Last update:2022,OCT,1

自由と革命の時代

アメリカ独立革命 (American Revolution)

あらすじ

big5
「さて、ここではアメリカ独立革命の話を進めていきます。アメリカ独立、そしてそれに続くフランス革命を経て、ヨーロッパ世界は「近代」と呼ばれる新たな時代が幕を開けますので、たいへん重要な歴史事件ですね。」
名もなきOL
「アメリカ独立革命って、アメリカ独立戦争のことですよね?」
big5
「だいたい同じですが、少し違います。「アメリカ独立戦争」だと、一連の流れにおける戦争とそれに関連する部分を指しますが、「アメリカ独立革命」だと、「独立戦争」にプラスして、植民地に住む市民たちが、王政から独立して共和政国家を建国した重要な市民革命、という意味が含まれます。アメリカでは、歴史用語としては"American Revolution"とか、"Revolutionary war"という用語が使われるそうです。両方とも「革命」が入っていますね。一方で、独立された側のイギリスでは"War of American Independence"という「革命」という言葉を使わずに、単純に「独立戦争」という意味の用語が使われているそうです。最近の日本の教科書などでは「独立革命」と表記されることが多いですね。」

Flag of the United States (1777-1795)

名もなきOL
「上の旗は何の旗ですか?アメリカの国旗に似てますね。」
big5
「これは、独立当初のアメリカ国旗です。当時、アメリカ大陸には13の植民地がありました。これをまとめて「13植民地」と呼びます。七年戦争に勝利し、パリ条約で現在のカナダなど、広大な領土をフランスから奪い取ったイギリスは日の出の勢いでしたが、その一方で国家財政はたいへん苦しい状態でした。イギリスは、国家財政を立て直すために、13植民地にいろいろな税金をかけることにしました。ところが、13植民地はこれに反発。イギリスと13植民地の関係が悪化し始めます。」
名もなきOL
「増税されて喜ぶ人はいませんよね。」
big5
「そんな中、茶法という法律をイギリスが制定し、東インド会社にお茶を独占販売を認めたことに対して、13植民地の不満が爆発。一部の人がボストン港に停泊していた東インド会社の船を襲い、積み荷の茶を港に投げ捨てた、というボストン茶会事件が発生し、イギリスと13植民地の対立は決定的になりました。
1775年、レキシントン・コンコードの戦いで戦争が始まります。13植民地は、ジョージ・ワシントン(以下、「ワシントン」と表記)を総司令官に任命し、イギリス軍との戦争に臨みました。」
名もなきOL
「ワシントンって、アメリカの初代大統領ですよね?そっか、独立戦争の時から総大将だったんですね。」
big5
「開戦の翌年、1776年にトマス・ペイン「コモン・センス」を刊行して13植民地の独立を人々に訴え、さらにジェファソンらが起草した独立宣言が発表されて、13植民地の正当性を広めていきます。当初は、本格的な装備を持つイギリス軍に苦戦していたワシントンでしたが、1777年にサラトガの戦いで勝利すると、1778年にはイギリスの宿敵・フランスがアメリカ独立を承認してアメリカ側で参戦。1780年には、ロシアのエカチェリーナ2世が武装中立同盟を結成して、間接的にアメリカを支援。国際的に、イギリスが孤立していきます。そして1781年、ヨークタウンの戦いでイギリス軍が降伏したことで、戦争は事実上終結。1783年にパリ条約が締結され、イギリスはアメリカの独立を承認することになりました。
それでは、いつもどおり年表を見ながら、もうすこし詳細を見ていきましょう。」

できごと
1764年 イギリスが砂糖法制定
1765年 イギリスが印紙法制定
5月29日 ヴァージニア植民地議会がパトリック・ヘンリの「代表無くして課税無し」を決議
1766年 13植民地の反対により印紙法撤回
1767年 イギリスがタウンゼンド諸法を制定し、13植民地に制裁を科す
1773年 5月 イギリスが茶法制定
12月 ボストン茶会事件
1774年 イギリスがボストン港を封鎖するなど、13植民地への制裁を強化
9月 13植民地が第1次大陸会議を発足
1775年 3月 パトリック・ヘンリの「自由か死か」の演説」
4月 レキシントン・コンコードの戦いで13植民地軍勝利 アメリカ独立戦争 開戦
5月 13植民地が第2次大陸会議を発足 ワシントンが総司令官に任命される
6月 バンカーヒルの戦いでイギリス軍が大陸軍に辛勝
1776年 1月 トマス・ペインが「コモン・センス」を発表して13植民地の独立を訴える
7月 アメリカ独立宣言が発表される
8月 ロングアイランドの戦いでイギリス軍がアメリカ軍に勝利
12月 トレントンの戦いでアメリカ軍がイギリス軍に勝利
1777年 1月 プリンストンの戦いでアメリカ軍がイギリス軍に勝利
7月 フランス貴族ラファイエットが義勇軍を率いてフィラデルフィアに到着 少将となる
10月 サラトガの戦いでアメリカ軍がイギリス軍に大勝
1778年 2月 フランスがアメリカ独立を承認し、アメリカ側で参戦
1779年 スペインがアメリカ側で参戦
1780年 オランダがアメリカ側で参戦
ロシアのエカチェリーナ2世が武装中立同盟を結成してアメリカを支援
1781年 10月 ヨークタウンの戦いで大陸・フランス連合軍がイギリス軍に勝利
1783年 パリ条約で講和締結 イギリスはアメリカ独立を承認

アメリカ植民地の不満爆発!

名もなきOL
「こうやって年表を見てみると、だいたい20年くらいの歴史があるんですね。。」
big5
「そうです。戦争だけやってたわけじゃありません。さて、まずは13植民地とイギリスの揉め事から見ていきましょう。前書きにも書いたように、1763年のパリ条約で七年戦争が終結し、イギリスは北米において現在のカナダをはじめとした広大な領土をフランスから奪い取りましたが、イギリス財政は火の車でした。そこで、イギリスは財政改善のために、13植民地に対して税金をかけていきましょう、ということになったんですね。まず、1764年に砂糖法を制定。これは砂糖の輸入に関税を課すことを決めた法律です。そして、1765年に印紙法(Stamp Act)を制定。これは、いろいろな書類に印紙を買って貼ることを強制した法律ですね。」
名もなきOL
「印紙って、現代日本でも契約書とかでたまに使う、切手みたいなのですよね?」
印紙
↑200円の印紙

big5
「そうです。現代日本にも取り入れられている税ですね。売買契約書とかに貼り付けなければならない、という法律を決めて、貼らない人には罰金が課せられます。この時、イギリスが決めた印紙を貼る対象はもっと広く、パンフレット、新聞、広告、さらにはトランプのカードにまで貼らなければならない、としました。」
名もなきOL
「なんか、「搾り取れるだけ取ってやる」という意図が見え見えですね。」
big5
「当然、13植民地は猛反発です。印紙のボイコットをはじめ、印紙の販売代理人が群衆に殴られて、柱に吊るされて見せしめにされるなど、の暴力行為も行われました。それと、もう一つ重要なことがあります。1765年5月29日、ヴァージニア植民地議会で、パトリック・ヘンリが提唱した「代表無くして課税無し」、つまり13植民地からは投票権のある議員を本国イギリス議会に送っていないのに、課税だけされるのはおかしい、という反対意見が決議されました。」
名もなきOL
「筋が通った意見ですね。それで、イギリス議会はどう対応したんですか?」
big5
「13植民地の強い反発を受けて、印紙法は撤廃されました。ただ、課税の問題はこれで終わりません。1767年にイギリスは財務大臣タウンゼンドが主となって作成した「タウンゼンド諸法」を制定しました。これは、生意気な13植民地に対してイギリスが制裁を加える、というような内容だったんです。これに対し、13植民地はイギリス製品不買運動を展開するなどして反発。タウンゼンド諸法は、一部を残して撤廃されることになりました。このように、イギリスと13植民地の間で、税をめぐって反目しあうようになっていったわけですね。」
名もなきOL
「私の会社でも、そういうのありますよ。支店は本社の言うことを黙って聞け、みたいな。13植民地の人の気持ちがわかる気がします。」
big5
「そして、13植民地とイギリスの関係を決裂させる最後のイベントが起きます。1773年、イギリスが制定した茶法という、お茶の専売特許を東インド会社に与える法律が制定されたことに対して、13植民地の不満が爆発。数十名の急進派がインディアンに変装し、ボストン港に停泊していた東インド会社の船に乗り込んで積み荷のお茶を湾内に投げ捨てる、というボストン茶会事件(Boston Tea party)が発生します。」
Boston Tea Party Currier colored
↑ボストン茶会事件を描いたリトグラフ 1846年画

名もなきOL
「名前は茶会で、オシャレで優雅なかんじですけど、中身は荒々しいですね(^^;」
big5
「そうなんです。これには対してイギリスはボストン港を封鎖して軍隊を駐屯させるなどの強硬的な態度に出ます。もう、実力行使も辞さない、という構えです。翌年の1774年9月、13植民地はフィラデルフィア(アメリカの最初の首都になる街)に集合して第1回大陸会議を発足させます。そこで話し合いが行われた結果・・・
・イギリス議会の立法権を否定する(つまり、イギリス議会の言うことはもう聞かない)
・イギリスとの通商断絶(イギリス製品を輸入しない、使わない、イギリスに輸出もしない)
これらを決議し、これまた対決姿勢を明確に打ち出してきました。両者の政治的緊張は最高潮に達し、何かが起これば即開戦!という状況になります。」
名もなきOL
「なるほど。税金の問題がきっかけになって、イギリス本国の一方的な姿勢が13植民地の反発を招いて、ついには独立戦争に発展したわけですね。」

独立戦争 戦闘経過

big5
「年が明けて1775年3月。「代表無くして課税無し」で有名になったパトリック・ヘンリが、「神よ、私に自由を与えてください。そうでなければ死を与えてください。」」という「自由か死か」の演説で武装蜂起を呼びかけます。そして4月、ついに独立戦争の火ぶたが切って落とされました。イギリス軍が、13植民地の民兵の武器庫に行って武器を押収しようとしたところ、13植民地の民兵が抵抗して戦闘なりました。レキシントン・コンコードの戦いです。この戦いは非常に小規模な戦いでしたが、13植民地の民兵が勝利したことで、勢いづきます。5月10日、第2回大陸会議が開催され、戦争の開始を宣言。そして、ジョージ・ワシントン(この年43歳)が総司令官に任命されました。ここからは、13植民地の軍は「アメリカ軍」と呼ぶことにしますね。」
名もなきOL
「ここで初代大統領がアメリカ軍の総大将になったんですね。」
big5
「ワシントンは優れた指揮官でした。イギリス軍に比べて、装備も練度も劣るアメリカ民兵を率いて、なんとか戦ったと言えます。1776年1月にトマス・ペイン(この年39歳)が「コモン・センス」と題したパンフレットが販売されました。トマス・ペインは、13植民地の権利を守らないイギリス支配から脱却し、アメリカが独立すること人間の権利に基づいた当然の行いである、として13植民地の人々を鼓舞します。ちなみに、トマス・ペインは書くだけでなく、自身もアメリカ軍に入隊し、ワシントンの部下として働いています。
さらに7月4日に大陸会議がアメリカ独立宣言を発表。この7月4日が、アメリカの建国記念日となっていますね。」
名もなきOL
「独立宣言を出した日が、正式に国家としてのアメリカが始まった瞬間なのんですね。アメリカにとって重要な記念日、というのもうなずけます。」
big5
「せっかくなので、アメリカ独立宣言の主な内容を見てみましょう。特に、独立することを正当化する理由が重要です。かつてイギリスで名誉革命が起こった時に、それを正当化するためにジョン・ロックが唱えた「革命権」の影響が色濃く反映されていることがわかります。」

アメリカ独立宣言(要旨)
・すべての人は平等に造られ、造物主によって一定の奪い難い天賦の権利が与えられている。すなわち生命、自由、幸福の追求する権利がある。
・政府とは、これらの権利を保障するために作られたものである。
・政府には、統治される者達の同意することではじめて権力が与えられる。
・上記の目的を果たさない政府に対しては、人民はそれを改廃し、新たな政府を作る権利を持っている。


名もなきOL
「ほんとだ。これって、ジョン・ロックさんの統治二論の要旨と、ほとんど同じことを言ってますね。イギリスで起きた名誉革命を正当化する理論が、今度はアメリカがイギリスから独立する理論の土台にもなるなんて、イギリスにとっては皮肉な歴史ですね。」
big5
「そうなんですよ。これがいわゆる「歴史の流れ」です。
さて、理論武装も完了して士気が上がるアメリカ軍でしたが、イギリスの本格的な反撃が始まると苦戦を余儀なくされます。8月のロングアイランドの戦いで、ワシントン率いるアメリカ軍がイギリス軍に敗北。敗北で士気が落ちたアメリカ民兵の中には脱走して村に帰る者もあらわれ、大ピンチになります。」
名もなきOL
「負けたら村に帰っちゃう、っていうのが、素人の集まりなんだな、っていうことを感じさせますね。」
big5
「このままでは、アメリカ軍が雲散霧消してしまいます。ワシントン、大ピンチです。そこでワシントンは、軍の士気を回復させるために、小さな勝利をつかもうとします。12月25日の夜、ワシントンは密かに出陣します。冬で冷たくなっているデラウェア川を渡って進軍し、トレントンにあるイギリス軍所属のドイツ人傭兵部隊の陣地を奇襲を仕掛けました。」
Washington Crossing the Delaware by Emanuel Leutze, MMA-NYC, 1851
デラウェア川を渡るワシントン 1851年作成  画:エマヌエル・ロイツェ

big5
「完全に油断していたドイツ人傭兵部隊は、ほとんど抵抗らしい抵抗もできないまま逃げまどい、アメリカ軍は約900人(ドイツ人傭兵部隊の約3分の2にあたる)を捕虜にする、という勝利を挙げました。
さらに、年が明けて1777年1月3日、プリンストンの戦いでもワシントンは素人集団に近いアメリカ軍を鼓舞しながらイギリス軍と戦って勝利を挙げました。この2つの戦いの戦果はそれほど大きなものではありませんでしたが、崩壊しかけていたアメリカ軍が士気を回復し、戦争継続を可能にさせた、という意味で重要です。」
名もなきOL
「士気って重要ですよね。スポーツの世界でも、チームが意気消沈してしまってそのまま負けちゃうこともありますしね。」
big5
「そんな時、ワシントンの元に新たな味方が到着します。フランスの貴族の青年・ラファイエット(この年、20歳)です。外国から義勇兵としてやってきたラファイエットをワシントンは温かく迎えました。義勇兵としてアメリカ軍に参戦した他の有名人として、ポーランドの自由主義貴族のコシチューシコ(参考:自由と革命の時代 ポーランド滅亡)、フランスの産業思想家であるサン=シモン(参考:自由と革命の時代 資本主義のひずみと社会主義の登場)が挙げられますね。
さらに、10月にはサラトガの戦いで、カナダ方面からやってきたイギリス軍をアメリカ軍が打ち破ったことで、戦争の形勢は大きくアメリカに傾き始めます。
翌年の1778年2月、フランスで外交交渉を行っていたベンジャミン・フランクリン(この年72歳)が、サラトガの勝利を決め手として、ルイ16世を味方につけることに成功。フランスはアメリカの独立を承認し、イギリスに対して宣戦布告しました。」
名もなきOL
「スペイン継承戦争もオーストリア継承戦争も七年戦争も、イギリスにしてやられてばっかりでしたもんね、フランスは。ここでイギリスに仕返しできると考えたんでしょうね。」
big5
「フランスの参戦をきっかけに、ヨーロッパ列強が動き出します。まず、フランスと同じブルボン家が治めるスペインが1779年にイギリスに宣戦布告、1780年にはオランダがイギリスに宣戦布告し、戦場はアメリカ以外の各地にも広がっていきます。これで、イギリスはアメリカだけを相手にすることができなくなりました。」
名もなきOL
「今度は、イギリスがヨーロッパ各国から叩かれ始めちゃったんですね。」
big5
「さらに、ロシアのエカチェリーナ2世(この年51歳)が動きます。イギリスは、アメリカを経済的に追い込むために、アメリカと貿易をする国の船は、例え中立国の船であっても捕獲する、という宣言をしていたのですが、これに対して中立国は反発します。エカチェリーナ2世は中立国に呼び掛けて、ロシア、プロイセン、デンマーク、スウェーデン、ポルトガルの5か国で武装中立同盟を結成し、中立国の貿易の自由を宣言。アメリカとの貿易を継続させることで、間接的にアメリカを支援することを決めました。」
名もなきOL
「イギリスが本当に孤立してしまったんですね。」
big5
「そして、独立戦争は終盤を迎えます。1781年10月、ヨークタウンの戦いでアメリカ・フランス連合軍がイギリス軍に勝利。残ったイギリス軍は降伏。アメリカ独立戦争の陸戦はこれが最後となりました。その後も、各地で小規模な戦闘は続いていましたが、イギリスも敗北を認めざるを得なくなり、1783年、七年戦争からちょうど20年、同じパリで講和条約・パリ条約が締結され、イギリスはアメリカの独立を承認。こうして、アメリカは独立を勝ち取ったわけです。」

アメリカ独立 その後

名もなきOL
「アメリカの独立が、パリ条約で認められたことはわかったのですが、他にも決まったことはあるんですか?」
big5
「独立承認の陰に隠れてしまいがちですが、ポイントは以下のとおりです。
・イギリスはルイジアナのうち、ミシシッピ川以東をアメリカに割譲。
・アメリカはニューファンドランド周辺の漁業権を獲得。
・アメリカはミシシッピ川の航行権を獲得
・イギリスは西インド諸島のトバゴ、アフリカのセネガル(七年戦争でフランスから奪っていた)をフランスに割譲。
・イギリスはフロリダ(七年戦争でスペインから獲得)と、地中海のミノルカ島をスペインに割譲。
というところですね。」
名もなきOL
「フランスとスペインも、少しですがイギリスから領土を獲得&奪還したんですね。イギリスに一矢報いた、というところでしょうか。」
big5
「フランスがイギリスに一矢報いたのは事実ですが、戦費の負担も大きかったんです。そこで、フランスはいつものように税金をかけて財政改善しようとするのですが、それがきっかけになってフランス革命が勃発します。結果論ですが、アメリカ独立はフランスの絶対王政にトドメを指す原因になりました。
さて、その後のアメリカですが、独立共和国としての道を歩むために、合衆国憲法の作成に取り掛かります。憲法作成にあたり、連邦政府の権限強化を主張する「連邦派」と、各州の自治権限の強化を主張する「反連邦派」で対立が起きますが、1788年に合衆国憲法がなんとか成立。1789年には、独立戦争の総司令官であったジョージ・ワシントンが初代大統領に選ばれました。ワシントンの施政方針は「ヨーロッパでの争いには関わらない」です。ヨーロッパで戦争が起きても、基本的には関与しない、ということですね。地理的な遠さや、アメリカがまだ独立して間もない国であることを考慮して、この方針になったと考えられますが、そのためにアメリカはフランス革命やナポレオン戦争といったヨーロッパの激動には直接巻き込まれずに、自国の発展を遂げることになります。」
名もなきOL
「ヨーロッパの揉め事に巻き込まれると、それだけで国力が衰退しちゃいますよ。ワシントンさんの判断は正しかったと思います。」
big5
「というわけで、アメリカ独立革命の本編はいったんここで終了します。より詳しい話は、詳細篇で見ていきましょう。」


アメリカ独立革命 詳細篇へ

自由と革命の時代 目次へ

トップページへ戻る

この解説は、管理人の趣味で作成しております。解説が役に立ったと思っていただければ、下記広告をクリックしていただくと、さらなる発展の励みになります。