タウンゼンド諸法とボストン虐殺事件


タウンゼンド諸法とは、植民地アメリカで、イギリスの課税政策に反対する機運が高まっていた頃、1767年6月から秋にかけてピット内閣の蔵相C・タウンゼンド(42)が立案した法律です。その内容は
(1)軍隊宿営法を拒否したニューヨーク議会の立法機能の停止
(2)鉛、インキ、紙、ガラス、茶などに輸入税をかけ、その収入の一部を総督その他官吏の給料に充てるタウンゼンド歳入法
(3)アメリカ税関管理局の設置法
(4)海事裁判所機構の拡充法
となっていました。本国イギリスの政策に反対する植民地に罰を課したうえで、さらに課税を強化する、という内容です。これらの法は、イギリス重商主義政策の再強化として、植民地人の激しい反感を買い、印紙税法と同じような抵抗運動が展開されました。アダムズ・サムエル(46)は1768年に「マサチューセッツ回状」を起草してこれに対抗しています。(なお、C.タウンゼンドはこの年の9月4日に亡くなっています。)

さて、印紙税法は1年で撤廃に追い込まれましたが、タウンゼンド諸法はしばらくの間有効でした。状況が変わったのは、3年後の1770年に起こったボストン虐殺事件です。
「虐殺事件」というとおおげさに聞こえます。実際にはどのような事件かというと、ボストンの街頭で市民とイギリス駐屯軍が衝突し、投石した市民3名が駐屯兵に射殺され、2名が瀕死の重傷を負ったとのことです。事の発端は、1767年のタウンゼンド諸法や、1768年以来市内に駐屯しているイギリス軍に対する市民の不満が、駐屯軍宿舎前に集まった群衆と歩哨の争いをきっかけに爆発したことです。救援に駆け付けた兵士が発砲したことにより、黒人水夫C.アタックスら3人の殺害事件にまで及びました。アダムズ・サムエルら急進派は駐屯軍撤退を要求し、マサチューセッツ湾植民地副総督T.ハッチンソンは、軍隊を一時港内の島に移動させ、騒乱の拡大を防ぎました。発砲した兵士8名と隊長T.プレストンは裁判にかけられましたが、兵士2名が軽罪となったのみで、残りは無罪となりました。一方で、この年タウンゼンド諸法の茶条項以外は撤廃されたことにより、情勢はしばらく平穏を取り戻しました。
また、この事件では一人の後の有名人が関与しています。後に第2代大統領となるジョン・アダムズ(35)です。彼は、殺人の容疑者となったイギリス兵の弁護を引き受け、無罪を導き出しました。アダムズは1735年10月30日、マサチューセッツのブレイントリーにて誕生。1755年にハーバード大学卒業後、しばらく教鞭をとったのち法律を修め、1758年に弁護士資格を取得。1765年に政界に入っていました。翌1771年、マサチューセッツ下院議員に当選。マサチューセッツの代表として植民地の独立を強く主張しています。

次へ(3.茶税法とボストン茶会事件)

目次へ戻る