる
1541年
10月
カルヴァン、再びジュネーブで宗教改革を断行
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