Last update:2023,MAY,13

古代

古代エジプト 詳細篇

エジプト古王国

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「さて、今回は「「古代エジプト」の詳細篇」いうことで、本編では省略したより深い話を紹介していくぜ!まだ本編を見ていない、っていう人や大学入試共通試験の勉強がしたいという人は、こちらの本編から見てくれよな。」
big5
「詳細篇はいつもどおり、OLさんの代わりに私が聞き役になります。」

<目次>
1.ナイル川と農業発展 前6000年〜前3150年
2.最初のエジプト王 前3000年頃
3.交易の発展
4.ジョセルと階段ピラミッド
5.第4王朝とピラミッド全盛期
6.古王国の崩壊


ナイル川と農業発展

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「最初のテーマはナイル川と農業発展(The Nile)だ。エジプト文明の発展は、ナイル川無しでは語ることはできないからな。」

Nilナイル川

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「本編でも説明しましたが、ナイル川は定期的に氾濫を起こして、肥沃な土を上流から運んできた、というのが最も重要ですね。」
small5
「そうだな。まずは、その話をもっと詳しく見ていこう。まず、そもそもエジプトの気候から確認しよう。まず、現代エジプトの首都・カイロ付近は、ほとんど雨が降らない。気候のデータを東京と比べると一目瞭然なんだが、降水量が圧倒的に少ないのが特徴だ。これは現代のデータだが、古代でもほぼ同じだったと考えられている。」
big5
「普通に考えたら、雨がほとんど降らない砂漠が多い土地で、農業が発展するなんてありえないですよね。なのに、古代エジプトで農業が発展したのは、ナイル川があったからに他ならない、というわけですね。」
small5
「古代エジプトで行われていた農業の1年の流れは、このようになっていた、と考えられている。
@6月〜9月:「アクト」と呼ばれた時期。ナイル川の水位が高くなり、氾濫している時期。この時期、耕地は水浸しだったり、川の一部になっていたりなので、農作業はできない。なので、農民たちは道具を作ったり狩猟をしてい過ごしていた。ちなみに古王国が発展してファラオの力が強くなってからは、この時期にピラミッドや神殿建築が行われていた。
A10月〜2月:「ペント」と呼ばれた時期。水が引き、泥と土が残る。農民はこれを耕して耕地とした。耕す方法は人力の他に、動物に犂(すき)を引かせる、という方法も行われた。その後種をまき、ヤギなどを歩かせて種を地中深くに埋めたり、ついでに追加の肥料を加えたりした。
栽培されたのは、小麦、大麦、亜麻、玉ねぎ、ニンニク、ニラ、レンズ豆、レタス、キャベツ、ラディッシュ、カブ、ぶどう、いちじく、プラム、メロンなど。
B3月〜5月:「シェムゥ」と呼ばれた時期。ここが収穫期。農作物は鎌で刈り取られた後、穀倉に保管された。町の職人たちは小麦からパンを作り、大麦からビールを作り、亜麻から麻布を作ったり、パピルスの茎を集めてサンダル、舟、カゴ、敷物、紙などを作った。
というところだな。」
big5
「パピルスって、紙の材料として使われるのが有名ですが、実際にはかなり幅広いものの材料として使われていたんですね。特にというのはビックリする人が多いと思います。古代エジプトでは木材が希少だったので、舟(というよりも「ボート」と言った方が近い)はパピルスの茎などを集めて作られていました。
また、当時からビールが作られていたことも意外だと思います。このように、農業が発展して食料生産量が増加しただけでなく、農作物を加工した食品、飲料、服や生活用品なども作られて文明が発展していった、というわけですね。
まさに、歴史の父・ヘロドトスが書いたように「エジプトはナイルの賜物(たまもの)」でした。」
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「また、運河やため池など、灌漑設備も発展している。これらの自然の要素と技術の発達で、ナイル川流域では200万〜1500万人ほどの人口を養えることが可能になった、と考えられているぜ。エジプトの農業生産力はローマが帝国になった時点でも「世界の穀倉」と表現されるほど高かったわけだ。」

最初のエジプト王 前3000年頃

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「さて、次は最初のエジプト王は誰?、という問題だ。本編ではメネスとしている。これは俺たちが最初に学んだ教科書や資料集では「メネス」と表記されていたからだ。ところが、詳しく調べてみると、最初の王と考えられているのは他にミンナルメルという名前だ。」
big5
「「ミン」はヘロドトスの「歴史」に記録された名前です。原文はもちろん日本語ではなく古代ギリシャ語で書かれているので、それをカタカナ表記したのが「ミン」、というわけですね。一方の「ナルメル」は発見された銘板の中に記されている名前で、エジプトを統一国家としてまとめた王として記録されています。「メネス」は、プトレマイオス朝時代のエジプト人歴史家・マネトが残した「王名表」に最初の王として残っています。こうなると、最初の王はメネスなのか、ミンなのか、あるいはナルメルなのか、という疑問が生じるわけですね。」
small5
「これについては、学者の意見も様々だ。最初の名目的な王はナルメルで、その後の実質的な王としてメネスが即位した、という説もあれば、「ナルメル」と「メネス」は同一人物、という説もある。ただ「ミン」については、おそらくヘロドトスが「メネス」の発音を聞き間違えたのだろう、という意見が多いようだな。
エジプトはナイル川上流の上エジプト(かみえじぷと 方角でいえば南エジプト)とナイル川下流の下エジプト(しもえじぷと 方角で言えば北エジプト)に分かれており、長い歴史の中で別々の王国になったころもある。上エジプトの王は「ヘジェト」と呼ばれる白く長い冠をかぶっていた。下エジプトの王は「デシェント」と呼ばれる赤い冠をかぶっていた。この上下エジプト両方の王となったのがナルメル、というのはほぼ確実だ。「ナルメルのパレット」と呼ばれる銘版が発見されており、そこには片側に上エジプトの王冠を、もう片側に下エジプトの王冠を身につけた「ナルメル」の姿が描かれている、というのが根拠だ。
ちなみに後世のファラオであるジェトは、2つの王冠の両方を身に着けた姿で描かれており、この二重の王冠は「プスケント」と呼ばれてエジプト統一の象徴ともされているんだぜ。」

NarmerPalette ROMナルメルのパレット

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「ナルメルのパレットに描かれているものについて、もう少し見ていこう。まず、パレットの上端に描かれている生き物だ。クルンとした角のようなものが特徴的だが、これは牛の形をした神、バト神だ。そして、左側のパレットの右上のバト神の下に、鳥が描かれている。この鳥はハヤブサで、ハヤブサの形をした神・ホルス神だ。このように、古代エジプトでは、身近にいる動物が神として崇められることが多かったのが特徴だ。ナルメルのパレットには動物そのものが描かれているが、後の時代になると人の体と手足が付き、顔だけが動物になっている姿で描かれるようになるんだぜ。
もう一つ特徴的なのが、ナルメルの腰から尻尾のようなものが描かれているところだ。パレットでは、ナルメルの腰の左側から、足に沿うように何かが垂れ下がっている。これは雄牛の尻尾だ。王の力強さの象徴として、バト神である雄牛の尻尾を付けているわけだな。このように、エジプトの絵画にはファラオに雄牛の尻尾を付けて描くことがよく見られるんだぜ。 さらに詳細は、こちらのエジプト考古学者の河江肖剰氏がYou tubeで解説動画を出しているので、こちらも是非見てほしいぜ。」

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「謎が多いとはいえ、紀元前3000年くらいの王の名前を記録した史料が残っている、というのは本当に羨ましいですね。」

交易の発展

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「さて、次に交易について見ていこう。古代エジプト繁栄の礎になったのが農業であることは間違いないだろうが、古王国時代に発展した交易も見過ごすことはできないだろう。
ナルメルがファラオだった頃、カナン(現在のレバント(Levant))の地でナルメルの刻印が入った陶器が製造されてエジプトに出荷されていたそうだ。これはつまり、エジプトの支配者であるファラオが外国で高級品を買っていた、ということだ。ナルメルの時代から既にこのような交易は行われていたと考えられているが、交易が本格的になり、交易がエジプトの主要な収益源の一つとなったのは、古王国時代の後期とされている。主な輸入品・輸出品は以下だ。
輸入品:レバノンの杉、アフリカの黒檀と象牙、アラビアの香料、没薬、油、アフガニスタンの宝石、ヌビアの金
輸出品:穀物、亜麻、麻布、パピルス、金の器、魚」
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「交易においても、ナイル川は物流の要だったことでしょう。先述したように、エジプトでは木材は希少なので、舟や筏はパピルスの茎などで作っていました。木製で作られた船は長く、縄で木材を結び合わせて作られていました。木材のつなぎ目には、浸水を防ぐために葦を束にしたものが詰められていたそうです。
このように、エジプトの舟はみなさんが想像する「船」というよりは、ボートに近いものでした。このボートに荷物を積んで、ナイル川を上り下りし、さらには地中海沿岸も航行していた、と考えられています。」

ジョセルと階段ピラミッド(前2667-2648年)

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「さて、いよいよ古代エジプトの象徴であるピラミッドの話に入ろう。
ピラミッドを初めて建築したのは、古王国の第3王朝は2代目のファラオ・ジョセル(前2667-2648年)だと考えられている。ジョセルが建築したピラミッドがこれだ↓」

Egypt-12B-021 - Step Pyramid of Djoser (2217505244)ジョセルの階段ピラミッド

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「見た目通り、階段状のピラミッドなので階段ピラミッドと呼ばれていますね。」
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「古王国が栄え、ファラオに富と権力が集中するようになると、ファラオを天空と太陽の神・ホルスに結び付ける信仰が現れた。古代エジプトでは、死後の世界で人間はオシリス神の統治のもとで生前と同様に過ごす、と考えられていた。そこで、偉大なファラオが死後の世界で困ることなく生活できるようにするために巨大な墓を建設する、という案が生まれた。初期の墓はマスタバと呼ばれる長方形の台のようなものだった。ジョセルの墓は、このマスタバを6個重ねるという作りになったため、階段状になったという話だ。なお、階段ピラミッドを実際に設計したのはイムホテプという賢者で、イムホテプは死後に神格化されている。
また、ピラミッドは単純な「墓」ではなく、動物、貢物、舟、さらには使用人までもが一緒に埋葬されており、「墓」というよりも「死後の世界で生活する拠点」というイメージのものだったのではないか、と考えられているぜ。」

Imhotep-Louvreイムホテプ像

第4王朝とピラミッド全盛期

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「さて、第4王朝の時代になると、ピラミッドは多数建設されるようになった。まず、第4王朝・初代ファラオのスネフェルはなんと5個のピラミッドを建設した、とされている。そのうちの4番目に作られたのが、こちらの屈折ピラミッドだ。」

GD-EG-Saqqara004.JPG
CC 表示-継承 2.5, リンク

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「屈折ピラミッドは、途中で傾斜角が変わっているので「屈折」という名前がつきました。ただ、これはなんで屈折しているのか、はいくつかの説があったハッキリしていません。」
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「おそらく、崩落しそうになったから途中で角度を調整したんじゃないか、という説があるぜ。実際、5個のピラミッドのうち、最初に作ったと思われる3つのピラミッドはすべて崩壊してしまているしな。
そのスネフェルがその後作ったのが、こちらの赤ピラミッドだ。」

Snofrus Red Pyramid in Dahshur (2)赤ピラミッド

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「この写真ではあまり赤っぽく見えませんが、表面の花崗岩が光の加減で赤く見えるので、この名前がついています。赤ピラミッドは、先ほどの屈折ピラミッドのように途中で傾斜角度が変わることもなく、断面が二等辺三角形になっている、いわゆる「ピラミッド」の形をしています。これから紹介するクフのピラミッドよりも知名度は低いですが、高さはピラミッドの中では2位になっており、かなり大きいピラミッドです。」
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「おそらく、屈折ピラミッドで学んだ知識や経験を活用して、二等辺三角形のピラミッドを作ることができたんだろうな。
ここで、多くの読者はこんな疑問を感じるのではないだろうか。「スネフェルはなぜ自分の墓であるピラミッドを5つも作ったのか?
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「自分以外の誰かの分を作ったのかもしれませんし、あるいはピラミッドには墓以外の意味があるのかもしれません。この辺はまだまだ謎ばかりですね。」
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「さて、スネフェルの後を継いだのがギザの大ピラミッドで有名なクフだ。本編でも説明されているように、一番大きいピラミッドを作ったことで有名だな。クフのピラミッドの近くに、クフの息子の一人であるカフラーは、父であるクフの隣にギザの中では2番目に大きいピラミッドを建設し、カフラーの息子であるメンカウラーはやや小ぶりなピラミッドを作りました。これがギザの3大ピラミッドですね。
ギザの3大ピラミッドの特徴の一つは、ファラオの下で働いていた政府高官の墓が、ピラミッドの周囲に置かれている点です。高官の墓がファラオの側に置かれる、というのはファラオの強い求心力を示しているのではないか、と考えられています。」

MenkauraAndQueen-CloseUpOfKingsFace MuseumOfFineArtsBostonメンカウラー

古王国の崩壊と第一中間期

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「ピラミッドをたくさん作った第4王朝が終わり、第5王朝の時代になるとファラオの力は弱くなってしまったのか、ピラミッドは作られたもののサイズは小さくなり、また政府高官の墓はピラミッドの周囲ではなく、それぞれが保有する地方に埋葬されるようになってきた。
また、南のヌビアとの争いも激化し、エジプトの領土は縮小し始めたそうだ。続く第6王朝では命綱であるナイル川が氾濫しすぎたり、逆にほとんど氾濫しなかったために凶作と飢饉が発生するなど、ナイルの恵みを引き出せないファラオの求心力はどんどん低下し、代わって政府高官は地方で力を持つようになっていった。結果、上下エジプトを統一していた古王国は崩壊し、地方が独立して覇権を競う群雄割拠の戦国時代のようになっていった。第一中間期と呼ばれる時代だな。」
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「第一中間期は、おおむね下エジプト方面のヘラクレオポリスを首都とした北部王朝と、上エジプト方面のテーベに首都を置いた南部王朝に分かれていました。約150年続いた第一中間期を終わらせたのは、南部王朝の第11王朝の6代目のファラオとなったメントヘテプ2世です。メントヘテプ2世が紀元前2040年頃に南北エジプトを再統一し、古代エジプトは中王国時代を迎えることになったわけですね。」

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参考文献・Web site
面白いほどよくわかる古代エジプト 著者:笈川博一 



ラメセス2世
 著者:ベルナデット・ムニュー 訳:南條郁子